競争にあけくれる社会 -「一億総活躍社会」は誰のため!?

VIRTUE 何らかの偉大な科学的な発見や発明をしようと実験に従事している人は、家族に貧乏を耐えさせたとしても、その努力が最後の成功で報いられる(名誉を与えられる)ならば、後に非難されることはない。しかしながら、もしも彼が試みている発明や発見に成功しないと、世間は彼のことを’変わり者’だと言って(自分の家族を犠牲にしていることを)強く非難する。(しかし)それは、不公平であると思われる。なぜなら、そういう企てをする場合、だれも、前もって成功を確信することはできないからである(注:即ち、成功して誉められた人も、成功しない可能性だってあったはずであるため)。
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 11: Zest
(イラスト:Bertrand Russell’s The Good Citizen’s Alphabet, 1953)
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The man who is engaged in experiments with a view to some great scientific discovery or invention is not blamed afterwards for the poverty that he has made his family endure, provided that his efforts are crowned with ultimate success. If, however, he never succeeds in making the discovery or the invention that he was attempting, public opinion condemns him as a crank, which seems unfair, since no one in such an enterprise can be sure of success in advance.

[寸言]
abyss_of_inequality 世間は成功者や競争の勝利者を褒め称え,失敗した者や競争の敗者に冷たい。競争を奨励しなければ人類は繁栄できないからとでも言うのであろうか。しかし,他人に対してはそういった冷たい態度をとれても,肉親や親しい友人であればそのような態度はとれない・とらないだろう。
自己利益・国益を追求する社会と共存・共栄・地球益を求める社会との違いか?
競争があれば「必ず」勝者が存在する。だから,努力すれば必ず成功する・報われるという幻想をいただいてしまう。敗者のほうが圧倒的に多いはずだが,支配統治・管理する立場にいる者は,競争を礼賛する。配下のものが競争してくれたほうが自分の利益が増えるからである。組織の利益が自分の利益に直結するからである。

田園生活(農業生活)の理想と現実

stock-vector-farm-farmer-workecontryside_agriculture 感傷的な人たちが,大地との接触とか,トマス・ハーディの小説に登場する沈着冷静な農夫たちの円熟した知恵とかをあれこれ言うのは大いに結構であるが,地方にいるすべての青年の願いはひとつ,町で仕事を見つけることであり,そこでは,風や天候への隷属暗い冬の晩の孤独から逃れて,工場や映画館とかといった頼りがいのある人間的な雰囲気にひたることができるのである。仲間とのつきあいや他人との協力は,普通の人間の幸福における不可欠の要素である。そして,この2つは,農業よりも工業において,より充実した形で得られるのである。
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 10: Is Happiness Still
Possible?
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It is all very well for sentimentalists to speak of contact with the soil and the ripe wisdom of Hardy’s philosophic peasants, but the one desire of every young man in the countryside is to find work in towns where he can escape from the slavery of wind and weather and the solitude of dark winter evenings into the reliable and human atmosphere of the factory and the cinema. Companionship and cooperation are essential elements in the happiness of the average man, and these are to be obtained in industry far more fully than in agriculture.

[寸言]
 田園詩人は,自然に親しめる農業を褒め称えるが、彼らは農作業によって生計をたてることはなく、農作業をやるとしても自分や自分の家族が食べる程度の楽な農作業しかやらない。本格的に農業に従事したら、農作業を褒め称えるようなことをするであろうか?

昔と異なり,現在ではマスコミやネットが発達したために,田舎にいても,世界中から珍しい情報を得たり,学習したり,楽しんだりできるようになった。しかし,情報はいろいろ得ることができたとしても実体験できるわけではなく,交友範囲は田舎の場合は限定されてしまう

『幸福論』は1930年に書かれたものなので,喩え話や例は書き直す(自分で別のものを想像してみる)必要がある。単調さをさけ,華やかさを求めるのはいつの時代も同じということだろうか? 田舎のほうがゆったりした自然のなかで暮らせるが,若者は隠居生活をするわけではなく,いろいろ新しい冒険をしてみたいので・・・。

