第16章 権力哲学 n.11

 次に,ニーチェの英雄崇拝をとりあげてみると、(ニーチェによれば)出来損ないで無能な連中(”the bungled and botched”」は英雄の(ために)犠牲になるべきである。ニーチェを称賛する読者は、もちろん,自分は英雄(の一人)だと確信し、一方(これに対し),あくどい陰謀によって自分(英雄である私)を出し抜いたならず者の誰それは、出来損ないで無能な連中の一人である。その結果,ニーチェの哲学は優れている,ということになる。しかし、別の誰それもまたニーチェの哲学(英雄崇拝)を読み、同様に称賛する場合、いったいどちら(の読者)が英雄であるかをどうやって決定したらよいであろうか。(歩み寄りは考えられないことから)戦争による他ないことは明白である。そうして,二人のうちの一人が勝利を得た場合,勝利を得た者は,権力を維持し続けることによって,英雄の称号に対する権利を証明し続けなければならないであろう。そのために,彼は活発な秘密警察を創設しなければならない。彼は常に暗殺を恐れて暮らさなければならない。他の者たちは皆,密告(delation)を恐れてびくびくするであろう。そうして,英雄崇拝は、恐怖で震える臆病者(poltroons)からなる国家を生み出して終わるであろう  これと同様の問題が,信念の結果が心地よい(pleasant 愉快な)ものであればその信念は正しいとするプラグマティズムの理論に関しても生ずる。いったい誰にとって心地よいというのか? スターリンに対する信念(スターリンを信ずること)は、スターリンにとっては心地よいが、トロツキーにとっては不愉快である。ヒトラーに対する信念(ヒトラーを信じること)は、ナチスにとっては心地よいが、しかし,ナチスが強制収容所(捕虜収容所)にぶちこんだ人々(ナチスによって強制収容所に入れられた人々)にとっては、不愉快である。次の問いの答えを決められるのは、むきだしの(権)力しかない。即ち、ある信念が真実だということを証明してくれるような心地よい結果を享受できる者は果して誰であろうか?

Chapter 19: Power Philosophies, n.11 Take, next, Nietzsche’s cult of the hero, to whom the “bungled and botched” are to be sacrificed. The admiring reader is, of course, convinced that he himself is a hero, whereas that rascal so-and-so, who has got ahead of him by unscrupulous intrigues, is one of the bungled and botched. It follows that Nietzsche,s philosophy is excellent. But if so-and-so also reads it, and also admires it, how is it to be decided which is the hero? Obviously only by war. And when one of the two has achieved victory, he will have to keep on proving his right to the title of hero by remaining in power. In order to do this, he must create a vigorous secret police; he will live in fear of assassination, every one else will be terrified of delation, and the cult of heroism will end by producing a nation of trembling poltroons. The same sort of troubles arise with the pragmatist theory that a belief is true if the consequences are pleasant. Pleasant to whom? Belief in Stalin is pleasant for him but unpleasant for Trotsky. Belief in Hitler is pleasant for the Nazis, but unpleasant for those whom they put in concentration camps. Nothing but naked force can decide the question : Who is to enjoy the pleasant consequences which prove that a belief is true?
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学 n.10

 このようにして,独我論(唯我論)もある種の社会生活の基礎(基盤)となることが可能である。狂人の集団は,各々が自分は神だと思っていて,お互いに礼儀正しく振る舞うことを学習するかも知れない。しかし,そのような礼儀正しさは,各々の神(狂人)が自分の全能(性)を自分以外の神によって妨害されない限り続く(last 持続する)であろう。もしA氏(狂人A)が自分は神だと考える場合,他の人々の行為が彼(A氏)の目的に役立つ限りは,他者(他の狂人)の主張(pretentions 疑わしい主張)に対し寛容であるかも知れない。しかし,もしB氏があえてA氏の妨害をし,A氏は全能ではないという証拠をあえて出せば,A氏の強い怒り(wrath)に火が灯り,彼はB氏は悪魔か,さもなければ,悪魔の家来(家臣)の一人であると了解するであろう。B氏もまたA氏と同様な見方をするのは,もちろんであろう。それぞれ(A氏もB氏も)徒党を組み,相互に戦い -神学的な戦い(神学論争),厳しく,残酷で,狂った戦い- が起こるであろう A氏をヒットラーとし,B氏をスターリンと解釈すれば(読めば),あなたは現代世界の絵図を有することになる。ヒトラーは「私はヴオーダンだ」(注:Wotan 独語 ヴォータン。ゲルマンの主神)と言い,スターリンは「我こそは弁証法的唯物論(の化身)だ」という。そうして,両者の主張は,軍隊と航空機と毒ガスと,無垢で熱心な大衆というように,(in the way of)膨大な資源に支えられているので,両者の狂気は気づかれないままとなる

