知的戯言の概要(1943) n.49

ある種の独断論を免れるよい方法は、自分自身が属する社会集団とは異なる社会集団(social circles)によって支持されている意見を知るようになる(become aware of 気づく)ことである私は若い頃、フランス、ドイツ、イタリア及び、アメリカ合衆国(など)、国外での暮らすことが多かった。私はこのことは(英国の)島国根性の強さを軽減するにはとても有益であることがわかった。もしあなたが旅行することができないならば、意見の一致しな人々を探しなさい。(また)あなた自身の支持政党でない政党に属する新聞を読みなさい。もし、それらの人々や新聞が気が狂っていて、ひねくれていて(perverse)、そして不道徳である(wicked 邪悪である)と思われるなら、あなたも、彼らからはそう思われるのだということを自分に言い聞かせなさい(remind yourself)。 この意見にかんしては両方の側が正しいのかもしれない。 しかし、両方がまちがっていることはありえない。こうした反省はある種の警戒心を生み出すはずである。

  けれども、外国の慣習を知るようになることは、 常に有益な効果(effect 結果/影響)をもつとは限らない。 17世紀に満州人(the Manchus)が中国を征服した時、] 中国人の間では女性が小さな足をもつこと(纏足 てんそく)が、また満州人の間では男性が辮髪(べんぱつ)にすること(wear pigtails)が慣習となっていた。各々がそれぞれの愚かな慣習をたちきるかわりに、お互いに相手の愚かな慣習をとりいれ、中国人は、1911年の革命において満洲人の支配をふりきるまで、 辮髪を続けた(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.49
A good way of ridding yourself of certain kinds of dogmatism is to become aware of opinions held in social circles different from your own. When I was young, I lived much outside my own country in France, Germany, Italy, and the United States. I found this very profitable in diminishing the intensity of insular prejudice. If you cannot travel, seek out people with whom you disagree, and read a newspaper belonging to a party that is not yours. If the people and the newspaper seem mad, perverse, and wicked, remind yourself that you seem so to them. In this opinion both parties may be right, but they cannot both be wrong. This reflection should generate a certain caution. Becoming aware of foreign customs, however, does not always have a beneficial effect. In the seventeenth century, when the Manchus conquered China, it was the custom among the Chinese for the women to have small feet, and among the Manchus for the men to wear pigtails. Instead of each dropping their own foolish custom, they each adopted the foolish custom of the other, and the Chinese continued to wear pigtails until they shook off the dominion of the Manchus in the revolution of 1911.
Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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知的戯言の概要(1943) n.48

 けれども、多くの事柄(問題)は経験というテスト(検査/試験)にかけることがもっと容易ではない。もしあなたが大部分の人類と同様に、多くのそういった(経験というテストにかけることが容易でない)事柄について情熱的な確信をもっているとしたら 、あなたが自分自身の偏見に気づくこと(気づかせること)ができる方法がいくつかある。もしあなた自身の意見に反するある意見があなたを立腹させるとしたら、それはあなたがそのように考える十分な理由を持っていないことをあなたは意識下では気づいている印(兆候)である。もし誰かが、2かける2は5であるとか、アイスランドは赤道の上にあるとか主張すれば、あなた怒りよりもむしろ哀れみを(相手に)感じる(であろう)。ただし、あなたが算数(算術)あるいは地理をほとんど知らないためにその人の意見があなた自身の反対の確信を揺さぶることがないならばの話である(が)。もっとも殺伐とした(野蛮な)論争は、どちらの側にも十分な証拠がないような事柄に関する論争である。迫害は神学では使用されるが、算数(算術)では使用されない。なぜなら、算数(算術)においては(事実確認できる)知識が存在している、神学においてははただ意見が存在しているだけだからである。それゆえ、あなたが意見の相違に怒りを抱いているのがわかった時にはいつも、用心しなさい。多分、吟味してみれば、あなたの信念が、証拠の保証する以上にまで進んでいることに気づくであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.48
Many matters, however, are less easily brought to the test of experience. If, like most of mankind, you have passionate convictions on many such matters, there are ways in which you can make yourself aware of your own bias. If an opinion contrary to your own makes you angry, that is a sign that you are subconsciously aware of having no good reason for thinking as you do. If some one maintains that two and two are five, or that Iceland is on the equator, you feel pity rather than anger, unless you know so little of arithmetic or geography that his opinion shakes your own contrary conviction. The most savage controversies are those about matters as to which there is no good evidence either way. Persecution is used in theology, not in arithmetic, because in arithmetic there is knowledge, but in theology there is only opinion. So whenever you find yourself getting angry about a difference of opinion, be on your guard; you will probably find, on examination, that your belief is going beyond what the evidence warrants.
 Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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知的戯言の概要(1943) n.47

