夫婦で毎年(約15年間)イタリア旅行をした(できた)という優雅な暮らし

Italy-Map 私たち(ラッセルと妻アリス)は,2年続けて,ヴェニス(Venezia ベネチア)でを過ごした。そうして私は,ヴェニスの隅から隅まで知り尽くした(道路の敷石という敷石のほとんど全てを知りつくすほどになった)。初婚(1894年12月)の日から第一次世界大戦の勃発にいたるまでの間,イタリアに行かなかった年はなかったように思う。時には徒歩で,時には自転車で旅行した。一度はヴェニスからゼノア(Genova ジェノヴァ)までの全ての小さな港に寄港する不定期貨物船で旅行した。私は特に,より小さくまたより辺鄙なところにある町やイタリア半島を縦断するアペニン山脈の山並み(眺望)を愛した。第一次大戦勃発後は,1949年まで,私はイタリアに戻らなかった。
(下の写真は,ラッセルが訪れたイタリアのフィゾーレここで有名な, A Free Man’s Worship を執筆した。)

FiesoleWe spent two successive autumns in Venice, and I got to know almost every stone in the place. From the date of my first marriage down to the outbreak of the first war, I do not think any year passed without my going to Italy. Sometimes I went on foot, sometimes on a bicycle; once in a tramp steamer calling at every little port from Venice to Genoa. I loved especially the smaller and more out-of-the-way towns, and the mountain landscapes in the Apennines. After the outbreak of the war, I did not go back to Italy till 1949.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-190.HTM

[寸言]
「初婚(1894年)の日から第一次世界大戦の勃発にいたるまでイタリアに行かなかった年はなかった」(注:ただし夫婦で行ったのは別居にいたる1911年秋まで?)なんて、「優雅」でうらやましい限り。・・・。

最初の著作は学界の主流派や権威に楯突かないほうが後々都合よし

ドイツ社会主義についての私の講義は、1896年(ラッセル24歳の時)に出版された。これは、私の最初の著書(注:German Social Democrat/邦訳は、河合秀和訳『ドイツ社会主義』)であったが、私は数理哲学に専念しようと決心していたので、この著作に大きな関心をもたなかった。私は、特別研究員資格取得のための学位論文を書き直し、ケンブリッジ大学出版部に引きうけてもらい、1897年に、『幾何学基礎論』(An Essay on the Foundations of Geometry)という書名で出版した。後に私は、この本はあまりにカントよりであると考えるようになったが、私の最初の哲学に関する著作が、当時の正統派に対し異議を唱えなかったということは、私の名声のためには幸いなことであった。カントを批判する者はすべて、カントを理解し損ねたものとして簡単に片付けてしまうのが、当時の学界(英国哲学会/学者仲間)の慣例であった。また、こうした批判に反駁をあびせるにあたって、私が以前カント(Immanuel Kant, 1724-1804)に賛成していたことがあるという事実は、’何かと好都合’であった(注:皮肉です)。この本は、実際のところ、その価値以上に、高く賞賛された。それ以後、学界の批評家たちは、一般的に言って、その後続けて出版した私の著書について、’(以前の著作よりも)質が低下している’と言ったものである。

TP-GSDMy lectures on German Socialism were published in 1896. This was my first book, but I took no great interest in it, as I had determined to devote myself to mathematical philosophy. I re-wrote my Fellowship dissertation, and got it accepted by the Cambridge University Press, who published it in 1897 under the title An Essay on the Foundations of Geometry. I subsequently came to think this book much too Kantian, but it was fortunate for my reputation that my first philosophical work did not challenge the orthodoxy of the time. It was the custom in academic circles to dismiss all critics of Kant as persons who had failed to understand him, and in rebutting this criticism it was an advantage to have once agreed with him. The book was highly praised, far more highly in fact than it deserved. Since that time, academic reviewers have generally said of each successive book of mine that it showed a falling-off.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-120.HTM