Chapter 19: Power Philosophies, n.10
In this way it is possible for solipsism to become the basis for a certain kind of social life. A collection of lunatics, each of whom thinks he is God, may learn to behave politely to one another. But the politeness will only last as long as each God finds his omnipotence not thwarted by any of the other divinities. If Mr A. thinks he is God, he may tolerate the pretensions of others so long as their acts minister to his purposes. But if Mr B. ventures to thwart him, and to provide evidence that he is not omnipotent, Mr. A’s wrath will be kindled, and he will perceive that Mr B. is Satan or one of his ministers. Mr B., of course, will take the same view of Mr A. Each will form a party, and there will be war — theological war, bitter, cruel, and mad. For “Mr A.” read Hitler, for “Mr. B.” read Stalin, and you have a picture of the modern world. “I am Wotan!” says Hitler. “I am Dialectical Materialism!, says Stalin. And since the claim of each is supported by vast resources in the way of armies, aeroplanes, poison gases’ and innocent enthusiasts, the madness of both remains unnoticed.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学 n.9

 まず独我論(solipsism 「唯我論」とも言う)から始めよう。フィヒテあらゆるものは自我(エゴ)から出発すると主張する時,読者は(読者なら)次のようなことは言わない(であろう)。「あらゆるものがヨハン・ゴットリープ・フィヒテから出発するんだって! 何という馬鹿げだたことを! だって,私は2,3日前までは,フィヒテなんていう名前も知らなかった。それに,(フィヒテから全てが始まるというのなら)フィヒテという男が生れる前の時代はどうだっていうんだ? そういう過去(フィヒテ生誕以前の時代)を自分が創造したとフィヒテは本当に思っているのか? 何という滑稽きわまる自惚れだ!」 私は,繰返して言うが,以上は読者の言おうすることではない。読者は,フィヒテの代りに自分を置き,彼の議論は信じがたいことではないと気づく(認める)。彼はこう考える。「結局のところ、私は,過去の時代(のこと)についていったい何を知っているというのか? (知っているのは)自分が生れる以前のある時期に関係があるものとして解釈することに決めた(私の持っている)有る種の経験についてだけではないか?(注:choose to ~すると決める/chose to interpret 解釈しようと決めた) それに,私が一度も見たことのない場所について,私は何を知っているというのか? (それらは)地図で見ただけであったり,本で読んだけであったり,人から聞いただけのことに過ぎないではないか(実際には見てないではないか)。私は自分が経験したことしか知っていないそれ以外のことは,(全て)疑わしい推論に過ぎない。仮に私が神の地位に自分を置くことに決め,世界は私が創造したということに決めたとしても,私の言うことは間違っているということを証明してみせてくれるものはまったくない。」 フィヒテはただフィヒテのみが存在すると主張し(ており),ジョン・スミス(注:日本で言えば「田中一郎」とか「山田太郎」といったところのごくありふれた人物、つまりあなた)は,フィヒテの議論を読んで,ただジョン・スミス(つまり自分)のみが存在すると結論し,決してそれはフィヒテの言っていることではない,ということに気づかないのである。

Chapter 19: Power Philosophies, n.9 Let us begin with solipsism. When Fichte maintains that everything starts from the ego, the reader does not say: ‘Everything start from Johann Gottlieb Fichte! How absurd! Why, I never heard of him till a few days ago. And how about the times before he was born? Does he really imagine that he invented them? What ridiculous conceit!” This, I repeat, is what the reader does not say; he substitutes himself for Fichte, and finds the argument not unplausible. ‘After all,” he thinks, ‘what do I know of past times? Only that I have had certain experiences which I chose to interpret as related to a period before I was born. And what do I know of places I have never seen? Only that I have seen them on the map, have read of them, or have heard tell of them. I know only my own experience; the rest is doubtful inference. If I choose to put myself in the place of God, and say that the world is my creation, nothing can prove to me that I am mistaken.” Fichte maintains that there is only Fichte, and John Smith, reading the argument, concludes that there is only John Smith, without ever noticing that this is not what Fichte says.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学 n.8

