キューバ危機(1962.10.14-10.28までの14日間)

TPJ-UV その年(1962年)の最後の2,3ケ月は,キューバ危機(1962.10.14-10.28までの14日間)とその後に続いた中印国境紛争に没頭した。12月初め,この2つの事件について書きたいという私の申し出をペンギン(出版社)が受け入れてくれたので,私はそれを(翌年の)一月中に書き上げた。その本は,1963年4月 Unarmed Victory (『武器なき勝利』)という書名でペンギンとジョージ・アレン・アンド・アンウィンから出版された。私はその本の中に,当時の私の思想と行動に関して重要性のあることは,全て書いている。従ってここでそれらのことについて繰り返して言おうとは思わない。けれども,これら2つの事件に関して当時私がとった行動についてはまったく後悔していないということだけは,付け加えておくべきだろう。この2つの事件については,その後もさらに検討したけれども,私の見解に変わりはない。
私を批判する人たちに対して,(平和の象徴の)オリーヴの枝として,次の言葉だけを捧げよう。即ち,私がケネデイ大統領に10月23日に送った電報をもっと穏やかな言葉で言い表わさなかったことを残念に思う,と。あの電報の率直さが大きな影響力を及ぼしそうもないものにしたという批判に,私も同意する。
しかし,私は,現在同様の情況下でその望みがもてないのと同じく,当時米国政府が賢明にもまた敏速に撤兵するという望みはほとんどもてなかったのである。

The last months of that year were taken up with the Cuban crisis and then with the Sino-Indian Border dispute. Early in December, Penguin accepted my offer to write my account of these two happenings which I did in January. It was published by Penguin and Allen & Unwin in April under the titie Unarmed Victory. I have told in it all there is to tell of any interest about my thought and action at that time, and I do not propose to repeat it all here. Perhaps I should add, however, that I regret nothing that I did at that time in relation to these two crises. My point of view upon them, in spite of further study, remains the same. I will give my critics only this olive branch: I am sorry that I did not couch my telegram of October 23rd to President Kenedy more gently. Its directness made it unlikely to cut much ice, I agree. But I had as little hope then as I should have in similar circumstances now of wise and quick withdrawal on the part of the US Government.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-380.HTM

[寸言] Cuban_missile_crisis
北米の地図で確認するまでもなく、ソ連が米国本土すぐ近くのキューバに核ミサイルを持ち込もうとしたことに対する米国政府の危機感はよく理解できる。
しかし、米国やNATOがソ連周辺国に核を持ちこむことだって同様に、ソ連にとっては重大な危機・恐怖であったはずである(注:ソ連は崩壊し、ロシアとそれ以外に分割されたので「過去形」)のも理解する必要がある。
また、このキューバ危機の時、アメリカのル・メイ将軍がこの「よい」機会(注:どこかの政党の共同代表が「よいタイミング」といったのと同じ気持)を利用して、ソ連に6,500発の核兵器をぶち込めばソ連に勝てるといったところ、「絶対に勝利できるのならよいが、勝てるとはかぎらず反撃されるおそれもある」ということから、ケネディはル・メイの意見を採用しなかったと言われていいることも、真偽の確認とともに、その意味合いをよく考えてみる必要があるであろう。(ちなみに、東京大空襲を立案したのはル・メイ
気狂いル・メイ(以下のウィペディアの説明を参考にしてください。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4

ラッセルの90歳の誕生日を祝うコンサート及び祝賀会

KRAUS-LY (私の90歳の誕生日の)翌日(1962.5.19)の午後、(ロンドンの)ロイヤル・フェスティヴァル・ホールで、支配人 T.E.ビーンの思いやりのある後援のもと、祝賀パーテイが催されたが、それについて何をどういったらよいかわからない。
【参考:岩松繁俊「ある誕生日」
https://russell-j.com/cool/BR-BIRTH.HTM
(祝賀パーティのなかで)私のために記念コンサートが催され、いろいろなプレゼンテーションがあるということは聞かされていたが、コンサートがあれほど素晴らしいものになろうとは事前に知ることはできなかった。コリン・デイヴィス指揮のオーケストラの演奏も、リリー・クラウスの(ピアノ)独奏も、とても素晴らしいものであった。・・・。

ROYAL-FHOf the celebration party at Festival Hall, under the kind aegis of its manager, T. E. Bean, that took place the next afternoon, I do not know what to say or how to say it. I had been told that there would be music and presentations to me, but I could not know beforehand how lovely the music would be, either the orchestral part under Colin Davis or the solo work by Lili Kraus.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-350.HTM

