12月23日から2022年1月3日ころまで、このブログ(ラッセル『私の哲学の発展』の日本語訳連載中)はお休みとさせていただきます。よいお年をお迎えください。
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(松下)
月別アーカイブ: 2021年12月
ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n3
(ひとつの)対象語の理解における本質的なことは、その語が,その語の意味するところのものと,いくつかの特性(properties)を共有しているということである。真夜中に「火事だ!」という叫び声によって目を覚ます時、我々は何か物のこげる臭いを(実際に)かいだ時と大体同じ仕方で行動するであろう。もちろん、語とその意味との間には相違がある。「火事だ!」という語は我々を熱くしたり死なせたりすることはできない。しかし、意味を定義する場合に関わるのは、因果的類似性であって、因果的相違ではない。 上記の(先にあげて)「意味」の定義は、今のところ(so far as it goes)正しいとは考えるが、決して意味の問題(主題)の全体を尽くすものではない。一つには、その定義は対象語についてのみあてはまるものだからである。子供を動物園に連れて行き、子供がその野獣を見ている時に「虎だ!」と言ってあげることはできる。しかし「より(以上)」 (than) という言葉の意味を子供に見せてやれるような動物園は存在しない(注:”than” は対象語ではない)。また上記の説(理論/学説)に はもう一つの限界がある。(即ち)上記の説が語の指示的あるいは感嘆的な使用(注意:何かを指示するか感嘆表現する場合)にのみ十分なものになると いうことである。上記の説は、何か補足を加えなければ、語り(物語)や想像や欲求(欲望)や命令における語の使用を説明しない。 認識論(知識論)においては言語の指示的使用が特に重要ではあるが、他の使用も他の領域では同様に重要である。この点については(in this connection)、私は『人間の知識』から引用をしておこう(p.85)。 「言葉の基本的な使用は指示的使用(指示文)と命令的使用(命令文)と疑問的使用(疑問文)とに分けることができる、と私は考える。 子供は母親の来るのを見れば、『ママ!』と言う時があるが、これは指示的使用である。母親が必要なとき子供は『ママ!(来て!)』と呼ぶであろう。これが命令的使用である。母親が魔女の衣装をまとい、 子供がその変装を見抜きはじめる時、子供はは『ママ?』と言うかも知れない。これは疑問的使用である。言語の習得において最初にこなければいけないのは、語の指示的使用である。なぜなら語とそれによって意味される対象との連合は、両者が同時に存在(共在)することによってのみ創り出されるからである。しかし命令的使用がすぐそれに続く。これは、ある対象について考えるとはどういうことかを考察する場合に関連している(重要である)。母親を呼ぶことができるようになったばかりの子供は、以前に彼(彼女)が度々置かれた一つの状態に対する言語的表現を発見したのであり、その状態は以前に母親と結びつけられていたが今やまた 『母』という語とも結合するにいたったということは、明らかである。まだ言語を習得する前は、 子供の状態はただ部分的にしか伝達できないものであった。大人は子供が泣くのを聞くと、何かを欲しているのだということは知ることができたが、何を欲しているのかは推測しなければならなかった。しかし、『ママ!!』という語が子供の状態を表現するという事実から明らかなことは、言語を獲得する以前にも、子供の状態はその母親とある関係、即ち、「~について考える」』という関係を持っていたことを示している。この関係は言語によって創り出されたものではなく、言語に先立って存在している。言語の役割はそれを伝達可能なものにすることである。」
Chapter 13: language, n.3
The essential thing in the understanding of an object-word is that the word shares some of the properties of what the word means. If you are waked in the middle of the night by a cry of ‘Fire!’ you will behave in much the same way as you would if you smell burning. There are, of course, differences between a word and what it means. The word ‘fire’ cannot make you hot or cause you to die, but it is the causal similarities, not the causal differences, that are involved in defining meaning. The above definition of ‘meaning’, though I think it correct so far as it goes, in no degree exhausts the subject of meaning. For one thing, it is only applicable to object-words. You can take a child to the zoo and say ‘tiger’ while he is looking at this beast, but there is no zoo where you can show him the meaning of the word ‘than’. There is another limitation to the above theory, which is that it is only adequate in regard to the indicative or exclamatory use of words. It does not explain, until it is supplemented, the use of words in narrative or imagination or desire or command. In theory of knowledge it is especially the indicative use of language that is relevant, but its other uses are equally important in other spheres. In this connection, I will quote from Human Knowledge (page 85): ‘I think the elementary uses of a word may be distinguished as indicative, imperative, and interrogative. When a child sees his mother coming, he may say “mother”; this is the indicative use. When he wants her, he calls “mother!”; this is the imperative use. When she dresses up as a witch and he begins to pierce the disguise, he may say “mother?”; this is the interrogative use. The indicative use must come first in the acquisition of language, since the association of word and object signified can only be created by the simultaneous presence of both. But the imperative use very quickly follows. This is relevant in considering what we mean by “thinking of” an object. It is obvious that the child who has just learnt to call his mother has found verbal expression for a state in which he had often been previously, that the state was associated with his mother, and that it has now become associated with the word “mother”. Before language, his state was only partially communicable; an adult, hearing him cry, could know that he wanted something, but had to guess what it was. But the fact that the word “mother!” expresses his state shows that, even before the acquisition of language, his state had a relation to his mother, namely the relation called “thinking of”. This relation is not created by language, but ante-dates it. What language does is to make it communicable.’
