ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者の権力 n.17

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 アルノルド・ダ・ブレシア(ブレスチアのアーノルド)の教義は,教皇と皇帝とを互いに和解させるようなものであった。というのは,二人とも既存の秩序を維持してゆく上で自分たちは二人とも必要だと認識していたからである。しかし,アルノルド・ダ・ブレシアが片付けられると(注:絞首刑にされ除去されると),間もなく,避けがたい争いが新たに(afresh 再び)起こった。その結果として起こった長期間の戦争のなかで,教皇は新しい同盟者,つまりロンバルディア同盟(Lombard League 北イタリア・ロンバルディア地方を中心とする都市同盟)を得た。ロンパルディアの諸都市,特に,ミラノは,裕福な商業部市であった。(即ち)それらの都市は,当時,経済発展の最前線であり,それは,英国人にとって,「ロンバード街」 (注:北イタリアのロンバルディア地方の出身の商人が多くいたことからその名称がつけられた,ロンドンのシティにある金融街)という名前で祝される,一つの事実であった。皇帝は,封建主義に賛成したが,ブルジョア資本主義は既に封建主義に敵意を抱いていた。カトリック教会は「高利貸し(高利でお金を貸すこと)」を禁じていたが,教皇も借り手の一人であり,北イタリアの銀行家たちの資本は役に立つとわかっていたので,神学上の厳しさは(彼らに対し)和らげられなければならなかった。パルバロッサ(注:Barbarossa 神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世の呼び名でイタリア語で「赤ひげ」の意)の教皇権との闘いは,およそ二十年の間続いたが,引き分けに終わった(ended in a draw)。皇帝が勝利をおさめることができなかったのは,主として,ロンバードの商業部市のせいであった。

Chapter IV: Priestly Power, n.17

The doctrines of Arnold of Brescia were such as to reconcile Pope and Emperor to each other ; for each recognized that both were necessary to the established order. But when Arnold was disposed of, the inevitable quarrel soon broke out afresh. In the long war that ensued, the Pope had a new ally, namely the Lombard League. The cities of Lombardy, especially Milan, were rich and commercial ; they were at that time in the forefront of economic development, a fact which is commemorated for Englishmen in the name “Lombard Street.” The Emperor stood for feudalism, to which bourgeois capitalism was already hostile. Although the Church prohibited “usury,” the Pope was a borrower, and found the capital of North Italian bankers so useful that theological rigour had to be softened. The conflict of Barbarossa with the Papacy, which lasted for about twenty years, ended in a draw, and it was chiefly owing to the Lombard Cities that the Emperor was not victorious.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者の権力 n.16

 グレゴリウス七世は,決して平和主義者ではなかった。彼が好んでいた(聖書の)文句(一節)は「(自分の)剣(つるぎ)を押えて血を流さない者は呪われる」という箇所であった。しかし,彼は,この文句は情欲的な人間に対する説教の言葉を控えることを禁じること(趣旨)であると説明しており,それは宣伝の力に関する彼の見解の正しさを示している。

 かつて教皇に就任(1154-1159)した(注:occupied the Papal Chair 教皇座に座った)唯一の英国人のニコラス・ブレイクスピア(Nicholas Breakspear ローマ教皇ハドリアヌス四世のこと)は,教皇の神学上の権力を,これとはいくらか違った意味で示している。アベラールの弟子のアルノルド・ダ・ブレシア(注:Arnaldo da Brescia, 1090-1155, 中世イタリアの宗教改革者)は,「土地を所有している教会書記,領地を所有している司教,財産を所有する修道僧は,(いずれも)救われない(天国に入るわけにはいかない)」という教義を説教した。この教えは,もちろん,正統主義的なもの(教義)ではなかった。聖ベルナールアルノルド・ダ・ブレシアについて次のように語っている。
「食べもしなければ飲みもしない人間,このような人間のみが,悪魔のように,魂の血のために,飢え,喉を渇かすのだ。」

