マルクス主義及び共産主義理論の誤謬

 いかなる政治的信条(見解)に関しても,次の二つの問いが必要である。(即ち)(一)その理論的教義(見解)は正しいかどうか? (二)その実際的な政策は,人類の幸福を増大しそうかどうか,の二つである。私としては,共産主義の理論的教義(見解)は聞達っているしその実践的格率は人類の悲惨さをはかりしれないほど増大させる,と考える。

 共産主義の理論的信条(見解)は大部分マルクスに由来している。マルクスに対する私の反対二通りある。一つは,彼は混乱した頭脳の持主だということであり,もう一つは,その思想がほとんど全てといってよいほど憎悪によって鼓舞されたものだということである。資本主義の下での賃金労働者の搾取を例証するものだと想定された剰余価値説は,次の2つによって到達したものである。(即ち,)(a)マルクスと彼の弟子たちがはっきりと否認しているマルサスの人口論を(実際は)ひそかに受け入れることによって,また,(b)リカードの価値説(論)を製造された商品の価格に対してではなく(労働者の)貸金に対して適用する,という二つの考えによって到達している(もたらされたものである)。マルクスはまったくその結論に満足しているが,それはその結論が事実にあっているからでも,論理的に整合的であるからでもなく,賃金労働者の間に烈しい怒りを呼び起すと推定される(見積もられる)からである。あらゆる歴史的事件は階級闘争によって誘発されてきたというマルクス理論は,百年程前のイギリスやフランスにおいて顕著であったある特徴を世界史に早急かつ誤って拡張したものである。人間の意志(注:volitions は volition の誤植か?)とは関係なく人類の歴史を支配する弁証法的唯物論と呼ばれる宇宙的なカがあるという彼の信念は,単なる神話にすぎない。けれども,彼の理論的な誤りは,テルトクリアヌス(カルタゴ生まれの進学者)やカーライルのように,彼の主要な望みは敵が処罰されることを見ることであり,また,その進行過程の中で彼の友人たち(同胞)に何が起るかはほとんど心配しなかったという事実がなければ,たいして重大なことではなかったろう。(注:逆に言えば,同胞を不幸にしたということで,マルクスの誤りは重大なものとなった。)

In relation to any political doctrine there are two questions to be asked: (1) Are its theoretical tenets true? (2) Is its practical policy likely to increase human happiness? For my part, I think the theoretical tenets of Communism are false, and I think its practical maxims are such as to produce an immeasurable increase of human misery.
The theoretical doctrines of Communism are for the most part derived from Marx. My objections to Marx are of two sorts: one, that he was muddleheaded; and the other, that his thinking was almost entirely inspired by hatred. The doctrine of surplus value, which is supposed to demonstrate the exploitation of wage-earners under Capitalism, is arrived at: (a) by surreptitiously accepting Malthus’ doctrine of population, which Marx and all his disciples explicitly repudiate; (b) by applying Ricardo’s theory of value to wages, but not to the prices of manufactured articles. He is entirely satisfied with the result, not because it is in accordance with the facts or because it is logically coherent, but because it is calculated to rouse fury in wage-earners. Marx’s doctrine that all historical events have been motivated by class conflicts is a rash and untrue extension to world history of certain features prominent in England and France a hundred years ago. His belief that there is a cosmic force called Dialectical Materialism which governs human history independently of human volitions, is mere mythology. His theoretical errors, however, would not have mattered so much but for the fact that, like Tertullian and Carlyle, his chief desire was to see his enemies punished, and he cared little what happened to his friends in the process.
出典: Why I Oppose Communism? (1954).
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<寸言>
ラッセルの研究者以外,ラッセルの最初の著書は哲学や論理学関係のものではなく,ラッセルが24歳の時に出した『ドイツ社会民主主義(論)』(German Social Democracy, 1896/みすず書房版の邦訳書名:『ドイツ社会主義』)であるということはあまり知られていません。ラッセルの祖父は英国の総理大臣を2度務めたジョン・ラッセルであり,政治の仕事に就くのがラッセル家の伝統でした。祖父母が住んでいた(ロンドン郊外の)リッチモンド・パーク内の屋敷(Pembroke Lodge)にはイランの国王ほか世界の要人が多く訪ねてきました。即ち,ラッセルは政治の実際を肌で感じる環境に住んでおり(つまり実際的な政治について知る機会にめぐまれており),世間知らずの思想家とは大きく異なっていました
ラッセルは22歳の時に5歳年上のアメリカ人女性と結婚しており,すぐに経済学や政治について学ぶためにドイツに渡っていま すが,その時の研究成果を本にしたのがこの German Social Democracy です。この本は全6章からなっていますが,英国で創設されたばかりの London School of Economics において全6回の講義として行われたものです(ラッセルは London School of Economics の最初の講師の一人でした。)

恐怖心を煽る →そのような状態は長続きしない→ 世界の破滅へ?