 権力愛は,普通の人間性の一部をなすものであるが,権力哲学は,ある厳格な意味で,狂気である(正気ではない)。外界の存在は,物質の存在と(自分以外の)他の人間の存在の両方とも,一つのデータ(与件)であり,それは,ある種の自尊心にとっては,自尊心を傷つけるものかもしれないが,しかし,その存在を否定できるのは狂人しかいない(狂人のみである)。自分の権力愛から世界を歪んで見ている人々は,あらゆる保護施設(asylum )で見つけられる。(即ち)自分は英国銀行の頭取だと考えている者もいるだろう,自分は王(様)だと考えている者もいるだろうし,さらに,自分は神であると考えている者もいるだろう。これに似た高級な妄想を,もし教育ある人たちが不明瞭な言葉で表現すれば,哲学教授の職へと導くことになる。また,これを情緒的な人が雄弁な言葉で表現すれば,独裁者の地位へと導く。誰もが認める狂人(狂人と認定された人)は,その(見せかけの)主張(pretentions)を疑われると,暴力に傾きやすい傾向があることから,(部屋に)閉じこめらる(ことになる)。(しかし)狂人と認定されない多種多様の者たちは,強力な軍隊を統制するカを与えられ,自分が手の届く範囲の全ての正気な人たちに対し,死や災いを課すことができる。文学,哲学,及び政治において狂気が成功していることは,我々の時代(現代)の特徴の一つであり,成功を収める形態の狂気は,ほぼほとんど,権力衝動から出てくる(のである)。  このような事態を理解するためには,我々は権力哲学と社会生活との関係を考察しなければならない。これは(この関係は),これまでそうだと思われてきたよりもずっと複雑である。

Chapter 19: Power Philosophies, n.8 The love of power is a part of normal human nature, but power-philosophies are, in a certain precise sense, insane. The existence of the external world, both that of matter and that of other human beings, is a datum, which may be humiliating to a certain kind of pride, but can only be denied by a madman. Men who allow their love of power to give them a distorted view of the world are to be found in every asylum: one man will think he is the Governor of the Bank of England, another will think he is the King, and yet another will think he is God. Highly similar delusions, if expressed by educated men in obscure language, lead to professorships of philosophy ; and if expressed by emotional men in eloquent language, lead to dictatorships. Certified lunatics are shut up because of their proneness to violence when their pretensions are questioned; the uncertified variety are given the control of powerful armies, and can inflict death and disaster upon all sane men within their reach. The success of insanity, in literature, in philosophy, and in politics, is one of the peculiarities of our age, and the successful form of insanity proceeds almost entirely from impulses towards power. To understand this situation, we must consider the relation of power philosophies to social life, which is more complex than might have been expected.  
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学, n.7

 哲学者の中には,自分の権力衝動が自らの形而上学を支配するのを許さないが(認めないが)、自らの倫理学においては自分の権力衝動に自由を与える(注:give free rein in ethics 倫理学においては好きなようにさせる/give free rein to ~に対し自由を与える)者がいる。そうした哲学者のなかで,最重要なのはニーチェであり,彼はキリスト教道徳を奴隷の道徳として拒絶し,その代りに英雄的支配者(統治者)にふさわしい道徳を置いている(代置している)。もちろん,これは本質的に(本質において)新しいものではない。その幾分かのものはヘラクレイトスやプラトンに,多くはルネッサンス時代に見いだされる。しかし,ニーチェにおいて(は),それは(英雄的な支配者にふさわしい道徳は)苦労の結果考案されており(worked out),新約聖書の教えに対する意識的な反対において着手された(のである)。彼の見解によれば,民衆(俗衆)は,自分たちだけでは価値をもたず,ただ英雄の偉大さに対する手段(英雄の道具)としてのみ価値をもつものであり,英雄は,もしも民衆(俗衆)に危害を加えることによって自己啓発(sekf-development)を推し進めることができるのであれば、それをする(民衆に危害を加える)権利を有している(ということである)。実際のところ,貴族政治は,有る種のそういった倫理のみが正当化できるやり方で,常に行為を行ってきたのである。しかし,キリスト教の理論では,神の目から見れば(神の前では),万人は平等であると考えている。民主主義は,キリスト教の教えにアピールして支持を求めることができる。しかし,貴族政治にとっては,最上の倫理はニーチェのものである。「神々(gods 複数形であることに注意)が存在するとすれば,(自分が)神(a god 神々の中の一人の神)でないことにどうして堪えることができるだろうか? (自分が神でない以上)「それゆえに」神(gods)は存在しない。」 このように,ニーチェのツァラツストラ(ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の主人公で,ツァラトゥストラはゾロアスター教の開祖の名前であるザラスシュトラ(ゾロアスター)をドイツ語読みしたもの)は言う。この世の暴君たちに場所を与えるために,神(God 単数形/絶対神)から王位を剥奪しなければならない,と。