[寸言]
TPJ-GSD 「ドイツ社会民主主義論」(German Social Democracy)は,1896年にラッセルが24歳の時の著作ですが、この内容は創設されたばかりのロンドン経済学校(現在のロンドン大学の前身)において、最初の講師として、6回に渡って講義されたものです。
数学者・論理学者及び哲学者であるラッセルの最初の著作が社会思想関係の著作であったとういのは驚きですが、ラッセル家は昔から政治に関係している(たとえば、祖父は英国首相を2度務めたジョン。ラッセル)ことから考えれば、驚くほうがおかしいのかも知れません。実際ラッセルが(若い時を含め)一番読んだ本は文学及び歴史書であり、社会科学に関する豊富な知識(祖父母を通じての実際的な知識も含め)をもっていました。
なお、 German Social Democracy, 1896(みすず書房版の邦訳書名『ドイツ社会主義』)について、経済学者の(故)高橋正雄氏は、下記のページにあるように、『フェビアン研究』に寄稿した論文のなかで激賞し、詳しく解説をしています。
http://russell-j.com/cool/TAKAHASI.HTM

最初の妻(アリス)に感謝 -生涯のうちで、知的に最も実り多い時期

ALYS-BER 最初の結婚とともに、私は非常に幸福かつ実り多い仕事のできる時期に入った。感情(情緒)の上でのトラブルはまったくなく、私の全エネルギーは知的な仕事の方面に注がれた。結婚の初期の時期を通して、数学と哲学の両方にわたって幅広く読書をした。私は、ある一定量のオリジナルな研究を成し遂げ、後年進める他の研究への基礎を据えた。海外旅行をし、時間のある時は、主として歴史関係の大量の堅実な読書をした。妻と私は、夕食後、交互に音読するのを習慣とし、私たちは、そのようにして、おびただしい数の標準的な巻数の多い歴史書をこつこつと読んだ。このようにして読んだ最後の歴史書は、グレゴロヴィウスの「ローマ市史」(全8巻)であったように思う。この時期は、私の生涯のうちで、知的に最も実り多い時期であり、それを可能にしてくれた最初の妻に、恩があり感謝している。(写真:結婚して間もないラッセル夫妻/初婚相手は5歳年上のアメリカ人女性)

With my first marriage, I entered upon a period of great happiness and fruitful work. Having no emotional troubles, all my energy went in intellectual directions. Throughout the first years of my marriage, I read widely, both in mathematics and in philosophy. I achieved a certain amount of original work, and laid the foundations for other work later. I travelled abroad, and in my spare time I did a great deal of solid reading, chiefly history. After dinner, my wife and I used to read aloud in turns, and in this way we ploughed through large numbers of standard histories in many volumes.
出版: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-050.HTM

[寸言]
このような幸せな状態(結婚生活)は10年間も続かなかった。即ち、1901年秋に、突然、ラッセルは妻アリスのことを愛していないことに気づき、愕然とすることになる。
しかし、生涯のうちで、知的に最も実り多い時期を過ごせたのは最初の妻(アリス)のおかげだと、ラッセルは『自伝』で、アリス(ラッセル『自伝』執筆時には既に故人)に感謝の念を述べている。

特別研究員資格取得試験 -重大な間違いを誰かが発見できる最後の機会

TP-EFG この頃には、フェローシップ(特別研究員資格)取得のための学位論文 --それは8月までには完成しなければならなかった-- について真剣に考えることが必要となりつつあった。そこで私たちは、ファーンハーストに落ち着いた。そうしてはじめて私は、オリジナルな(独創性のある)仕事に真剣にとり組む経験をもった。絶望の日々に代わって、希望の日々が続いた。そうしてついに論文が完成した時、私は、幾何学の基礎と関連があるあらゆる哲学上の諸問題を解決したと確信した。(右の)表紙画像:ラッセルの学位論文 An Essay on the Foundations of Geometry, 1897 /25歳の時にケンブリッジ大学出版部から出版) (当時)まだ私は、オリジナルな仕事に関連して、希望をもったり、絶望したりすることは、どちらも同じように誤りであり、(個人の)仕事というものは、悪い日に悪く見えるほど、そんなに悪いものでは決してないし、良い日に良く見えるほど、それほど良いものでもない、ということに気がついていなかった。私の学位論文は、--論文は一部数学に関係し、一部哲学に関係していたので--ホワイトヘッドとジェームズ・ワードによって査読(審査)された。その結果が発表される前に、ホワイトヘッドは、--まったく公正ではあったが--私の論文をかなり厳しく批評した。それで私は、論文は価値がないものであり、結果が発表されるのを待つのはやめようと、決心した。しかしながら、私は、挨拶のために、ジェームズ・ワードに会いに行った。すると彼は、ホワイトヘッドと全く正反対のことを言い、私の論文をほめちぎった。翌日、フェロー(大学特別研究員)に選ばれたことを知った。そうして、ホワイトヘッドが微笑をうかべながら私に、この論文が、私の研究論文のなかに重大な間違いを誰かが発見できる最後の機会となるだろうと思った、と言った。

