神秘主義者たちの確信(certainty)や彼らの部分的な相互一致は,事実問題に関する彼らの主張を受容れる決定的な理由にはまったくならない。科学者は,自分が観察したことを他人に見せたい時には,顕微鏡や望遠鏡を用意する。即ち,外界に対しては変化を加えるが,観察者に対してはただ普通の視力を要求するだけである。これに反し,神秘主義者は,断食,呼吸訓練,あるいは外界の観察から注意深く身を引くこと(注:この世で起こることは仮象/現象にすぎないので惑わされないようにとの理屈)により,観察者自身の中に変化が生れることを求める。(そのような訓練に反対し,神秘的な悟りには人為的に達することはできないと考える者もいる。科学的観点から見る時,そのような場合(case 事例)は,ヨガに信頼を置く人々の場合(事例)よりも検証が困難になる。しかし,断食や禁欲的生活が有益であることはほとんど全ての人々が同意見である)。我々は皆,阿片(opium)やハッシッシ(hashish 大麻製品の一種)やアルコールが観察者に一定の影響を与えることを知っているが,これらの効果は褒められるものとは思わないので,我々が今考えている宇宙の理論においては考慮しないでおく。神秘主義者たちは,時には真理の一片を明らかにするかも知れない。しかし,我々はそれらを一般的な知恵の源泉とはみなさない。(酔って)蛇を見る酔っぱらいは,後に(注:酔いが冷めてから) -それと似通った(←まったく別物ではない)信念がバッカス崇拝を生み出したに違いないのかも知れないが- 他の人には隠されている実在が(自分に)啓示されたとは想像しない。ウイリアム・ジェームス(William James, 1842-1910:アメリカ合衆国の哲学者,心理学者)が語ったように(原注:W.『宗教的経験の諸相』参照),今日でも,笑気ガスによって生み出される陶酔(状態)は,通常は隠されている真理を啓示すると考えている人々がある。科学的見地からは,ほとんど何も食べずに天国を見る人と酔いどれて蛇を見る人とを区別することはできない(注:現代では脳スキャナーで両者の「違い」をある程度視認できる)。どちらも異常な身体的状態にあるので,異常な(いろいろな)知覚を持つ。正常な知覚は,生存競争に役立つものでなければならないので,事実とある一定の対応(物)を持っていなければならない。しかし,異常な知覚においては,そのような対応(物)を期待する理由はまったくない。従って,異常な知覚の証言が正常な知覚の証言に優ることはありえない。 神秘主義的情緒は -正当な理由(根拠)のない信念(unwarranted beliefs)から解放され,人々に通常の生涯(人生)の仕事(ordinary business of life)から全く手を引かせてしまうほど極端なものでない場合,- 非常に高い価値を持つものを与えるかも知れない。(参考:All of the animals except for man know that the principle business of life is to enjoy it. 人間以外の動物は生涯の主な仕事は,それを楽しむ事だと知っている(サミュエル・バトラー))-それは,高度な形態においてであるが,冥想によって与えられるものと同じである。(心の)寛大さ(breadth),穏やかさ(calm)及び深さ(profundity)は全てこのような情緒に源泉を持っているかも知れない。そこに於ては,差当り,すべての我欲は死に,心は宇宙の広大さの鏡となる。このような経験を持ち,それが宇宙の本性と不可避的に結びついていると信じている人々は,おのずからこのような主張を固持する。私はこのような主張は本質的なものでないし,それらが真理であると信ずべき理由もないと思う。私は科学の方法以外に真理に達する方法を認めることは出来ない。しかし,感情の領域に於ては,宗教にまで高まる経験の価値を否定しない。それらは,多くの善なるものへ導くと同時に,誤った信仰と結びつくことにより多くの悪へも導いてきた。このような誤った結びつきから解放される時,善い信仰だけが残ることが期待されるにちがいない。
Chapter 7: Mysticism, n.10
The certainty and partial unanimity of mystics is no conclusive reason for accepting their testimony on a matter of fact. The man of science, when he wishes others to see what he has seen, arranges his microscope or telescope ; that is to say, he makes changes in the external world, but demands of the observer only normal eyesight. The mystic, on the other hand, demands changes in the observer, by fasting, by breathing exercises, and by a careful abstention from external observation. (Some object to such discipline, and think that the mystic illumination cannot be artificially achieved ; from a scientific point of view, this makes their case more difficult to test than that of those who rely on yoga. But nearly all agree that fasting and an ascetic life are helpful.) We all know that opium, hashish, and alcohol produce certain effects on the observer, but as we do not think these effects admirable we take no account of them in our theory of the universe. They may even, sometimes, reveal fragments of truth ; but we do not regard them as sources of general wisdom. The drunkard who sees snakes does not imagine, afterwards, that he has had a revelation of a reality hidden from others, though some not wholly dissimilar belief must have given rise to the worship of Bacchus. In our own day, as William James related,(* See his Varieties of Religious Experience) there have been people who considered that the intoxication produced by laughing-gas revealed truths which are hidden at normal times. From a scientific point of view, we can make no distinction between the man who eats little and sees heaven and the man who drinks much and sees snakes. Each is in an abnormal physical condition, and therefore has abnormal perceptions. Normal perceptions, since they have to be useful in the struggle for life, must have some correspondence with fact ; but in abnormal perceptions there is no reason to expect such correspondence, and their testimony, therefore, cannot outweigh that of normal perception. The mystic emotion, if it is freed from unwarranted beliefs, and not so overwhelming as to remove a man wholly from the ordinary business of life, may give something of very great value – the same kind of thing, though in a heightened form, that is given by contemplation. Breadth and calm and profundity may all have their source in this emotion, in which, for the moment, all self-centred desire is dead, and the mind becomes a mirror for the vastness of the universe. Those who have had this experience, and believe it to be bound up unavoidably with assertions about the nature of the universe, naturally cling to these assertions. I believe myself that the assertions are inessential, and that there is no reason to believe them true. I cannot admit any method of arriving at truth except that of science, but in the realm of the emotions I do not deny the value of the experiences which have given rise to religion. Through association with false beliefs, they have led to much evil as well as good ; freed from this association, it may be hoped that the good alone will remain.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-100.HTM