 人類が陥りやすい種々の愚かな見解を避けるためには、超人間的な才能は必要ではない。2,3の単純な規則で(規則を守るだけで)、あなたは全ての誤りをさけることはできないが、愚かな誤りから逃れることができるであろう。

 もし問題が観察によって決着できるものであるならば、自分自身で観察をしなさい。 アリストテレスは、女性は男性よりの歯の数が少ないと考える過ちを、アリストテレス夫人に、彼が彼女の歯の数を数えている間,口を開けていてくれるよう頼むという単純な工夫によって、さけることができたであろう。(しかし)彼はそうしなかった。自分は(既に)知っていると考えていたからである。実際知っていないのに知っていると考えることは致命的な誤りであり、我々は皆、この誤りをしがちである。私は自分では、 ハリネズミ(hedgehogs)は黒いカブトムシを食べると信じているが、それはハリネズミはカブトムシを食べると人から(これまでずっと)聞いてきたからである。しか、しもし私がハリネズミの習性について一冊の本を執筆していたとしたら、このあまりおいしそうに思えない食事をしているハリネズミを見るまでは、私は立場を明らかにする(commit myself)べきではない。けれども、アリストテレス は、少し注意が不足していた。古代及び中世の著者達は、一角獣(ユニコーン)と火蛇(サラマンダー)についてあらゆることを知っていた(=知っているとされていた)。それらについて一度も見たことがないからという理由で、独断的な陳述をさけることが必要だと考える者は、彼らの内に誰もいなかった。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.47
To avoid the various foolish opinions to which mankind are prone, no superhuman genius is required. A few simple rules will keep you, not from all error, but from silly error. If the matter is one that can be settled by observation, make the observation yourself. Aristotle could have avoided the mistake of thinking that women have fewer teeth than men, by the simple device of asking Mrs. Aristotle to keep her mouth open while he counted. He did not do so because he thought he knew. Thinking that you know when in fact you don’t is a fatal mistake, to which we are all prone. I believe myself that hedgehogs eat black beetles, because I have been told that they do; but if I were writing a book on the habits of hedgehogs, I should not commit myself until I had seen one enjoying this unappetizing diet. Aristotle, however, was less cautious. Ancient and medieval authors knew all about unicorns and salamanders; not one of them thought it necessary to avoid dogmatic statements about them because he had never seen one of them. Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950 More info.: https://russell-j.com/cool/UE_07-470.HTM

