秘密の学生団体「使徒会」 ”The Apostles”

Cambridge_Apostles 私のケンブリッジ大学時代における最大の幸福は,会員の間では,ザ・ソサエティ(The Society/学会)という名で知られていた --この会のことを知っている外部の人たちは,使徒(会)(The Apostles)と呼んでいた-- ある団体に結びついていた。(注:以下,「使徒会」という訳語をあてます。)使徒会は,小規模の討論会(討論を目的としたグループ)であり,平均して各年(毎年),1,2名ずつ入会しており,毎週土曜夜に会合をもっていた。使徒会は1820年以来存在しており,創設以来,ケンブリッジ大学の人間で,何らかの分野において知性に優れている人は,ほとんど会員になっていた。使徒会は秘密ということになっているが,それは,会員候補として検討(対象)となっていることに当該人物が気づかないようにするためである。私がそのように早く,最も知り合いになる価値のある人々を知るにいたったのは,この’使徒会 の存在のおかげであり,(また)ホワイトヘッドが会員であり,彼が若い会員たちに,サンガーと私が提出した奨学金請求論文をよく研究した方がいいと,薦めていたからである。ごくまれな例外を除いて,会員はすべて,いずれかの時期,個人的に親密な友人であった。
Nevile'sCourt-Cloisters 議論にあたっての原則は,何のタブーも設けないこと(どのような主題や事柄も議論の対象となること),何の制限も設けないこと,どんなことを言われてもショッキングなこととは考えないこと,絶対的な思索の自由にいかなる障壁も設けないこと,であった。我々はあらゆる種類の事柄を論じあった。もちろん疑いもなく未熟さはあったが,(会を離れた)後にはほとんど不可能な’公平さ’と’興味’をもって議論を行った。例会は通常いつも深夜1時頃に終わった。そうして,そのあと私はいつも,1人か2人の他の会員とともに,ネヴィルズ・コートの回廊(写真:Nevile’s Court の回廊を行ったりきたり,数時間歩いたものである。我々は,たぶん,自分自身に対しかなり厳格であったように思う。なぜならば知的誠実という徳性は,自分たちが保持すべきもの(守るべきもの)であると考えていたからである。疑いもなく我々はこの徳(性)を,世間平均以上に,成就しており,そうして私は,ケンブリッジ大学の最良の知牲は,この点において顕著であり続けたと考えたい。私は第2学年の中頃にこの会の会員に選ばれた。だが,そのような会が存在することは全然知らなかったが,会員は皆すでに私と親しい間柄にあった。

Nevile'sCourtThe greatest happiness of my time at Cambridge was connected with a body whom its members knew as ‘The Society’, but which outsiders if they knew of it, called ‘The Apostles’. This was a small discussion society, containing one or two people from each year on the average, which met every Saturday night. It has existed since 1820, and has had as members most of the people of any intellectual eminence who have been at Cambridge since then. It is by way of being secret, in order that those who are being considered for election may be unaware of the fact. It was owing to the existence of The Society that I so soon got to know the people best worth knowing, for Whitehead was a member, and told the younger members to investigate Sanger and me on account of our scholarship papers. With rare exceptions, all the members at any one time were close personal friends. It was a principle in discussion that there were to be no taboos, no limitations, nothing considered shocking, no barriers to absolute freedom of speculation. We discussed all manner of things, no doubt with a certain immaturity, but with a detachment and interest scarcely possible in later life. The meetings would generally end about one o’clock at night, and after that I would pace up and down the cloisters of Nevile’s Court for hours with one or two other members. We took ourselves perhaps rather seriously, for we considered that the virtue of intellectual honesty was in our keeping. Undoubtedly, we achieved more of this than is common in the world, and I am inclined to think that the best intelligence of Cambridge has been notable in this respect. I was elected in the middle of my second year, not having previously known that such a society existed, though the members were all intimately known to me already.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
http://russell-j.com/beginner/AB13-250.HTM

