死線をさまようラッセルを助けるべきか!?ーキリスト教徒の看護婦

[以下は,ロシアから帰国後、1921年の夏まで約1年間、北京大学の客員教授として中国を訪問した時に死にかけたラッセルの思い出]

BR-DB20 ・・。私たちがようやく家に着く頃には,私は正に重病になっていた。私に何が起こっているのか認識できる時がくるまで,私はずっと譫妄状態だった。私はドイツ人経営の病院に運ばれ,その病院では,昼間はドーラ(右写真:中国服を着たドーラ)が私を看病し,夜は北京にたった一人しかいなかった専門の英国人看護婦が私を看護した。2週間の間,医師団は毎晩,朝までには私は死ぬだろう,と考えた。私は,この時のことは,2,3の夢を除いて何一つ記憶していない。譫妄状態を脱した時,私は,自分がどこにいるのかわからなかったし,その看護婦のことも誰なのか認識できなかった。ドーラ(注:英国帰国後に結婚することになる恋人)は,私がずっと危篤状態で死にそうな状態であった,と語った。それに対し,私は「それは大変面白い!」と応えた。しかし私は非常に衰弱していたので5分後にはそれも忘れてしまい,彼女はまたも同じやりとりを繰り返さなければならなかった。私は自分の名前すら思い出せないほどだった。そのような譫妄状態が終わってからも,一ケ月間は,いつ死ぬかもしれない状態だと言われ続けたが,私は彼らの言うことは一言も信じなかった。
私のために見付けてくれた看護婦は,専門職としてかなり抜きん出ており,第一次世界大戦中はセルビアの病院で看護婦長を務めていた。その病院は全てドイツ人に占領され,看護婦たちはブルガリアに移された。彼女は,ブルガリア王妃とどんなに親しい間柄になったかということを,まったく疲れをみせずに,私に語った。彼女は深い宗教心を持った女性であった。そうして,彼女は,私が快方に向かった時,私を死なせることが彼女の責務ではないのかどうか真剣に考えた,と私に話してくれた(松下注:キリスト教徒としては,反キリスト教徒で無神論者のラッセルを助けずに死なせるべきだが,専門職としての看護婦としてはラッセルを助けるべきであったので,どちらを優先すべきか迷ったという意味.)。彼女の職業的訓練が,彼女の道徳感よりもずっと強力であったことは,私にとって幸運だった。

By the time we finally got home, I was very ill indeed. Before I had time to realise what was happening, I was delirious. I was moved into a German hospital, where Dora nursed me by day, and the only English professional nurse in Peking nursed me by night. For a fortnight the doctors thought every evening that I should be dead before morning. I remember nothing of this time except a few dreams. When I came out of delirium, I did not know where I was, and did not recognise the nurse. Dora told me that I had been very ill and nearly died, to which I replied: ‘How interesting’, but I was so weak that I forgot it in five minutes, and she had to tell me again. I could not even remember my own name. But although for about a month after my delirium had ceased they kept telling me I might die at any moment , I never believed a word of it. The nurse whom they had found was rather distinguished in her profession, and had been the Sister in charge of a hospital in Serbia during the War. The whole hospital had been captured by the Germans, and the nurses removed to Bulgaria. She was never tired of telling me how intimate she had become with the Queen of Bulgaria. She was a deeply religious woman, and told me when I began to get better that she had seriously considered whether it was not her duty to let me die. Fortunately, professional training was too strong for her moral sense.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB23-090.HTM

[寸言]
R-GOHO 革命直後のロシア訪問から帰国してしばらくすると、中国の北京大学から客員教授になってほしいとの招待状がラッセル宛に届いた。ロシアの現状をありのままに書いた著作によって非難を浴びていたところであったので、ラッセルは快諾し、恋人のドーラとともに約1年間、中国に行くことになる
上記の文章は、1921年3月初旬にインフルエンザにかかり、死線をさまよった時の思い出を書いたものである。
聞記者に対応するドーラの沈鬱な様子を見て、日本の新聞記者は「ラッセル死亡」の誤報を打ったために、そのニュースは世界中に伝わり、ラッセルは生きながらに自分の死亡記事を読むという貴重な経験をすることになる。