 それにもかかわらず,聖ベルナールは,アルノルド・ダ・ブレシアが信心深いこと(注:his exemplary piety 模範的な信心)を認めており,そのことは,ローマ市民たちが教皇や枢機卿たちと争った際 -ローマ市民たちは,1143年に(既に)教皇と枢機卿たちを追放することに成功していた。- アルノルド・ダ・ブレシアをローマ人たちの役に立つ同盟者にした。聖ベルナールは,彼の教義の中の道徳的制裁(moral sanction)を求めた,復活したローマ共和制(?)(the revived Roman Republic)を支持した。しかし,教皇アドリアン四世(つまり,ブレイクスピア=教皇ハドリアヌス四世/ハドリアヌスはラテン語の名称)は,ある枢機卿の殺害(事件)を利用して,聖週間(Holy Week :復活祭前の1週間)の間,ローマ全体を禁制下に置いた。聖金曜日(Good Friday 復活祭前の金曜日)が近づいた頃には,元老院(メンバー)は神学的恐怖(神に対する恐怖)に襲われ,彼らは卑屈な服従ぶりを見せた。皇帝フレデリック・パルバッサの手助けによって,アルノルド・ダ・ブレシアは捕らえられた。彼は,絞首刑に処せられ,死体は焼かれ,その灰はテヴェレ川に投棄された。このようにして,聖職者(僧侶)は裕福になる権利があることが立証された教皇は皇帝の労に報いるために,サン・ピエトロ大聖堂(St. Peter’s)で,彼に王冠を与えた。皇帝の軍隊は役には立ったが,しかし,カトリックの信仰ほど役には立たなかった。カトリック教会は,その権力と富を,俗界の支持よりも,カトリック信仰により多く負っていたのである。

Chapter IV: Priestly Power, n.16

Gregory VII was no pacifist. His favourite text was: “Cursed be the man that keepeth back his sword from blood.” But he explained this as prohibiting keeping back the word of preaching from carnal men, which shows the justice of his views on the power of propaganda.

Nicolas Breakspear, the only Englishman who ever occupied the Papal Chair (1154-1159), shows the theological power of the Pope in a somewhat different connection. Arnold of Brescia, a pupil of Abelard, preached the doctrine that “clerks who have estates, bishops who hold fiefs, monks who possess property, cannot be saved.” This doctrine, of course, was not orthodox. St. Bernard said of him.
“A man who neither eats nor drinks, he only, like the Devil, hungers and thirsts for the blood of souls.”
St. Bernard none the less admitted his exemplary piety, which made him a useful ally for the Romans in their conflict with the Pope and Cardinals, whom, in the year 1143, they had succeeded in driving into exile. He supported the revived Roman Republic, which sought moral sanction in his doctrine. But Adrian IV (Breakspear), taking advantage of the murder of a Cardinal, placed Rome under an interdict during Holy Week. As Good Friday approached, theological terrors seized upon the senate, which made abject submission. By the help of the Emperor Frederick Barbarossa, Arnold was captured; he was hanged, his body was burnt, and his ashes were thrown into the Tiber. Thus it wast proved that priests have a right to be rich. The pope, to reward the Emperor, crowned him in St. Peter’s. The Emperor’s troops had been useful, but not so useful as the Catholic Faith, to which, much more than to secular support, the Church owed both its power and its wealth.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.15

 第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.15

 この教会改革運動は,十一世紀の後半を満たし(盛んであり),大修道院長(Abbots),司教(Bishops)及び大司教(Archbishops)と封建貴族とを分離することに(注:封建貴族は司教等になれない),また,彼らを任命する際に,教皇に発言権を与えることに(注:giving the Pope a voice),大いに成功した。というのは,以前教皇に(任命について)発言権がまったく与えられていなかった時には,教皇は聖職売買の堕落を見つけ出す(聖職売買の罪を犯す)のが普通だったからである。教会改革運動は一般信徒に感銘を与え,教会に対する彼らの敬意を大いに増した。この運動によって独身主義を課すことに成功すると,それは聖職者(僧侶)をよりはっきりと世の中から切り離したので,禁欲主義(の結果)の大部分がそうであるように,彼らの権力衝動を刺激したことは間違いない(疑問の余地がない)。この運動は,指導的なキリスト教聖職者に,伝統的な収賄によって利益を得ていた者以外信じていた,大義に対する道徳的熱意を吹き込み,また,この運動は,この大義を促進する主要な手段として,教皇権(教皇の権力)を著しく増大させた

 宣伝に頼る権力は,この例のように,通常,当初は例外的な勇気と自己犠牲を必要とする。しかし,こうした資質によって尊敬を勝ち得ると,それらは打ち捨てられ,また,その尊敬(心)は,世俗的出世(注:wordly advancement 世俗的な昇進/出世)のための手段として利用される。その後,やがて,尊敬(心)は薄れ,尊敬(心)が確保してきた利点も失われる。時にはそのプロセスには数年かかり、時には何千年もかかるが,本質においては,どちらも常に同じである。