[寸言]
1962年5月19日(土曜日)午後三時、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおいて、ラッセルの90歳の誕生日を祝うコンサートが開催された。演奏するのはロンドン・シンフォニー・オーケストラ、指揮棒をふるのは(当時)新進のコーリン・デーヴィス(Sir Colin Rex Davis, 1927-2013)、さらにオーケストラと協演するのは、女流ピアニスト、リリー・クラウスであった。
因みに、このコンサートで演奏された「誕生日を祝う小品」は著名な作曲家であるストラビンスキーによってこの日のために作曲されたものである。

ラッセルは言葉がでないのではないかと思うほど深く感動。そうして、どうにか、次のような感謝の言葉を出席者に捧げた。

BR-KOALA「友人の皆さん!
今ここで何と申し上げたらいいか,ほとんど思い浮かびません。感動で何も言えません。 また,その感動は深いものであり,何か表現したいという気持ちよりも勝っています。(写真:1951年、オーストラリアの動物園にて。ラッセルはコアラに似ていると言われたので、さてどんなものかとまじまじ見つめ・・・。)
私は,この祝賀会を開催するために尽力された方々に心から感謝の念を捧げなければなりません。喜びに満ちた,非常に美しい音楽を絶妙に演奏してくださった演奏家の皆さん,私の友人シェーンマン氏のように目だたないところで働いてくださった方々,それから私に贈物を下さった全ての方々に対し,心から感謝を捧げます。贈物はそれ自体高価なものでありますとともに,この危険な世界に対する不滅の希望を表わしています。

私は非常に単純な信条の持ち主です。それは何かといいますと,生命と喜びと美は,ほこりっぽい死よりもずっとよいものだということです。また,本日ここで私たちが聴いたような音楽に耳をかたむけている時,そのような音楽を作曲し演奏できるということ,そしてまたそのような音楽を聴くことができるということは,守り続ける価値があると感じなければならないとともに,愚かな’言い争い’で放り出すべきではないと考えます。
単純な信条だと言われるかもしれませんが,すべて大切なことは実にしごく単純なものであると,私は考えます。私は,その信条は十分なものであるということを発見しました。そして,本日ご出席の非常に多くの方々もまた,その信条は十分なものであると悟っておられると思います。もしそう考えておられないのであれば,今日ここにおいでになられなかっただろうと思います。

 しかし,程度はいろいろですが,私が迫害や汚名や罵りを招く道筋(コース)をこれまで通ってきたことを考える時,それに代わって,今日のように歓迎されるということはどんなに困難なことであるか(夢のようであるか)ということだけ,今申し上げたいと思います。

私は今かなり’つつましやかな気持ち’になっています。このような機会を与えてくださった皆さんのお気持に恥じない生き方をするよう努力しなければならないと思っています。今後そうしたいと思います。心の底から皆さんに感謝申し上げます。」

国家機密保護法(1911年制定)違反-軍事基地の飛行場に入るとそうなる

abe-nuclear-fascism (1961年)12月9日のデモの直接の余波は,百人委員会の5人の幹部1911年(制定の)国家機密保護法に違反するものとして告訴されたことであった。一般人(法律の専門家以外)の見地からすれば,遣り方のおかしな裁判であった。検察側は,航空機を移動したり離陸したりすることを不可能にさせる意図をもって権限のない者(注:つまり「関係者以外」)がウェザースフィールド飛行場に立ち入ることは国家の安全を害するかどうかに関する問題に依拠して,陳述(意見)を十分に述べることが許された。弁護側の陳述は,ウェザースフィールドのような基地は,英国のいわゆる核(兵器)による’防衛’に従事しているあらゆる基地と同様,その存在自体が英国の安全を害するものである,という点にあった。ウェザースフィールドが一役かっている現在の(英国の)核政策の危険性について証言をするために米国からやってきていた物理学者(自然科学者)のライナス・ポーリング教授(Linus Carl Pauling, 1901-1994.08.19:アメリカ合衆国の量子化学者,生化学者。1954年にノーベル化学賞,1962年にノーベル平和賞を受賞)とレーダーの発明者ロバート・ワトソン= ワット卿(Sir Robert A. Watson=Watt, 1892-1973)と私(=ラッセル)は,長時間’宙ぶらりん’の状態にされていた。そうして,私たちの証言の全てが,他の弁護側証人の証言と同様 --弁護側証人のうちの何人かは証人として呼び出されることを認められなかったと私は確信しているが--,告訴に関係のないものと宣告され,除外された裁判は,まったく合法的に行われた。しかし,あらゆる’逃げ道’が弁護側に対しては不利になるよう無慈悲にも閉じられ,検察側に有利になるようにされた。