[寸言]
東大始め、著名な大学にはこういった秘密の学生団体がありそうである。ただし、英米と異なり、日本の場合は、大学や大学のOBが裏でかかわっていそうである。たとえば、東大法学部には土曜会という保守で右翼っぽい人間の集まり(読書会)があったが、今でも別の形で存在していそうである。
ちなみに、土曜会には次のマンバーが過去に在籍していた。

若泉敬、佐々淳行、粕谷一希、谷内正太郎ほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E4%BC%9A

大学で自分より知的に優れている人を見つけたい-希望・失望そして自信

BR-1891 ケンブリッジ大学時代の最初(の瞬間)から、私は、恥ずかしがり屋であったにもかかわらずとても社交的であった。(写真は1891年,ラッセル19歳の時)そうして私が(学校にいかずに)家庭でずっと教育を受けてきたことは何ら障害にならないことがわかった。しだいに私は、気の合った者同士のつきあいの影響のもと、しだいに生真面目でなくなった。自分の考えたことを言うことができ、またそれが怖がられもせず、あざけりもされず、あたかもかなり分別あることを言ったかのように応答されることを発見し、私は最初は、興奮した。長い間私は、まだ会ったことがなくあえばすぐに私よりも知的に優れていることわかるような、本当に頭の良い人間がこの大学のどこかにいるだろうと、想像していた。しかし学部2年生の時すでに、大学で最も頭のいい人達をすべて知りつくしてしまったことがわかった。それで私は失望すると同時に、自信が増した。

Graduate_shoutsFrom my first moment at Cambridge, in spite of shyness, I was exceedingly sociable, and I never found that my having been educated at home was any impediment. Gradually, under the influence of congenial society, I became less and less solemn. At first the discovery that I could say things that I thought, and be answered with neither horror nor decision but as if I had said something quite sensible, was intoxicating. For a long time I supposed that somewhere in the university there were really clever people whom I had not yet met, and whom I should at once recognize as my intellectual superiors, but during my second year, I discovered that I already knew all the cleverest people in the university. This was a disappointment to me, but at the same time gave me increased self-confidence.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-150.HTM

[寸言]
人間の(全体的・総合的)能力を測定することは難しい。確かに、数学とか物理学とかか、文才とか、身体能力とかいった、個々の能力の優劣はつきやすい。しかし、知的能力全体を比較し優劣を決めることは難しい。どれだけの知識分野で比べれば十分かもわからないし、IQの得点だけで評価できるものでもない。
ラッセルはかつて、ケインズのことを「これほど頭の切れる人物にあったことがなかった]」と語っているが、それも総合的・全体的能力でラッセルより優れていたとも劣っていたとも測定しようがない。ケインズは数学的能力ではラッセルに劣っていたであろうし、諸科学に対する理解力でも同様であろう。
したがって、大学受験でどの大学のどの学部に受かったかということだけで、人間の知的能力の序列を決めることは馬鹿げている

大学にあがるまで自分は一生不幸な人生を送るだろうと思っていたラッセル

kaisin 私は、大人になったら数学で何か重要なことをなそうという決意によって、精神的に支えられた。しかし、私は、(心から)親しくなれる相手、即ち、いかなる思想であれ、自由に私の考えを述べることができる相手、にめぐり会えるなどとは思わなかった。また、私の人生の一期間でも、大きな不幸からまぬがれることができるだろうとは期待してもいなかった。(漫画:梅田梅太郎氏に提供していただいたもの
★ 漫画の全体 http://russell-j.com/beginner/BR-COMIC.pdf )

I was upheld by the determination to do something of importance in mathematics when I grew up, but I did not suppose that I should ever meet anybody with whom I could make friends, or to whom I could express any of my thoughts freely, nor did I expect that any part of my life would be free from great unhappiness.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-150.HTM