Chapter IV: Priestly Power, n.15

This reform movement, which filled the latter half of the eleventh century, succeeded, to a great extent, in separating Abbots, Bishops, and Archbishops from the feudal nobility, and in giving the Pope a voice in their appointment–for when he had been given no voice he could usually find a taint of simony. It impressed the laity, and greatly increased their reverence for the Church. When it succeeded in imposing celibacy, it made priests more markedly separate from the rest of the world, and no doubt stimulated their power impulses, as asceticism does in most cases. It inspired leading ecclesiastics with moral enthusiasm for a cause in which every one believed except those who profited by the traditional corruption, and as the chief means of furthering this cause it involved a great increase of Papal power.

Power dependent upon propaganda usually demands, as in this case, exceptional courage and self-sacrifice at the start; but when respect has been won by these qualities, they can be discarded, and the respect can be used as a means to worldly advancement. Then, in time, the respect decays, and the advantages which it had secured are lost. Sometimes the process takes a few years, sometimes thousands of years, but in essence it is always the same.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.14

 (カトリック)司祭の独身主義は,ヒルデブランド(注:Hildebrand = Ildebrand イルデブランド=教皇グレゴリウス七世)の専心事項(夢中になっている問題)のうちの一つであった。このことを司祭に強いるにあたって,彼は,聖職者とその妻に対し,しばしば著しく残酷な罪を犯している一般信徒(俗人)たちの賛助(支援)を得た。この(司祭独身主義)運動はもちろん完全には成功しなかった。今日に至るまでスペインでは成功しなかった。しかし,この運動の主要目的の一つは,聖職者の子供(息子)は司祭になることができないという布告によって達成され,それは各地の聖職が世襲となることを防いだのである。

 教会改革運動の最も重要な勝利の一つは,1059年の布告によって,教皇の選出方法が確定したことであった。この布告が出される以前,皇帝とローマの民衆はある一定の明確でない(はっきりしない)権利をもっており,それによって,教皇選出選挙が分裂したり,異議が唱えられたりした。即座にも,争いなしにというわけにもいかなかったけれども,新しい布告(教令)は,教皇選挙の選挙権を枢機卿たちに限定することに成功した。

Chapter IV: Priestly Power, n.14

Clerical celibacy was one of Hildebrand’s preoccupations; in enforcing it, he enlisted the laity, who were frequently guilty of gross cruelty towards priests and their wives. The campaign was not, of course, completely successful –to this day it has not succeeded in Spain- -but one of its main objects was achieved by the decree that sons of priests could not be ordained, which prevented the local priesthood from becoming hereditary.

One of the most important triumphs of the reform movement was the fixing of the method of Papal election by the decree of 1059. Before this decree, the Emperor and the Roman populace had certain ill-defined rights, which made schisms and disputed elections frequent. The new decree succeeded –though not immediately and not without a struggle– in confining the right of election to the Cardinals.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.13