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n2
「意味」の定義を探し求めるにあたって、私は他の場合と同様(as elsewhere)、行動主義者の原理・原則は究極においては不十分であることが明らかになるであろうと期待する一方、この原理・原則に従って可能な限り進んでみるという計画を追求した。子供は「犬」という語を適切な場合(時/機会)に使用する習慣を、他のいかなる習慣の(獲得の)場合と全く同様の仕方で獲得する、ということは明らかである。 テレスコーピング(伸縮現象)の通常の過程によって、犬がやってきて(それを見た)少年に「犬(だ)」という言葉を発したい衝動を与え、また、(2)「犬(だ)」という発話を聞くと少年は犬(がいること/orやってくること)を期待したり、探したりする。【訳注:この部分の英文は次の通りで、野田氏は以下のように訳しています。 By the ordinary process of telescoping, a dog comes in time to give him an impulse to say ‘dog’, and hearing the word ‘dog’ makes him expect or look for a dog. 野田氏の訳文:子供はその注意が犬に集中されている時に「犬」という語が発言されるのをたびたび聞く。ところで、事件が重複して起こるのは世の常であるから、やがて犬が現れて子供に「犬」という語を発する衝動を起こさせる。 → 訳文の「内容(主張)」自体は間違っていないと思われますが、原文の訳になっていないのではないでしょうか? | “telescoping”:テレスコーピング(伸縮)現象(社会学・心理学・認知科学):テレスコープ(Telescope・望遠鏡)から派生した言葉で主に伸縮を表す。即ち、長期記憶において、実際の様々な出来事や事象の時系列と、自身の思う時系列の食い違いがあり、その事象の衝撃度や印象度や個人的な思考や嗜好から、新鮮な印象と古い印象のものに別れた結果、経過した時間に比べ時間の短縮や時間の伸びが感じられ、実際の時系列と食い違うことをいう。】 この二つの習慣が獲得されると、子供は 「犬」という語の意味を理解していると言って良いだろう。(ただし)それ(二つの習慣の獲得)は、その子供が「犬」という語の定義で成り立っているような精神状態を持っていることを意味していない。(即ち、)子供は二つの行動様式をもち、一つは(一方は)(目の前に見える)犬から「犬」という語の一例(注:発話されたものは1回限りの唯一のもの!)へと導き、もう一つ(他方)はその語の一例から犬種の動物の一例へと導くということを意味するだけである(普遍的な犬などは存在していない!)。これら二つの習慣を身につけてしまうと、子供は正しく話せることになる。 「犬」という語に関する限り、その子供は、辞書編纂者にならないのであれば、もうそれ以上何も必要としない。 「対象語(object-words)」と呼ばれるものに関しては、「意味」の定義のためにこれ以上何も必要はない。 「犬」という語が(現実の)犬を意味するということは、上の二つの習慣が獲得されたと言っているにすぎない。 これら二つの習慣は、それぞれ、その語の能動的理解(active understanding)および受動的理解(passive understanding)と呼ぶことができる。能動的理解は犬を前にして「犬」という語を発することから成り、受動的理解は「犬」という語を聞いた ときに犬(の登場を)期待したりまたは探したりすることから成っている。 受動的理解は能動的理解よりも先行し(先行するが)、人間のみに限定されない。 犬や馬もある一定数の語の受動的理解を持つ。 他方、鸚鵡(おうむ)は語を発することができるがその語の意味するところを理解しているといういかなる印も示さない。 ひとつの語を「正しく」用いるということの意味について私は次のような定義を与えた。『精神の分析』 p.198) 「語は、(聴覚機能が)普通の聞き手がその語によって、意図された方向に影響を受ける場合、「正しく」使用されている。 これは「正しさ」の心理学的定義であって、文学的定義ではない。 文字的定義ならば、普通の聞き手の代りに、遠い過去の時代に生きた高い教養をもつ人を置くであろう。 こういう定義の目的は、正しく語り書くことを困難にすることである。 「一つの語とその意味との関係は、我々の語の使用とその語が用いられたのを聞いたときの我々の行動を支配する(ところの)一つの因果的法則の性質を帯びている(is of the nature)。 一つの語を正しく使用する人が、その語の意味を言うことができなければならないという理由はない。それは、(あたかも)正しく動いている一つの惑星がゲブラーの法則を知らなければならないという理由はないのと同様である。」