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知的戯言の概要(1943) n.46

 国民性についての一般化は、女性についての一般化とまったく同様によくあることであり、また、まったく同様に、根拠のないものである(unwarranted)。1870年までドイツ人は眼鏡をかけた学者先生の(ような)国民であり、あらゆるものを自分達の内なる意識から発展させ、外部の世界(外界)についてはほとんど知らない国民である、と考えられていた(訳注:観念的な国民であり、頭でっかちということ)。しかし、、1870年より以降(訳注:1871年以後/1871年にプロイセンを中心としたドイツ帝国成立)はこの概念(考え)はきわめて急角度に修正さなければならなかった。フランス人は大部分の米国人から、絶えず好色な不義密通にふけっていると思われているようである。(たとえば)ウォルト・ホイットマン(Walter Whitman, 1819-1892:米国の民衆詩人で詩集『草の葉』は有名)は、彼のカタログの一つのなかで、「密かに(on the sly)長椅子(settee)で姦通するフランス人カップル」のことをのべている。
(訳注 catalogue:ホイットマンはその多くの詩において過剰とも言うべき物事の羅列-いわゆる「カタログ」と呼ばれる文体を試みているとのことです/「on the sly settee」という表現がよく理解できず、ChatGPTに質問してみましたが、納得のいく回答がありませんでした。普通の文ではなく、詩の中の一部なので、補って想像をたくましくするようにするよりなさそうです。「長椅子でフランス人カップルがひっそりと不倫にふけているというシチュエーションであることは確かなようです。) フランスにいってすむアメリカ人は、家庭生活の強さ(家族の絆の強さ)に驚き、もしかすると(奔放な恋愛を求めて渡仏したフランス人は)失望するかも知れない。 ロシア革命以前、ロシア人は神秘的なスラブ魂をもっていると信じられており、。このスラブ魂は、(一方では)ロシア人に普通の分別ある行動をとることができないようにしたけれども、(他方では)ロシア人に、より実際的な国民が到達することを望むことがでできない一種の深い知恵を与えた、と信じられていた。(しかし)突然、全てのものが変わった。(即ち)(革命後のロシアでは)神秘主義は禁制(タブー)となった。そしてただ最も世俗的な理想だけが許容された(were tolerated)。一つの国民か らみて、他国民の国民性とみえるものは、少数の目立った個人か、あるいはたまたま権力を持つようになる階級によるものだ、というのが真相である。それゆえ、この問題についての一般化は何らかの重大な政治的変化によって完全にくつがえされやすいのである。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.46
Generalizations about national characteristics are just as common and just as unwarranted as generalizations about women. Until 1870, the Germans were thought of as a nation of spectacled professors, evolving everything out of their inner consciousness, and scarcely aware of the outer world, but since 1870 this conception has had to be very sharply revised. Frenchmen seem to be thought of by most Americans as perpetually engaged in amorous intrigue; Walt Whitman, in one of his catalogues, speaks of “the adulterous French couple on the sly settee.” Americans who go to live in France are astonished, and perhaps disappointed, by the intensity of family life. Before the Russian Revolution, the Russians were credited with a mystical Slav soul, which, while it incapacitated them for ordinary sensible behavior, gave them a kind of deep wisdom to which more practical nations could not hope to attain. Suddenly everything was changed: mysticism was taboo, and only the most earthly ideals were tolerated. The truth is that what appears to one nation as the national character of another depends upon a few prominent individuals, or upon the class that happens to have power. For this reason, all generalizations on this subject are liable to be completely upset by any important political change.
Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943)
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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知的戯言の概要(1943) n.45

 女性に対する、男女それぞれの、根深い不合理な態度は、小説のなかに – 特に駄作の(くだらない)小説のなかに- 見ることができるだろう(見られるだろう)。男によって書かれた下らない小説(駄作)のなかには、その作者が愛している女性が登場するが、彼女は、通常は、あらゆる魅力を備えているが、いくらか頼りなく、そうして(従って)男性による保護を必要とする。けれども、時折、シェイクスピアのクレオパトラのように、その女性は激しい憎悪の対象であり、非常に絶望的に邪悪であると考えられる。(小説の中の)ヒロイン(女主人公)を描写するにあたって、男性の作家は観察をもとにして書くのではなく、単に彼自身の情緒を(表現することを)目指すにすぎない。
訳注:objectives」を名詞としてとると、この一文(In portraying the heroine, the male author does not write from observation, but merely objectives his own emotions.)は何か単語が脱落してているのではないかと思えてしまいます。手元にある大きな英和辞典や英英辞典を見ても「objective」には名詞と形容詞の意味しか載っていない。そこで、ChatGPTに「objective」を動詞として使う例を尋ねると、以下の回答がありました。
【”Objective”は一般的に形容詞として使用されることが多いですが、一部の文脈では動詞としても使用されることがあります。その場合、“objective”は目標を立てる、目指す、または客観的に評価するなどの意味を持ちます。 例文: We need to objective our goals before we start working on the project.(プロジェクトに取り組む前に、目標を立てる必要があります。)】
 need to の後ろに来るこの例なら「objective」が動詞としてつかわれているのではないかと想像できますが、この例ではなかなか気づけません。】