[寸言]
PHOTO07-W大学に入学し、幸い、生涯の友を得ることができた。そして、ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジが世界中で最も居心地のよい場所であると思うようになったが、それも、第一次世界大戦の時、反戦の署名をしていた同僚の多くが主戦論にまわり、ラッセルは孤立することになって打ち砕かれ、ケンブリッジ大学にも「知的誠実性」に限界があることを知り愕然とすることになる。(写真はラッセルが学んだトリニティ・コレッジの正門、1980年夏に松下撮影)

ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ奨学生資格試験の準備

waidan_ueno-chizuko 16歳の誕生日を迎える直前,私は,当時田舎にあったオールド・サウスゲートの陸軍のクラマー(受験準備のための学校)に入学させられた。私がそこにやられたのは,陸軍に入るための受験準備が目的ではなく,ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの奨学生資格試験(準備)のためであった。けれども,聖職につこうとする1,2の’地獄行き’の者を除いて,ほとんど全員が,陸軍に入ろうとしていた。私を除いた全員が,17か,18か,19(歳)であったので,私が最年少であった。彼らは皆,ちょうど売春婦のところに頻繁に通いはじめる年頃であり,売春婦通いが彼らの会話の主な話題であった。彼らのなかで最も賞賛されていたのは,以前梅毒にかかったが治ったと主張していた青年であり,そのことは,彼に大いなる栄光を与えた。彼らは車座に座り,猥談をするのを習慣としていた。どんな出来事も,彼らは淫らな話をする機会にしてしまった。ある時,その受験予備校(の教師)が,彼らのうちの一人に,一枚の書き付けをもたせ,近隣の家に届けさせた。戻って来た彼は,みんなに,ベルを鳴らしたらメイド(女中)が出て来たので,彼女に彼が,「手紙(letter はフランス語で’コンドーム’の意味もある)持って来ました」と言ったら,それに対して彼女は,「あなたが’手紙’を持って来てくださり,私は嬉しい。(もちろん彼女はフランス語の’letter’には’コンドーム’の意味もあることは知らないであろう。)」と答えた,と語った。
ある日,教会で,「いざや我がエベネゼル(注:イスラエル人の勝利を記念してサムエルが建てた石の名)を高くかかげん」という賛美歌の中の一句が歌われると,彼らは,「私は今までそのように(男性のシンボルのことを我がエベネゼルと)呼ばれるのを聞いたことがない」と言った。(注:I’ll raise my Ebenezer は,「男性のシンボルを奮いたたせよう!」といった意味にもとれるということか?)

Just before my sixteenth birthday, I was sent to an Army crammer at Old Southgate, which was then in the country. I was not sent to in order to crammer for the Army, but in order to be prepared for the scholarship examination at Trinity College, Cambridge. Almost all of the other people there, however, were going into the Army, with the exception of one or two reprobates who were going to take Orders. Everybody, except myself, was seventeen or eighteen, or nineteen, so that I was much the youngest. They were all of an age to have just begun frequenting prostitutes, and this was their main topic of conversation. The most admired among them was a young man who asserted that he had had syphilis and got cured, which gave him great kudos. They would sit round telling bawdy stories. Every incident gave them opportunities for improper remarks. Once the crammer sent one of them with a note to a neighbouring house. On returning, he related to the others that he had rung the bell and a maid had appeared to whom he had said: ‘I have brought a letter’ (meaning a French letter) to which she replied: ‘I am glad you have brought a letter.’ When one day in church a hymn was sung containing the line: ‘Here I’ll raise my Ebenezer,” they remarked: “I never heard it called that before!’
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-090.HTM