 グレゴリウス七世が教皇の地位についていた期間は,教会改革の一つの重要な時期の最頂点であった。グレゴリウス七世の時代までは,ローマ皇帝は明らかにローマ教皇の上位にあり続けていて,教皇の選出において,皇帝は,少なからず(かなり頻繁に),決然たる声で主張した。アンリ四世の父アンリ三世は,聖職(聖物)売買(の罪)のために,グレゴリウス六世を(教皇の職から)しりぞけ(注:simony 聖職売買:新約聖書使徒行伝第8節中で,魔術師とされたSimon Magusが霊的な力を金で買おうとしたことに由来),ドイツ人教皇クレメンス二世を擁立した。それにもかかわらずアンリー三世は教会と争っていなかった。逆に,彼は高徳な人間であり,当時の最も熱心な聖職者のすべてと同盟していた。アンリ三世が支持し,またグレゴリウス七世が勝利に導いた改革運動は,本質的には,カトリック教会が封建制度に染まりがちになる傾向に対抗するものであった。王や貴族(たち)は,大司教や司教を任命した。大司教や司教は,一般的に,封建貴族(特権/上流階級)に属し,自分たちの地位を非常に世俗的に見ていた。神聖ローマ帝国では,皇帝配下の最大の人々は当初は役人であり,彼らは,その公的な地位のおかげで,土地(領地)を保持していた。しかし,十一世紀の終りまでには,彼らは世襲貴族となり,彼らの財産は相続によって(相続者に)渡った。カトリック教会において(も)同様な危険があり,特に,下級の聖職者(注:secular clergy 修道院に籍をおく regular clergy ではなく,教区に籍を置く聖職者のこと)の場合に危険が大きかった。教会内の改革派は,聖職売買及び「内縁関係」(注:concubinage カトリックの司祭 (priest) が結婚するとこう呼ばれた)という,同種の悪徳を攻撃した。こうした組織的な運動において,彼ら改革派は,熱意と勇気ある献身と処世術(worldly wisdom)を示した。また,彼らは,神聖さによって一般俗人の支持を確保し,雄弁によって,最初は敵対的であった集りを味方に引き入れた(のである)。たとえば,1058年にミラノにおいて,ペトレス・ダミアニ(注:St. Peter Damian, 1007-1072, イタリアの神学者,枢機卿にしてカトリック教会の聖人。11世紀にグレゴリウス七世と教会改革を推進)は,聖職者たちに,ローマの改正法令(布告)に従うように命じた。当初,(ミラノの聖職者がなぜローマの法令に従わなければならないのかと)彼はあまりにも(聖職者たちの)怒りを引き起こしたため,生命さえ危険にさらされた。しかし,ついに打ち勝ち,ミラノのカトリックの司祭(priest)という司祭は,大司教以下(大司教から平司教に至るまで),誰一人として聖職売買の罪を犯してない者はいないということがわかった。全員が告白し,以後従うことを誓った。これらの条件で,彼らは職を奪われなかった。しかし,将来罪を犯した場合には,容赦なく罰せられると明確にされた(のである)。

Chapter IV: Priestly Power, n.13

Gregory VII’s pontificate was the culmination of an important period of ecclesiastical reform. Until his day, the Emperor had been definitely above the Pope, and had claimed, not infrequently, a decisive voice in his election. Henry III, father of Henry IV, had deposed Gregory VI for simony, and had made a German Pope, Clement II. Yet Henry Ill was not in conflict with the Church; on the contrary, he was a saintly man, allied with all the most zealous ecclesiastics of his time. The reform movement which he supported, and which Gregory VII carried to triumph, was directed essentially against the tendency of the Church to become infected with feudalism. Kings and nobles appointed Archbishops and Bishops, who themselves, as a rule, belonged to the feudal aristocracy, and took a very secular view of their own position. In the Empire, the greatest men under the Emperor had been originally officials, who held their lands in virtue of their official position ; but by the end of the eleventh century they had become hereditary nobles, whose possessions passed by inheritance. There was a danger of something similar in the Church, particularly in the lower ranks of the secular clergy. The reforming party in the Church attacked the cognate evils of simony and “concubinage” (as they called the marriage of priests). In their campaign they showed zeal, courage devotion, and much worldly wisdom; by their holiness they secured the support of the laity, and by their eloquence they won over assemblies originally hostile. At Milan in 1058, for example, St. Peter Damian summoned the clergy to obedience to the reforming decrees of Rome ; at first he provoked so much anger that his life was in danger, but at last he prevailed, and it was found that every single priest among the Milanese, from the Archbishop downward, had been guilty of simony. All confessed, and promised obedience for the future ; on these terms, they were not dispossessed, but it was made clear that future offences would be punished without mercy.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.12

