近代世界においては,機械の発展とともに,この種の熟練がますます重要になっている。私が提案したいのは,(子どもに対する)身体的な勇気の訓練は,できるだけ物を操作したり制御したりする技術を教えることで与えられる,ぺきであり,ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではない,ということである。登山や,飛行機の操縦や,強風の中での小舟の操作(など)に必要な勇気は,戦闘(身体的闘争)に必要な勇気よりも,はるかに立派なものであると,私には思われる。それゆえ,私は,できるだけ,生徒たちをフットボール(注:英国ではサッカーのこと)のようなもので訓練するよりも,多少危険を伴う機敏さという形で訓練したいのである。
【注:安藤・訳では,「・・・フットボールのようなもので訓練するよりも,多少危険で機敏さを要するスポーツで訓練したいのである」と訳されている。「ラッセルは,ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではなく=スポーツ競技の形ではなく」と言っているのだから,誤訳であろう。たとえば、飛行機の操縦などはスポーツとは言えない。】
In the modern world, owing to increase of mechanism, this sort of skill is becoming more and more important. I suggest that training in physical courage should be as far as possible given by teaching skill in manipulating or controlling matter, not by means of bodily contests with other human beings. The kind of courage required for mountaineering, for manipulating an aeroplane, or for managing a small ship in a gale, seems to me far more admirable than the sort required in fighting. As far as possible, therefore, I should train school-children in forms of more or less dangerous dexterity, rather than in such things as football.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-110.HTM
[寸言]
ラッセルはもちろんスポーツは良くないとは言っていない。身体的能力の優れた少数者の場合は、スポーツによる勇気の訓練がよい場合もあるだろう。
しかし、ラッセルは、勇気は「ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではなく,ましてや祖国のために敵国人を殺す勇気ではなく、登山や,強風の中での小舟の操作など、できるだけ物を操作したり制御したりする技術を教えることで与えられる,ぺきである」と考える。
それに現代においては、スポーツを「実際にする(競技する)」人よりも「観戦(だけ)する」人のほうが圧倒的に多い。観戦するだけでは、「勇気」は身につかない。特に子どもが体を動かさずに、テレビやビデオでスポーツを「観戦」ばかりしているのは心身の成長によくない。