[寸言]
当時の英国では、貴族の子弟は学校教育を受けることなく、個人家庭教師によって種々の教養を身に着けていました。ラッセルの場合も、幼稚園に通ったのと、大学受験の予備校に通った他は、学校教育を受けたことはありませんでした。
ラッセルがケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの奨学生資格試験準備のために通った予備校(クラマー)の生徒は大部分が陸軍に行こうとする若者(ラッセルより年上)であり、猥談にあけくれる姿を目にして,青年ラッセルはショックを受けます。
なお、大学教育を受けるのはケンブリッジ大学にあがってからですが、(多くの貴族の子弟も同様でしょうが)ラッセルは,大学に入学する前に既に,(叔父から科学教育を受けたことも含め)今日の大学生が4年間で学ぶ以上の「教養」を身に着けていたことを頭においておいたほうがよいでしょう。

青年期にシェリーの詩を読んで感激

shelley 私は偶然シェリー(P. B. Shelley, 1792 – 1822:英国を代表するロマン派詩人)に出会った。ある日私は,ドーヴァー・ストリートにあるモードおばさんの家の居間で,彼女を待っていた。そこにあるシェリーの詩の本をとって開いたら,「アラスター-または孤独の霊-」の部分だった。それは,私がかつて読んだもののなかで,最も美しい詩だと思われた。もちろん,その詩(アラスター)の非現実性は,私がアラスターを賛美する最大の要素であった。おばさんが家に着いた時,ほぼ半分ほど読んでしまっていたが,私はその本を書棚にもどさなければならなかった。私は,大人たちに,シェリーを偉大な詩人と考えられないかどうか尋ねたが,彼らはシェリーをよく思っていないことがわかった。けれども私は,このことで躊躇せず,私は暇な時はいつもシェリーを読んだり,暗記したりして過ごした。私は,自分考えたり感じたことを話すことができる相手は誰もいなかったので,私はしばしば,シェリーを知るということが何と素晴らしいことだろうか,また,現在生きている人でこんなに共感できる人とはたしてめぐり逢えるものだろうか,と思った。

shelley-sisyuI came upon Shelley by accident. One day I was waiting for my Aunt Maude in her sitting-room at Dover Street. I opened it at Alastor, which seemed to me the most beautiful poem I had ever read. Its unreality was, of course, the great element in my admiration for it. I had got about half-way through when my Aunt arrived, and I had to put the volume back in the shelf. I asked the grown-ups whether Shelley was not considered a great poet, but found that they thought ill of him. This, however, did not deter me, and I spent all my spare time reading him, and learning him by heart. Knowing no one to whom I could speak of what I thought or felt, I used to reflect how wonderful it would have been to know Shelley, and to wonder whether I should ever meet any live human being with whom I should feel so much in sympathy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-050.HTM

[寸言]
PLAS03 ラッセルは青年時代にシェリーの詩にであい、感銘を受け、生涯、愛読することになる。シェリーは裕福な貴族の家に(長男として)生まれ、因習を嫌い、オックスフォード大学を追放され、放浪の詩人となる。1811年(19歳)の時に『無神論の必要』 を出すとともに、結婚制度を否定し自由恋愛を信奉する。このように、シェリーはラッセルとの共通点を多くもっている。
ラッセルは晩年、北ウェールズのプラス・ペンリンの自宅で死ぬまでEdith と暮らしたが、その家からはシェリーが住んでいたタニーラルトを眺めることができた。ラッセルはそのことについて、下記のページにある書簡のなかで述べている。(写真:ラッセルの秘書 C. Farley、牧野力教授、ラッセルの4番目の妻 Edith, 全員故人)
「タニーラルトのシェリー」
http://russell-j.com/beginner/DBR5-41.HTM

ラッセルの思春期の思索-性と宗教と数学

青年期の数年間の私は,とても孤独であり,不幸であった。感情生活においても(情緒面においても),知的生活においても,ラッセル家の人々に対して,頑なに秘密を保つことを余儀なくされた私の関心は,性と宗教と数学の間にわけられた。私は,青年期に性に没頭したことを想い出すと不愉快になる。あの頃私が,どういうふうに感じていたかを思い出したくない。しかし,こういうふうであればよかったといった希望的なことはのべずに,事実あった通りを以下述べるよう最善を尽くしてみよう。・・・。