By this time, it was becoming necessary to think in earnest about my Fellowship dissertation, which had to be finished by August, so we settled down at Fernhurst, and I had my first experience of serious original work. There were days of hope alternating with days of despair, but at last, when my dissertation was finished, I fully believed that I had solved all philosophical questions connected with the foundations of geometry. I did not yet know that the hopes and despairs connected with original work are alike fallacious, that one’s work is never so bad as it appears on bad days, nor so good as it appears on good days. My dissertation was read by Whitehead and James Ward, since it was in part mathematical and in part philosophical. Before the result was announced, Whitehead criticised it rather severely, though quite justly, and I came to the conclusion that it was worthless and that I would not wait for the result to be announced. However, as a matter of politeness I went to see James Ward, who said exactly the opposite, and praised it to the skies. Next day I learned that I had been elected a Fellow, and Whitehead informed me with a smile that he had thought it was the last chance anyone would get of finding serious fault with my work.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-040.HTM

[寸言]
reading_bible 若い頃は「確信過剰(cocksure)」になりがち
本を読んだだけで「***」を理解した、と思いがち。しかし実際は考えが甘いことが少なくない。
特に、「若い時には」本を読む時には注意が必要。 書いてあることの多くに共感すると、感激して、自分はそこに書かれていることをほとんど理解できたと思ってしまう。即ち、自分の気に入るフレーズがちりばめられていると、それだけで良い本だと思ってしまう。
ベストセラー本の危険はそこにある。
歌謡曲でもポップスでも、多くの人が気に入りそうな言葉を散りばめると、それだけでよい曲(歌)だと思ってしまう人が少なくない。政治家の演説(たとえば橋本徹)も同様。自分の嫌いな人や集団をこの人はうまく表現して糾弾してくれていると思っても、実は、少し言葉をかえれば、あなた自身(自分自身)が糾弾されている(あるいは糾弾される)可能性があることに気がつかない。そのことをうまく表現した文章に、ラッセルの次の言葉がある。

hasimoto_toru「天才になるための秘訣の最重要要素の一つは,非難の技術の習得である。あなた方は必ず,この非難の対象になっているのは自分ではなくて他人であると読者が考えるような仕方で非難しなければならない。そうすれば,読者はあなたの気高い軽蔑に深く感銘するだろう。しかし,非難の対象が他ならぬ自分自身(読者自身、聴衆者自身)だと感じると同時に,彼はあなたを粗野で偏屈だと非難するだろう。」
One of the most important elements of success in becoming a man of genius is to learn the art of denunciation. You must always denounce in such a way that your reader thinks that it is the other fellow who is being denounced and not himself; in that case he will be impressed by your noble scorn, whereas if he thinks that it is himself that you are denouncing, he will consider that you are guilty of ill-bred peevishness.
出典: How to become a man of genius (written in Dec. 28, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/GENIUS.HTM

若い時の「知的野望」

Berlin_Tiergarten この時期に私の知的野望が形成されつつあった。私は,職業をもたないで,著述に専念しようと決心した。私は,初春のある寒い晴天の日(1895年=ラッセル23歳になる数カ月前)に,一人で(ベルリンの)ティーアガルテン(写真は Tiergarten :ベルリンにある210ヘクタールもの大公園)の中を散歩している時に,将来の仕事の構想をたてたことを記憶している。私は,純粋数学から生理学までの,諸科学の原理に関する一連の著作と,さらに社会問題に関する別系統の一連の著作を執筆しようと考えた。私は,これら2つの著作(群)は,最終的には,科学的であると同時に実際的なものに統合化できるだろうと思った。私の計画は,へーゲルの考え方から大きな示唆をうけていた。(ヘーゲルはしばらくして捨てたが)それでもやはり,後年,--とにかく見込みのあるかぎりは--ある程度までその計画に従った。私の(研究上の)目的とするところに関しては,その時は,重要な時期であり,形成期であった。