Chapter 13: language, n.2 In seeking the definition of ‘meaning’, I pursued, as elsewhere, the plan of proceeding as far as possible on behaviourist principles while expecting these principles to prove ultimately inadequate. It is obvious that a child acquires the habit of using the word ‘dog’ on appropriate occasions exactly as he acquires any other habit. He frequently hears the word ‘dog’ uttered while his attention is fixed upon a dog. By the ordinary process of telescoping, a dog comes in time to give him an impulse to say ‘dog’, and hearing the word ‘dog’ makes him expect or look for a dog. When these two habits have been acquired the child may be said to know the meaning of the word ‘dog’. This does not mean that the child has a state of mind consisting in a definition of the word ‘dog’; it means only that he has two modes of behaviour, one leading from a dog to an instance of the word ‘dog’, and the other, from an instance of the word to an instance of the canine species. When he has acquired these two habits, he can speak correctly. So far as the word ‘dog’ is concerned, he needs nothing more until he becomes a lexicographer. In regard to what may be called ‘object-words’, nothing more is needed for the definition of ‘meaning’. To say that the word ‘dog’ means dog is only to say that these two habits have been acquired. The two habits may be called, respectively, active and passive understanding of the word. Active understanding consists of uttering the word in the presence of a dog, and passive understanding consists of expecting or looking for a dog when you hear the word ‘dog’. Passive understanding comes earlier than active understanding and is not confined to human beings. Dogs and horses learn the passive understanding of a certain number of words. Parrots, on the other hand, can utter words, but show no sign of knowing what they mean. I gave the following definition of what is meant by using a word ‘correctly’ (loc. cit., p.198): ‘A word is used “correctly” when the average hearer will be affected by it in the way intended. This is a psychological, not a literary, definition of “correctness”. The literary definition would substitute, for the average hearer, a person of high education living a long time ago ; the purpose of this definition is to make it difficult to speak or write correctly. ‘The relation of a word to its meaning is of the nature of a causal law governing our use of the word and our actions when we hear it used. There is no more reason why a person who uses a word correctly should be able to tell what it means than there is why a planet which is moving correctly should know Kepler’s laws.’