月別アーカイブ: 2021年2月
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.9
今までずっと私は,我々は陪審員団であると想定し,神秘主義者たちの証言を傾聴し,そうして,彼らの証言を受け入れるか拒否するかを決めようと試みてきた。彼らが感覚世界の実在を否定する時,それがもし(実際の)法廷において普通に使われる「実在」(という言葉)を意味するものととるとしたら,彼らの主張を拒否するのをまったく躊躇すべきではない。なぜなら,我々はそうした主張は(神秘主義者たち以外の)あらゆる他の証言と矛盾し(注:run counter to ~に逆行する),また,彼らが(瞑想状態から) 日常の状態(mundane moments)に戻った時(瞬間)の彼ら自身の証言にも反しているのに気づく(発見する)からである。従って,我々は(本当は彼らが何を言おうとしているのか)何か他の意味を探さなければならない。神秘主義者が「実在」(という言葉)を「仮象(現象)」(という言葉)と対照させる時,「実在」という言葉は論理的な意味ではなく,情緒的な意義(significance)を持っていると私は考える。それ(「実在」)は,ある意味で,重要なことを意味している。時間は「実在しない(架空のものである)」と言われる時,ある意味において,またある場合において,創造主(神)が -もし創造主が存在したなら- 宇宙(この世界)を創造する決意をした時に心に抱いたよう,に一つの全体としての宇宙を抱くことは重要である。そのように宇宙が抱かれる場合(構想される場合),全ての(創造の)過程は一つの完結せる全体の中にある(注:見かけ上の時間も同時に創造)。(即ち)過去,現在,未来は全て,ある意味で,同時に存在し,現在は、我々の通常の認識方法では持っている(ように見える)あの優れた実在(性)(that pre-eminent reality)を持っていない(のである)。もしこのような解釈が受け入れられるのなら,神秘主義は情緒を表している(表現している)のであって,事実を表しているのではない(ことになる)。(そうであれば)それは何も主張しておらず,従って,科学によって検証もされなければ反駁もされない。神秘主義者たちが(いろいろな)主張をするという事実は,彼らが情緒面での重要性と科学的妥当性(信頼性)とを区別することができないせいである。もちろん,このような見解を彼らが受け容れるとは期待できないが,私の理解できる限りでは,このような見解は,-彼らの主張をも幾分認めると同時に(while)- 科学的知性にとって許容できる(not repugnant 気に食わないと思わない)唯一のものである。
Chapter 7: Mysticism, n.9 All this time I have been supposing that we are a jury, listening to the testimony of the mystics, and trying to decide whether to accept or reject it. If, when they deny the reality of the world of sense, we took them to mean “reality” in the ordinary sense of the law-courts, we should have no hesitation in rejecting what they say, since we should find that it runs counter to all other testimony, and even to their own in their mundane moments. We must therefore look for some other sense. I believe that, when the mystics contrast “reality” with “appearance,” the word “reality” has not a logical, but an emotional, significance : it means what is, in some sense, important. When it is said that time is “unreal,” what should be said is that, in some sense and on some occasions, it is important to conceive the universe as a whole, as the Creator, if He existed, must have conceived it in deciding to create it. When so conceived, all process is within one completed whole ; past, present, and future, all exist, in some sense, together, and the present does not have that pre-eminent reality which it has to our usual ways of apprehending the world. If this interpretation is accepted, mysticism expresses an emotion, not a fact ; it does not assert anything, and therefore can be neither confirmed nor contradicted by science. The fact that mystics do make assertions is owing to their inability to separate emotional importance from scientific validity. It is, of course, not to be expected that they will accept this view, but it is the only one, so far as I can see, which, while admitting something of their claim, is not repugnant to the scientific intelligence.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-090.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.8
神秘主義の教義(信条)の中には智慧の核心があるように思われるので茶化さないことは重要である。時間を否定することから出てくると思われる極端な結果を避けるために神秘主義がどのような努力をしているか見てみよう(seek to 努力する)。 神秘主義にもとづく哲学には,パルメニデスからヘーゲルに至る偉大な伝統がある。パルメニデスは次のように言っている。(即ち)「(現在)存在するものは創造されることも破壊することもない。なぜなら,それは完全かつ不動かつ終りがない(ものである)からである。それは過去こうであったということもないし,将来こうであるだろうということもない。というのは,それは現在であり,全体が連続一体(連続的な一つのもの)だからである。」(バーネット『初期ギリシア哲学』p.199から引用)彼は,形而上学に,実在と仮象(appearance)との区別,あるいは,彼が名付けるところの,真理の道と臆見の道(the way of opinion)との区別を導入した(注:「臆見(おっけん)」というのは,実在でないものを実在だと錯覚して抱く意見や知識)。時間の実在を否定する者は誰もがそういった何らかの区別を導入しなければならないことは明らかである。なぜなら,世界は明らかに時間の中にあるように(私たち人間には)「思われる」からである。また,もし日常経験が「完全に」幻想であるわけではないとしたら,仮象(現象)とその背後にある実在との間に何らかの(ある一定の)関係がなければならないことも明らかである。だが,最大の問題(difficulties 困難)が生ずるのもこの点においてである。もし仮象(現象)と実在との関係が余りに親密なものにされると,仮象(現象)の不快な特色の全てが実在の中にその不快な対応物を持つことになり,一方,もし両者の関係が離れすぎたものにされるなら,我々は仮象(現象)の性格から実在の性格を推論することができなくなるだろう。そして,実在は,ハーバート・スペンサーの(場合)ように(as with と同様に),不明瞭かつ不可知なもののままにされるだろう(取り残されるであろう。キリスト教徒には汎神論を避けるのに関連した問題(困難)がある。(即ち)もし,世界が単に見かけ上のもの(仮象/現象)に過ぎないとしたら,神(注:キリスト教の神)は何も創造しなかったことになり,世界(宇宙)に対応する実在は神の一部であることになる。しかし(そうではなくて),世界がいかなる程度であっても実在し,また,神より区別されるとしたら,我々は神秘主義の本質的な学説である万物の一体性(という考え)を放棄し,また,世界が実在する限り,世界が(その一部として)含んでいる悪もまた実在するということを想定せざるをえなくなる。そういった問題(困難)は,正統派のキリスト教徒が徹底した神秘主義をとることをとても困難にする。バーミンガムの司教が言うように,「もし人間が実際に神の一部であるとしたら,人間の中に存在する悪は神の中にもまた存在することになるが故に,あらゆる形態の汎神論は斥けられなければならないと私には思われる」(ということになる)
Chapter 7: Mysticism, n.8