Chapter 16: Power Philosphies, n.7 Some philosophers do not allow their power impulses to dominate their metaphysics, but give them free rein in ethics. Of these, the most important is Nietzsche, who rejects Christian morality as that of slaves, and supplies in its place a morality suitable to heroic rulers. This is, of course, not essentially new. Something of it is to be found in Herachtus, something in Plato, much in the Renaissance. But in Nietzsche it is worked out, and set up in conscious opposition to the teaching of the New Testament. In his view, the herd have no value on their own account, but only as means to the greatness of the hero, who has a right to inflict injury upon them if thereby he can further his own self-develomnent. In practice, aristocracies have always acted in a manner which only some such ethic could justify; but Christian theory has held that in the sight of God all men are equal. Democracy can appeal to Christian teaching for support; but for aristocracy the best ethic is Nietzsches’s. ‘If there were gods, how could I bear to be not a god? Therefore there are no gods.’ So says Nietzsche’s Zarathustra. God must be dethroned to make room for earthly tyrants.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学, n.6

 ベルグソンの創造的進化は(も)(一つの)権力哲学であり,これはバーナード・ショーの『メトセラに帰れ』(注:メトセラは 969歳で死んだ聖書の中の長命な人物の名前であり,人間が円熟した年齢に達するためには少くとも数百年の寿命を必要とし,それが得られなければ理想社会の実現は不可能だと述べられている。詳細は,盛岡稔「『メトセラへ還れ』における「創造的進化」参照。 https://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2401_06.pdf) の最終幕で幻想的に展開されている。ベルグソンは,知識人は,不当に受動的でありただ静観しているだけだとして,非難されるべきであり,(たとえば)騎兵隊の突撃(charge)のような生き生きとした行動をとっている間に真にものをみるだけであると考える(という思いを抱く)。ベルグソンは,動物に眼ができたのは(目を獲得したのは),物を見ることができたほうが愉快だろうと動物が感じたからである,と信じている。動物の知能は -(目を獲得する前の)動物は盲目であったので- 見ることについて考えることはできなかったであろう。しかし(動物の)直観はこの奇蹟(注:「目の獲得」)を起こすことができた。全ての進化は,ベルグソンに従えば,欲求(欲望)によるものであり(おかげであり),欲求(欲望)さえ十分に熱情をもったものであれば,達成できるものに限りはない(ということになる)。(彼によれば)生化学者が,生命のメカニズム(機構/機械的な仕組み)を理解しようとして手探りする試み(暗中模索する試み)は,生命は機械的なものでないゆえに,また,生の発展は常に知性が前もって想像することが本質的に不可能なものゆえに,徒労である(注:groping attempts 手探りする試み/grouping と身間違わないよう注意)。(つまり)生命を理解することができるのは,行為の上においてだけである。以上から,(彼によれば)人は熱情的かつ非合理であるべきだ,ということになる。ベルグソンにとって幸いにも,人間は通常熱情的かつ非合理である。

Chapter 16: Power Philosphies, n.6 Bergson’s Creative Evolution is a power-philosophy, which has been developed fantastically in the last Act of Bemard Shaw’s Back to Methuselah. Bergson holds that the intellect is to be condemned as unduly passive and merely contemplative, and that we only see truly during vigorous action such as a cavalry charge. He believes that animals acquired eyes beause they felt that it would be pleasant to be able to see; their intellects would not have been able to think about seeing, since they were blind, but intuition was able to perform this miracle. All evolution, according to him, is due to desire, and there is no limit to what can be achieved if desire is sufficiently passionate. The groping attempts of bio-chemists to understand the mechanism of life are futile, since life is not mechamical, and its development is always such as the intellect is inherently incapable of imagining in advance; it is only in action that life can be understood. It follows that men should be passionate and irrational ; fortunetely for Bergson’s happiness, they usually are.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学, n.5