INDECENCDuring this time my intellectual ambitions were taking shape. I resolved not to adopt a profession, but to devote myself to writing. I remember a cold, bright day in early spring when I walked by myself in the Tiergarten, and made projects of future work. I thought that I would write one series of books on the philosophy of the sciences from pure mathematics to physiology, and another series of books on social questions. I hoped that the two series might ultimately meet in a synthesis at once scientific and practical. My scheme was largely inspired by Hegelian ideas. Nevertheless, I have to some extent followed it in later years, as much at any rate as could have been expected. The moment was an important and formative one as regards my purposes.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-030.HTM

[寸言]
80歳の誕生日に際して(また『ラッセル自伝』でもほぼ同じく)、ラッセルは次のように回想している。

 私の仕事は終りに近づいており、それを全体として見渡すことができる時がきている。どの程度私は成功し、どの程度失敗したのか? 私は,若い時から,偉大かつ困難な仕事に自らを捧げた(捧げている)と自任していた。61年前(注:1895年始め/
本エッセイは最初1952年に出され,1956年に単行本 Portraits From Memory and Other Essays に収録された。即ち,初出の1952年から見れば57年前が正解)、冷たく光り輝く3月の太陽のもとで溶け始めた雪の中(雪を踏みながら),ティーアガルテンの中を一人で歩きながら、私は二系列の本を書こうと決意した。(即ち)一方は,抽象的な本(著作)で次第に具体的になってゆくもの(の一連の著作)、他方は,具体的な本(著作)で次第に抽象的になってゆくもの(の一連の著作)であった。それらは純粋な理論を実際的な社会哲学と結びつけた一つの総合(統合)によって有終の美を飾るはずであった。いまだ実現できていない総合を除いて、私はこれらの本を書いてきた。それらの著作は喝采かつ称賛されてきた。また、多くの男女の思考はそれらの著作の影響を受けてきた。この範囲において私は成功してきた。・・・。

自分磨きにお金(遺産)を使う-世界中の国を旅行し見聞を広め教養を高め・・

TPJ-GSD 私たち(ラッセル夫妻)は,結婚生活の初めの何年かを,多くの外国の国々を見てまわろうと心に決めていた。そこで,私たちは,1895年の最初の3ヶ月間をベルリンで過ごした。私はベルリン大学に行って,そこで主として経済学を研究した。(訳注:この研究の成果は,翌年,ラッセルの最初の著作 German Social Democracy として出版された。邦訳書名は『ドイツ社会主義』)(また)大学特別研究員(Fellow)の資格をとるための(数学に関する)学位論文の執筆作業も続けた。私たちは,週3回音楽会に行き,それから私たちは,ドイツ社会民主党員たちと知り合うようになったが,彼らは当時とても邪悪な人間であると考えられていた。

We had decided that during the early years of our married life, we would see a good deal of foreign countries, and accordingly we spent the first three months of 1895 in Berlin. I went to the university, where I chiefly studied economics. I continued to work at my Fellowship dissertation. We went to concerts three times a week, and we began to know the Social Democrats, who were at that time considered very, wicked.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-020.HTM

[寸言]
abe_manuplate 生計をたてるためにどこかの組織(大学、省庁、企業、その他))に属すれば,どうしてもその組織から自立して,「客観的な」立場にたって物が言いづらくなる。Aという組織(たとえば、文科省とか、読売新聞とか)に属していれば、Aの悪口を言えず、悪口を言えば、それなら「Aをやめてどこか別の所に勤めたら」と言われてしまい、居づらくなってしまう。(政権のコントロール下にあるマスコミの惨状をみれば、生計の糧を奪われるかも知れない言動をひかえようとする気持ちがいかに大きいかがわかる。NHK籾井会長曰く:「政府が右と言うことを左とは言えません・・・」。籾井氏は、目が上についているヒラメのような人間性をもっており、NHKは受信料で成り立っているということを忘れている。)