It is important not to caricature the doctrine of mysticism, in which there is, I think, a core of wisdom. Let us see how it seeks to avoid the extreme consequences which seem to follow from the denial of time. The philosophy based upon mysticism has a great tradition, from Parmenides to Hegel. Parmenides says : “What is, is uncreated and indestructible ; for it is complete, immovable, and without end. Nor was it ever, nor will it be ; for now it is, all at once, a continuous one.”(* Quoted from Burnet’s Early Greek Philosophy, p. 199.) He introduced into metaphysics the distinction between reality and appearance, or the way of truth and the way of opinion, as he calls them. It is clear that whoever denies the reality of time must introduce some such distinction, since obviously the world appears to be in time. It is also clear that, if everyday experience is not to be wholly illusory, there must be some relation between appearance and the reality behind it. It is at this point, however, that the greatest difficulties arise : if the relation between appearance and reality is made too intimate, all the unpleasant features of appearance will have their unpleasant counterparts in reality, while if the relation is made too remote, we shall be unable to make inferences from the character of appearance to that of reality, and reality will be left a vague Unknowable, as with Herbert Spencer. For Christians, there is the related difficulty of avoiding pantheism : if the world is only apparent, God created nothing, and the reality corresponding to the world is a part of God ; but if the world is in any degree real and distinct from God, we abandon the wholeness of everything, which is an essential doctrine of mysticism, and we are compelled to suppose that, in so far as the world is real, the evil which it contains is also real. Such difficulties make thorough-going mysticism very difficult for an orthodox Christian. As the Bishop of Birmingham says : “All forms of pantheism … as it seems to me, must be rejected because, if man is actually a part of God, the evil in man is also in God.”
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-080.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.7
ヨガは洞察力を与えるという主張をいかにして験証できるか理解するために,その主張(assertion 断言)を人為的に単純化してみよう。(たとえば)ある一定の時間,ある一定の仕方で呼吸すれば,我々は時間が存在(実在)しないことを信じるようになると,多くの人々が我々に保証すると想定(仮定)しよう。さらに一歩を進め,そのような秘法(recipe)を行なった後に,彼らの述べているような心的状態を経験したとしてみよう。しかし,今や,普通の呼吸状態(normal mode of respiration)に戻っており,我々はその洞察力(vision)を信じうるか否かについては完全には確信をもてない(注:not quite 完全には~でない)。この問題をどのように調査したら(取り調べたら)よいだろうか? まず,時間は存在しないというのはどういう意味で言っているのだろうか? もし,文字通りに,言っている通りの意味だとしたら,(たとえば)「これはあれよりも以前である(前の時間に起こった)」というような陳述は,「twas brillig」といった無意味な文字列のように,空虚な雑音にすぎない、と言わなければならない。もし,我々が,これ(上記)ほどではないがそれに近い(anything less than)、たとえば,時間的な前後関係と同じ順序に諸事象を配列する関係が事象間にあるが(しかし)それは(時間的な前後関係とは)別な関係である,ということを想定(仮定)するとしたら,(それは)我々の見解において何らかの実際的な変更をするような主張をしたことにはまったくならないだろう。(たとえば)『イリアッド』はホメロス(Homer)によって書かれたのではなく,同じ名前の別の人によって書かれたのだと想定するようなものであろう。(注:今日でもホメーロスが実在したのかどうか、また本当にイリアッドという叙事詩の作者であったかどうか確定していない,ということを理解した上でこの一文を読む必要がある。https://goo.gl/aUzRWL)(時間は存在しないとしたら)我々は「事象」というものはまったく存在(実在)しないと想定しなければならない。時間の進行という人を誤り導く仮象(appearance 外観,見かけ)の中に現れる全てのものを包括する,巨大な一つの宇宙の全体(総体)のみが存在するということでなければならない。前後の事象間にある明白な区別に対応するものは,現実においては(in reality)まったく何も存在しないに違いない(ということになる)。(もしそうであれば)我々は生れ,成長し,そして死ぬと言うのは,我々は死に,そして小さくなり,最後に生れると言うのとちょうど同じく誤りである違いない。個人の人生と思われる全てのものについての真理は,宇宙という無時間で不可分な存在(分割不可能は存在)のなかの一つの要素を,孤立したものだと錯覚したにすぎない。改善と悪化(improvement and deterioration)には区別はなく,幸福に終る悲しみと悲しみに終る幸福との間に区別はない。もしあなたが短剣が突き刺さった死体を発見すらば,その人が(短剣による)傷のために死んだのか,あるいは死後に短剣が刺されたのかは区別がつかない。もしこのような見解が真実なら,それは科学に終止符を打つだけでなく,人間の思慮分別,希望,努力にも終止符をうつことになる。それは世俗の知恵と両立せず -宗教にとってもっと重要なことには- 道徳とも両立しない。 もちろん,大部分の神秘主義者たちはこれらの結論を全面的に受容れはしない。しかし,これらの結論が必然的に導き出されるような説をしきりに主張する(urge)。そういうわけで(Thus),インゲ主席司祭は,進化に訴えるような宗教を,それが時間的進行に強調を置きすぎるという理由で斥ける。彼は「進歩の法則など存在せず,また,普遍的な進歩も存在しない」と言い,また「自動的かつ普遍的な進歩という考えは,多くのヴィクトリア朝時代人の俗人信仰(注:the lay religion 平信徒の信仰)であったが,今日,明らかに反駁しうるほとんど唯一の哲学説であるという不利に苦労している(labours)」とも言っている。このこと(注:世の中は後退することなく進歩するのみ進歩に対する絶対的信仰)に関しては,後でまた論ずるが,私はインゲ主席司祭と同意見であり,私は多くの理由から彼には極めて高い尊敬の念を抱いている。しかし,彼は,当然のことでもあるが,その前提から,私には(その前提の)当然の結果と思われる推論の全てを導き出さない(導き出さないのは,当然のことである)。
Chapter 7: Mysticism, n.7 In order to see how we could test the assertion that yoga gives insight, let us artificially simplify this assertion. Let us suppose that a number of people assure us that if, for a certain time, we breathe in a certain way, we shall become convinced that time is unreal. Let us go further, and suppose that, having tried their recipe, we have ourselves experienced a state of mind such as they describe. But now, having returned to our normal mode of respiration, we are not quite sure whether the vision was to be believed. How shall we investigate this question? First of all, what can be meant by saying that time is unreal ? If we really mean what we say, we must mean that such statements as “this is before that” are mere empty noise, like “twas brillig.” If we suppose anything less than this – as, for example, that there is a relation between events which puts them in the same order as the relation of earlier and later, but that it is a different relation – we shall not have made any assertion that makes any real change in our outlook. It will be merely like supposing that the Iliad was not written by Homer, but by another man of the same name. We have to