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n1
以前言及したように、(言葉の)「意味」の定義や言語と事実との関係に興味・関心を持ち始めるようになったの1918年のことであった。それまで私は言語を「透過的」なものと見なしており、何が言語と非言語的世界とを関係付けるのか(何が言語と非言語世界との関係を作るのか)について吟味したことは全くなかった。 この問題(主題)について私が最初に考えたことは 『精神の分析』の第十講(第10章)に現れている。(訳注:『精神の分析』は、第3章を除いて、ロンドンと北京において、14回の講義として行われ、1921年に単行本として出版された。) 私を驚かせた最初の事柄は、極めて明白なことであるが、この問題(主題)をそれ以前に論じた全ての著者(人々)によって不当に無視されてきている、と思われた。それは(その明白だと思われることは)、ひとつの語はひとつの普遍者(普遍的な存在)であり、 その諸事例(instances)は、その語の一例が語られたり聞かれたり書かれたり読まれたりする特定の出来事(occasiopns)である、ということである。 普遍者について思索した人々は、多くの個々の犬が存在ているゆえに、大(という存在)はひとつの普遍者(普遍的な存在)であるということを認識・理解したが、彼らは「犬」という語( the word ‘dog’ )もまた全く同様の意味で、ひとつの普遍者(普遍的な存在)であることに気づけなかった。 普遍者の存在を否定した人々は、全ての諸事例に適用される一つの語が存在するかのように常に語った。 しかしそれ全く事実に反する。 無数の犬が存在し、無数の「犬」という語の事例が存在している。その(犬という)語の事例の各々が四足獣の事例の各々と一定の関係を持っている。しかし、その語(犬)自体は、天上に横たわっているプラトン的な犬が持つ形而上学的な地位 - それが何であれ - のみを持っているのである。この事実は、語というものをそれ(語)の「意味する」対象と,それまで考えられてきたほどには,違わないものとするがゆえに、重要である。 また「意味」なるものが、 ひとつの語の個別的事例とその語の意味するものの個別的事例との間の関係でなければならない、ということも明らかとなる。言い換えると(即ち)、「犬」という語の意味を明らかにしたいと思うなら、この語の個別的な発声を吟味しなければならず、またそれら個々の発声が犬種の個別的動物にいかに関係しているかを吟味(考察)しなければならないのである。
Chapter 13: language, n.1
It was in 1918, as I remarked before, that I first became interested in the definition of ‘meaning’ and in the relation of language to fact. Until then I had regarded language as ‘transparent’ and had never examined what makes its relation to the non-linguistic world. The first result of my thinking on this subject appeared in Lecture X of The Analysis of Mind, The first thing that struck me was exceedingly obvious but seemed to have been unduly ignored by all previous writers on the subject. This was that a word is a universal of which the instances are the occasions on which an instance of the word is spoken or heard or written or read. Those who philosophized about universals realized that dog is a universal because there are many dogs, but they failed to notice that the word ‘dog’ is a universal in exactly the same sense. Those who denied universals always spoke as though there were one word which applied to all the instances. This is quite contrary to the fact. There are innumerable dogs and innumerable instances of the word ‘dog’. Each of the instances of the word has a certain relation to each of the instances of the quadruped. But the word itself has only that metaphysical status (whatever this may be) that belongs to the Platonic dog laid up in heaven. This fact is important since it makes words much less different than they had been thought to be from the objects that they ‘mean’. It also becomes obvious that ‘meaning’ must be a relation between an individual instance of a word and an individual instance of what the word means. That is to say, if you want to explain the meaning of the word ‘dog’ you have to examine particular utterances of this word and consider how they are related to particular members of the canine species.
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n12
観念論哲学者の影響によって、「経験」というものの重要性がひどく大げさに主張されて来た、と 私には思われる。 経験されないもの、経験でないものは何も存在しえないとまで考えられるにいたっている。こういう意見に何らかの根拠があるとは私にはみとめられない。またさらに、我々の 知りえないものが存在することを我々は知りえないという見解に対しても、私は何の根拠も認めない。もし人々が「経験」なる語はどういう意味を持ちうるかを明らかにしようとつとめさえ経していたなら、私がここに攻撃しているような意見が盛んにおこなわれるようになりえたとは思われないのである。
Under the influence of Idealist philosophers the importance of ‘experience* has, it seems to me, been enormously exaggerated. It has even come to be thought that there can be nothing which is not experienced or experience. I cannot see that there is any ground whatever for this opinion, nor even for the view that we cannot know that there are things we do not know. I do not think that the opinion which I am combating could have flourished if people had taken the trouble to find out what the word ‘experience’ is capable of meaning. Chapter 12: Consciousness and Experience