農業における過重労働からの解放-科学技術のますますの活用

smart_vegetable_garden 農業を始めたとき,人類は,餓死する危険を減らすためには単調さも退屈も甘受しよう,と決意した。人間が狩猟によって食物を得ていた頃は,労働(仕事)は喜びであった。そのことは,裕福な人間がいまだにこの先祖伝来の仕事を娯楽として追求していることから明らかである。しかし,農業の導入とともに,人類は卑しさと不幸と狂気の長い時代にはいった。人類はいまはじめて,機械の恩恵をもたらす働きによって,それらのものから解放されつつある。

In taking to agriculture mankind decided that they would submit to monotony and tedium in order to diminish the risk of starvation. When men obtained their food by hunting, work was a joy, as one can see from the fact that the rich still pursue these ancestral occupations for amusement. But with the introduction of agriculture mankind entered upon a long period of meanness, misery, and madness, from which they are only now being freed by the beneficent operation of the machine.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chapt.10: Is Happiness Still Possible?
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[寸言]
vegetable_factory 農業に従事することの楽しさと苦しさ。天候が年中安定している場合はよいが,天候不順や台風などで作物が全滅でもしようものなら、大変な苦痛を味わうことになる。最近は野菜工場など、温湿度を管理するとともに作業を自動化して行う農業がはじまっているが、まだほんの一部にすぎず、またコストもかなりかかる状態である。
狩猟時代(生活)においても獲物の動物が激減すれば死活問題であったであろうが、獲物を追いかけることは刺激的なものであり、退屈することはなかったであろう。
今後は、地球上の多数の人口を養うためには、好き嫌いにかかわらず、ますます人手を省いた機械やロボットによる管理に変えていかざるをえない。それによって、人間の余暇は確実に増えていき、余暇の有効な使い方が重要なものとなっていくことは確実だろう。

機械やロボットの活用-その光(希望)と影(不安)

DOKUSH34 しかし,仕事がつまらないものになればなるほど,ますます機械にやらせることが可能になってくる。機械生産の究極(最終)目標は--確かに,いまだその目標からはほど遠いが--面白くないことはすべて機械にまかせ,人間には変化とイニシアティブ(創意)を要する仕事が取っておかれる,といったシステムである。

but the more uninteresting the work becomes, the more possible it is to get it performed by a machine. The ultimate goal of machine production – from which, it is true, we are as yet far removed – is a system in which everything uninteresting is done by machines, and human beings are reserved for the work involving variety and initiative.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 10: Is Happiness still possible?
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[寸言]
abe_canot_read_situation そういった意味では,ロボット研究やその実用化に期待しています。しかし,特に 米国ではロボットの軍事利用がさかんになっており,「悪いことはしなくても利益をあげることができることを示す」ことを社是にしていた Google までが軍事用ロボットを研究していた企業などを買収しました。(安倍政権下の)日本でも少しずつ,ロボットの軍事利用が進んでいくと思われ,歯止めが必要です。(イラスト:海外でも安倍総理は軍国主義的な人間として描かれている。
米国では戦争を請け負う企業まで出てきており,アメリカ国民の犠牲をすくなくして 敵を大量に殺せるということでロボットの軍事利用をめざしています。ロボットによる代理戦争を描いたSFがまったくの空想でなくなっていくと予想されます。

若い時の数学に対する賛美と老年期におけるがっかり感

BR_mathematics-beauty 数学は, 正しく見れば,真理を持っているばかりではなく、最高の美を持っている。それは彫刻の美のように冷たく厳しい美しさであり、我々人間の弱々しい天性に訴えるものも、絵画や音楽のもつ豪華な飾りもなく、しかもきわめて純粋であり、最高の芸術のみが示すことができる厳格な完璧さに満ちた美である。最高の優雅さのしるしであるところの、真の歓喜、精神の高揚、人間を超えた存在の一部であるという感じが,詩の中と同じくらい確かに,数学の中にも見出すことができる。

BR_Mathematics-Beauty2Mathematics, rightly viewed, possesses not only truth, but supreme beauty - a beauty cold and austere, like that of sculpture, without appeal to any part of our weaker nature, without the gorgeous trappings of painting or music, yet sublimely pure, and capable of a stern perfection such as only the greatest art can show. The true spirit of delight, the exaltation, the sense of being more than Man, which is the touchstone of the highest excellence, is to be found in mathematics as surely as poetry.
出典:”The Study of Mathematics” In: Mysticism and Logic And Other Essays, 1918.

