万人のための安心安全(安定)

 安心安全(安定),それが社会的不正を伴わぬ場合にのみ美徳となる。従って,単に恵まれた少数者のためではなく,万人のための安心安全(安定)がなければならない。これは実現可能であるが,現在の競争社会が存続する限りは不可能である。

Security would be good if it were not accompanied by injustice; there should, therefore, be security for all and not only for a fortunate few. This is possible, but not while the present competitive system survives.
出典:Bertrand Russell: On economic security, July 1, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ESECRITY.HTM

<寸言>
自分たちの利益や権力欲が中心であっても,国民のため,国民の生命を守るため,世界平和のため、などと連呼しても、むなしくひびく。
しかし,そういった言葉を余り疑問をもたずに,受け入れている国民が多すぎるように思われるが・・・?

礼儀正しく接するのは同じ階層の相手に対してだけ?

 しかし,この18世紀の洗練された社交界の表面下をほんの少しでも見通してみると,別の光景が現れてくる。同じ階級内の交際に関しては洗練され,礼儀正しいこれらの人々も,他の階級に対しては,民主主義の今日では考えられないほど冷酷であった。

But when one penetrates ever so little below the surface of the polished societies of the eighteenth century, another side of the picture presents itself. These men, so urbane, so polite, so civilised in their dealings within their own class, were toward other classes ruthless to a degree which democracy has now rendered impossible.
出典:Bertrand Russell: On economic security, July 1, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ESECRITY.HTM

<寸言>
民主主義の今日では考えられないほど冷酷であった」と「過去形」になっているが、それは現在ではなくなっているということではない。
過去においては、身分の高い者が身分の低いものを見下す態度をとっても「公的に」非難されることはほとんどなかったが、現在ではそのようなことをすれば、へたをすれば公的な地位を失ういことになりかねない。だから、表向きは(言葉の上では)丁寧な言葉を使っている者がほとんどであるが、私的な場面になると本音がでて、貧しいものや地位の低いものを見下すような言葉を吐いている者がけっこういる。
そういった人間も、言葉の上だけは、「国民のために」,「国民の命を守るために」,「国益のために」,「可及的すみやかに」,「真摯にうけとめ」等々、お守り言葉を連発する。そういった言葉に騙されて、見識も品性も劣る人間を選挙でいっぱい選んでいる国民も少なくないのであるから、自業自得という面もあるが・・・?

自信過剰で自分の誤りをほとんど認めようとしない人々

 ある種の幸運な人々は,大きな事柄であろうと小さな事柄であろうと,自分が間違っているという感覚をまったく持たない(経験しない)。私はかつてある著名な淑女に向かって,あなたは恥ずかしさを感じたことがあるか尋ねた時のことを覚えている。彼女はその時次のように答えた。

「いいえ,私が少しでもそのように感じるときには,私は自分にこう言います。『あなた(注:自分のこと)は,世界中で最も聡明な国民の中の,最も聡明な階級に属する,最も聡明な家系の中の,最も聡明な一ではないですか。そのあなたがどうして恥ずかしく感じることがありましょう』」
(訳注:これを言ったのはフェビアン協会のベアトリス・ウェッブであるが,この逸話は,『ラッセル自伝』の第4章「婚約時代」の一節に再度引用されている。)
この返事を聞いて,私は畏敬と羨望を感じた。(注:もちろん,半分皮肉です。)

Some fortunate people never experience the sense of being in the wrong, either in great matters or in small. I remember once asking an eminent lady whether she had ever felt shy. She replied: ‘No. Whenever I have felt any tendency that way, I have said to myself “You are the cleverest member of one of the cleverest families of the cleverest class of the cleverest nation in the world – why should you feel shy ?” ‘ I heard this answer with awe and envy.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
トランプ安倍総理を始め,自信過剰で自分の誤りをほとんど認めようとしない政治家が再び増えてきました。もちろん,それは自信過剰な国民が増えたことの反映であるかも知れません。そういった時代には自国の意志を(自国より軍事力がおとる)他国に押し付けることが少なくなく、弱い国としても(「愛国心」から)反発せざるを得ず、戦争や大きな武力衝突が起こりがちです。