suppose that there are no “events” at all ; there must be only the one vast whole of the universe, embracing whatever is real in the misleading appearance of a temporal procession. There must be nothing in reality corresponding to the apparent distinction between earlier and later events. To say that we are born, and then grow, and then die, must be just as false as to say that we die, then grow small, and finally are born. The truth of what seems an individual life is merely the illusory isolation of one element in the timeless and indivisible being of the universe. There is no distinction between improvement and deterioration, no difference between sorrows that end in happiness and happiness that ends in sorrow. If you find a corpse with a dagger in it, it makes no difference whether the man died of the wound or the dagger was plunged in after death. Such a view, if true, puts an end, not only to science, but to prudence, hope, and effort ; it is incompatible with worldly wisdom, and – what is more important to religion – with morality. Most mystics, of course, do not accept these conclusions in their entirety, but they urge doctrines from which these conclusions inevitably follow. Thus Dean Inge rejects the kind of religion that appeals to evolution, because it lays too much stress upon a temporal process. “There is no law of progress, and there is no universal progress,” he says. And again : “The doctrine of automatic and universal progress, the lay religion of many Victorians, labours under the disadvantage of being almost the only philosophical theory which can be definitely disproved.” On this matter, which I shall discuss at a later stage, I find myself in agreement with the Dean, for whom, on many grounds, I have a very high respect. But he naturally does not draw from his premisses all the inferences which seem to me to be warranted.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-070.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.6
我々(注:陪審員)はまず,証人たち(注:神秘主義者たち)がある点までは一致するが,それを過ぎると,一致した時とちょうど同じように確信をもちながら,全く不一致になることを見いだすだろう(find 気がつくであろう)。プロテスタントは違うが,カトリック教徒は聖母が出現するというヴィジョン(注:聖母幻視)をいだくだろうし,仏教徒は違うが,キリスト教徒やマホメット教徒は,大天使ガブリエルによって啓示された偉大な真理を確信するだろう。道教の古代中国の神秘主義者たちは,道教の中心的教義の必然的結果(direct result)として,全ての統治(government 政治/政府)は悪であると教え,ヨーロッパや回教(イスラム教)の神秘主義者たちは,ほとんどが同じような確信を以て,既成の権威に服従するように駆り立てる。彼らがその見解を異にする点については,それぞれの集団が他の集団は信ずるに値しないと言うだろう。従って,もし我々が単に法廷での勝利で満足するのなら(注:ここでは法廷での裁判を比喩に使っていることに注意/荒地出版社の津田訳では単に「討論での勝利」),大部分の神秘主義者たちは大部分の他の神秘主義者たちが大部分の点で誤っている,と指摘するかもしれない。けれども,彼らも,それを半分の勝利にすぎないとして,意見を異にする事柄よりも意見が同じ(一つである)事柄の方がより重要だということで一致するかも知れない。いずれにせよ,我々は彼らが相互の相違を落ち着かせ(注:compose their differences),防御を次の三点,即ち,世界の一性(ひとつの全体であること),悪の幻影的性格,及び,時間の非実在性に集中したと想定(仮定)しよう。我々は,公平な部外者(outsider)として,彼らの一致した証拠に対しどのような検証を適用できるだろうか? 科学的な気質を持つ者として,当然,我々は最初に我々自身も直接同じ証拠を獲得できる方法はあるかどうか,問うことにしよう。この問に対し,いろいろな解答が与えられるだろう。(たとえば)我々は明らかにそれ(その証拠)を受けるような精神構造にないとか,我々はそれに必要な謙虚さに欠けるとか,断食や宗教的な冥想が必要であるとか,あるいは,(もし我々の証人がインド人か支那人であれば),必要な前提(essential prerequisite)は呼吸訓練の過程であるとか,言われるかも知れない。断食もまたしばしば効果的であると認められてきたが,最後の見解(注:ヨガの実践)を支持する実験的証拠の重要性を見いだすであろうと思われる。事実,ヨガと呼ばれる明確な肉体的訓練がある。それは神秘主義者の確信を生むために行なわれ,それを試みた人々によって大いに自信をもって勧められている。(原注:中国におけるヨガについてはアーサ・ウェイリー(著) The Way and its Power, pp. 117-118 を参照のこと)(訳注:津田訳ではこの原注が省略されている)。呼吸法の訓練がその最も本質的な特徴であり,我々の目的のためには,その他のものは無視してよいだろう。
Chapter 7: Mysticism, n.6
We shall find, in the first place, that, while the witnesses agree up to a point, they disagree totally when that point is passed, although they are just as certain as when they agree. Catholics, but not Protestants, may have visions in which the Virgin appears ; Christians and Mohammedans, but not Buddhists, may have great truths revealed to them by the Archangel Gabriel ; the Chinese mystics of the Tao tell us, as a direct result of their central doctrine, that all government is bad, whereas most European and Mohammedan mystics, with equal confidence, urge submission to constituted authority. As regards the points where they differ, each group will argue that the other groups are untrustworthy ; we might, therefore, if we were content with a mere forensic triumph, point out that most mystics think most other mystics mistaken on most points. They might, however, make this only half a triumph by agreeing on the greater importance of the matters about which they are at one, as compared with those as to which their opinions differ. We will, in any case, assume that they have composed their differences, and concentrated the defence at these three points – namely, the unity of the world, the illusory nature of evil, and the unreality of time. What test can we, as impartial outsiders, apply to their unanimous evidence ? As men of scientific temper, we shall naturally first ask whether there is any way by which we can ourselves obtain the same evidence at first hand. To this we shall receive various answers. We may be told that we are obviously not in a receptive frame of mind, and that we lack the requisite . humility ; or that fasting and religious meditation are necessary ; or (if our witness is Indian or Chinese) that the essential prerequisite is a course of breathing exercises. I think we shall find that the weight of experimental evidence is in favour of this last view, though fasting also has been frequently found effective. As a matter of fact, there is a definite physical discipline, called yoga, which is practised in order to produce the mystic’s certainty, and which is recommended with much confidence by those who have tried it.