[寸言]
ラッセルのこの言葉は数学を賛美するものもとして,多くの数学好きに好まれ引用されます。
しかし,ゲーデルの不完全性定理や、記号論理学の知識論に果たす貢献の限界を感じるにつれ、数学に対する手放しの賛美の気持ちは少なくなっていきます。八十代後半になると,ラッセルは若い時の上記の数学i対する賛辞を「おおむね無意味だ」と考えるようになっていきました。ラッセルは 1959年(ラッセル87歳の時)に出した、 My Philosophical Development の中で次のように書いています。

「(数学は)その主題において非人間的だとは思われなくなった。きわめて不本意ながら,数学は類語反復(トートロジー)からなると信じるようになった。十分な知的能力を持つ精神にとって,数学の全体は,「四つ足の獣は動物である」という命題と同程度につまらぬ主張と見えるであろうと思われる。・・・。私はもはや数学的真理の中にいかなる神秘主義的満足をも見出すことはできない。
(Mathematics has ceased to seem to me non-human in its subject-matter. I have come to believe, though very reluctantly, that it consists of tautologies. I fear that, to a mind of sufficient intellectual power, the whole of mathematics would appear trivial, as trivial as the statement that a forth-footed animal is an animal. In* My Philosophical Development, 1959, pp.211-212.)

数学に対する期待が非常に大きかったがために、(また、この世の人間や社会の問題の解決がより重大だと思うようになったがために)数学に対する幻滅(がっかり感)も大きかったのであろう。

なお、このことについては、「R徒然草2015」(2015年5月21日付け)の中で、ジム・ホルト(著),寺町朋子(訳)「世界はなぜ’ある’のか?-実存をめぐる科学・哲学的探索」(早川書房,2013年10月)からの引用としてもご紹介しています。
https://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2015.html#br2015-2

ウィトゲンシュタインとの出会いと彼に関するエピソード

Wittgenstein-L 彼(ウィトゲンシュタイン)はオーストリア人であり,また彼の父親は大富豪であった。彼は,技術者になろうと考えていて,その目的ために,マンチェスター(大学)に行っていた(で勉強していた)。数学(の本)の読書を通して,彼は数学の原理に興味を持つようになった。そこでマンチェスター大学で,数学の原理について研究している者はいないか尋ねた。誰かが私の名前に言及した。それで彼はトリニティ・コレッジに住居を定めた。
彼は,情熱的で,深遠であり,強烈で,抜きん出ており,おそらく,私が今まで知りえた人間のなかで,伝統的に思い描かれてきた天才の最も完璧な実例であったであろう。彼には一種の’純粋さ‘があり,それと匹敵するものは,G.E.ムーア以外に知らない。私は,一度彼をアリストテレス協会(注:アリストテレスの研究団体ではなく、アリストテレルの名前を冠した「哲学の体系的研究のためのアリストテレス協会」のこと)の会合に連れていった時のことを記憶している。その会合には,多くの愚劣な連中が出席していたが,私は彼らに対し丁重な応待をした。私たちがその場を離れた後,彼は激怒し,彼らがいかに愚かであるか,彼らに言ってやらなかったのは道徳的堕落だと,私に怒鳴り散らした。
彼の人生は波乱にとんでおり,困難なものであった。また彼の精神力(personal force)は,並はずれていた。彼はミルクと野菜だけで生活していた。ミセス・バトリック・キャンプベル(注:Mrs. Patrick Campbell, 1865-1940:英国の著名な舞台女優)がバーナード・ショーについて「彼がビーフステーキを食べてくれたらどれだけ救われることか!」と感じたように,私はウィトゲンシュタインに対し,同様の感情を抱いた。(注:肉を主食とする人から見れば,ベジタリアン(菜食主義者)は食べたい肉を無理やりたべないようにしているため,欲求不満がたまって残酷になる,といった思いか。)
Wittgenstin_Logicomix 彼は,毎晩のように深夜午前零時(at midnight)に,私に会いにやってきて,興奮しているが何も言わず,野獣のように,3時間,部屋の中を行ったり来たりした。ある時私は彼にこう尋ねた。「あなたは,論理学について考えているのか,それとも自分自身の罪について考えているのか?」「両方です」と彼は応え,彼はなおも行ったり来たりし続けた。私は彼にもう就寝する時間だと言いたくなかった。というのは,私のそばを離れると,彼は自殺するかもしれないと,多分私にも彼にも,思われたからである。トリニティ・コレッジに来てからの最初の学期の終わりに,彼は私のところにやって来てこう言った。「あなたは,私のことをまったくの’馬鹿’だと思いますか?」 私は言った。「どうしてあなたはそのようなことを知りたがるのですか?」 彼は答えた。「もしそうだとしたら私は飛行士になります。もしそうでなかったら哲学者になります。」 そこで私は彼にこう言った。「いや,あなたがまったくの馬鹿かどうか私にはわかりません。しかし,もしあなたが休暇中に,何でもいいですから,あなたが興味を持つ哲学上の問題について論文を書いてくれたら,それを読み,あなたが馬鹿かどうかをあなたに言いましょう。」 彼はその通りにした。そしてその論文を次の学期の初めに私のところにもって来た。私はその最初の一文を読むや否や彼が’天才’であることを確信するにいたった。そして,彼はどんなことがあっても飛行士になるべきではないと納得させた。