ラッセルは亡き父の遺産を活かし,「原則として」どこにも勤めずに、執筆一本で生きていこうと若い時に決意する。その後、何度か大学の教員(任期つきの常勤あるいは非常勤の)になってはいるが、いずれの組織に属していても、(いざとなればやめるという覚悟があったため)自説をまげるようなことはなかった。

即ち、不労所得はよくないが、お金のために(生計のために)真理に背を向けることなく、あくまでも人類に貢献する学問をするために「遺産を活用する」ことはそれほど悪いことではないだろう、と自らを納得させていた。自己研鑚のためにお金を使い、遺産がなくなったら、後は執筆活動によって生計を立てようと決めていたわけである。

恋愛と結婚の違い-反対を押し切り困難を乗り越え結婚を成就すると・・・

love_and_marriage 私たちが結婚したとき,彼女(アリス)も私も,婚前に一度もセックスの経験がなかった。私たちは,セックスを経験したことがない夫婦が明らかに常にそうであるように,セックスの開始にあたって,ある程度の困難を経験した。私は,多くの人たちが,性的未経験が新婚旅行を試練の時(楽しくないもの)にした,と話しているのを聞いたことがあるが,私たちの場合はそのような経験はしなかった。なかなか難しくはあったが,(初夜における)困難さは,私たちには,単に滑稽に感じられただけであり,間もなく克服した。しかし私は,結婚して3週間たったある日,性的疲労に影響され,彼女が嫌になり,どうして彼女と結婚したいなどと思うようになったのかわからなくなったことを,記憶している。このような心境は,ちょうどアムステルダムからベルリンヘ赴く旅の間じゅう続いたが(注:1895年1月~3月,ラッセルは,ベルリン大学で経済学を学ぶために,アリスとともにドイツに旅行)それ以後は,二度とそのような気分は経験しなかった。

Neither she nor I had any previous experience of sexual intercourse when we married. We found, as such couples apparently usually do, a certain amount of difficulty at the start. I have heard many people say that this caused their honeymoon to be a difficult time, but we had no such experience. The difficulties appeared to us merely comic, and were soon overcome. I remember, however, a day after three weeks of marriage, when, under the influence of sexual fatigue, I hated her and could not imagine why I had wished to marry her. This state of mind lasted just as long as the journey from Amsterdam to Berlin, after which I never again experienced a similar mood.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-010.HTM

[寸言]
恋愛感情と結婚生活にはいってからの感情の相違。しかし、それもお互いを見つめ合うことではなく、外に新しい(新鮮な)興味の対象を持つことにより克服していく。

早くして亡くなった父の人生を自分が生きるかのごとく-鍵付きの秘密の日記

AMBERLEY この頃私は,鍵付きの日記帳をつけており,誰にも見つからないように,非常に注意深く隠していた私は,この日記に,アリスについて祖母と語り合った内容や,祖母やアリスに対して抱いた私の感情を,記録した(注:recorded 単に’書いた’というよりも,この当時の気持ちや考え方を,後に正確に思い出すために,’記録した‘といったニュアンスか。)。その後間もなくして,(明らかに秘密にしておく目的で)一部’速記’で書いてある父の日記帳が私の手に入った。父の日記を読んで,父は,私がアリスにプロポーズしたのとちょうど同じ年齢の時に,母にプロポーズしたこと,祖母が私に言ったのとほぼ同じことを父に言ったことを,それから私が日記に記録したのと全く同じ感想や意見を父が日記に記録していたこと,を発見した。このことは,私は自分自身の人生を生きているのではなくて,父の人生をもう一度くり返して生きているのだという不思議な感情を私に与え,遺伝に対する迷信的な信念を生じさせがちであった。(注:上写真:ラッセルが生まれる1年前に撮影されたラッセルの両親/下写真:ギリシア文字で書いたラッセルに秘密の日記)