(* As regards yoga in China, see Waley, The Way and its Power, pp. 117-18.) Breathing exercises are its most essential feature, and for our purposes we may ignore the rest.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-060.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.5
神秘主義者を支持する主な論拠(議論)は彼ら相互に同意が存在していることである。インゲ主席司祭はこう言っている。「キリスト教の神秘主義者が最も信頼に値するが,古代,中世,近世を通じて,またプロテスタントやカトリックの,さらには仏教徒やマホメット教徒の神秘主義者たちの間に一致(unanimity 全員一致)が存することほど驚嘆に値することを私は知らない」。私は,ずっと以前,『神秘主義と論理』という私の著書において承認したこのような議論(論拠)の力(force 影響力)を軽視しようとは思はない。神秘主義者たちが自分の経験に言語的表現を与える能力にはかなり相違があるが,最もうまく成功している人々は皆次のようなことを主張しているように思われる。 (1)全ての分割や分離は非現実的なもの(架空のもの)である。宇宙は一つの不可分な統一体である (2)悪は幻影である。幻影は誤って部分を自立したもの(実体)と考えることにより生じる。 (3)時間は実在しない。実在は,永続という意味においてではなく,全く時間の外にあると言う意味において永遠である。 私は,この三つが神秘主義者たちが皆同意する事柄を完全に説明しつくしていると言うつもりはないが,私の指摘した三つの命題は全体の特質を現わすのに役立つだろう。我々は,今,法廷にいる陪審員であると仮定しよう。その仕事は上述のような三つの幾分驚くべき主張をなす証人の信頼性を判定することである。
Chapter 7: Mysticism, n.5
The chief argument in favour of the mystics is their agreement with each other. “I know nothing more remarkable,” says Dean Inge, “than the unanimity of the mystics, ancient, mediaeval, and modern, Protestant, Catholic, and even Buddhist or Mohammedan, though the Christian mystics are the most trustworthy.” I do not wish to underrate the force of this argument, which I acknowledged long ago in a book called Mysticism and Logic. The mystics vary greatly in their capacity for giving verbal expression to their experiences, but I think we may take it that those who succeeded best all maintain : (1) that all division and separateness is unreal, and that the universe is a single indivisible unity ; (2) that evil is illusory, and that the illusion arises through falsely regarding a part as self-subsistent ; (3) that time is unreal, and that reality is eternal, not in the sense of being everlasting, but in the sense of being wholly outside time. I do not pretend that this is a complete account of the matters on which all mystics concur, but the three propositions that I have mentioned may serve as representatives of the whole. Let us now imagine ourselves a jury in a law-court, whose business it is to decide on the credibility of the witnesses who make these three somewhat surprising assertions.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-050.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.4
宗教を支持する上において,科学の領域外にあり「啓示」と呼ばれるのが適切であるような知識の源が存在することを,我々は認めるべきだろうか? これは議論するのが難しい問題である。なぜなら,真理が自分たちに啓示されていることを信ずる人々は,我々が感覚対象に関して抱くのと同じ確実性が自分たちに啓示された真理に関してのあると公言するからである(訳注: so ~ that: that以下と同じ~)。我々は,我々が見たことのないものを望遠鏡で見たという人(の言うこと)を信ずる。そうだとしたら(then),彼ら(啓示を信ずる人々)にとって同様に疑えないことだと彼らに思われることについて彼らが報告する時,あなたがた(我々/科学的気質を持った人など)はなぜ信じないのか,と彼らは尋ねる。 もしかすると,神秘的啓蒙(mystic illumination)を享受した人たちに訴えるような議論を試みることは,無益なことかも知れない。(訳注:荒地出版社刊の訳書で津田氏は「perhaps ~を「多分無駄なことにちがいない」と訳している。本書全体を通して津田氏はそうに訳しているが、「probably」は「多分,おそらく」であるが「perphaps」は「もしかすると,ことによると」の意味) しかし,我々第三者(We others)は彼らの証言を受け入れるべきかどうかについて何らかのことを言うことが可能である。まず,それは通常の試験(test 検査;分析)の対象(subject to)ではない。科学者は,実験結果について語る時,同時にその実験がどのように行われたか(実験方法)についても報告する。だから,他の者(第三者)はそれ(検査/検証)を繰り返すことができる。また,もし結果が一致しなければ,その実験は真理として受け取られない。しかし,多くの人々は,神秘主義者の幻視(幻想)が生れたのと同じ状況に自分を置きながら,同じ啓示を得なかったであろう。これに対しては,「人は適切な感覚を用いなければならないという答えが返ってくるかも知れない。(つまり)望遠鏡も眼を閉じている人には無用である。神秘主義者の証明の信憑性に関する議論は果てしないだろう(ほとんど際限なく長引くであろう)。科学は中立であるべきである。なぜなら,この議論も,不確実な実験に関してなされる議論のように,厳密に取扱われるべき科学的議論だからである。科学は知覚と推論に依存している(依拠している)。(即ち)その信頼性は知覚がどの観察者によっても検証しうるものであるという事実によっている。神秘主義者自身は自分が知っていることに確信を持っているであろうし,科学的な検証を必要としない。しかし,その証言を受け入れることを求められる人々は,その証言を「北極に行ってきた」という人に求めるのと同種類の科学的検証にゆだねるであろう。科学は,科学である限り,結果に対して,肯定的にしろ否定的にしろ,予断を持つべきではない。