TP-ABRHe was an Austrian, and his father was enormously rich. Wittgenstein had intended to become an engineer, and for that purpose had gone to Manchester. Through reading mathematics he became interested in the principles of mathematics, and asked at Manchester who there was who worked at this subject. Somebody mentioned my name, and he took up his residence at Trinity. He was perhaps the most perfect example I have ever known of genius as traditionally conceived, passionate, profound, intense, and dominating. He had a kind of purity which I have never known equalled except by G. E. Moore. I remember taking him once to a meeting of the Aristotelian Society, at which there were various fools whom I treated politely. When we came away he raged and stormed against my moral degradation in not telling these men what fools they were. His life was turbulent and troubled, and his personal force was extraordinary. He lived on milk and vegetables, and I used to feel as Mrs Patrick Campbell did about Shaw: ‘God help us if he should ever eat a beefsteak.’ He used to come to see me every evening at midnight, and pace up and down my room like a wild beast for three hours in agitated silence. Once I said to him: ‘Are you thinking about logic or about your sins? ‘Both’, he replied, and continued his pacing. I did not like to suggest that it was time for bed, as it seemed probable both to him and me that on leaving me he would commit suicide. At the end of his first term at Trinity, he came to me and said: ‘Do you think I am an absolute idiot?’ I said : ‘Why do you want to know?’ He replied : ‘Because if I am I shall become an aeronaut, but if I am not I shall become a philosopher.’ I said to him: ‘My dear fellow, I don’t know whether you are an absolute idiot or not, but if you will write me an essay during the vacation upon any philosophical topic that interests you. I will read it and tell you.’ He did so, and brought it to me at the beginning of the next term. As soon as I read the first sentence, I became persuaded that he was a man of genius, and assured him that he should on no account become an aeronaut.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 1968, chap. 2: Russia]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB22-070.HTM

[寸言]
ラッセルは,他人におべっかを使わない、独創的な哲学者であるウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889-1951)が好きであり、当初、高く評価していた。
ウィトゲンシュタインは、周知のように彼の前期と後期とでは、哲学のスタイル及び内容が大変異なっている。ラッセルが評価したのは前期のウィトゲンシュタインであり、後期のウィトゲンシュタインは「哲学すること」を放棄してしまっていると思うようになり、しだいに疎遠になっていった。
しかし、哲学的立場が異なるとしても、ラッセルはウィトゲンシュタインを暖かく見守り続けた。これに対し、ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学教授となった後は、ラッセルを初め、自分と考え方の違う研究者を周囲から排斥しがちであった。
ラッセルは、1944年に、6年におよぶ米国滞在を経て、英国に帰国したが、ケンブリッジ大学から招聘があり、ケンブリッジ大学に一時的に復帰するが、その反対運動の先頭にたったのは、ウィトゲンシュタインであった。彼は、1951年に62歳で癌のためになくなっている。