 プラグマティズムは、そのある形態のものは、権力哲学(の一つ)である。プラグマティズムにとって、一つの信念は、その(信念を持つことの)結果が心地よいものであれば「真である(正しい)」。今や,人間は,一つの信念の結果を快にも不快にもすることができる。君が独裁政権下に生きている場合、独裁者の優れた長所を信じるほうが、信じないよりは,もしあなたがその独裁者のもとで生きているのであれば,より心地よい結果を得ることができる。迫害が効果的に行われているところでは官製(政府公認)の信条は、プラグマティズムの意味での「真理(真実であること)」となる。従って,プラグマティズムの哲学は、権力を持っている人に形而上学的な全能(性)を与えるものであり、そのような全能(性)はもっと普通の哲学(に)は与えることのできないものである。私は,プラグマティストの大部分が自分たちの哲学のこのような結果を認めていると示唆しようとしているわけではない。私はただそれらがプラグマティズムの哲学の結果である,プラグマテイストが普通の真理観を攻撃していることは権力愛の結果だ,と言っているだけである。ただし,彼らの権力愛は、もしかすると,他の人間に対する権力愛というよりも、むしろ、無生物の自然(物理的自然)に対する権力愛かも知れない。

Chapter 16: Power Philosophies, n.5 Pragmatism, in some of its forms, is a power-philosophy. For pragmatism, a belief is ‘true’ if its consequences are pleasant. Now human beings can make the consequences of a belief pleasant or unpleasant. Belief in the superior merit of a dictator has pleasanter consequences than disbelief, if you live under his government. Wherever there is effective persecution, the official creed is ‘true’ in the pragmatist sense. The pragmatist philosophy, therefore, gives to those in power a metaphysical omnipotence which a more pedestrian philosophy would deny to them. I do not suggest that most pragmatists admit these consequences of their philosophy; I say only that they are consequences, and that the pragmatist’s attack on the common view of truth is an outcome of love of power, though perhaps more of power over inanimate nature than of power over other human beings.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学, n.4

 以上述べたことの全ては「観念論」として知られており,外界の実在を認める哲学に比べて,道徳的により高尚だと考えられている。(注:皮肉です。)  私自身の意志から独立しているもの(依存していないもの)の実在は,哲学にとっては,「真理」という概念の中に具現化される(されている)。私(自分)の信念の真理性(真であるか否か)は,常識的見地から言えば,大部分の場合において、私(自分)が為すことができることには依存しない。確かに,私が明日(も)朝食をとろう(食べよう)と信じたとすれば,それが正しいとすれば(=実際に食事をすれば),この私の信念は,ある程度は(partly ← 絶対的ではない,というニュアンス)私自身の未来の意志の力で(in virtue of ~のおかげで)正しいものとなる。しかし,もし私が,シーザー(カエサル)はアイズ・オブ・マーチ(注:ides of march シーザーが暗殺された紀元前44年3月15日)に殺されたと信ずるならば,私の信念を正しいものとするのは,まったく私の意志の力の外にある。権力愛によって鼓舞されている哲学は,このような事態を不快と気づき,それゆえ,いろいろなやり方で,信念における真偽の源泉として事実をとらえるという常識的な考えを土台から削り取る(undermine 徐々に損なう)仕事に着手するのである。ヘーゲリアンは,真理は事実と一致することにあるのではなく,我々の諸信念の全体系の相互の一貫性(信念相互に矛盾がなく一貫していること)の中にあると主張する。(即ち)あなたの全ての信念は,よい小説の中のいろいろな出来事のように,それらの出来事がお互いにうまく整合していれば正しい,ということになる。事実,小説家の真理と歴史家の真理との問にはまったく違いがない(ということになる)。これが,創造的な空想への自由をあたえ,創造的空想は想定上の「現実」世界の足かせから(我々を)解放するのである。