 (ヒロイン以外の)その他の女性の登場人物(characters)については、彼はもっと客観的であり、彼は自分の手帳(創作ノート/メモ帳)に頼ることさえあるかもしれない。 しかし、彼(作者)が恋している時には、彼の情熱が彼と彼の熱愛対象との間に霧をかけるのである。 女性の小説家にも また、彼女の小説のなかに二種類の女性を登場させる。一種類は彼女自身で、性的魅力があり、優しく、邪悪な人間にとっては肉欲の対象、善良な人間にとっては愛情の対象であり、感じやすく、心は気高く、そうしていつも誤解される(のである)。もう一種類は、自分以外の全ての女性によって示されるものであり、通常は(多くの場合)けちで、意地が悪く、残忍で、人を騙す人間として描かれる。(訳注:ラッセルは、あくまでも駄作=三文小説の場合について言っています。)先入観なく女性を見ることは、男性にとっても女性にとっても容易なことではないように思われるであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.45 T
he deeply irrational attitude of each sex toward women may be seen in novels, particularly in bad novels. In bad novels by men, there is the woman with whom the author is in love, who usually possesses every charm, but is somewhat helpless, and requires male protection; sometimes, however, like Shakespeare’s Cleopatra, she is an object of exasperated hatred, and is thought to be deeply and desperately wicked. In portraying the heroine, the male author does not write from observation, but merely objectives his own emotions. In regard to his other female characters, he is more objective, and may even depend upon his notebook; but when he is in love, his passion makes a mist between him and the object of his devotion. Women novelists, also, have two kinds of women in their books. One is themselves, glamorous and kind, and object of lust to the wicked and of love to the good, sensitive, high-souled, and constantly misjudged. The other kind is represented by all other women, and is usually portrayed as petty, spiteful, cruel, and deceitful. It would seem that to judge women without bias is not easy either for men or for women.  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7: More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html

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知的戯言の概要(1943) n.44

 我々(男性)の最も強い愛と憎みの対象としての女性は複雑な情緒をかきたてるが、これらの情緒は、諺の「知恵」の中に具現化されている。
 ほとんど皆、男女とも、女性の問題に関して何らかの全く正当化できない一般化を自分自身に許している(allows himself or herself)。既婚の男は、この問題にかんして一般化する際、自分の妻によって判断する。女性は自分自身によって判断する。男性の女性観の歴史を執筆することは面白いことだろう。古代においては、男性の(女性に対する)優位が疑問とされず、キリスト教倫理がまだ知られていなかった時には、女性は害がないものであるがかなり愚かである[とされ〕、女性についてまじめに考える男はいくらか軽蔑された。プラトンは、劇作家が女性の役を創作する際に、女性を模倣(マネ)なければならないのは、演劇に対する重大な異議(a grave objection)であると考えている。キリスト教の到来とともに女性は一つの新しい役割を得た。それは誘惑する女(the temptress)という役割である。しかし同時に、女性はまた聖人にもなることもできることを発見した(自己発見)。ビクトリア朝時代には、女性は、誘惑する女性としてよりも、聖人としての方が、ずっと強調された(訳注:ビクトリア女王が国王だったことが影響したか?)。ビクトリア朝時代の男は自分は誘惑されやすいなどと認めることはできなかった。女性の(男性よりも)優れた美徳は、女性を(汚い)政治から遠ざけておく理由の一つにされた。政治の世界は高尚な美徳は不可能であると考えられたのである。しかし、初期のフェミニスト達(女権拡張論者達)はこの論法をひっくり返し(逆にして)、女性の政治参加は政治を高尚なものにするだろうと主張した。それが幻想であることがわかってからは、女性の優れた美徳のことはあまり話題にされなくなったが、いまだなお、、女は誘惑するものだという、修道僧的な女性観に固執している男性が多数存在している。女性達自身は、大部分、自らを分別ある性(sensible sex)であると考え、 男達の衝動的な愚行から生じる害を取り除くことが自分達の役割だと考えている。私としては、 女性についてあらゆるの一般化を、それが女性に対して好意あるものであろうとなかろうと、また男性の側からのものであろうと女性の側からのものであろうと、あるいは昔のものであろうと現代のものであろうと、いずれも信頼しない。いず 不足からするものな のであろうと、いずれも信頼しない。これらはすべて同様に、経験不足から生じるものだと言うべきだあろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.44
Women, as the object of our strongest love and aversion, rouse complex emotions which are embodied in proverbial “wisdom.” Almost everybody allows himself or herself some entirely unjustifiable generalization on the subject of woman. Married men, when they generalize on that subject, judge by their wives; women judge by themselves. It would be amusing to write a history of men’s views on women. In antiquity, when male supremacy was unquestioned and Christian ethics were still unknown, women were harmless but rather silly, and a man who took them seriously was somewhat despised. Plato thinks it a grave objection to the drama that the playwright has to imitate women in creating his female roles. With the coming of Christianity woman took on a new part, that of the temptress; but at the same time she was also found capable of being a saint. In Victorian days the saint was much more emphasized than the temptress; Victorian men could not admit themselves susceptible to temptation. The superior virtue of women was made a reason for keeping them out of politics, where, it was held, a lofty virtue is impossible. But the early feminists turned the argument round, and contended that the participation of women would ennoble politics. Since this has turned out to be an illusion, there has been less talk of women’s superior virtue, but there are still a number of men who adhere to the monkish view of woman as the temptress. Women themselves, for the most part, think of themselves as the sensible sex, whose business it is to undo the harm that comes of men’s impetuous follies. For my part I distrust all generalizations about women, favorable and unfavorable, masculine and feminine, ancient and modern; all alike, I should say, result from paucity of experience. Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7: More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html       https://russell-j.com/cool/UE_07-440.HTM