鉄道歩道橋に立ち、しばしば自殺衝動に駆り立てられるラッセル

TPJ-ABR1 1902年から1910年までの間、非常に厳しい知的な仕事と結び合わさって、不幸であることによる緊張(疲労)は、とても大きなものであった(ラッセル注:「自伝」pp.211-212 にわたって載せてある私のルーシー宛の手紙を参照)。その頃私は、自分が入りこんでいると思われるトンネルのもう一方の先(出口)からはたして抜けだすことができるかどうか、しばしば思案した。私はよく、オックスフォード近くのケニントン(Kennington)にある歩道橋の上に立ち(注:下の白黒写真は、架け替えられる前の、当時のケニントンの鉄道歩道橋/1923年に架けかえらえている。)、通過する汽車を跳め、明日こそは汽車の下に身をなげだそうと決意した。しかし、翌日になるといつも、多分『プリンキピア・マテマティカ』はいずれ完成するだろうと望んでいる自分を見出した。さらに、その困難は、私に対する挑戦状であり、それに立ち向かって克服しないのは臆病だろうと思われた。そこで私は中断せずにその仕事を続け、遂に完了した。しかし、私の知性は、緊張から完全に回復することは決してなかった。私は、それ以来、難しい抽象的な問題を扱う能力は、以前よりずっと衰えてしまった。これは --決して全ての理由ではないが-- 私の仕事の性質が変化した理由の1つであった。

Kennington_railway-bridgeThe strain of unhappiness combined with very severe intellectual work, in the years from 1902 till 1910, was very great. (See my letters to Lucy on pp.167ff.) At the time I often wondered whether I should ever come out at the other end of the tunnel in which I seemed to be. I used to stand on the footbridge at Kennington, near Oxford, watching the trains go by, and determining that tomorrow I would place myself under one of them. But when the morrow came I always found myself hoping that perhaps Principia Mathematica would be finished some day. Moreover the difficulties appeared to me in the nature of a challenge, which it would be pusillanimous not to meet and overcome. So I persisted, and in the end the work was finished, but my intellect never quite recovered from the strain. I have been ever since definitely less capable of dealing with difficult abstractions than I was before. This is part, though by no means the whole, of the reason for the change in the nature of my work.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-150.HTM

[寸言]
ラッセルは3歳までに両親がなくなり、その後、祖父母(注:祖父は2度英国首相を務めたジョン・ラッセル)に引き取られ、ずっと祖母に育てられることになる。さびしくて孤独な少年時代を過ごし、「不幸感」から何度も自殺したいという思いに駆られた。
『プリンキピア・マティマティカ(数学原理)』執筆の時も自殺衝動に駆られたが、第一次世界大戦の勃発により、自分が全身全霊を打ち込める反戦運動にかかわることにより、それ以後は、自殺衝動は消えていった。
ラッセルは貴族で裕福であり恵まれているので学問・研究にゆったりとはげむことができたのだ、というイメージを持っている人が少なくないようである。そのような方は是非『ラッセル自伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols. を読むことをお薦めしたい。

「記述理論」と「タイプ理論」の発見ーあとは『数学原理』を執筆するのみ!

 1905年になって,事態は好転しはじめた。アリスと私は,オックスフォードの近くに住むことを決め,バグレイ・ウッド自分たちの家を建てた。(その当時,そのあたりには一軒も家が建っていなかった。) 私たちは,1905年の春,そこに移り住み,入居してすぐに,私は「記述理論」を発見した。記述理論は,長い間私を困惑させた(私の研究の進展を阻んでいた)諸困難の克服へ向けての第一歩であった。この発見の直後にセオドール・デービスの死があったが,それについては前の方の章で述べている。
Principia_mathematica 1906年に,私は「タイプ理論」を発見した。あとやらなければならないことは,(本として出版するために)詳細に書き上げるだけであった。ホワイトヘッドは学生の教育で忙しく,この機械的な仕事をする十分な時間がなかった。(そこで)私は,1907年から1910年まで,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間,この(執筆の)仕事にあたった。原稿(の量)は,しだいに膨大になっていき,散歩に出るたびに,私は,家が火事になって原稿が焼失してしまわないかと,いつも心配になった。その原稿は,当然のこと,タイプライターで打ったり,また複写さえもできない類のものであった(注:ほとんど論理記号の羅列であったため)。原稿ができ上がって,最後にそれをケンブリッジ大学出版部にもっていく時,あまりに膨大なため,運搬用に旧式の四輸馬車を雇わなければならなかった。困難はそれで終わらなかった。大学出版部は,その本の刊行によって(出版に要した費用と売り上げ利益の差は)差し引き600ポンドの損失があるだろうと見積もった。ケンブリッジ大学の特別評議員会の委員たちは,300ポンドの欠損は喜んで負担するが,それ以上大学が負担することはできないだろうと考えた。英国学士院は寛大にも200ポンドを寄付してくれたが,残りの100ポンドば私たち二人で工面しなければならなかった。私たちは,このようにして,10年間の労働によって,一人あたりマイナス50ポンドずつかせぎ出した(注:10年間共同作業をやった結果,利益を得るどころか,一人あたり50ポンドの負債を負うことになってしまったということ。)。これは,ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-1674:イギリスの詩人)のパラダイス・ロスト(失楽園)の記録を破っている。