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n11
哲学が非常にしばしば使用してきた二つの語がある。それは「意識」 (consciousness) と 「経験」 (experience) である。これら二つの語は定義し直されなければならない。 いなむしろ、はじめて定義されねばならない。というのは、たいていの場合、それらの意味は明白であるかのごとく、定義 なして用いられているからである。 人間または動物は「意識をもつ」が石は意識をもたないと言うとき、我々はいったい何を意味しているのか。そのとき意味されていると思われる二つの異なる事柄があり、その二つのうち第一 のものは外的観察の対象となりうるが第二のものはそうでない。第一のものは、人間または動物が、もし問題になっている事象(the event in question)が過去に起らなかったとした場合とはちがった仕方で、 未来において行動する ということである。しかしこれはむしろ「経験」の定義とするほうがよいかも知れない。意識の定義 の第二のものは、「注意」 (noticing) という関係から導き出されるであろう。何かが私に起るとき私はそれに注意するかも知れないし、注意しないかも知れない。注意する場合、私はそれを「意識する」と言 ってよいのである。この定義によれば、「意識」とはあることが私に起りつつある、あるいは起ってしま った、という知識なのである。しかしこの定義において「知識」とは何を意味するかは、なお研究す べき残された問題である。
There are two words which have been very frequently employed by philosophers. They are the words ‘consciousness’ and ‘experience*. Both will need to be re-defined ? or, rather, to be defined, for in general they are employed as if their meaning were obvious. What can we mean when we say that a man or an animal is ‘conscious’ but a stone is not? There are two different things that may be meant, of which the first, but not the second, is open to external observation. The first is that the man or the animal behaves in future in a way in which he would not behave if the event in question had not happened. This might perhaps be better taken as the definition of ‘experience’. The second definition of ‘consciousness’ will be derived from the relation of ‘noticing’. When anything happens to me, I may or may not notice it. If I notice it, I may be said to be ‘conscious* of it. According to this definition, ‘consciousness’ consists in the knowledge that something is happening to me or has happened to me. What is meant by ‘knowledge’ in this definition remains to be investigated.
ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n10
二元性のもうひとつの形式は想像と記憶とにおいて生ずる。 ある過去の時に起ったことをいま想い 出す場合、いま私のうちに起りつつあることは、想い出されている出来事と同一でないこと明らかで ある。一つは現在にあり、他は過去にあるのだから。それゆえ記憶には、主観と客観の関係と名づけてよい何ものかがあるわけであり、これは慎重な解釈を必要とする。 ところでその解釈は、 「信念」 (belief) というものを導入せずに可能であるとは私には考えられない。私が想い出すとき私は何ごとか が過去に起ったと信ずるのであり、その起った何ごとかは、いま私のうちに起りつつあることによっ て、ある意味で「再現されているのである。ここでの本質的な問題は、ひとつの心像がその感覚的原型に対してもつ関係である。私は私の部屋のことを思い浮べ、それから私の部屋に入って、部屋が 私の視覚的心像と「一致する」ことを見出す。こういう経験に導かれて我々は記憶心像にある程度の信頼をおくようになる。 しかしこれは、我々が感覚に注意するときその感覚に対して持つところの絶対的な信頼とは異なる。記憶は時に誤まりに導くことがみとめられるからである。
Another form of duality arises in imagination and memory. If I remember now what happened on some past occasion, it is obvious that what is happening in me now is not identical with the events remembered, since one is in the present and one is in the past. There is, therefore, in memory something that may be called a relation of subject and object. And this will require careful interpretation. I do not think the interpretation is possible without introducing ‘belief’. When I remember, I believe that something happened in the past, and the something that happened is in some sense ‘represented’ by what is happening in me now. The essential problem here is the relation of an image to its sensational prototype. I can visualize my room, and then go into my room and find that it ‘agrees’ with my visual image. Such experiences lead us to give a certain credence to memory images, but not that absolute credence that we give to sensations which we notice, because memories are found sometimes to be misleading.