The immediate aftermath of the demonstration of December 9th was the charging of five leaders of the Committee under the Official Secrets Act of 1911. It was, from a layman’s point of view, a curiously conducted trial. The prosecution was allowed to present its case in full, resting on the question as to whether it was prejudicial to the safety of the nation for unauthorised people to enter the Wethersfield air field with the intention of immobilising and grounding the aircraft there. The defence’s case was that such stations as Wethersfield, like all the stations engaged in nuclear ‘defence’ of the country, were in themsleves prejudicial to the safety of the country. Professor Linus Pauling, the physicist, and Sir Robert Watson-Watt, the inventor of radar, who had come from the United States to give evidence as to the dangers of the present nuclear policy of which Wethersfield was a part, and I were kept hanging about for many hours. Then all our testimony, like that of other defence witnesses, of whom some, I believe, were not permitted to be called at all, was declared irrelevant to the charges and ruled out. It was managed quite legally, but all loopholes were ruthlessly blocked against the defence and made feasible for the prosecution.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報;https://russell-j.com/beginner/AB33-300.HTM

[寸言]
tokuteihimitu_definition 軍事に関わることはほとんど「特定秘密」や「機密事項」(少なくとも「取り扱い厳重注意」)にすることができる。だから、不都合なこと(例:ISなどの敵をやっつける際に、住民を誤爆;自分たちが行ったスパイ行為;武器を売るために外国の要人にリベート支払い;その他)は,いろいろ理由をこじつけて隠すことができる。
米国の場合は、定められた年限が経過すれば公文書全面公開されるが、日本の場合は、公開されなかったり、公開されても黒塗りが多かったり、最悪の場合は黙って処分されてしまったり(誰が処分したのか記録がなかったり)、とてもいいかげんな取り扱い(公文書管理)がされている。
だから、(故)佐藤栄作首相などのように、嘘のつき放題となる(嘘が明らかにされるときには既にこの世におらず/ノーベル「平和賞」さえも受賞)
今の政権で言えば、株価が16,000円以下になりそうになったら、GPIF(公的年金)資金をちゅうちょせずにぶち込んだり、選挙前に株価をつりあげるために年金資金による株の売り買いを頻繁に行ったりしても、(どの株を買っているかを公表することは株価に影響を与えるので、たとえ時間が経過した後であったとしても公表できない,とかなんとか理屈をつけて)「秘密事項」にしておける。

時間の浪費であり精力を分散させる行為-路線対立及び主導権争い

1961-218 百人委員会は他の面で既に自らを弱体化させ始めていた。百人委員会は、ただ単に核と軍縮の問題だけに専念すべきであるか、それともあらゆる – 国内における社会的・政治的- 不正に反対(抵抗)する行動を開始すべきであるか、に関して、会員たちの間で長い議論が持たれ始めていた。★これは時間の浪費であり、精力の分散であった。そのような広範な反対(抵抗)は、-いやしくもそれに従事すべきとするならば-、百人委員会の力や将来性を強化する時期においては明らかに遠い将来の問題であった。そのような企ては(百人委員会の)組織の強化を遅らせるだけだった。それに、この不幸な傾向は、主として、(1961年)9月17日の集会・デモの成功の意義の過大評価であるとともに、それに加えて、百人委員会の実際上の政治的及び管理運営上の無経験の結果であった。9月17日の成功は、非常に大きな’励み’となったとみなされるべきではあるが、決して、大衆の不服従運動の成功の見込みが確かになったものとみなすべきではなかったのである。我が国(英国)の人口の割に運動はいまだ小規模であるとともに、強固な反対に立ち向かうためにはあまりにも(実績による)証拠がともなっていなかった。不幸にも、9月17日に比べ、12月9日の集会・デモが相対的にみて失敗したことは、百人委員会の強化の時期に向けての教訓とは考えられずに、ただ単にうまくいかなかったとのみ考えられた。私は当時、公的な声明において、集会・デモの失敗による失意落胆を克服しようと努めるとともに、私的にこの教訓を植えつけようと努力した。しかし、その両方の試みに失敗した。

The Committee had already begun to weaken itself in other ways. Long discussions were beginning to be held amongst its membets as to whether the Committee should devote itself only to nuclear and disarmament matters or should begin to oppose all domestic, social and governmental injustice. This was a waste of time and a dispersal of energies. Such widespread opposition, if to be indulged in at all, was obviously a matter for the far future when the Committee’s power and capabilities were consolidated. By such projects consolidation could only be delayed. Again, this unfortunate tendency was the outcome, largely, of the practical political and administrative inexperience of the Committee added to the over-estimation of the meaning of September 17th’s success. The latter should have been regarded as very great encouragement but not as, by any means, the certain promise of a mass civil disobedience movement. In proportion to the population of the country, the movement was still small and too unproved to stand against determined opposition. Unfortunately, the comparative failure of December 9th was considered only as a discouragement, not as a lesson towards a period of consolidation. I tried in my public statements at the time to overcome the discouragement and, privately, to inculcate the lesson. But in both attempts I failed.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-290.HTM