 (ローマ教皇)グレゴリウス七世の即位(1073年)に始まる教皇権(Papacy 教皇制)の盛んな時代(great days 栄光の日々)は,(ローマ教皇)クレメンス五世によるアヴィニョン(注:フランスの南東部に位置する都市)における教皇権(教皇制)の確立(1306)まで及ぶ(注:クレメンス五世は,1308年に,ローマにあった教皇庁をアヴィニョンに移したが,以後70年間,教皇庁はフランス王の強い影響下に置かれることとなった)。この期間の勝利は,武力によるものではなく,いわゆる「精神的な」武器,即ち,迷信によって勝ち取られたものであった。この全期間を通して,教皇たちは,外面的には(outwardly)ローマ(の都)の乱暴な貴族たちに導かれたローマ人暴徒のなすがままであった。というのは,ローマ以外のキリスト教徒がどう思おうが,ローマ(市民)がローマ教皇(Pontiff)に敬意を表したことは決してなかったからである。大ヒルデブランド(注:great Hildebrand = Ildebrand イルデブランド=教皇グレゴリウス七世)自身,ローマから逃れている地において,亡くなっている。しかるに,彼は,最大の君主(たち)の鼻をへし折るほどの権力を獲得し,(次の教皇に)手渡した(注:humble はここでは形容詞ではなく,動詞として使われていることに注意)。カノッサ(の屈辱)は,その直接の政治的結果は,アンリー四世(注:Henry IV みすず書房の東宮訳では,ヘンリ四世と訳されているが,これはもちろん英国のヘンリ4世ではなく,フランスのアンリ4世のこと)にとって好都合であったが,後の時代の一つの象徴となった。(ドイツ宰相)ビスマルクも「文化闘争」の間に,「我々はカノッサまで出向かない」(we will not go to Canossa)と言ったが,しかし,彼が自慢したのは時期尚早であった。アンリー四世は ー彼は破門の身であった(ので)- 自分の計画を進めるためには赦罪(absolution 赦免 しゃめん)が必要であったし,グレゴリウス七世は,告解者(注:a penitent 悔俊した者)に対する赦免を拒むわけにはいかなかったけれども,(カトリック)教会との和解の代償として(アンリ4世に)屈伏することを強要した。政治家として,教皇を罵る(注:rail against 罵倒する)ことができたかもしれない。しかし,異端者のみが教皇権(注:power of the keys 天国の門を開閉する鍵の力の意味から)を疑問視し,また,異端は,皇帝フリードリヒ二世が教皇権(教皇制)と争った一番激しい時でさえ,皇帝によって好意をもたれなかった(のである)。

Chapter IV: Priestly Power, n.12

The great days of the Papacy, which begin with the accession of Gregory VII (1073) , extend to Clement V’s establishment of the Papacy at Avignon (=306). Its victories during this period were won by what are called “spiritual” weapons, i.e., by superstition, not by force of arms. Throughout the whole period, the Popes were outwardly at the mercy of the Roman mob, led by the turbulent nobles of the City–for, whatever the rest of Christendom might think, Rome never had any reverence for its Pontiff. The great Hildebrand himself died in exile; yet he acquired and transmitted the power to humble even the greatest monarchs. Canossa, though its immediate political consequences were convenient for the Emperor Henry IV, became a symbol for subsequent ages. Bismarck, during the Kulturkampf, said “we will not go to Canossa” ; but he boasted prematurely. Henry IV, who had been excommunicated, needed absolution to further his schemes, and Gregory, though he could not refuse absolution to a penitent, exacted humiliation as the price of reconciliation with the Church. As politicians, men might rail against the Pope, but only heretics questioned the power of the keys, and heresy was not countenanced even by the Emperor Frederick II at the height of his struggle with the Papacy.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.11

 西暦一千年以後,予想された世界の終わり(注:キリスト教の終末思想)が(西暦1000年に)起こらなかったことがわかると,文明の急速な進歩が起こった。(キリスト教世界の)スペイン及びシシリー(島)のムーア人との接触は,スコラ哲学(注:11世紀以降に西方教会のキリスト教神学者・哲学者等によって確立された学問スタイル。 このスコラ学の方法論にのっとった哲学・神学をスコラ哲学・スコラ神学などと呼んでいる。)の勃興を促した。ノルマン人は,何世紀にもわたって,単なる海賊を働く災難のもと(a mere piratical scourge)であったが,フランスとシシリーで,当時の世界が教える全ての知識を獲得し,無秩序のかわりに,秩序と宗教のための一つの強い勢力(一大勢力)となった。さらに,彼らノルマン人は,自分たちの征服(注:1066年の Norman Conquest など)を合法化(正当化)するために,教皇の権威は役立つことに気づいた。イングランド(英国)は,教会に関する限り(ecclesiastical England),ノルマン人によって,初めて,完全にローマ(帝国)の支配下に入った。一方,神聖ローマ皇帝とフランス王は,自分たちの家臣を支配する(抑える)のに最大限の困難を感じていた。グレゴリウス七世(ヒルデブランド/ローマ教皇)の政治的手腕及び無慈悲な精力によって教皇権の増大を開始したのはそういった状況においてであり,それが次の二世紀の間,即ち12~13世紀を通じて続くこととなったのである(注:1077年にグレゴリウス七世は,神聖ローマ皇帝ハインリッヒを破門して,カノッサの屈辱で屈服させた)。この時期は聖職者(僧侶)の権力の最高の例を与えているので,ある程度詳しく考察してみよう。