priniipia_textIn 1905 things began to improve. Alys and I decided to live near Oxford, and built ourselves a house in Bagley Wood. (At that time there was no other house there.) We went to live there in the spring of 1905, and very shortly after we had moved in I discovered my Theory of Descriptions, which was the first step towards overcoming the difficulties which had baffled me for so long. Immediately after this came the death of Theodore Davies, of which I have spoken in an earlier chapter. In 1906 I discovered the Theory of Types. After this it only remained to write the book out. Whitehead’s teaching work left him not enough leisure for this mechanical job. I worked at it from ten to twelve hours a day for about eight months in the year, from 1907 to 1910. The manuscript became more and more vast, and every time that I went out for a walk I used to be afraid that the house would catch fire and the manuscript get burnt up. It was not, of course, the sort of manuscript that could be typed, or even copied. When we finally took it to the University Press, it was so large that we had to hire an old four-wheeler for the purpose. Even then our difficulties were not at an end. The University Press estimated that there would be a loss of £600 on the book, and while the syndics were willing to bear a loss of £300, they did not feel that they could go above this figure. The Royal Society very generously contributed £200, and the remaining £100 we had to find ourselves. We thus earned minus £50 each by ten years’ work. This beats the record of Paradise Lost.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-140.HTM

[寸言]
Logicomix_Principia20 「1907年から1910年までの5年間,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間、論理記号ばかりの学術書の執筆に専念」なんていう根気や知力は、せちがらい現代の学者・研究者にはとうてい無理であろう。
今はコンピュータを活用でき論理計算の部分は瞬間的に処理可能であるために、ラッセルの知力があれば、5年間を1年間くらいに大幅に時間短縮できるであろう。実際、後の学者がそれを実行して、下記のページにあるように、そのことについて、ラッセルに手紙を出している。
http://russell-j.com/beginner/DBR4-45.HTM 「プリンキピア・マテマティカ 対 コンピュータ」
しかし、勘違いしてはいけないが、重要なのは機械的に論理計算する部分ではなく、問題意識を持つことであり、また、その問題を解くための発想力や創造力である。
(なお、この手紙の主も「博識な人間と賢者とは、必ずしも同一ではないということを示している我々のこの論文の証拠に興味をもたれることと思います」と,ラッセルに敬意を評している。)

完全な’知的行き詰まり’の時期 - 白紙だけを毎日見続け・・・

・・・。当時(注:1903年~1904年)私は、前述したパラドクス(論理的矛盾)を解決しようと懸命に努力していた。毎朝私は、1枚の白紙の前に坐った。途中に短い昼食の時間がはいるだけで、後はずっと1日中、その白紙をみつめていた。しばしば、夕方になっても、紙は依然として白紙のままであった。

br_paradox その2年間の冬は、私たち(夫婦)はロンドンで過ごした。冬の間中、私は、全然仕事をしようとしなかった。しかし、1903年と1904年の2度の夏は、完全な’知的行き詰まりの時期’として、私の記憶に残っている。パラドクスを解決しないことには先に進めないことは明らかであった。そこで、いかなる困難があっても『プリンキピア・マテマティカ』の完成だけはなしとげようと決意していた。しかし、私のその後の人生のすべては、あの白紙のみを見つめることに費やされることはまったくありそうなことだと思われた。さらに一層私をいらいらさせたのは、そのパラドクスは取るにたらないものであり、私の貴重な時間が、まじめな注意を払うに値いしないと思われるような事柄について考えることに費やされるということであった。

deaclockI was trying hard to solve the contradictions mentioned above. Every morning I would sit down before a blank sheet of paper. Throughout the day, with a brief interval for lunch, I would stare at the blank sheet. Often when evening came it was still empty. We spent our winters in London, and during the winters I did not attempt to work, but the two summers of 1903 and 1904 remain in my mind as a period of complete intellectual deadlock. It was clear to me that I could not get on without solving the contradictions, and I was determined that no difficulty should turn me aside from the completion of Principia Mathematica, but it seemed quite likely that the whole of the rest of my life might be consumed in looking at that blank sheet of paper. What made it the more annoying was that the contradictions were trivial, and that my time was spent in considering matters that seemed unworthy of serious attention.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-130.HTM