[寸言]
TPP-hantai_Jiminto 様々な問題と取り組む政党ならいざしらず、特定の目的(例:反核運動)を果たすために始めた運動組織・団体が、取り組む課題を大幅に拡大したり、主導権争いなどを始めたりすれば、精力をそがれ、その組織の一番重要な役割さえも十分果たせなくなる危険性がある。
政治家目立ちたがり屋や権力志向の者が多く、より大きな権力を得るためには、自分がずっと主張し続けたことを「変節」しても、自分を誤魔化せる屁理屈を考えだす者が少なくない。いや、個人ではなく政党であっても,自分たちの敵である政党が,万一自分たちの政党が賛成できる政策を打ち出しても、反対のための反対をすることが少なくない。 そうした矛盾した行為をする政党は多く、与野党をとわない習性ではあるが、党のマニフェストに書いてあったこと(に対する裏切り)については、内心ふれられたくない思い出がいっぱいである。

「法廷劇」ーまるでドーミエのエッチング(の法廷)の世界と同じ

Daumier-etching_hotei それとは対照的に,法廷の光景は,まさにドーミエのエッチング(注:腐食銅版画)の(世界の)ように見えた。(禁固)2ケ月の有罪判決が私に言い渡された時,「恥を知れ! 恥を知れ! 88歳の老人だぞ!」(注:1961年9月の裁判の時には、ラッセルは89歳)という叫びが傍聴人から起こった。私は腹が立った。
その叫びは好意からであることはわかっていたが,私は故意に刑罰を受けようとしていたのであり,いずれにせよ年齢が有罪かどうかということに何らかの関係があるということは理解できなかった。★もしかりに何らかの関係があるとすれば,私の年齢(年をとっているということ)は,それだけ私の罪を大きくした。この訴訟担当の治安判事(警察裁判所判事)が,彼の見地から見れば私はもっと分別があってよい年齢である,と発言したことから判断すると,彼は世間の’標準’に近い人間であると私には思われた。
しかし,大体において,法廷も警察も両者とも,私が望んだ以上に,我々全員に対して,優しく振舞った。裁判が始まる前,ある警察官が,私たちが坐っていた狭い木製のベンチの苦しさを和らげるために,私の腰に当てるクッションを求めて裁判所内を探してくれた。クッションは見付からなかった(それに対して私は感謝した)。しかし,私は彼の骨折りを親切心からのものと受け取った。

By contrast the scene in the courtroom looked like a Daumier etching. When the sentence of two months was pronounced upon me cries of ‘Shame, shame, an old man of eighty-eight!’ arose from the onlookers. lt angered me. I knew that it was well meant, but I had deliberately incurred the punishment and, in any case, I could not see that age had anything to do with guilt. If anything, it made me the more guilty. The magistrate seemed to me nearer the mark in observing that, from his point of view, I was old enough to know better. But on the whole both the Court and the police behaved more gently to us all than I could have hoped. A policeman, before proceedings began, searched the building for a cushion for me to sit upon to mitigate the rigours of the narrow wooden bench upon which we perched. None could be found – for which I was thankful – but I took his effort kindly.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-230.HTM

[寸言]
TPJ-ABR3 「現代のソクラテス」と言われる所以(ゆえん)。
 国家犯罪糾弾し抵抗するが、公正な手続きを受けて有罪となった場合にはその刑に服する。もちろん、その法律が悪法の場合は、その法律を改正するように働きかける。(悪法であっても、「遵法精神」の重要性から従うべきだと言うだけで、悪法を改正しようとしない「遵法論者」,「国家主義者」とは異なる。

反核デモのため89歳にして逮捕され,1週間刑務所(付属の病院)に「留置」

BR6109-2 それから一カ月後、私たち夫婦が北ウェールズでの午後のドライブから帰宅すると、我が家の玄関先でオートバイにまたがっている、とても当惑していいるけれども感じのよさそうな巡査部長を見つけた。彼は、(1961年)9月12日にボウ・ストリート(ロンドン中央警察裁判所)に出頭するようにとの召喚状を私たち夫婦に手渡した。(右写真:裁判所に向かうラッセル夫妻及びシェーンマンほか)それは一般民衆を煽動して市民的不服従運動にかりたてたということで出されたものであった。召喚状は、百人委員会の幹部全員に対して出されたということであったが、実際はそのうちの何人かに対してだけであった。召喚を受けて出頭を拒んだ者はほとんどいなかった。