Chapter IV: Priestly Power, n.11

After the year 1000, when it was found that the expected end of the world had not taken place, there was a rapid advance in civilization. Contact with the Moors in Spain and Sicily hastened the rise of the scholastic philosophy. The Normans, after being for centuries a mere piratical scourge, acquired, in France and Sicily, whatever the contemporary world had to teach, and became a force for order and religion instead of for disorder ; moreover they found papal authority useful for the purpose of legitimizing their conquests. By them, for the first time, ecclesiastical England was brought completely under the dominion of Rome. Meanwhile, both the Emperor and the King of France were having the greatest difficulty in controlling their vassals. It was in these circumstances that the statesmans and ruthless energy of Gregory VII (Hildebrand) inaugurated the increase of the papal power which continued throughout the next two centuries. As this period affords the supreme example of priestly power, I shall consider it in some detail.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.10

 (紀元5世紀の)蛮族の侵入後,六世紀(600年)の間,西方キリスト教会は,イングランド,フランス,北イタリア及びキリスト教下のスペインを支配していた乱暴で情熱的なゲルマン民族の王侯たちと,互角に戦うことができなかった。これにはいくつか理由がある。東口ーマ皇帝ユスティニアヌスによるイタリア征服は,教皇(制)(ローマ法王の権力)を,一時期,ビザンチン(帝国)(=東ローマ帝国)の一制度と化し,西方での教皇の影響力を大いに減じた高位の聖職者(僧侶)たちは,ほとんど例外なく,封建貴族の出身であり,彼ら聖職者(僧侶)たちは,教皇の干渉に憤慨していたので,遠方の,また,外国人の教皇よりも,むしろ彼ら封建貴族とより一体感を抱いていた。下級の聖職者(僧侶)たちは無知で,大部分,結婚しており,その結果,彼らは,キリスト教会のための闘いを行うよりも(fight the battles),聖職禄(benefices 聖職禄給付きの聖職)を息子に伝えることにより熱心であった。旅行(をすること)は非常に困難であったので,ローマの権威(権力)も,遠い国々ではあまり行使されなかった。広大な地域に初めて効果的な統治を行なったのは,教皇による統治ではなく,カール大帝(シャルルマーニュ大帝)による統治であり,当時の人々は,皆,カール大帝の方が教皇よりも勝っていると思っていた。

Chapter IV: Priestly Power, n.10

For the first six centuries after the Barbarian invasion the Western Church was unable to contend on equal terms with the turbulent and passionate Germanic kings and barons who ruled in England and France, in North Italy and in Christian Spain. For this there were several reasons. Justinian’s conquests in Italy had for a time made the Papacy a Byzantine institution, and had greatly diminished its influence in the West. The higher clergy were drawn, with few exceptions, from the feudal aristocracies, with whom they felt more at one than with a distant and alien Pope whose interferences were resented. The lower clergy were ignorant and mostly married, with the result that they were more anxious to transmit their benefices to their sons than to fight the battles of the Church. Travel was so difficult that Roman authority could not be exerted in distant kingdoms. The first effective government over a large area was not that of the Pope, but that of Charlemagne, whom all his contemporaries regarded as unquestionably the Pope’s superior.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER04_100.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.9

 歴史上知られているあらゆる聖職者(僧侶)の組織のなかで,最も強力かつ重要なものは,カトリック教会である(であった)。私が本章で扱おうとしている(関心を持っている)聖職者(僧侶)の権力は,(それが)伝統的なものである限りのものだけである。従って,カトリック教会の権力が革命的なものであった初期の頃のことは,今のところ,考察しない(ことにする)。ローマ帝国の滅亡の後,カトリック教会は,2つの伝統を代表する幸運をもった。即ち,キリスト教の伝統に加えて,さらにローマ(帝国)の伝統も体現化した(自らに取り入れた)のである。(ローマ帝国外の)蛮族には武力があった。,しかし,(カトリック)教会には,蛮族よりも高度な文明と教育,首尾一貫した非個人的な目的,宗教的希望と迷信的恐怖に訴えかける手段,とりわけ,西欧全体にひろがる唯一つの組織(という強み)を持っていた。ギリシア正教会は,コンスタンチノープルやモスクワの比較的安定した帝国(注:東ローマ帝国とロシア帝国)を相手にしなければならず,完全に国家に従属したものとなってしまった。しかし,西方(西ヨーロッパ)においては,その戦い(教会と国家との闘い)は,盛衰を伴って(with varying fortunes),宗教改革(の時代)まで続き,そうして,今日まで,その闘いは,ドイツとメキシコとスペインにおいては,終わっていない。