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知的戯言の概要(1943) n.43

 避妊に対する最も一般的な反論は、それが「自然」に反しているということである。(なんらかの理由で、我々は独身は自然に反すると言うことは許されない。私が考えることのできる唯一の理由は、独身ということが新しいものではないということである。=注:長い間存続してきたものは存続する理由があるということ)。マルサス(1766-1834:人口論で有名な英国の経済学者)は人口増加を抑制する方法として三つだけ考えた(注:”see”:検討する、考える)。(即ち)道徳的抑制(moral restraint)、悪徳(vice,)、及び貧窮(misery)の3つである。道徳的抑制は恐らく 大規模に実施されることはないと、マルサスも認めた。「悪徳」即ち、避妊(産児制限)は、彼は牧師として、嫌悪感をもって眺めた。残るは貧窮である。快適な牧師館(parsonage)のなかで、彼は、人類の大多数の貧窮を平静な心で(with equanimity)瞑想し、そうして、彼は、それを緩和しようという希望を持つ社会改革家の誤りを指摘した。現代の神学の立場から避妊(産児制限)に反対する人達は、 (マルサスに比べて)もっと不誠実である。彼らは、食べ物を供給されるべき口(人口)がたとえどれだけ多くても、神は与えられるだろうと考えているふりをする。彼らは次の事実を無視している。即ち、神はこれまで決してそうしてこなかった(人々に食べ物を与えてこなかった)し、それどころか、人類を定期的に飢饉にさらされ、それによって何百万の人々が餓死した(という事実である)。彼らは、もし自分達が信じてることを(素直に)言っているのなら、神がこれまで必要ないと考えてきた(ところの)バン(loaves)と魚について、今後ずっと神は奇蹟を働かせ続けるだろうと、彼らは考えていると見なされなければならない(must be deemed to hold )。あるいは、もしかすると(perhaps )彼らは、この世(下界)における苦しみは重要ではない、(即ち)大事なのあの世(来世)である、と言うかも知れない。彼ら自身の 神学によって(神学によれば)、彼らが避妊(産児制限)に反対したために生まれてくることになるであろう子供達の大部分は(彼らの神学によれば)地獄にゆくことになるであろう。それゆえ、かれらが地上の生活の改善(amelioration)に反対するのは、何百万の人間が(地獄での)永遠の拷問を受けるのは善いことだと彼らが考えるからだと想像せざるをえない。彼らとくれべればマルサスの方が慈悲深いように見える。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.43 The commonest objection to birth control is that it is against “nature.” (For some reason we are not allowed to say that celibacy is against nature; the only reason I can think of is that it is not new.) Malthus saw only three ways of keeping down the population; moral restraint, vice, and misery. Moral restraint, he admitted, was not likely to be practised on a large scale. “Vice,” i.e., birth control, he, as a clergyman, viewed with abhorrence. There remained misery. In his comfortable parsonage, he contemplated the misery of the great majority of mankind with equanimity, and pointed out the fallacies of reformers who hoped to alleviate it. Modern theological opponents of birth control are less honest. They pretend to think that God will provide, however many mouths there may be to feed. They ignore the fact that He has never done so hitherto, but has left mankind exposed to periodical famines in which millions died of hunger. They must be deemed to hold — if they are saying what they believe — that from this moment onward God will work a continual miracle of loaves and fishes which He has hitherto thought unnecessary. Or perhaps they will say that suffering here below is of no importance; what matters is the hereafter. By their own theology, most of the children whom their opposition to birth control will cause to exist will go to hell. We must suppose, therefore, that they oppose the amelioration of life on earth because they think it a good thing that many millions should suffer eternal torment. By comparison with them, Malthus appears merciful. Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7: More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html       https://russell-j.com/cool/UE_07-430.HTM