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n9
「感覚」と対置される「知覚」は、過去の経験にもとづいた習慣を含んでいる。 「知覚」と区別 して「感覚」を、経験全体のうち、過去の歴史から独立に現在の刺戟のみによって生ずるところの部分である、と言うことができる。こういう意味の感覚が、出来事全体について理論上認めなけならない核(中核)なのである。 出来事全体は常に、感覚的な核に、習慣をふくむ追加が加わって成り立ったところの ひとつの解釈なのである。 犬を見る場合、感覚的核は、それを犬と認めるに必要な付加物をすべてはぎとられた、一片の色である。その一片の色が、犬に特有な動き方をすることを我々は期待し、 それが音を出すときは吠えるか唸るかし、雄難のようにときをつくらないことをわれわれは期待す る。我々は、それが手で触れうるものであり、大気の中へ消えてなくなることはなく、未来と過 去とをもつものであることを、確信している。これらすべての期待や確信が「意識的」なものである と言っているのではないが、それらが存在することは、その期待や確信どおりに事が運ばなかったとしたとき、我々の感ずる驚愕によって、明らかに示されている。感覚を知覚に変えるのはこれらの 付加物であり、これらがまた、知覚をしてる場合には我々を誤まるものたらしめるのである。 . ウォルト・ディズニーによって我々は 「本当の」犬を見ていると思いこませられかも知れないが、その犬は 雛の鳴き声をしたり消えてしまったりして、我々を驚かす。 けれども、我々の期待は経験の結果なのであるから、それが通常起るところのこと –ただし自然の諸法則は不変であると想定して– を表現するより他ないことは明らかである。
Perception’ as opposed to ‘sensation’ involves habit based upon past experience. We may distinguish sensation as that part of our total experience which is due to the stimulus alone, independently of past history. This is a theoretical core in the total occurrence. The total occurrence is always an interpretation in which the sensational core has accretions embodying habits. When you see a dog, the sensational core is a patch of colour stripped of all the adjuncts involved in recognizing it as a dog. You expect the patch of colour to move in the way that is characteristic of dogs, you expect that if it makes a noise it will bark or growl, and not crow like a cock. You are convinced that it could be touched and that it will not vanish into thin air, but has a future and a past. I do not mean that all this is ‘conscious’, but its presence is shown by the astonishment that you would feel if things worked out otherwise. It is these accretions that turn a sensation into a perception, and it is these, also, that make perception possibly misleading. Walt Disney might lead you to suppose that you were seeing a ‘real’ dog, and it might astonish you by crowing or vanishing. Since, however, your expectations are the result of experience, it is clear that they must represent what usually happens — always assuming that the laws of nature are constant.
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n8
「そうなると、水たまりを見ることと、自分が水たまりを見ていると知ることとは、別のことになる。ところで、「知ること』は、『適切に行動すること』と定義されるかも知れない。これは、犬が(自分につけられた)自分の名(注:ポチ)を知るとか、伝書鳩が帰り道を知るという場合の、 『知る』という語の意味である。 この意味において、私が水たまりを知ることは、私が横によけることであった。 しかし、これは不明確(な言い方)である。というのは、他のものが私を脇によけさせたのかも知れないからであり、また「適切に」と いう語は自分の諸欲求という観点で(in terms of)のみ定義されうる話だからでもある。もし私が自分に多額の保険金をかけた直後であって、自分が肺炎で死ねば好都合だと考えていたとすると、私は水にぬれるほうを望んでいたかも知れない。そうだとすると、私が脇によけたということは、私が水たまりを見なかったと いうことの証拠になるはずである。それだけでなく、もしそういうわけで欲求というものを考慮外とすること にすれば、ある刺戟に対する適切な反応は、科学的器具によっても示されることになる。 しかし、寒暖計が寒さを『知る』とは誰も主張しないであろう。 「我々が経験を知るために、経験に対して何がなされなければならないか。いろいろなことが可能 ある。言葉を用いて経験を記述することがあり、経験を語または心像において想起することがあり、 また経験に『注意する』 (notice) だけの場合もある。ところで『注意すること』は種々な程度を許す事柄であり、定義することは大変むずかしい。それは主として、感覚しうる環境からあるものを分離することであるように思われる。たとえば、ひとつの楽曲に聞き入るとき、チェロの音だけにわざと注意をむけることができる。この場合ほかの部分は、よく言われるように、『無意識に』聞かれ ているのである。 しかし『無意識』という語は何か明確な意味をもたせようとしてもだめな語である。ある意味では、現在の経験が我々のうちに何らかの情緒をいかに弱くとも起すとき、我々は現在の経験を『知る』と言うことができる。たとえば、経験が我々にとって楽しいものであるか不愉快なものであるか、我々の興味をそそるか退屈させるか、我々を驚かすかまたは期待したとおりのものであるか、というような場合である。 「我々の現在の感覚の場にある何ものかを、我々が知ることが「できる」ということの、ひと つの重要な意味がある。『あなたはいま黄色を見ているか』とか『音が聞こえるか』とか誰かが言うとき、たとえ問いかけられるまでは黄色や音を注意していなかったとしても、我々は完全な確信を持って 答えることができる。そして多くの場合、そのものに我々が注意を引かれる前にすでにそのものはそこにあったのだと確信することができるのである。 「してみると、我々の経験する最も直接な知り方は、現在(現在存在)する感覚 (sensible presence) に何 ものかが加わって起こる、と思われる。しかし、加わる必要のあるところのこの何ものかを非常に正確に定義しようとすれば、その正確さそのものによって誤まりにおちいることに多分なるであろう。というのは事柄自体が不明確でいろいろな程度を持つのだからである。その必要なものは「注目」 (attention)と呼んでよいであろう。これは必要な感覚器官を緊張させることであり、またひとつ の情緒的反応でもある。突然聞こえた大きな音は注意を引くことほとんど間違いがないが、非常にかすかな音でも情緒的意味を持つならやはり注意を引くのである。 「すべての経験的命題は、ひとつまたはそれ以上の感覚的な出来事が、それらの起こると同時に注意されるか、あいは起こった直後、それらがまだその心理的現在の一部をなしている間に注意されるかする場合、そういう感覚的な出来事に基礎をおいているのである。そういう出来事は、それらが注目されるとき「知られる』のだ、と言うことにしよう。 『知る』という語は多くの意味をもち、これはそのひとつにすぎないが、我々の研究の目的にとってはこの意味が基礎的な意味なのである。」(pp.49-51)