The most powerful and important of all priestly organizations known to history has been the Catholic Church. I am concerned in this chapter with the power of priests only in so far as it is traditional; I will not, therefore, at present, consider the early period when the power of the Church was revolutionary. After the fall of the Roman Empire, the Church had the good fortune to represent two traditions : in addition to that of Christianity, it also embodied that of Rome. The Barbarians had the power of the sword, but the Church had a higher level of civilization and education, a consistent impersonal purpose, the means of appealing to religious hopes and superstitious fears, and, above all, the sole organization that extended throughout Western Europe. The Greek Church, which had to deal with the comparatively stable empires of Constantinople and Moscow, became completely subordinate to the State; but in the West the struggle continued, with varying fortunes, until the Reformation, and to this day is not ended in Germany and Mexico and Spain.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.8

 宗教的革新者世俗的革新者も,両者とも -いかなる程度であっても最も永続的な成功をなしえた人たちは,できるだけ伝統に訴えてきており- 彼らの手の内にあるものは何であっても(注:whatever lay in their power 権力の及ぶものは何でも),彼らの制度のうちにある新奇な要素を最小限にするようにしてきた。(彼らの)その通例のやりかたは,多少とも架空(虚偽)の過去を捏造(ねつぞう)して,その(架空の)過去の制度を復活しようとしているふりをすることである。旧約聖書の列王紀略下の第二二章(注:2 Kingd xxii)の中で,聖職者(僧侶)たちが律法の書(the Book of the Law)をどのように「発見した」(理解した)か,また,(エルサレムの?)王はどのようにして律法の書の教えの遵守へ「復帰」させたか,知らされる(語られる)。新約聖書予言者たちの権威に訴えている。再洗礼派は新約聖書に訴えた(新約聖書の権威に訴えた)。英国の清教徒たちは,世俗的な問題においては,ノルマンのイングランド征服以前のイングランドの想像上の制度(の権威)に訴えている。日本人も西暦645年に,「みかど(天皇)」の権力を「復活」し,1868年には,西暦645年の憲法を「復活」した。(注:大日本帝国発布は1889年に公布,翌年施行)一連の非常に多くの反逆者たちは,中世の全期間を通して,ブリュメール(ナポレオンによるクーデター)に至るまで,ローマ帝国の共和制を「復活」した。ナポレオンは,カール大帝(注:西口ーマ帝国を再興してフランク国皇帝となったシャルマーニュ)の帝国を「復活」したが,これは芝居じみていてつまらないと感ぜられたし(注:felt to be a trifle too theatrical),当時の誇張した時代精神(の人々)さえも印象づけることができなかった。ここにあげたものは,最大の革新者たちさえもが伝統のカに対して示した敬意の,無作為に選んだ,ほんの2,3の例に過ぎない。

Both religious and secular innovators –at any rate those who have had most lasting success- have appealed, as far as they could, to tradition, and — have done whatever lay in their power to minimize the elements of novelty in their system. The usual plan is to invent a more or less fictitious past and pretend to be restoring its institutions. In 2 Kings xxii we are told how the priests “found” the Book of the Law, and the King caused a “return” to observance of its precepts. The New Testament appealed to the authority of the Prophets ; the Anabaptists appealed to the New Testament; the English Puritans, in secular matters, appealed to the supposed institutions of England before the Conquest. The Japanese, in A.D. 645, “restored” the power of the Mikado; in I868, they “restored” the constitution of A.D. 645. A whole series of rebels, throughout the Middle Ages and down to the 18 Brumaire, “restored” the republican institutions of Rome. Napoleon “restored” the empire of Charlemagne, but this was felt to be a trifle too theatrical, and failed to impress even that rhetorically minded age. These are only a few illustrations, selected at random, of the respect which even the greatest innovators have shown for the power of tradition.
 出典: Power, 1938.
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