fear of others と fear for others の違い

A woman with medium length red hair, wearing a pink shirt, light blue leggings and gray shoes, kneels on a kneeler with soft beige cushion, as she closes and bows her head to pray, both hands together in praying position and resting on top of a beige confessional, that is separating her from a seated priest with balding gray hair, wearing a black clergy gown, white collar, a violet stole worn around his neck, black pants and black shoes, both of his eyes are closed in concentration

以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の幸福論(The Conquest of Happiness)に出てくる英文と、DeepL、Google 翻訳、及び、私による日本語訳(合計3種類)です。
このなかで、「Fear for others」を、DeepL、Google 翻訳も、「他者への恐怖」と日本語訳していますが、これは誤訳と思われます。「Fear for others」は「他人に対し恐怖心を抱いている」のではなく、「他人について心配している」あるいは「他人に対して不安を抱いている」というのであり、従って、「他人を心配する(こと)」(注:fear 心配する)と訳すべきだと考えますが、どうでしょうか?
つまり、「fear of A」は「Aの恐れ」「Aを恐れること」(ここでは fear は名詞 noun)であるのに対し、「fear for A」は「Aを心配する」(ここでは fear は動詞verb)ということではないでしょうか?
大学受験予備校の英語の講師の立場で、わかりやすく説明してください。

<ラッセルの英文>
Fear for others is only a shade better than fear for ourselves. Moreover it is very often a camouflage for possessiveness. It is hoped that by rousing their fears a more complete empire over them can be obtained. This, of course, is one of the reasons why men have liked timid women, since by protecting them they came to own them.

<<DeepLによる日本語訳>>
他者への恐怖は、自分への恐怖に比べれば、ほんの少しましです。しかもそれは、独占欲のカモフラージュであることが非常に多い。恐怖心を煽ることで、より完全な支配を得ようとするのである。もちろん、これは男性が臆病な女性を好む理由の一つであり、彼女たちを守ることによって、彼女たちを所有するようになったからである。

<<Google 翻訳による日本語訳>>
他人への恐怖は、自分自身への恐怖よりもわずかに優れています。 さらに、それは独占欲をカモフラージュする場合が非常に多いです。 彼らの恐怖を呼び起こすことによって、彼らに対するより完全な帝国が得られることが期待されています。 もちろん、これが、男性が気弱な女性を好きになる理由の 1 つです。なぜなら、女性を守ることで彼女を自分のものにするようになるからです。

<<私の日本語訳>>
他人に対する心配(他人のために心配すること)は、自分自身について心配するよりも、ほんの少しだけ(only a shade)ましなだけである。さらに、それ(他人に対する心配)は、しばしば、所有欲のカムフラージュになっている。(即ち)他人の不安をかき立てることによって、他人をもっと完璧に支配する力を得られると期待されるからである。これは、これまで男性が臆病な女性を好んできた理由のひとつであることは言うまでもない。なぜなら、男性は女性を保護する(守る)ことによって女性を所有するに至ったからである。

<ChatGPTの回答
Fear for others」という表現は、「他人に対して心配や不安を抱く」という意味です。日本語で「恐怖」と訳されることがありますが、正確には「恐怖」ではなく、「心配」や「不安」といった感情です。

Fear of A」という表現は、「Aを恐れること」と訳されます。ここでの「fear」は名詞として使われています。例えば、「fear of heights(高所恐怖症)」のように使われます。

一方、「fear for A」は、「Aを心配する」と訳されます。ここでの「fear」は動詞として使われています。例えば、「I fear for his safety(彼の安全を心配している)」のように使われます。

したがって、Bertrand Russellの文で言及されている「Fear for others」は、「他人について心配している」という意味です。これは「他人への恐怖」と訳されることがありますが、正確には誤解を招く表現です。

その文脈では、他人を心配することが自己の独占欲を隠すためのカムフラージュであると述べられています。また、男性が臆病な女性を好む理由の一つは、女性を守ることで彼女たちを所有するようになるからだとも述べられています。