私たち夫妻は、事務弁護土(法律相談に応じたり、法廷弁護士の訴訟事務を手伝ったりする弁護士のこと)の意見を求めるため,それからもっと重要なことであるが、運動の同志たちと相談するために,ロンドンに赴いた(上京した)。
私はそのことで殉教者になることを少しも望まなかったが、★我々の考え方を一般に知らせるためにいかなる機会も最大限にに活用すべきであると思った。私たちの投獄がある一定の騒動を引き起こすだろうということを理解できないほど我々は無垢ではなかった。我々は、それまで我々がとってきた行動理由(動機)に対してこれまで動かされることがなかった人々の心に突破口を開き,少なくとも幾つかの行動理由(動機)に対して十分な共感(同情心)を創りだすことができるかもしれない、と期待した。
私たち夫婦は、二人とも直近に重い病気にかかっており、長期間の投獄は悲惨な結果をもたらすだろうという診断書を医者からもらっていた。それを、ロンドン中央警察裁判所で私たちの訴訟事件を担当することになっていた法廷弁護士(注:上級裁判所の法廷に立つ弁護士)に渡した。私たちが会った誰もが、私たち夫婦は有罪となって刑務所にいれられるとは、信じていないようであった。法廷弁護士は、そんなことをしたら(民衆の批判を受けて)まったく引き合わないと英国政府は考えるだろうと思っていた。
DOKUSH97 しかし、政府が私たちに禁固刑(投獄)を宣告しないことなどできるものか(ありうるものか)、私たち自身はわからなかった。しばらくの間、私たちの行為が政府を困らせたのは明らかであった。また、警察は百人委員会の事務所の手入れをしたり、その事務所に頻繁に出入りしていた多くの会員に対して下手なスパイ行為をしていた。その法廷弁護士は、私たち夫妻の投獄を完全に阻止することができると考えた。
しかし私たちはいずれにせよ極端は望まなかった。私たちは法廷弁護士に、私たちが無罪放免にはならないようにするとともに,2週間以上投獄という判決にならないようにして欲しい、と指示した。結局は、私たち二人はそれぞれ禁固2ケ月間の判決を受け、その判決は、医者たちの診断書によって、二人とも1週間の刑に減刑された。

A month later, as we returned from an afteroon’s drive in North Wales, we found a pleasant, though much embarrassed, Police Sergeant astride his motorcycle at our front door: He delivered summonses to my wife and me to be at Bow Street on September 12th to be charged with inciting the public to civil disobedience. The summons was said to be delivered to all the leaders of the Committee but, in fact, it was delivered only to some of them. Very few who were summoned refused to appear.
We went up to London to take the advice of our solicitors and, even more important, to confer with our colleagues. I had no wish to become a martyr to the cause, but I felt that I should make the most of any chance to publicise our views. We were not so innocent as to fail to see that our imprisonment would cause a certain stir. We hoped that it might create enough sympathy for some, at least, of our reasons for doing as we had done to break through to minds hitherto untouched by them. We had obtained from our doctors statements of our recent serious illnesses which they thought would make long imprisonment disastrous. These we handed over to the barrister who was to watch our cases at Bow Street. No one we met seemed to believe that we should be condemned to gaol. They thought the Government would think that it would not pay them. But we, ourselves, did not see how they could fail to sentence us to gaol. For some time it had been evident that our doings irked the Government, and the police had been raiding the Committee office and doing a clumsy bit of spying upon various members, who frequented it. The barrister thought that he could prevent my wife’s and my incarceration entirely. But we did not wish either extreme. We instructed him to try to prevent our being let off scot-free, but, equally, to try to have us sentenced to not longer than a fortnight in prison. In the event, we were each sentenced to two months in gaol, a sentence which, because of the doctors’ statements, was commuted to a week each.

出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-220.HTM

[寸言]
BRAINS-B 「生涯2度めの投獄」(一度目はもちろん第一次大戦時の反戦運動のため)ということですが、今回は89歳ということで、刑務所付属の病院での拘束となりました。外に出てはいけないことと、外に向かってメッセージを送ってはいけないことだけを守れば,後は自由でした。このラッセルの「刑務所留置(実際は付属病院への収容)」のニュースは世界に配信され、反戦・反核運動のための宣伝になりましたので、ラッセルにとってはまずは成功と言ってよかったのではないでしょうか?