GREEK-EXThe years of adolescence were to me very lonely and very unhappy. Both in the life of the emotions and in the life of the intellect, I was obliged to preserve an impenetrable secrecy towards my people. My interests were divided between sex, religion, and mathematics. I find the recollection of my sexual preoccupation in adolescence unpleasant. I do not like to remember how I felt in those years, but I will do my best to relate things as they were and not as I could wish them to have been.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-010.HTM

[寸言]
『ラッセル自伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols.)には,膨大な量の書簡や日記が収録されています。幼児期のものは少しだけですが、青年期のものは多く含まれています。青年期の日記は祖母などにみられたくないということで、鍵付きの日記帳に「ギリシア語練習帳」とタイトルがつけられ、ギリシア文字で綴られています。(上の添付写真参照) 15歳くらいからいろいろな思索が綴られており、なかでも宗教(キリスト教)に関してできるだけ客観的に検討しようとした努力を垣間見ることができます。この思索の末についに宗教(キリスト教信仰)を捨てることになります。

TPJ-WIC1 ラッセルのギリスト教に対する批判は容赦がなく、キリスト教の信者からは、ラッセルは,(日本の宗教家からさえも)宗教(特にキリスト教)の本質や役割がわかっていないと批判されます。しかし、特定の宗教を信じている人たちは、信じることを決めたらそれ以上の疑問をもたないようにしているだけであり、ラッセルのように宗教や神について疑問に思ったことについて徹底的に「自分の頭」で考えたことがない人がほとんどです。

それに対し、宗教の場合は「信じることが重要だ」と言う人がいますが、それなら「どんな宗教でも信じさえすればよいのか」と言うと、その人(ラッセルを批判する人)が信じている宗教を信じることはよいが、それ以外の邪教を信じることは無宗教よりもっと悪いと言ったりします。

キリスト教とイスラム教の対立も、これでは解決しようがありません。これに対し、日本の場合一神教ではなく多神教(八百万の神の崇拝)だからよいと自分たちの優位性をほこる人も少なく無いですが、(日本会議にみさなんを始め)同様に浅はかな人が多いと言わざるをえません。

数学は(両親なき後)祖母に育てられた孤独なラッセルの希望の星であった

PHOTO4 (幼児期朝は非常に早く目が覚め,時々金星が出ているのが見えた。ある時,金星森の中のランタン(角灯)と見まちがえた。たいていの朝,日の出を見たし,4月の晴れた日には時々家から抜け出して,朝食前に長い散歩をよくした。日没(の太陽)が大地を赤く染め,雲を黄金色に染めるのを見まもった。風の音に耳を頓け,雷の稲光りに歓喜した。(写真:祖父母の自宅 Pembroke Lodge の庭から西方を望む/松下が1980年8月に撮影)
幼少時代を通じて,孤独感がしだいに増すとともに,誰か語り合うことのできる人間に会うことについて(会えないのではないかという)絶望感がしだいに増していった。(そうして)自然と本と(後には)数学が,私が完全に意気消沈するのを救ってくれた。

In the morning I woke very early and sometimes saw Venus rise. On one occasion I mistook the planet for a lantern in the wood. I saw the sunrise on most mornings, and on bright April days I would sometimes slip out of the house for a long walk before breakfast. I watched the sunset turn the earth red and the clouds golden; I Iistened to the wind, and exulted in the lightning. Throughout my childhood I had an increasing sense of loneliness, and of despair of ever meeting anyone with whom I could talk. Nature and books and (later) mathematics saved me from complete despondency.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-210.HTM