GREEK-EXAt this time I kept a locked diary, which I very carefully concealed from everyone. In this diary I recorded my conversations with my grandmother about Alys and my feelings in regard to them. Not long afterwards a diary of my father’s, written partly in shorthand (obviously for purposes of concealment), came into my hands. I found that he had proposed to my mother at just the same age at which I had proposed to Alys, that my grandmother had said almost exactly the same things to him as she had to me, and that he had recorded exactly the same reflections in his diary as I had recorded in mine. This gave me an uncanny feeling that I was not living my own life but my father’s over again, and tended to produce a superstitious belief in heredity.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 4: Engagement, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB14-130.HTM

[寸言]
早くして亡くなった両親に対するラッセルの思慕の情はとても強かったと思われる。祖父母はラッセルのことを愛していたとしても、やはり実の両親のように甘えることはできない。そのラッセルの父親が同じ年令の時にラッセルと同じことを考え・感じていたこと父の日記を読んで知り、自分は父親の人生を代わりに生きているような錯覚にとらわれる。祖母は息子(ラッセルの父親)に対しラッセルに対してとまったく同じことを言っていたのである。

(貴族の次男である)ラッセルが(5歳年上の平民の米国人女性)アリスに求婚

ALICE-P 私(注:1893年,21歳の時)が、その当時の慣習に従って、はっきりと(5歳年上の米国人女性アリスに求婚するにいたったのは、際限のない躊躇と心配のあげく、ようやく朝食の後のことであった。プロポーズは、承諾もされなかったし、拒絶もされなかった。私は、彼女にキスをしようとも、また手を握ろうとさえしなかった。お互い、継続して会い続け、文通を引き続き行うことで合意し、結婚するかどうかは、時(間)に解決させることにした(写真:ウェディング・ドレスを着たアリス,1894年12月13日)。
すべてこうしたことは屋外での出来事であったが、私たちがついに昼食のため戻って来た時、彼女は、 --禁酒に関する説教の支援をしてもらうため、彼女をシカゴ万国博覧会(松下注:1893年開催)に招待するという --レディ・ヘンリー・サマセット(Lady Henry Somerset,1851-1921)からの手紙を見つけた。禁酒の美徳は、当時のアメリカでは、十分普及していないと考えられていた。アリスは、母親から熱烈な絶対禁酒’の信念を受け継いでおり、この招待に非常に大得意だった。彼女は勝ち誇ったようにその手紙を読み上げ、熱狂的にその招待を承諾した。そのことで私は、かなり肩身の狭い思いをした。というのは、それは数ケ月間の彼女の不在と彼女の興味あるキャリアの開始であろうことを意味したからである。
自宅(Pembroke Lodge)に戻ってから、私は、一部始終を家族に話した。すると彼らは、型にはまった因襲に従い、反応した。彼らは言った。アリスはレデイ(淑女/貴族の娘や妻)ではない、幼児誘拐魔だ、下層階級のやま師だ、私の未熟につけいろうとしている女だ、いかなる上品な感情も持っていない人間だ、作法知らずのために私(ラッセル)を一生恥ずかしめるような女だ、と。しかし私は父から相続した約2万ポンド(注:現在の物価に換算すると、4~5億円か?)の財産をもっていたので、家族の言うことには全然耳をかさなかった。彼らとの間柄は非常に緊張したものとなり、それは私の結婚後まで続いた。

It was only after breakfast, and then with infinite hesitation and alarm, that I arrived at a definite proposal, which was in those days the custom. I was neither accepted nor rejected. It did not occur to me to attempt to kiss her, or even take her hand. We agreed to go on seeing each other and corresponding, and to let time decide one way or the other.
All this happened out-of-doors, but when we finally came in to lunch, she found a letter from Lady Henry Somerset, inviting her to the Chicago World’s Fair to help in preaching temperance, a virtue of which in those days America was supposed not to have enough. Alys had inherited from her mother an ardent belief in total abstinence, and was much elated to get this invitation. She read it out triumphantly, and accepted it enthusiastically, which made me feel rather small, as it meant several months of absence, and possibly the beginning of an interesting career.
When I came home, I told my people what had occurred, and they reacted according to the stereotyped convention. They said she was no lady, a baby-snatcher, a low-class adventuress, a designing female taking advantage of my inexperience, a person incapable of all the finer feelings, a woman whose vulgarity would perpetually put me to shame. But I had a fortune of some £20,000(pound) inherited from my father, and I paid no attention to what my people said. Relations became very strained, and remained so until after I was married.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 4: Engagement, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB14-120.HTM