したがって、「Fear for others」は、「他人を心配する(こと)」と訳すのが適切です。

ChatGPTとの対話ー”a calm autumnal sadness”

 以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)が親しい米国人女性(初婚相手の妻の友人)の Lucy Donnelly に出した手紙の一節(英文)と、DeepL、Google 翻訳、みんなの自動翻訳、及び私による日本語訳(合計4種類)です。
このなかで、「a calm autumnal sadness」(穏やかな秋の悲しみのニュアンスがあまり理解できません。「穏やかな秋の悲しみ」ですので、「物悲しいけれど穏やかである(相手に対する優しさや哀れみをもった様)」というニュアンスを込めているのでしょうが、日本語ではこのような表現はあまりしないと思われます。イギリス英語ではこのような表現をけっこうするのでしょうか? わかりやすく説明してください。また、「would put 」は、憎しみを持つ人が「意志」の力で「穏やかな秋の悲しみ」を生み出すのではなく、「自然に」でてくるものと考えられますので、その点も注意してください。

<ラッセルの英文>
Wherever one finds oneself inclined to bitterness, it is a sign of emotional failure: a larger heart, and a greater self-restraint, would put a calm autumnal sadness in the place of the instinctive outcry of pain.
(Source: The Collected Papers of Bertrand Russell: Contemplation and Action, 1902-1914)

<<DeepLによる日本語訳>>
恨み辛みに傾くのは、感情の失敗の証である。もっと大きな心で、もっと自制心があれば、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかな秋の悲哀を感じることができるだろう。

<<Google 翻訳による日本語訳>>
人が苦い思いをするところはどこでも、それは感情的な失敗の兆候です。より大きな心とより強い自制心があれば、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみが置き換わるでしょう。

<<みんなの自動翻訳による日本語訳>>
自分が苦々しい思いをしそうなところはどこでも、それは感情的な失敗のしるしである。より大きな心とより大きな自制は、痛みの本能的な叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみをもたらすだろう。

<<私の日本語訳>>
人が他人に対し憎しむを抱く時は常に、それは感情的な失敗の印(兆候)です。
もっと広い心やもっと自制心があれば、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみに置き換わることでしょう。
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ChatGPTからの回答
「a calm autumnal sadness」(穏やかな秋の悲しみ)という表現は、イギリス英語において比較的一般的な表現です。この表現は、物悲しさや悲しみを伴いながらも、穏やかで静かな感情を指します。一般的には、大人の深い感慨や哀愁を表現するために使われます。イギリス文学や詩の中でよく見られる表現です。

「would put」は、自然に生じるものを指しています。この文脈では、自然に穏やかな秋の悲しみが現れるという意味です。憎しみを持つ人が意図的に穏やかな秋の悲しみを生み出すのではなく、より大きな心や自制心があると自然に現れる感情として描かれています。

したがって、この文脈では、「a calm autumnal sadness」は、物悲しいけれども穏やかで静かな感情を表現しています。それは、より大きな心と自制心を持つことによって自然に現れるものとされています。この表現は、イギリス英語の文学や詩で頻繁に使われるものであり、日本語では直訳するとしっくりこない表現かもしれませんが、深い感慨や哀愁を含む穏やかな悲しみを表現するために使われます。
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私からの質問2
それではそのニュアンスを込めて、日本語らしい、わかりやすい日本語訳をお願いします。

ChatGPT2
恨みや辛みに傾くことは、感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心と自制心を持つことで、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかで優しい秋の悲しみが湧いてくるでしょう。
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私からの質問3
「恨み」という日本語訳はいいですが、「辛み」という表現はわかりにくいと思われます。もっとわかりやすい約仕方はないでしょうか?