Chapter 7: Mysticism, n.4 Ought we to admit that there is available, in support of religion, a source of knowledge which lies outside science and may properly be described as “revelation” ? This is a difficult question to argue, because those who believe that truths have been revealed to them profess the same kind of certainty in regard to them that we have in regard to objects of sense. We believe the man who has seen things through the telescope that we have never seen ; why, then, they ask, should we not believe them when they report things that are to them equally unquestionable ? It is, perhaps, useless to attempt an argument such as will appeal to the man who has himself enjoyed mystic illumination. But something can be said as to whether we others should accept this testimony. In the first place, it is not subject to the ordinary tests. When a man of science tells us the result of an experiment, he also tells us how the experiment was performed ; others can repeat it, and if the result is not confirmed it is not accepted as true ; but many men might put themselves into the situation in which the mystic’s vision occurred without obtaining the same revelation. To this it may be answered that a man must use the appropriate sense : a telescope is useless to a man who keeps his eyes shut. The argument as to the credibility of the mystic’s testimony may be prolonged almost indefinitely. Science should be neutral, since the argument is a scientific one, to be conducted exactly as an argument would be conducted about an uncertain experiment. Science depends upon perception and inference ; its credibility is due to the fact that the perceptions are such as any observer can test. The mystic himself may be certain that he knows, and has no need of scientific tests ; but those who are asked to accept his testimony will subject it to the same kind of scientific tests as those applied to men who say they have been to the North Pole. Science, as such, should have no expectation, positive or negative, as to the result.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-040.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.3
それ故に(thus こうして),アーサー・トムソン卿(John Arthur Thomson, 1861-1933:英国スコットランドの生物学者,博物学者。講演や執筆活動を行う事により、科学と宗教の関連性や生物学の普及に務めた。)は次のように言っている。「科学としての科学(Sceince as science 学問としての科学)は「なぜ?(どうして?)」という問いを(自らに対し)決して発しない。即ち,この(科学という)多様な存在の現在の有り様(Being),なりつつあるもの(Becoming),これまであり続けたもの(Having Being)の意味や意義や目的について問わない」。また続けてこう言っている。(即ち)「このようにして,科学は真理の岩盤であるふりをしない」し,「科学は科学の方法を神秘的なものや霊的なものに適用することができない」と彼は語っている。J. S. ホールデン教授(J. B. S. Haldane, 1892-1964:イギリスの生物学者(集団遺伝学)は,「我々が神の啓示を見出すのは,我々自身のなかと,真理,正義,慈愛,美という我々の実践的理想,及び,その結果として生じる友情(consequent fellowship)の中においてのみである」という考えを抱いている(Haldane holds)。(また)マリノウスキー博士は「宗教的啓示は,原理的に,科学の領域を超えたところに存在している」と言っている。私は,当面,神学者たちの意見は引用しないことにする。なぜなら,彼らがこういった意見(見解)と同意することは予想できるからである。 さらに先に進む前に,(以上で)主張内容(何が主張されているのか),また,その主張の真偽について,明らかにするよう試みてみよう。聖堂参事会員(Canon)のストリーター「科学は十分なものではない」という時,ある意味で,彼は自明のことを言っている(にすぎない)。科学は,芸術や友情やその他の人生に於ける様々な価値的要素を含んでいない。しかし,もちろん,彼の発言はそれ以上のことを意味している。「科学は十分なものではない(不充分である)」ということには別のもっと重要な意味があり,それも私には真理であると思われる。(即ち,)科学は価値については何も語らず,また,「憎むより愛する方がよい」とか「親切は残酷よりも望ましい」というような命題を(科学は)証明することはできない。科学は,我々の欲求を実現する「手段」について多くを語ることができるが,科学はある欲求の方が別の欲求よりもより好ましいと言うことはできない。このことは大きな主題であり,後の章でもっと言及しなければならないだろう。 しかし,私が(先に)引用した著者たちはそれ以上のことを主張しようとしているのは確かであり,私はそれは誤っていると信じる。(たとえば)「科学は『真理』の岩盤であるふりをしない」(『』で囲んだのは筆者=ラッセル)という主張は(主張には),真理に到達する科学とは別の,非科学的な方法があるという意味を含んでいる。(また)「宗教的啓示は・・・科学の領域を超えたところに存在している」という発言は,この非科学的な方法が何であるかについて何らかのことを語っている。(つまり)それは宗教的啓示の方法である。 聖堂参事会長(Dean 主席司祭)のインゲ(William Ralph Inge, 1860-1954:ケンブリッジ大学の神学教授,セント・ポール大聖堂の主席司祭 )はもっと明確にいっている。(即ち)「宗教の証拠は,その場合(then),実験的な(exprimental)ものである」【彼は神秘主義者の証言(testimony)について語っている】(またインゲは)「それ(宗教の証拠)は,神が自ら人類に啓示した3つの属性 -時に絶対的な価値あるいは永遠の価値と呼ばれる- (つまり)善あるいほ愛,真,美,(注:日本では「真・善・美」の順)をそなえた神についての革新的な知識である。もし,そうなら(それが全てなら),,宗教が自然科学と衝突する理由はまったくないとあなたは言うであろう。一方は事実(の問題)を扱い,他方は価値(の問題)を扱う。両者とも本当だとすると,両者は異なった次元(planes 平面)にいる。だがそれは必ずしも正しくない(This is not quite true)。科学が,倫理や詩やその他いろいろ(and what not)に侵入するのを見てきた。宗教はどちらにも侵入せざるを得ない」(訳注:以上は,インゲの主張)。つまり,宗教は(事実が)何であるかについても主張しなければならず,何をすべきかについてだけ言っていればよいのではない。(荒地出版社刊の津田訳は次のように「宗教自身」のことしか触れておらずずれいる。即ち「宗教は自己の現状について確乎たる主張をしなければならないのであり,自己のあるべき状態についてのみ主張するに止まってほならないというのである。」)。このようなインゲ氏によって公言されたこの見解は,アーサー・トムソン卿やマリノウスキー博士の言葉の中にも内包されている(暗に含まれている)のである。
Chapter 7: Mysticism, n.3 Thus Sir J. Arthur Thomson says : ”Science as science never asks the question Why ? That is to say, it never inquires into the meaning, or significance, or purpose of this manifold Being, Becoming, and Having Been.” And he continues : “Thus science does not pretend to be a bedrock of truth.” “Science,” he tells us, “cannot apply its methods to the mystical and spiritual.” Professor J. S. Haldane holds that “it is only within ourselves, in our active ideals of truth, right, charity, and beauty, and consequent fellowship with others, that we find the revelation of God.” Dr. Malinowski says that “religious revelation is an experience which, as a matter of principle, lies beyond the domain of science.” I do not, for the moment, quote the theologians, since their concurrence with such opinions is to be expected. Before going further, let us try to be clear as to what is asserted, and as to its truth or falsehood. When Canon Streeter says that “science is not enough,” he is, in one sense, uttering a truism. Science does not include art, or friendship, or various other valuable elements in life. But of course more than this is meant. There is another, rather more important, sense in which “science is not enough,” which seems to me also