[寸言]
Downton_Abbey NHKで現在放映されている「(英国貴族の館)ダウントン・アビー」からもわかるように,第一次世界大戦前の貴族の子弟が平民の女性と結婚するようなことはほとんどまったくといってよいほどなかった(考えられないことであった)。従って、英国名門貴族の子弟のラッセルが平民の、しかも5歳も年上の米国人女性にプロポーズしたと聞いた家族(といっても両親はラッセルが幼児の時に亡くなっていたので祖父母であるが)は驚天動地のごとくあわてて絶対に阻止しようとしたであろう。
紆余曲折の後、家族の反対を押し切って二人は結婚したが、幸せな結婚生活は10年も続かなかった。1911年に別居し、正式に離婚したのは、裁判で決着する1921年のことであるが、1901年には既に結婚生活は完全に破綻していた。

知的誠実 -ケンブリッジ大学で身につけた真に価値ある一つの思考習慣

logicomix_br-lecture 私がケンブリッジで身につけた真に価値ある一つの思考習慣は,知的誠実ということであった。この美徳は,単に友人たちの間ばかりでなく,教師たちの間にも,確かに存在していた。私は,学生の誰かが先生の誤りを指摘した時,指摘されたことに憤慨した教師の実例を一つも思い出せないが,学生がこのような手柄をなしとげることに成功した機会は,かなりの数,思い出すことができる。ある時,流体静力学の講義中に,若い学生の一人が講義をさえぎってこう言った。「先生はフタにかかる遠心力を忘れていはませんか?」と。その講師は驚いて息を止め,そうしてこう言った「・・・私は20年間この例をそういう風に扱ってきた。しかし君の方が正しい」と。
 第一次世界大戦中,ケンブリッジ大学においてさえ,’知的誠実さ’に限界があることを発見したのは,私にとって打撃であった。それまでは,私は,どこに住んでいようと,ケンブリッジ大学だけがこの地上において安息所(我が家)とみなせる唯一の場所であると感じていた。

The one habit of thought of real value that I acquired there was intellectual honesty. This virtue certainly existed not only among my friends, but among my teachers. I cannot remember any instance of a teacher resenting it when one of his pupils showed him to be in error, though I can remember quite a number of occasions on which pupils succeeded in performing this feat. Once during a lecture on hydrostatics, one of the young men interrupted to say: ‘Have you not forgotten the centrifugal forces on the lid? The lecturer gasped, and then said : ‘I have been doing this example that way for twenty years, but you are right.’
It was a blow to me during the War to find that, even at Cambridge, intellectual honesty had its limitations. Until then, wherever I lived, I felt that Cambridge was the only place on earth that I could regard as home.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-340.HTM

[寸言]
 「誠実」にもいろいろな種類がある。”他人の信頼”を裏切らない「誠実さ」(そのためには嘘をつくこともある。いわばヤクザの誠実さ)もあれば、なんであれ”言ったことを否定しないという(人に対するというより発言に対する)「誠実さ」もある。
しかし、自分の言ったことに「誠実」といっても2種類ある。自分が言った以上(それが間違ったことであてっても)「否定」しないで責任をとるという「誠実さ」もあれば、自分が間違ったことを言ったらすぐに修正する(したがって「変節」もありうる)という、真理や真実に対する「誠実さ」もある。
abe_underf-control_people 欧米人には後者の意味での「誠実さ」を大事にする人が少なくないが、日本人にはそういった意味での「誠実さ」を大事にしない人が少なくないのではないだろうか? だから、論理的に矛盾したことを言ってもあまり気にしないことになる。政治家に多いタイプであろう。自分は「ぶれない」「ぶれていない」と主張することを売りにして、従って過去の矛盾するような発言について苦しい弁解をすることになる。
 間違っていることがわかれば、すぐに発言を訂正して反省し、出なおしてもらいたいが・・・。安倍総理、あなたのことですよ!