なお、ラッセルは「法律を犯した以上、刑に服することは当然」と考えており、年齢を理由に「無罪」にしてあげようという、法廷での(傍聴者たち)の声には、「年齢のせい」にされることには,『自伝』(次のページ参照)で不満をもらしています。
https://russell-j.com/beginner/AB33-230.HTM
しかし、★ここで重要なのは、法律を犯すことは悪いことだとしても、法律に従うことが法律を犯すこと以上に悪いことであれば、「正しいと信じることを行い、法律に定められた刑に服する」というのが一番正しい態度であると、ラッセルが考えたことです。つまり、「沈黙,あるいは服従は人類に対する罪である」という状況もあることに,人々は思いをいたす必要があるということです。

Has Man a Future ? (1961)の出版 -邦訳書は誤訳が多く・・・

TP-HMF (1961年の)3月末に向けて,私は,『常識と核戦争』(Common Sense and Nclear Warfare, 1959)で扱った主題を進め,またその一部を敷衍して,核問題と軍縮に関する新しい本を執筆することについて,ペンギン・ブックス(社)と打ち合わせをし,続いてペンギン・ブックス(社)は私のいつもの出版者であるスタンレイ・アンウィン卿(注:George Allen and Unwin 社のオーナー)と打ち合わせ(取り決め)を行なった。この新しい本は『人類に未来はあるか?』 (Has Man a Future?)という書名がつけられることになった。私は直ちにその本の執筆を開始した。しかし執筆は,私がロンドンで行なった一連の録音と,バーミンガムでの2回の集会と,それから,しばらくの間いかなる仕事もすることを妨げる非常に悪性の’帯状疱疹’の発症(注:雅子妃殿下がかかったことでも有名)によって中断させられた。しかし,私はその回復期に,この新しい本のかなり多くの分量を執筆した。そして原稿締切りぎりぎりに間に合うように書き終えた。その本は,(1961年)秋に出版された。

TPJ-HMFTowards the end of March, I had arranged with Penguin Books, who, in turn had arranged with my usual publisher, Sir Stanley Unwin, to write a further book for them on nuclear matters and disarmament, carrying on my Common Sense and Nuclear Warfare and expanding parts of it. The new book was to be called Has Man a Future ? and I began work on it at once. But it was interrupted by a series of recordings that I made in London and by the two Birmingham meetings and then by a very bad bout of shingles which prevented my doing any work whatsoever for some time. But during my convalescence I wrote a good deal of the new book, and it was finished in time to meet its first deadline. It was published in the autumn.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-200.HTM

[寸言]
CV-GOYAK 日高一輝氏による邦訳書(『人類に未来はあるか?』)は誤訳が多いので、別宮貞徳氏にケチョンケチョンに揶揄されてしまいました。詳しくは,次のページに詳しくご紹介しておきました。
★ 参考:別宮貞徳「刷数多きが故に貴からず(ラッセル著,日高訳『人類に未来はあるか』他,多くの邦訳書の誤訳指摘)」
https://russell-j.com/cool/GOYAKU58.HTM

(故)日高氏は,日本にいるより海外にいることの方が多く、「実用英語」はとてもできたと思われますが、『ラッセル自伝』ほか、日高氏が邦訳されたラッセルの著作は誤訳がとても多く、注意して読む必要があります。日本語の意味がとれないことろは誤訳しているだろうと考えてまず間違いありません。

英国国防省前での座り込みデモ(1961年2月18日)

1961C100-300x217 (1961年)2月18日(ラッセル88才の時)の朝は、うす暗く、霧雨が降り、寒かった。そのためにわれわれは気が重かった。もしも雨になれば、(核兵器反対の)デモ参加者の数は、すでに参加を誓約していた多数の中核者たちがあったにもかかわらず、減るだろうことは、疑い得なかった。しかしわれわれがトラファルガー広場に集合した時には、大群集となっていた。どれほど大きな群衆であったか、正確に言うことは不可能である。新聞社や警察や百人委員会が計算した数の★中間★をとると、デモ参加者は約2万人を数えた。演説は立派に、てきぱきと行われた。集会の後、大きな幟(のぼり)を先頭に、ホワイトホール(ロンドンの官庁街)に向かって行進が始まったが、その行進は、百人委員会のデモ進行係の人たちの熟練された手ぎわのよさで、守備よく差配された。その行進は、トラフファガー広場にいた人々(約2万人)の中から、5千人をやや上まわる、波のように押し寄せたけれども、穏やかで真摯な,群衆から成っていた。ある地点で、われわれは警察によって、★交通を妨げるという理由★で停止させられたけれども交通障害という理由は、明らかに効き目はなく、行進は続行された。最終的には、5千人以上の人々が国防省のまわりの歩道に坐ったり、横になったりした。そうしてわれわれは暗くなるまで約2時間、そこに坐った(写真:国防省前に座り込むラッセルを始めとした百人委員会のメンバー)。それは、まったく無音ということではなかったが、きわめてまじめで静かな、政府の核政策に対する抗議であった。この座り込みの間、かなり多数の人々が座り込みに加わり、さらに多くの人々がわれわれを一瞥しようとやってきた。また、当然のこと、新聞やテレビの関係者が周囲に群れ集まり、いろいろ質問を行なった。‘デモ行進者が全員座った’ことがアナウンスされるやいなや、マイケル・スコットとシェーンマンと私は、事前に用意した貼り紙'(ビラ)を取り出し、国防省玄関のドアに貼り付けた。
BR-1961B 政府当局が消防用のホースを我々に向けて放水するように消防庁に依頼していたことを、我々は知った。幸いにも、★消防庁はそれを拒否した。午後6時になったところで、座り込みの終了を宣言した。’歓喜の波‘が全群衆にひろがった。夕暮れの中、灯火に照らされながらホワイトホールヘと引き返し、歓呼する支持者たちの間を通り過ぎた時、私は非常に幸せであった。我々はその日の午後始めたことを完全になし遂げ、我々が志した真剣な目的が何であるかを明らかにすることができたからであった。また、私を迎えてくれた群衆の歓呼と、私が通過する際に彼らが一斉に叫んでくれた「彼はとてもいい奴だから・・・」という大合唱に、私は感動させられた。