true : science has nothing to say about values, and cannot prove such propositions as “it is better to love than to hate” or “kindness is more desirable than cruelty.” Science can tell us much about the means of realizing our desires, but it cannot say that one desire is preferable to another. This is a large subject, as to which I shall have more to say in a later chapter. But the authors I have quoted certainly mean to assert something further, which I believe to be false. “Science does not pretend to be a bedrock of truth” (my italics) implies that there is another, non-scientific method of arriving at truth. “Religious revelation . . . lies beyond the domain of science” tells us something as to what this non-scientific method is. It is the method of religious revelation. Dean Inge is more explicit : “The proof of religion, then, is experimental.” [He has been speaking of the testimony of the mystics.] “It is a progressive knowledge of God under the three attributes by which He has revealed Himself to mankind – what are sometimes called the absolute or eternal values – Goodness or Love, Truth, and Beauty. If that is all, you will say, there is no reason why religion should come into conflict with natural science at all. One deals with facts, the Other with values. Granting that both are real, they are on different planes. This is not quite true. We have seen science poaching upon ethics, poetry, and what not. Religion cannot help poaching either.” That is to say, religion must make assertions about what is, and not only about what ought to be. This opinion, avowed by Dean Inge, is implicit in the words of Sir J. Arthur Thomson and Dr. Malinowski.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-030.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.2
科学と宗教との間の現在の関係は,国家(英国)が両者の関係が(そうであることを)望むように(?),1930年の秋,BBC(英国放送協会)から放送された,12の談話からなる非常に有益な書物である『科学と宗教(に関する)シンポジウム』によって確かめられるかも知れない(注:本は翌年の1931年に出版されている)。もちろん,この本の中には宗教に敵対する人たち(の話)は含まれなかった。なぜなら,(to mention no other argument 言うまでもなく?),(もし含まれていたら)彼らは(BBCの)聴取者の中の,よりオーソドックスな考えの人たち(正統信仰の人々)の感情を傷つけたであろうからである(注:当時はラジオ放送なので「視聴者」ではなく「聴取者)。この談話の中には,ジュリアン・ハックスレー教授による優れた序論があり,それは極めて弱い正統信仰に対する支持さえまったく含んでいなかったのは事実である。しかし,また,リベラルな英国国教会の信者(Churchmen)が今日反対しそうなものもほとんど含んでいなかった。はっきりした意見(見解)を表明し,思い通りに議論を進めることを許されていた(BBCラジオの)スピーカたちは種々様々な立場をとり,それは,神(の存在)と不死(不滅)を信ずることを阻止したいというマリノフスキー教授の感傷的な明言(avowal)から,啓示の真理は科学の真理よりも確実であり,衝突の存する時にも啓示の真理が勝利を占めねばならない主張するオアラ神父の,大胆な断言に至るまで,様々な立場があった。しかし,詳細な点では種々異なっていても,伝えられる一般的な(総括的な)印象では,宗教と科学との闘争は(今や)終わりにきているということであった。その結果は,期待することができたものの全てであった(期待可能な全ての結果が得られた)。このようにして,聖堂参事会員(Canon)のストリーター(Burnett H. Streeter,1874-1937:英国の聖書学者)は -彼は最後にBBCラジオで話をしたが- 次のように述べた。「先に行われた諸講義において注目すべきことは,彼らの(話の)大意(注:general drift :荒地出版社刊の津田訳では「一般的潮流」)が一つの同じ方向に動いていたその道であった・・・(即ち)科学だけ(science by itself 科学単独)では不十分だという考えが繰り返えされていた」(と)。このような全会一致は科学と宗教についての事実(全会一致)なのか,あるいはBBCを統制する当局者たちについての事実(全会一致)なのか,問われるかも知れない。しかし,多くの相違があるにも関らず,このシンポジウム(の本の)著者たちがストリーター氏によって述べられた点に同意するようなものを示していることは認めなければならない。
Chapter 7: Mysticism, n.2
The present relations between science and religion, as the State wishes them to appear, may be ascertained from a very instructive volume, Science and Religion, a Symposium, consisting of twelve talks broadcast from the B.B.C. in the autumn of 1930. Outspoken opponents of religion were, of course, not included, since (to mention no other argument) they would have pained the more orthodox among the listeners. There was, it is true, an excellent introductory talk by Professor Julian Huxley, which contained no support for even the most shadowy orthodoxy ; but it also contained little that liberal Churchmen would now find objectionable. The speakers who permitted themselves to express definite opinions, and to advance arguments in their favour, took up a variety of positions, ranging from Professor Malinowski’s pathetic avowal of a balked longing to believe in God and immortality to Father O’Hara’s bold assertion that the truths of revelation are more certain than those of science, and must prevail where there is conflict ; but, although the details varied, the general impression conveyed was that the conflict between religion and science is at an end. The result was all that could have been hoped. Thus Canon Streeter, who spoke late, said that “a remarkable thing about the foregoing lectures has been the way in which their general drift has been moving in one and the same direction. . . . An idea has kept on recurring that science by itself is not enough.” Whether this unanimity is a fact about science and religion, or about the authorities who control the B.B.C., may be questioned ; but it must be admitted that, in spite of many differences, the authors of the symposium do show something very like agreement on the point mentioned by Canon Streeter.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-020.HTM
ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.1