「後悔」というのは社会的な現象-知られることがなければ・・・

Dog chewing up toilet paper in kitchen. CREDIT: Robert Daly/Getty Images

私が昔読んだ小説で,それぞれ以前に大きな罪を犯した男女が互いに相手の過去を知らないまま結婚し,そのうちに,自分が結婚した相手がどういった人物であるか知って,両者とも心からの苦痛を感ずるに至る,というのがあった。★後悔★(自責の念)というのは社会的な現象であり,我々が行った何らかのことが原因で,もはや他の人々に自分のことを好意的に見てもらえなくなった時に,この感情は生ずる。

I read a novel once in which a man and woman, who had both committed serious crimes, married each other in ignorance of each other’s past and were both genuinely pained when they discovered the sort of person they had married. I think remorse is essentially a social phenomenon which occurs when we realise (realize) that, owing to something we have done, we cannot make other people take the favourable view of ourselves that we should wish them to entertain.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
昔の歌に「(私の過去を)知りすぎたのね・・・あまりにもあなたは,知りすぎたのね・・・」というのがあったが・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=hofOncySsrw
https://youtu.be/hofOncySsrw

満腹時にはご馳走も・・・ 

 私は,自分がディナーの約束を忘れ,(自宅で・自前の)ディナーを丁度食べ終わるやいなやその約束を思い出した時のことを,今でも罪悪感とともに思い出す。私は慌てて駆けつけ,かなり遅刻して到着し,二度目のディナーを食べようとしたが,非常に苦しい拷問であった。(写真:イレーヌ・ジョリオ=キュリーと/1950年ノーベル文学賞受賞時)

I still remember with a profound sense of guilt an occasion on which I forgot a dinner engagement and remembered just as I had finished my own dinner. I rushed round, arriving very late, and tried to eat a second dinner, which I found to be an agonising torture.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
大食いの人(大食漢)だったら平気でしょうが・・・。

遠い昔の旧友に会う喜び

 我々は,年をとるにつれて我々の日常関係に入ってこない(要素とならない)人生の割合はいっそう大きくなっていく。大部分の友人たちは自分の一生の長い過去の経過について知らないので,自分の過去の経験のいっそう大きな部分が’日常の個人的つき合い’から除外される。年をとるにつれていっそう孤独を感じるようになるのは避けることのできない結果であり,遠い昔の旧友に会う時にこの孤独感が突然癒されるのである。

As we get older the portions of our life that do not enter into our ordinary relations become greater and greater. Most of our friends know nothing of large passages in our lives, so that an increasing part of our past experience is excluded from most of our personal relations. The inevitable result is that as men grow older they come to feel more solitary, and when they meet a friend of long ago, this feeling is suddenly relieved.
出典:Bertrand Russell: On old friends,Jan. 4th, 1933. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/O-FRIEND.HTM

<寸言> 再掲
過去の時間が最大となり,未来の時間が最小になる時、「」が訪れる。

「職業的な」道徳家ー意識的な自己否定は,人を自己に没入させる

 幸福な人生は,驚くほど,善い人生と同じである。職業的な道徳家は,これまで,自己否定を重視しすぎてきた。そして,それを重視しすぎることによって,強調すべきところを間違えてきた。意識的な自己否定は,人を自己に没入させ,自分が犠牲にしたものをまざまざと意識させる。その結果,自己否定は,しばしばその当面の目的を達成しないばかりか,必ずといってよいほど究極の目的も達成しない。必要なのは,自己否定ではなく --自分の美徳の追求に没頭している人なら意識的な自己否定によってのみ実行できるような行為を自発的かつ自然に可能とするように-- 興味を外へ向けることである。

The happy life is to an extraordinary extent the same as the good life. Professional moralists have made too much of self-denial, and in so doing have put the emphasis in the wrong place. Conscious self-denial leaves a man self-absorbed and vividly aware of what he has sacrificed; in consequence it fails often of its immediate object and almost always of its ultimate purpose. What is needed is not self-denial, but that kind of direction of interest outward which will lead spontaneously and naturally to the same acts that a person absorbed in the pursuit of his own virtue could only perform by means of conscious self-denial.
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17: Th Happy Man.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA28-030.HTM

<寸言> ★再掲(share し忘れていたため)
 宗教も道徳も愛国心もヘイトスピーチ偽善的要素が多く,あえて偽善的言動をすることによって「対価」が支払われるので、御用評論家や御用学者のような個人レベルだけでなく、「ビジネス」にもすることができる。