Chapter 12: Consciousness and Experience , n.8
‘We are to say, then, that it is one thing to see a puddle, and another to know that I see a puddle. “Knowing” may be defined as “acting appropriately”; this is the sense in which we say that a dog knows his name, or that a carrier pigeon knows the way home. In this sense, my knowing of the puddle consisted of my stepping aside. But this is vague, both because other things might have made me step aside, and because “appropriate” can only be defined in terms of my desires. I might have wished to get wet, because I had just insured my life for a large sum, and thought death from pneumonia would be convenient; in that case, my stepping aside would be evidence that I did not see the puddle. Moreover, if desire is excluded, appropriate reaction to certain stimuli is shown by scientific instruments, but no one would say that the thermometer “knows” when it is cold. ‘What must be done with an experience in order that we may know it? Various things are possible. We may use words describing it, we may remember it either in words or in images, or we may merely “notice” it. But “noticing” is a matter of degree, and very hard to define; it seems to consist mainly in isolating from the sensible environment. You may, for instance, in listening to a piece of music, deliberately notice only the part of the cello. You hear the rest, as is said, “unconsciously” ? but this is a word to which it would be hopeless to attempt to attach any definite meaning. In one sense, it may be said that you “know” a present experience if it rouses in you any emotion, however faint ? if it pleases or displeases you, or interests or bores you, or surprises you or is just what you were expecting. ‘There is an important sense in which you can know anything that is in your present sensible field. If somebody says to you “are you now seeing yellow?” or “do you hear a noise?” you can answer with perfect confidence, even if, until you were asked, you were not noticing the yellow or the noise. And often you can be sure that it was already there before your attention was called to it. ‘It seems, then, that the most immediate knowing of which we have experience involves sensible presence plus something more, but that any very exact definition of the more that is needed is likely to mislead by its very exactness, since the matter is essentially vague and one of degree. What is wanted may be called “attention”; this is partly a sharpening of the appropriate sense-organs, partly an emotional reaction. A sudden loud noise is almost sure to command attention, but so does a very faint sound that has emotional significance. ‘Every empirical proposition is based upon one or more sensible occurrences that were noticed when they occurred, or immediately after, while they still formed part of the specious present. Such occurrences, we shall say, are “known” when they are noticed. The word “know” has many meanings, and this is only one of them; but for the purposes of our inquiry it is fundamental’ (pages 49-51).