科学と神学との闘争(戦い)は(これまで)独特なものであった。いつも,また,どこにおいても -18世紀末のフランスやロシアを除き- 科学者の大部分はそれぞれぞれの時代の(=当時の)正統信仰(orthodoxy 正説)を支持していた。その中(=正統信仰支持者の中)には著名な人もいた。ニュートンはアリウス主義者(Arian:神の唯一絶対性を強調し,イエス・キリストを神によって無からつくられた被造物であると考える。)であったが,(キリストの位置づけ以外の)その他の全ての点で,キリスト教信仰の支持者であった。キュヴィエ(Frederic Dagobert Cuvier, 1769-1832:フランスの動物学者)は正統派のカトリック信者だった。ファラデー(Michael Faraday, 1791-1867:イギリスの化学者・物理学者)はサンデマン主義者(Sandymanian)だったが,この宗派の誤謬は彼にも科学的論証によって証明可能とは思われなかったし(注:Sandymanian についてさいたま市立中央図書館で OED や Webster で引いてみましたが出てきませんでした。sandy 砂だらけの;ギラギラした + mania マニア/熱狂 → 「砂マニア」「砂フェチ」「サンドウィッチマニア」…まさか。と,ここでファラデーの伝記を調べればわかるかもしれないとウィキペディアを調べたところ,次のような説明が書かれており,解決。即ち「ファラデーは信心深い人物で,1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(注:イエス・キリストの神性を信じて「イエスは主です」とさえ告白すれば救われると主張/キリスト教福音派では異端とされる)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している」。つまり,Sandyman + ian と分解すべき!)。また,科学と宗教との関係に関する彼の見解は全ての聖職者(churchman)が称賛(applaud 拍手)しうるようなものであった。闘争(闘い)は,神学と「科学」との間にあったのであり,神学と科学者との間にあったのではなかった。科学者は,非難されるような見解を抱いた時にも,一般的に言って,衝突を避けようと最善を尽くした。(例えば)既に見たように,コペルニクスは自分の著書をローマ教皇に献呈した,ガリレオは前言を取消した。デカルトは,オランダに住むのが賢明だと考えたけれども,聖職者たちと良い関係を維持するよう大いに努力した。そうして,ガリレオの見解と同じ見解を共有しながら,計算づくの沈黙をすることによって非難をまぬがれた。19世紀においても,大部分のイギリスの科学者は,彼らの科学と リベラルなキリスト教徒がなお不可欠だと見倣したキリスト教の信仰箇条との間には本質的な衝突はまったくないと考えた。-なぜなら,ノアの大洪水やアダムとイブ(の楽園追放)に関してさえ,文字通りの真理を犠牲にすることは可能だと(文字通りに解釈しなくてもよいと)わかっていたからである。 今日の状況は(も),コペルニクス説が勝利を占めて以来全ての時代においてそうであった状態と余り異なっていない。連続した科学的発見は,キリスト教徒に,中世において信仰の不可欠な部分(integral parts)と見なされていた(種々の)信仰箇条(信念)を,次から次へと捨てさせていった。このように次々に信仰が後退したので(信仰箇条を捨てることが認められたために),科学者も,彼らの研究が(科学と宗教との)闘いが今日到達した論争の最前線に関するものでない限り,キリスト教徒であり続けることを可能にした(のである)。ところで,過去3世紀の間ほとんどの時代において,科学と宗教とは和解したと宣言されている。(即ち)科学者は科学の範囲を超えた領域が存在することを謙虚に認め,また,リベラルな神学者たちは科学的に証明可能なことはあえて否定しないと認めている。いまだ,この平穏を破る者が少しはいることは事実である。(即ち)一方には,キリスト原理主義者及び頑固なカトリック神学者がいる。他方には,より啓発された牧師たちの比較的控えめな要求さえ認めることを拒否する,生化学や動物心理学のような主題に関する急進的研究者たちがいる。しかし,全体的にみて,闘いは過去に比べて不活発になっている。共産主義やファッシズムの新しい信条は神学的頑迷さの継承者(相続人)である。そして,もしかすると,深い無意識の領域のどこかで,牧師や教授たち(注:宗教と科学の闘いの主役たち)は共に現状維持に関心をもっているかも知れない。
Chapter 7: Mysticism, n.1
The warfare between science and theology has been of a peculiar sort. At all times and places – except late eighteenth-century France and Soviet Russia – the majority of scientific men have supported the orthodoxy of their age. Some of the most eminent have been in the majority. Newton, though an Arian, was in all other respects a supporter of the Christian faith. Cuvier was a model of Catholic correctness. Faraday was a Sandymanian, but the errors of that sect did not seem, even to him, to be demonstrable by scientific arguments, and his views as to the relations of science and religion were such as every Churchman could applaud. The warfare was between theology and science, not the men of science. Even when the men of science held views which were condemned, they generally did their best to avoid conflict. Copernicus, as we saw, dedicated his book to the Pope ; Galileo retracted ; Descartes, though he thought it prudent to live in Holland, took great pains to remain on good terms with ecclesiastics, and by a calculated silence escaped censure for sharing Galileo’s opinions. In the nineteenth century, most British men of science still thought that there was no essential conflict between their science and those parts of the Christian faith which liberal Christians still regarded as essential – for it had been found possible to sacrifice the literal truth of the Flood, and even of Adam and Eve. The situation in the present day is not very different from what it has been at all times since the victory of Copernicanism. Successive scientific discoveries have caused Christians to abandon one after another of the beliefs which the Middle Ages regarded as integral parts of the faith, and these successive retreats have enabled men of science to remain Christians, unless their work is on that disputed frontier which the warfare has reached in our day. Now, as at most times during the last three centuries, it is proclaimed that science and religion have become reconciled : the scientists modestly admit that there are realms which lie outside science, and the liberal theologians concede that they would not venture to deny anything capable of scientific proof. There are, it is true, still a few disturbers of the peace : on the one side, fundamentalists and stubborn Catholic theologians ; on the other side, the more radical students of such subjects as biochemistry and animal psychology, who refuse to grant even the comparatively modest demands of the more enlightened Churchmen. But on the whole the fight is languid as compared with what it was. The newer creeds of Communism and Fascism are the inheritors of theological bigotry ; and perhaps, in some deep region of the unconscious, bishops and professors feel themselves jointly interested in the maintenance of the status quo.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-010.HTM