Chapter 16: Power Philosophies, n.4 All this is known as ‘idealism’, and is considered morally nobler than a philosophy which admits the reality of the external world. The reality of what is independent of my own will is embodied, for philosophy, in the conception of ‘truth’. The truth of my beliefs, in the view of common sense, does not depend, in most cases, upon anything that I can do. It is true that if I believe I shall eat my breakfast tomorrow, my belief, if true, is so partly in virtue of my own future volitions; but if I believe that Caesar was murdered on the Ides of March, what makes my belief true lies wholly outside the power of my will. Philosophies inspired by love of power find this situation unpleasant, and therefore set to work, in various ways, to undermine the common-sense conception of facts as the sources of truth or falsehood in beliefs. Hegelians maintain that truth does not consist in agreement with fact, but in the mutual consistency of the whole system of our beliefs. All your beliefs are true if, like the events in a good novel, they all fit together; there is, in fact, no difference between truth for the novelist and truth for the historian. This gives freedom to creative fancy, which it liberates from the shackles of the supposed ‘real’ world.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学 n.3

 フィヒテの哲学は,自我(エゴ)を世界における唯一の存在(存在する唯一のもの)とし,ここから出発する。自我(エゴ)は自らを事実として、断定する(結論を下す)故に存在する(注:The ego exists because it posits itself. /たとえば「我思う故に我あり」のように,考えている自分がいることは否定できないので自我は存在すると断定する,ということか?)。自我以外のものは一切存在しないが,自我(エゴ)はある日軽いノックを受け,その結果,自我は非我(non-ego 自我以外の全てのもの)を仮定する。(注:Although nothing else exists, the ego one day gets a little knock, as a result of which it posits the non-ego. 自我だけではく、自我でないものもあるんだなと推測/仮定する。/ちなみに,みすず書房版の東宮訳では「・・エゴつまり自我は,ある日のこと,軽くお払い箱になり,その結果,自我は非我を仮定する」となっており,「軽くお払い箱になり」とはどういう意味かよく理解できない。) 自我(エゴ)は,それから(その後),グノーシス派(注:前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派)の神学にも似た(似ていなくもない)各種のものを発出する(流出させる)。グノーシス派は,発出されたものを神に帰し(帰属させ),自分自身については謙虚に考えたのに反して,フィヒテ()は神と(人間)自我(エゴ)との区別は不要と考える自我(エゴ)は,形而上学を片付けてしまうと(do with 処置する),さらに進んで,ドイツ人は善(人)であるがフランス人は悪(人)だと断定し(推定し),それゆえ,ナポレオンと戦うのはドイツ人の義務だと断定(推定)する。もちろん,ドイツ人もフランス人もフィヒテ(の自我)から発出したもの(emanation 流出物)に過ぎないが,しかし,(フィヒテの自我にとって)ドイツ人のほうがより高級な発出物(流出物),即ち,唯一の究極の実体(実在)(=絶対者)に近いのであり,この究極の実体(実在)とは,,フィヒテの自我(エゴ)である(ということになる)。アレクサンダー(大王)とアウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝)は,共に自分は神であると主張し,自分以外の者たちに同意を装うことを強要した。(これに対し)フィヒテは政治の主導権を持っていなかったので,(彼の)無神論(信仰)によってその職を失った。それは,彼が自分自身の神性を十分に主張できなかったからである。  フィヒテの形而上学のようなものが,社会的義務のための余地(place )を残さないのは明らかである。というのは(フィヒテの形而上学においては)(自分の)外側の世界は自分の夢から生れたものに過ぎないからである。この哲学と適合する唯一の倫理は,自己啓発(self-development)の倫理しかない。けれども,人は,非論理的に,自分の家族や自国民を,他の人間よりも,より親密に,自分の自我(エゴ)の一部であると考えるかも知れず(考えることがあり),それゆえより重要なものだと考えるかも知れない(考えることがある)。人種とナショナリズムに対する信念は,このようにして,心理的に言って,独我論(solipsistic philosophy 唯我論哲学)の自我(エゴ)の自然な帰結である。この場合,権力愛がこの理論を吹き込むのは明らかであり,また権力を得るには他人の助けによってのみ達成されることを想えば,このことはなおさらそうである。