統治には「偽善」が必要だと開き直る政治家(もちろん公言したら落選するのでそんなことはしない。)も少なくないが、「偽善」(を暗黙の了解/大人の了解)によって社会を維持するよりは,最初は大変でも「正直(あるいは誠実)」を旨としたほうがよいのは、言うまでもない。

自分を過大評価することはよくないが,「自己否定」はもっとよくない。「自己否定」は謙虚なようでいて,「自意識過剰」に陥いる危険が大きく,人を不幸にする

野蛮な(迫害)衝動を「道徳の衣」を着せて発散させること - ヘイトも・・

 ボルネオの首狩り族の間では,(人間に対する)狩猟はいかなる道徳的言い訳の必要なしに満足させられているのに対し,文明化された人々は,高潔な倫理感情の衣裳でおおわずには,自分の低俗な感情の耽溺を愉しむことができない。殺人者に対して首狩り族と同じ野蛮な衝動を解放する時には,民衆はそれを野蛮とも邪悪とも感ぜずに,自分を徳性と善良な市民意識の持主だと信ずる。

Among the head-hunters of Borneo it is indulged without the need of any moral claptrap, but civilised people cannot adequately enjoy the indulgence of their baser passions until they have cloaked them in a garment of lofty ethical sentiments. When people let loose upon a murderer the savage impulses of the head-hunter, they feel neither savage nor wicked but believe themselves to be upholders of virtue and good citizenship.
出典:Bertrand Russell: Interest in crime,Dec. 21st, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/CRIME-I.HTM
<寸言>
 野蛮な衝動を発散している時には,自分に対してそういった攻撃がなされるようなことはまさかあるはずがないと考える。しかし,ひとたびそのような目に遭うと、自分が過去にやってたことを忘れて・・・。

このエッセイに書かれていることは,犯罪心理学,群集心理学の良い題材です。

愛情を受ける人

 愛情の受け手になることは,幸福になるための有力な原因である。しかし,愛情を要求する人は,愛情が与えられる人ではない。愛情を受ける人は,大まかに言えば,愛情を与える人である。
しかし,利子付きで金を貸すようなやり方で,愛情を打算で(計算づくで)与えようとすることは無益である。なぜなら,計算づくの愛情は本物ではないし,受け手からも本物とは思われないからである。

To be the recipient of affection is a potent cause of happiness, but the man who demands affection is not the man upon whom it is bestowed. The man who receives affection is, speaking broadly, the man who gives it. But it is useless to attempt to give it as a calculation, in the way in which one might lend money at interest, for a calculated affection is not genuine and is not felt to be so by the recipient.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17:The happy man
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM

<寸言>
は愛情を積極的に与えることも、要求することもほとんどない。それでいて、多くのひとは猫から「ほのぼのとしたもの」(愛情の泉)のようなものを受け取り、猫を愛する人が少なくない。

これとは逆に、自意識過剰な人間は嫌われる。視野が狭く,自分のことばかり考えている人間も嫌われる。打算の上で,他人に親切な行為をする人も好かれない。
事実や現実に目をつぶらず,視野が広く,他人の幸福を,あたかも自分の幸福であるかのように感じられる人は幸福な人間である。

「幸福な人」

 幸福な人とは,(できるだけ先入観を持たず)客観的に生き,自由な愛情と幅広い興味を持ち,またそういう興味と愛情を通して,今度は逆に,他の多くの人びとの興味と愛情の対象になるという事実を通して,自らの幸福を確保する人である。

The happy man is the man who lives objectively, who has free affections and wide interests, who secures his happiness through these interests and affections and through the fact that they, in turn, make him an object of interest and affection to many others.
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17: Th Happy Man.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM

<寸言>
自分を押さえつけるような努力をしなくても、また、ひがみや嫉妬心をもたずに多くに人々に愛情が持てる人は,多くの人に愛される。そういった人は、最愛の人を失うとか、災害にあってひどいめにあうということがなければ、生涯幸せにくらせる可能性が高い。
結局は、幼児期の幸福がそういった人間を作るのにもっとも力を発揮する。ラッセルは言う。

「幼児期の幸福(幼年期幸福であること)」は,最良のタイプの人間を作り出すためには,必須である。
Happiness in childhood is absolutely necessary to the production of the best type of human being.