BR-1961The morning of February 18th was dark and drizzly and cold, and our spirits plummeted. If it rained, the numbers participating in the demonstration would undoubtedly dwindle in spite of the large nucleus already pledged to take part. But when we assembled in Trafalgar Square there was a great crowd. Precisely how great it was, it is impossible to say. The median number as reckoned by the press and the police and the Committee made it about 20,000. The speeches went well and quickly. Then began the march up Whitehall preceded by a large banner and managed with great skill by the Committee’s marshals. It comprised a surging but calm and serious crowd of somewhat over 5,000 of those who had been in the Square. At one point we were held up by the police who tried to stop the march on the ground that it was obstructing traffic. The objection, however, manifestly did not hold, and the march proceeded. Finally, over 5,000 people were sitting or lying on the pavements surrounding the Ministry. And there we sat for about two hours till darkness had fallen, a very solid and quiet, if not entirely mute, protest against governmental nuclear policies. A good many people joined us during this time, and more came to have a look at us, and, of course, the press and TV people flocked about asking their questions. As soon as word came that the marchers had all become seated, Michael Scott and Schoenman and I took a notice that we had prepared and stuck it on the Ministry door. We learned that the Government had asked the Fire Department to use their hoses upon us. Luckily, the Fire Department refused. When six o’clock arrived, we called an end to the sit-down. A wave of exultation swept through the crowd. As we marched back towards Whitehall in the dusk and lamplight, past the cheering supporters, I felt very happy – we had accomplished what we set out to do that afternoon, and our serious purpose had been made manifest. I was moved, too, by the cheers that greeted me and by the burst of ‘for he’s a jolly good fellow’ as I passed.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-190.HTM

[寸言]
1961年2月18日(ラッセル88歳の時)の寒い日に行われた,核兵器撤廃運動の歴史に残る座り込みデモ。(すぐ後ろにエディス夫人がピッタリと付き添っている。) 写真には、ラッセルを委員長としていますが、マイケル・スコット(写真で、向かって、ラッセルの左に座っている人)が議長(行動隊の隊長のようなもの)ですので、ラッセルは「100人委員会総裁」という表現の方がよいだろうと思われます。

なお、最後の行の「「彼はとてもいい奴だから・・・」という大合唱に、私は感動させられた。」の、「彼はとてもいい奴だから(For He’s a Jolly Good Fellow)・・・」は、英米で、お祝いの時(誕生日や結婚式ほか)に広く歌われる(定番の)歌だそうです。
http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/jolly-good-fellow.htm

R. シェーンマンは「重大な事柄の中にユーモアを見出す能力に長けた青年」

Schoenman-R 1960年7月の終わり近くに,ラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~ /右の写真及び下の写真の左端)という名前の若いアメリカ人が初めて私を訪ねて来た。彼がCNDに関連した活動をしていることをある程度聞いていたので,彼と会うことにかなり興味を抱いていた。彼は -政治に関して,経験がなく,少し理論に走るきらいがあるにせよ- エネルギーに満ちあふれ,アイデアに富んでおり,知的な人間であるということがわかった。また,私が信奉する主義主張において,残念ながら多くの労働者に欠けているところのもの,即ち,’風刺’を解する能力や,’本質的に非常に重大な事柄の中にユーモアを見出す能力’を彼は備えており,私は彼のそういうところも好きであった。彼はすぐ共感し,また激し易い人間であることがわかった。私が徐々にのみ理解するようになったことであり,時が経つにつれてのみ明らかになったことであるが,彼は反対されることに我慢することが困難であり,驚くほど完璧で比類がないほどの自信をもっていた。私は,経験を活かすためには知性にも’訓練’というものが必要だ,と信じていた。私は当初彼を十分に理解していなかったが,たまたまあることで彼に賛成し,続いて当時彼が活動していたことに賛成した。そうして,彼が個人的に私に対し絶えず示してくれた’寛大さ’に対し深く感謝したし,今日なお感謝あるのみである。彼の精神は,非常に敏速かつ確固たる動きをみせた。彼の精力は無尽蔵であるかのごとく思われた。物事をなしうるために,彼に頼りたいという誘惑にかられた。