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n7
知識の理論の見地から見ると、このことは、「経験の証拠」 (empirical evidence) がいったい何を 意味するかということに関して、きわめて困難な問題を生み出す。『意味と真理の探求』は主とし この問題を扱ったのであるが、その中で私は、それまで採っていた 「熟知」 (acquaintance) の代 りに「注意」 (noticing) をおき、これを、定義されない用語として受け入れた。 次の引用がこの点を明らかにするであろう。 「雨の日に外を歩いていて、水たまりを見てそれを避ける、と仮定しよう。その時、我々は心の中で次のように言うことはなさそうである。『水たまりがある。 それに踏み込まないほうが望ましい』。しかし、誰かが『なぜあなたは急に横へ寄ったのか』と言えば、『あの水たまりに踏み込みたくなかったからです』と答えるであろう。我々は、自分が視覚による知覚をもったのであり、それに適切に反応したのであることを、後から回顧的に(振り返って)知るのである。そして上記の例の場合には、その知識を言語で表現して いるのである。しかし、もし我々の注意が質問者によってその方に向けられることがなかったなら ば、我々は水たまりを避けたときに何を知っていたのであろうか? またいかなる意味で知っていたのであろうか? 「質問された時(には)その出来事はもう終っていたのであり、我々は記憶によって答えた のである。しかし、前に知らなかったことを思い出すことができるだろうか(想起できるだろうか)?。しかし、これは『知る』という語の意味に依存する。 「『知る』という語(言葉)はとても曖昧な語(言葉)である。『知る』という語(を使う時)の大部分の場合の意味は、ひとつの事象(event 出来事)を知ることは、知られる事象(event 出来事)とは異なるひとつの出来事(occurrence)である。 し かし『知ること』の意味には、我々がひとつの経験を持つとき、その経験と、それを持つと知る ことが、別のことではないという場合がある。我々は我々の現在の経験を常に知っている、と主張されることがあるが、これは、もし知ることが経験することとは別のことであるなら、真ではあ りえない。なぜならば、もしひとつの経験と、それを知ることとが別のことであるのなら、経験が現に起っている時我々は必ずそれを知っているのだという想定は、一々の出来事を無限に多様なものにすることになる。 私が熱いと感ずる。これはひとつの出来事である。私は私が熱いと感じ ていることを知る。これは第二の出来事である。私は私が熱いと感ずることを知ることを知る。これは第三の出来事である。かくして無限に進むことになるが、これは不合理である。それゆえ、私の現在の経験と私がその現在している経験を知ることとは区別不可能な同一のことであると言うか、あるいはまた、原則として我々は我々の現在の経験を知らないのだと言うか、しなければならない。 全体として言えば私は、『知る』という語を、知ることが知られるものとは異なっているという意味に 用いるほうがよいと思う。そして、原則として我々は我々の現在の経験を知らないとい う結論(帰結)を受けいれるほうがよいと思う。
Chapter 12: Consciousness and Experience , n.7
From the point of view of theory of knowledge, this raises very difficult questions as to what is meant by ‘empirical evidence’. In the Inquiry into Meaning and Truth, which is largely concerned with this problem, I replaced ‘acquaintance’ by ‘noticing’, which I accepted as an undefined term. A quotation will make this point clear; ‘Suppose you are out walking on a wet day, and you see a puddle and avoid it. You are not likely to say to yourself: “there is a puddle; it will be advisable not to step into it”. But if somebody said “why did you suddenly step aside?” you would answer “because I didn’t wish to step into that puddle”. You know, retrospectively, that you had a visual perception, to which you reacted appropriately; and in the case supposed, you express this knowledge in words. But what would you have known, and in what sense, if your attention had not been called to the matter by your questioner? “When you were questioned, the incident was over, and you answered by memory. Can one remember what one never knew? That depends upon the meaning of the word “know”. ‘The word “know” is highly ambiguous. In most senses of the word, “knowing” an event is a different occurrence from the event which is known; but there is a sense of “knowing” in which, when you have an experience, there is no difference between the experience and knowing that you have it. It might be maintained that we always know our present experiences; but this cannot be the case if the knowing is something different from the experience. For, if an experience is one thing and knowing it is another, the supposition that we always know an experience when it is happening involves an infinite multiplication of every event. I feel hot; this is one event. I know that I feel hot; this is a second event. I know that I know that I feel hot; this is a third event. And so on ad infinitum y which is absurd. We must therefore say either that my present experience is indistinguishable from my knowing it while it is present, or that, as a rule, we do not know our present experiences. On the whole, I prefer to use the word “know” in a sense which implies that the knowing is different from what is known, and to accept the consequence that, as a rule, we do not know our present experiences.
Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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