Chapter 19: Power Philosophies, n.3 The philosophy of Fichte starts from the ego, as the sole existent in the world. The ego exists because it posits itself. Although nothing else exists, the ego one day gets a little knock (ein kleiner Anstoss), as a result of which it posits the non-ego. It then proceeds to various emanations, not unlike those of Gnostic Theology; but whereas the Gnostics attributed the emanations to God, and thought humbly of themselves, Fichte considers the distinction between God and the ego unnecessary. When the ego has done with metaphysics, it proceeds to posit that the Germans are good and the French are bad, and that it is therefore the duty of the Germans to fight Napoleon. Both the Germans and the French, of course, are only emanations of Fichte, but the Germans are a higher emanation, that is to say, they are nearer to the one ultimate reality, which is Fichte’s ego. Alexander and Augustus asserted that they were gods, and compelled others to pretend agreement; Fichte, not being in control of the government, lost his job on a charge of atheism, since he could not well proclaim his own divinity. It is obvious that a metaphysic such as Fichte’s leaves no place for social duties, since the outer world is merely a product of my dream. The only imaginable echic compatible with this philosophy is that of self-development. Illogically, however, a man may consider his family and his nation more intimately a part of his ego than other human beings, and therefore more to be valued. Belief in race and nationalism is thus a psychologically natural outcome of a solipsistic philosophy — all the more since love of power obviously inspires the theory, and power can only be achieved with the help of others.
 出典: Power, 1938.
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第16章 権力哲学 n.2

 偉大な宗教(世界の大宗教)は徳(美徳)を目指すものであるが,通常は徳以上のものも目指す。キリスト教と仏教(人間の)救済を求め,それらの比較的神秘的な形態においては,神あるいは宇宙との合一を求める(注:密教など)。経験哲学は真理を求め,一方,デカルトからカントに至る観念論哲学は確実性を求める。実際に,カント(も含めて)に至るまでの全ての偉大な哲学者たちは,主として,人間性のうちの認識的な部分に属する諸欲求(欲望)に関心を持っている(とりあげている)。ベンサムの哲学及びマンチェスター学派の哲学は,快楽を究極の目的と考え,また,富を(その目的のための)最も主要な手段と考える。現代(近代)の権力哲学は,主として,いわゆる「マンチェスター主義(Manchesterismus)」に対する反動として起こったものであり,人生の目的は一連の快楽(の追求)-それはあまりにも断片的かつ積極性に乏しい目的だとして非難されている- であるとする見方に対する反動として起こったものである。  人生は,(自らの)意志(意欲)と(人間が)制御できない事実との間での絶え間ない相互作用であり,権力衝動によって導かれる哲学者は,自分自身の意志の結果ではない事実が演ずる役割(部分)を最小限にしようとするかあるいは非難しようとする。私が今考えている哲学者は,単に,マキャベリや(プラトンの)『共和国』におけるトラシュマコスのように,むきだしの権力を讃美した人々のことだけではない。私は,自分自身の権力愛を,形而上学や倫理学の衣装の下に(中に)隠している諸理論を発明した人々のことを考えているのである。近代(現代)におけるそのような哲学者の筆頭で,また最も徹底したものは,フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762-1814:ドイツの観念論哲学者で,G.W.F.ヘーゲルに影響を与えた。)である。

Chapter 19: Power Philosophies, n.2 The great religions aim at virtue, but usually also at something more. Christianity and Buddhism seek salvation, and, in their more mystical forms, union with God or with the universe. Empirical philosophies seek truth, while idealist philosophies, from Descartes to Kant, seek certainty; practically all the great philosophers, down to Kant (inclusive), are concerned mainly with desires belonging to the cognitive part of human nature. The philosophy of Bentham and the Manchester School considers pleasure the end, and wealth the principal means. The power philosophies of modern times have arisen largely as a reaction against “Manchesterismus,” and as a protest against the view that the purpose of life is a series of pleasures – an aim which is condemned as both too fragmentary and insufficiently active. Human life being a perpetual interaction between volition and uncontrollable facts, the philosopher who is guided by his power impulses seeks to minimize or decry the part played by facts that are not the result of our own will. I am thinking now not merely of men who glorify naked power, like Machiavelli and Thrasymachus in the Republic; I am thinking of men who invent theories which veil their own love of power beneath a garment of metaphysics or ethics. The first of such philosophers in modern times, and also the most thorough-going, is Fichte.
 出典: Power, 1938.
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