[寸言]
shoji_wani 若い頃には、誰もが、こんな非生産的なことばかりしていたくないと気が焦ることがあるであろう。若い時、安穏に暮らし、そのようなことを思ったことがない人間は、年をとってから、若い時にもっと勉強しておくべきだった(もっと努力すべきだった)と思うことになる。 (「え? そんなこと思ったことない? 若い時に、裕福かつ環境にめぐまれていた人は、今は、あっちに行っていてください」 by SHOJI Sadao

 偉大な知的業績は簡単にあげられるものではない。ラッセルは自分が可能な限り、知的貢献をしたいと思ったがゆえに、大きな障害にぶつかり格闘することになる。長い努力の結果、その後一応の解決が得られたが、解決できず、挫折し、その後の人生が苦いものになった可能性もあったかも知れない状況であった。

ラッセルの最も不幸な時期-情緒的にも、知的にも行き詰まり・・・

ALYS1905 その間,アリス(注:ラッセルの初婚相手/右写真)は私以上に不幸であり,また,彼女が不幸であることが私自身の不幸の原因の大きな部分をしめていた。私たち夫婦は,過去きわめて多くの時を,彼女の家族と一緒に過ごした。しかし,私は彼女に,もうこれ以上彼女の母にがまんができないのでファーンハーストを去らなければならないと告げた。私たちは,その年(1902年)の夏を,ウスターシャー州にあるブロードウェイの近くで過ごした。私は,心痛のため感傷的になり,「我々の心は,死せる希望の廃墟のために立派な霊廟を建てる(Our hearts build precious shrines for the ashes of dead hopes)」といったような文句をよく作った。メーテルリンクの作品を読むこと「さえ」した(注:ラッセルは元来「神秘主義」を好まないためこのような表現になっていると思われる)。この頃以前に,グランチェスターにおいて,私は,悲惨の頂点と危機のうちに,『数学の原理)』(The Principles of Mathematics, 1903)を書き上げた。原稿を書き終えたのは,(1902年)5月23日(注:ラッセルがちょうど30歳の時)のことであった。ブロードウェイで私は,後に『プリンキピア・マテマティカ』になる,数学の精密化に専念した。それまでは,この仕事でホワィトヘッドの協力を得ていたが,自分自身なるがままにしていた非現実的で,不誠実で,感傷的な気分が,私のこの数学の仕事に対してさえも影響を与えていた。私は,草稿の初めの部分をホワイトヘッドに送ったこと,また「すべてが,この本の目的さえも,証明を簡単できちんとしたものに見えるようにするために,犠牲にされている。」という返事を受け取ったことを記憶している。私の仕事上のこの欠点は,当時の私の精神状態における道徳的欠陥によるものであった。

TP-AOBR1Meanwhile Alys was more unhappy than I was, and her unhappiness was a great part of the cause of my own. We had in the past spent a great deal of time with her family, but I told her I could no longer endure her mother, and that we must therefore leave Fernhurst. We spent the summer near Broadway in Worcestershire. Pain made me sentimental, and I used to construct phrases such as ‘Our hearts build precious shrines for the ashes of dead hopes’. I even descended to reading Maeterlinck. Before this time, at Grantchester, at the very height and crisis of misery, I finished The Principles of Mathematics. The day on which I finished the manuscript was May 23rd. At Broadway I devoted myself to the mathematical elaboration which was to become Principia Mathematica. By this time I had secured Whitehead’s cooperation in this task, but the unreal, insincere, and sentimental frame of mind into which I had allowed myself to fall affected even my mathematical work. I remember sending Whitehead a draft of the beginning, and his reply: ‘Everything, even the object of the book, has been sacrificed to making proofs look short and neat.’ This defect in my work was due to a moral defect in my state of mind.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-110.HTM

[寸言]

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 ラッセルは生涯において最も不幸な時期(1901年頃)をグランチェスター(のホワイトヘッドの家/右写真)で過ごした。すぐ近くにある水力製粉所の水車のカタコトという音がラッセルの悲痛な思いを倍加していった。そうして、有名なエッセイ「自由人の信仰(崇拝するもの)」を執筆し始めた。
https://russell-j.com/beginner/AB16-090.HTM