ChatGPT3
申し訳ありません、誤解を招く表現を使ってしまいました。おっしゃる通り、「辛み」は適切な表現ではありませんでした。以下に、よりわかりやすく表現した日本語訳を提案します。

憎しみや怨みを感じる時は、感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心と自制心を持つことで、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。

こちらの訳では、「憎しみや怨み」を強調し、「穏やかでやさしい秋の悲しみ」を表現しています。より分かりやすくなったかと思います。ご指摘いただき、ありがとうございました。
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私からの質問4
私の次の日本語訳を論評してください。

「人が他人への憎しみ(bitterness)に傾いていると気づく時は常に、それは感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心ともっと強い自制心があれば、人には、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。」

ChatGPT4
あなたの提案された日本語訳は非常によくまとまっており、原文のニュアンスを的確に捉えています。以下に、訳文の要点を論評します。

「人が他人への憎しみ(bitterness)に傾いていると気づく時は常に、それは感情的な失敗の兆候です。」
この部分では、「憎しみ」に傾くことを感情的な失敗の兆候として捉えており、非常に適切に表現されています。

「もっと大きな心ともっと強い自制心があれば、人は、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかなでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。」
この部分では、大きな心と強い自制心の重要性を強調し、それによって穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれる可能性を示唆しています。また、「本能的な痛みの叫びの代わりに」という部分も、原文の意図を上手く反映しています。

全体として、原文のニュアンスを正確に伝えつつ、分かりやすく日本語に訳されていると感じます。素晴らしい訳文です。←ヨイショ!(笑)

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知的戯言の概要(1943) n.42

「自然」および「自然的」なものへの信念(信仰)多くの間違いの源泉である。 それは、医学(医術)において、かつては常に強力に作用しており、ある程度はいまだに作用している。人体は、何もしないでも、自らの病気を治す一定の力(自然治癒力)をもっている。 小さい切傷は通常(なにもしなくても)治り、風邪はどこかにいってしまい(治り)、重い病気さえ、時折、治療せずに消えてしまう(治る)ことがある。しかしこれらの場合でさえ、自然(の治癒力)を支援することは大変望ましい(ことである)。 消毒しなければ敗血症(septic)になるかも知れないし、風邪は肺炎(pneumonia)になるかもしれず、また重い病気も、僻地の探検家や旅行者によって手当てもなしに放っておかれるだけで、彼らに他に選択肢はまったくない(彼らはどうしようもない)。「自然である」 と思われるようになった多くの慣行(行為)、たとえば、衣服を着ること洗濯することは、当初は、「不自然もの」であった。人間は、服を着るようになる前、寒い気候のなかで生きることは不可能だと気づいたに違いない。ほんの少しの(a modicum of )清潔さもないところでは、人々(住民)はチフスなど様々な病気に苦しむが、西欧諸国民は(今では)それらの病気を免れている(exempt 免除されて)。ワクチン接種(種痘)は、「不自然」だとして反対された(現在でも一部の人々によって反対されている)。しかし、そのような反対はまったく首尾一貫したものではない。というのは、折れた骨は「自然な」振る舞いによって元通りにすることができるとは誰も思わないからである。料理された食物を食べることは「不自然」である。家を暖房することもそうである。(古代)中国の哲学者の老子は、ほぼ紀元前六百年頃の人と言い伝えられているが、彼は(人口の)道路、橋および舟を「不自然な」ものとして反対した。そうして、そのような人間の造った機械的なものを嫌悪して(in his disgust)中国をさり、西方の未開人のなかで暮らした。あらゆる文明の進歩は、それが新しいものであるうちは、、不自然なものとして非難されてきた(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.42
Belief in “nature” and what is “natural” is a source of many errors. It used to be, and to some extent still is, powerfully operative in medicine. The human body, left to itself, has a certain power of curing itself; small cuts usually heal, colds pass off, and even serious diseases sometimes disappear without medical treatment. But aids to nature are very desirable, even in these cases. Cuts may turn septic if not disinfected, colds may turn to pneumonia, and serious diseases are only left without treatment by explorers and travellers in remote regions, who have no option. Many practices which have come to seem “natural” were originally “unnatural,” for instance clothing and washing. Before men adopted clothing they must have found it impossible to live in cold climates. Where there is not a modicum of cleanliness, populations suffer from various diseases, such as typhus, from which Western nations have become exempt. Vaccination was (and by some still is) objected to as “unnatural.” But there is no consistency in such objections, for no one supposes that a broken bone can be mended by “natural” behavior. Eating cooked food is “unnatural”; so is heating our houses. The Chinese philosopher Lao-tse, whose traditional date is about 600 B.C., objected to roads and bridges and boats as “unnatural,” and in his disgust at such mechanistic devices left China and went to live among the Western barbarians. Every advance in civilization has been denounced as unnatural while it was recent.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
https://russell-j.com/cool/UE_07-420.HTM

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