19610912Towards the end of July, 1960, I received my first visit from a young American called Ralph Schoenman. I had heard of some of his activities in relation to CND so I was rather curious to see him. I found him bursting with energy and teeming with ideas, and intelligent, if inexperienced and a little doctrinaire, about politics. Also, I liked in him, what I found lamentably lackng in many workers in the causes which I espoused, a sense of irony and the capability of seeing the humour in what was essentially very serious business. I saw that he was quickly sympathetic, and that he was impetuous. What I came only gradually to appreciate, what could only emerge with the passage of time, was his difficulty in putting up with opposition, and his astonishingly complete, untouchable self-confidence. I believed that intelligence working on experience would enforce the needed discipline. I did not at first fully understand him but I happened to be approved of him and, in turn, to approve of what he was then working for. And for his continued generosity towards me personally I was, and can still only be, deeply grateful. His mind moved very quickly and firmly and his energy appeared to be inexhaustible. It was a temptation to turn to him to get things done.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-150.HTM

[寸言]
ある日、R.シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~ )というアメリカの青年がラッセルを訪ねてきた。シェーンマンには若さがあり、精力があふれ、また才気があふれており、ユーモアを解した。老齢のラッセルは、平和運動において、シェーンマンにたよるようになっていき、そうして多くの成功を収めることができた。
しかし、しだいにシェーマンの強引さがめだつようになり、自分の意見なのにラッセルの意見であるとか、ラッセルの代理だと言ったりするようになっていった。
晩年(1969年12月/ラッセル97才の時)には、残念ながら、「メモランダム」を発表して、シェーンマンと断絶せざるを得なくなった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Schoenman

利用したいところだけツマミ食いして利用する政治家-日本では常態です!

nakatani_tuihonne 大きな期待を持ったひとときがあった。それは、国防大臣のダンカン・サンディス(Edwin Duncan Sandys, Baron Duncan-Sandys、1908-1987)が私のその本を推薦する文を書き、その本について私と語り合いたいと言った時である。彼は保守党員であり、英国政府の政策立案者でもあった。しかもこうした問題に関するあるパンフレットづくりに協力していた。ところが、私が彼に会いに行った時、彼はこう言った。「これはたいへんいい本です。しかし、必要なのは単に核兵器撤廃ばかりでなく、戦争そのもの禁止です」。 私は、その本の中で、核戦争をひき起こさないよう世界に保証を与える唯一の道は戦争をなくすことであると述べている部分を指摘したが、無駄だった。彼は私がそれほど聡明なことを言いえていないと信じ続けた。彼は私の論じた他の議論を退けた。私は失望し、彼のもとを去った。私は、私の本を読み既に知識を持っている人たちは大部分、自分のとり入れたいと思うところだけをとり入れようとする強い先入感をもって読むだろうということを悟った。そこで私は、その後数ケ月間、CNDや他の諸所の集会で演説をしたり、放送をしたりといった、その時々の仕事や自分自身の人生を楽しむ生活に戻った。

I had one moment of high hope when the Minister of Defence, Duncan Sandys, wrote commending the book and saying that he would like to talk with me about it. He was a Conservative, and a policy-maker in a national Government, and had collaborated in a pamphlet on the subject himself. But when I went to see him, he said, ‘It is a good book, but what is needed is not only nuclear disarmament but the banning of war itself’. In vain I pointed out the passage in my book in which I had said that the only way to ensure the world against nuclear war was to end war. He continued to believe that I could not have said anything so intelligent. He cast my other arguments aside. I came away discouraged. I realised that most of the already informed people who read my book would read it with a bias so strong that they would take in only what they wished to take in. For the following months, therefore, I returned to the piecemeal business of speaking at meetings, CND and other, and broadcasting, and to the pleasures of my own life.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-070.HTM

[寸言]
panama-papers_kyoshano-tengoku 政治家が調子の良いことを言っても大部分信じるに値しないことはわかっているはずなのに,同じような期待をして裏切られても「◯×よりはましだ」という世論づくりによって騙されて,現状維持を容認し続ける選挙民。

「国防関係」は,どこの国においても、愛国主義を看板にしながら権力者や軍需産業が堂々と利益を得られる,費用対効果がすぐれた分野。賄賂が横行しても,特定秘密保護法に守られて安心して、国民やマスコミの目を盗んで蓄財に励むことができる。その利益は、タックスヘブンなどを利用して「節税」(法律が未整備なので法律に触れない!)につとめることができる。

 パナマ(強者の天国)良いと~こ、一度~はおいで、ドコイショ・・・」