[寸言]
br_young11 ラッセルは3歳までに両親が亡くなり、(兄とともに)祖母に引き取られて育てられることになった。しかし、祖母は深い愛情をもってはいたが孫を厳しく育てた。従って,両親に甘えるような愛情を経験することができなかった。(添付写真は11歳の時のラッセル)
この孤独感はラッセルが18歳の時ケンブリッジ大学に入学して生涯の友を得るまで続くことになる。ある意味では、この孤独感は生涯続くが、結婚し、1921年に長男が(再婚相手との間に)生まれることにより、かなりやわらぐことになる。
その後、自殺衝動がたびたび訪れるが,数学をもっと知りたい・研究したいという欲求がラッセルを自殺から救うことになる。

幼児期の恥ずかしい思い出のひとつ - 子供の心、親知らず

Einstein_Imagination 最も鮮明な,幼い時の私の記憶の多くは,恥かしい思い出(記憶)である。1877年の夏(ラッセル5歳),祖父母はカンタベリー大主教(注:英国国教会とその世界的組織である聖公会(アングリカン・コミュニオン)の最上席の聖職者)からブロードステアーズの近くのストーン・ハウスと呼ばれた一軒の家を借りた。そこへゆく汽車の旅は私にはとても長いものに思われた。しばらくして私は,スコットランドに到着したに違いないと考えはじめていたので,次のように言った。

僕たちは今どの国にいる?

祖父母たちはみんな私のことを笑って言った。

海を渡らなくては英国から外に出られないということを知らなかったの?

私はあえて説明しようとはしなかった。そして恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
松下注:言うまでもなく,ラッセルが言いたいのは,英国は,イングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドおよび植民地だった自治領等から構成されており,スコットランドは狭義の意味ではイングランドとは別の国のはずだということ。)

Many of my most vivid early memories are of humiliations. In the summer of 1877 my grandparents rented from the Archbishop of Canterbury a house near Broadstairs, called Stone House. The journey by train seemed to me enormously long, and after a time I began to think that we must have reached Scotland, so I said:
‘What country are we in now ?
They all laughed at me and said:
‘Don’t you know you cannot get out of England without crossing the sea ?’
I did not venture to explain, and was left overwhelmed with shame.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-170.HTM

[寸言]

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親からみた場合,子供の発言は,時に想像力豊かに見えたり,幼く見えたりする。親も自己中心的なところや先入観があり,「子供の言うことだから・・・(あてにならない/言葉通りに受け取ることはない)」と言うかと思うと,「子供は(そのようなことで)嘘をつかない・・・」と言ったりして,自分の都合の良い解釈をしたりする。ラッセルの場合も同じであり,親が想像する以上に知的に早熟であるとともに,周囲の大人には理解されない子供らしい感受性も多く持っていた。それゆえ,しだいに内向的になっていくことになる。

「汝,群衆に従いて悪を為すなかれ」-集団から孤立しても付和雷同せず

not_follow_a-crowd 14歳以後,祖母の’知的な限界‘が私にはとても耐えがたいものになり,また祖母の清教徒的道徳観は私には度を超えているように思えるようになった。しかし私が子供の時は,彼女は私に対し大きな愛情を注ぎ,私の幸福を願って熱心に世話をしてくれたので,私は祖母に愛情を抱くとともに,子供が必要とする安心感・安定感を得ることができた。私が4歳か5歳の頃,眼をさまして寝ころんでいて,もし祖母が亡くなったらどんなに恐ろしいことだろうと考えていたのを覚えている。だが私が結婚した後,実際に祖母が亡くなった時,私は彼女の死を少しも気にしなかった。しかし振り返ってみると,成長するにつれ,私の人生観を形成する上で祖母がしめる重要性をしだいに認識するようになった。祖母の恐れを知らない勇気,公共心,因襲の軽蔑,多数意見に対する無関心は,いつも私には善いことだと思われたし,模倣する価値のあることだと強く印象づけられた。祖母は,見返しの遊び紙(白紙)に祖母のお気に入りの文句をいくつか書いた聖書を私にくれた。その中に次の文句(注:旧約聖書の「出エジプト記」)があった。

ichioku-sozange 「汝,群衆に従いて悪を為すなかれ」

祖母がこの聖句を強調してくれたことは,後になって私がごく小さなマイノリティに属することを恐れさせないよう導いてくれた。

After I reached the age of fourteen, my grandmother’s intellectual limitations became trying to me, and her Puritan morality began to seem to me to be excessive; but while I was a child her great affection for me, and her intense care for my welfare, made me love her and gave me that feeling of safety that children need. I remember when I was about four or five years old lying awake thinking how dreadful it would be when my grandmother was dead. When she did in fact die, which was after I was married, I did not mind at all. But in retrospect, as I have grown older, I have realized more and more the importance she had in moulding my outlook on life. Her fearlessness, her public spirit, her contempt for convention, and her indifference to the opinion of the majority have always seemed good to me and have impressed themselves upon me as worthy of imitation. She gave me a Bible with her favourite texts written on the fly-leaf. Among these was

“Thou shalt not follow a multitude to do evil.”

Her emphasis upon this text led me in later life to be not afraid of belonging to small minorities.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-080.HTM

[寸言]
 「汝,群衆に従いて悪を為すなかれ」  もよく引用される言葉。

ichioku-sokatuyaku_abe 人は、よほど強い意志や自信がないと、社会や組織から孤立することになるような言動はしない。へたをすれば職を失い一家全員が路頭に迷うようなことになるかも知れない。
しかし、国家が国民の熱狂におされて他国との間で戦争をおこなうような場合は、個々人が抵抗しないことにより、国家が崩壊したり、長期間に渡って復興ができない甚大な被害を受ける(あるいは他国に与える)ことになりやすい。それに戦争で多数の国民が戦死することは取り返しのつかないことであり、「英霊」としてどんなに手厚く戦死者を慰霊しようとも、戦争を防げなかった為政者の罪は免罪されるものではなく、また、「一億総懺悔」などという言葉で誤魔化されてはならない。

論理的矛盾をあまり気にしない人-政治家によくあるタイプ?

GRAND-MA 彼女(ラッセルの祖母/写真参照)は,母としてまた祖母として,深く気を遣ったがその気遣いは,常に賢明であるとは言えなかった。祖母は,動物的生気や満ち溢れる生命力の要求といったようなものを理解してはいなかったように思う。祖母は,一切をヴィクトリア朝の感傷という霧(や霞)をとおして眺めることを要求した。私は,全ての人が良い住居を与えられるべきだということと,にもかかわらず目ざわりだからという理由で新しい家屋は一軒も建ててはならないということとを一度に同時に要求することは論理が一貫していない,ということを祖母に理解させようと努めたことを記憶している。祖母にとっては,いずれの感情もそれぞれの権利をもっており,単なる論理のような非常に冷たい何らかの理由で,他の感情に席を譲るよう求められてはならなかった。

As a mother and a grandmother she was deeply, but not always wisely, solicitous. I do not think that she ever understood the claims of animal spirits and exuberant vitality. She demanded that everything should be viewed through a mist of Victorian sentiment. I remember trying to make her see that it was inconsistent to demand at one and the same time that everybody should be well housed, and yet that no new houses should be built because they were an eye-sore. To her each sentiment had its separate rights, and must not be asked to give place to another sentiment on account of anything so cold as mere logic.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-070.HTM

[寸言]
abe-shinzo-nuke 論理的に矛盾したことを言っても平気な人は少なくない。もちろん、矛盾していることがはっきり容易にわかることに対しては、多くの人が違和感を抱き、論理に従うことが多い。しかし、自分の感情が強い事柄については、論理的矛盾から眼をそらし、自分の感情に素直に従いがちになる。即ち、ラッセルの祖母と同じく「いずれの感情もそれぞれの権利をもっており,単なる論理のような非常に冷たい何らかの理由で,他の感情に席を譲るよう求められては(ならない)」と本能的に感ずるのであろう。