 恐怖(心)はこれらのあらゆる害悪(弊害)が生じる源泉である。パニックに陥った時に起こりがちなように,恐怖(心)は恐れられる惨害をもたらす当該行為を起こさせる(のである)。危険は現実に存在しているが--その危険は,実際,人類の歴史のいかなる時代よりも大きい-- しかし,ヒステリーにかかりやすいものはみな危険を増大させる。この困難な時代においては,危険を知るばかりでなく,その危険の重大さを知っているにもかかわらず冷静かつ合理的に対処することは,我々の明確な義務である。オーウェルの「一九八四年の世界」を仮にその存在を我々が許したとしても,長続きはしないだろう。それは(オーウェルの「一九八四年の世界」は)ただ普遍的な死(世界の滅亡)への前奏曲であるだけであろう。

Fear is the source from which all these evils spring, and fear, as is apt to happen in a panic, inspires the very actions which bring about the disasters that are dreaded. The dangers are real — they are indeed greater than at any previous time in human history– but all yielding to hysteria increases them. It is our clear duty in this difficult time, not only to know the dangers, but to view them calmly and rationally in spite of knowledge of their magnitude. Orwell’s world of 1984, if we allow it to exist, will not exist for long. It will be only the prelude to universal death.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-090.HTM

<寸言>
 国家(の指導者)は,国民が素直(国家に従順)であることを望みます。従って,時の政府を批判するような内容は,「政治的」であるとして,義務教育からは可能なかぎり排除しようとします。政府批判及び政府擁護の両者の意見を聞かせて,生徒自らが考えるような教育を本来すべきですが,政府批判をさけるために,どちらの意見も政治的だとして学ばせないために,「本当に重要なこと」の多くを学ばずに大人になってしまいます
欧米では,高校生にでもなれば,政治に関しても自分の頭で考えてものが言える状態になりますが,日本では「政治のことは興味がない」とか「政治のことはわか~んない」と平気で言う状態です。
18歳から選挙権を与えるなら,学校においても自由に,いろいろな意見に接することができるようにすべきであり,そうしないのであれば,18歳にまでなぜ選挙権を拡大したのか,その意図がよくわかりません。(若いうちに保守思想を吹き込みたいため? 保守も革新も同床異夢?)

公的機関による真実の隠蔽と虚偽の流布(ばらまき)

 現代における国家権力(当局の権力)の増大から生じている最悪のものの一つは,公的機関による真実の隠蔽と虚偽の流布(ばらまき)である。
ロシア人は,モスクワの住民がモスクワの地下鉄が世界で唯一つの地下鉄だと想像するほど,西欧諸国に関して,可能な限り(これ以上ないほど)無知な状態に置かれている。(注:これはもちろん,このエッセイを発表した1950年代のロシアの状況です。今だったら北朝鮮の国民があてはまります。) 中国が共産主義者(国家)になって以降,中国の知識人は「洗脳」と呼ばれる恐るべき過程を経験しなければいけなくなっている。自分の専門分野において欧米から入手できるあらゆる知識を獲得した(中国の)学者は,自分たちが学んできたことを(全て)放棄すること,また,知る価値のあるすべてのことは共産主義者の文献(情報源)から引き出すことが可能だと述べることを,強制されている。彼らは,上級の役人から手渡された無味乾燥な公式をオウム返しにただ繰返すだけの,失意の人として身を現すような,心理的圧迫にさらされている。ロシアや中国においては,この種のことは強情な個人に対してばかりでなく,彼らの家族に対する,直接の刑罰によって強化される。
 他の国々においては,これほどまでには事態は進んでいない。蒋介石政権が中国を統治した最後の数年間に行った害悪(注:1949年の共産主義中国成立直前に起きた二.二八事件のことを言っているものと思われる。)について,本当のことを報告した人々は粛正はされなかったが,彼らの報告が信じられるのを防ぐためのあらゆる可能な方策がとられ,また,彼らは,その優秀性の程度によった(応じた)要注意人物となった。外国で発見したことについて本国政府に本当のことを報告した人間は,彼の報告が当局の偏見と一致していない場合には,重大な個人的危険を冒すことになるばかりでなく,彼の報告が無視されることを知る(ことになる)。もちろんこのことには,程度の差(の問題)はあっても,新しいものは何もない。
1899年に,南アフリカでイギリス軍を指揮したバトラー将軍は,ボーア人を鎮圧するには,少くとも20万人の軍隊が必要だという報告を(本国に)した。この評判の悪い意見のために,彼は降格され,彼の意見の正しいことが判明した時にも,彼は信用されなかった。
しかしこういった悪(注:自分たちに都合の良いことしかとりあげないこと)は新しいものではないけれども,その範囲は前よりもずっと広範なものになっている。自分を多少とも自由主義的だと思っている人たちの間でさえ(even = even if),問題のすべての側面を調査研究することが良いことだという信念は,もはや存在していない。ヨーロッパの米国図書館や米国における学校図書館の粛清(注:共産主義思想を助長する図書の除籍や禁書扱い)は,大衆が問題の一面(一つの側)よりも多くのことを知るのを防ぐことを企図したものである。部分禁書目録(?)(Index Expurgatorius)は,自由のために闘っているという人たちが広く認めている政策の一部となっている。明らかに当局(国家権力)は,自分たちの大義が自由な議論という試練を耐えぬくことができるという十分な信念をもはや持っていない。他方の側の意見がまったく聞かれていない場合にのみ,彼らは信用を得る自信があるのである。これは,我々自身の制度に対する強固な信念の悲しむべき衰退を示している。
第二次大戦中,ナチスはドイツ人にイギリスのラジオを聞くことを許さなかったが,我々自身の大義に信念は不動のものであったので,イギリスでは誰もドイツのラジオを聞くことを妨げられなかった。我々が共産主義者の意見を聞かれるのを妨ぐ限り,彼らが強い言い分(主張)を持っているに違いないという印象を生み出す。自由な言論は,自由な討議がよりよい意見の勝利へと導くという根拠でかつては擁護されていた。この信念は,恐怖心の影響のもと,失われつつある。その結果は,真理は一つの真理(真理の一つ)であり,「官製の真理」はもうひとつの真理であるということになる。これはオーウェルの「表裏のある話し方(double‐talk)」や「二重思考(Double-think)」(注:「相反し合う二つの意見を同時に持ち,それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」で「安倍思考」とも言うべきか?)への第一歩である。自由な言論の法的な実存(現存)は保持されてきている(言論の自由が法的に保証されている)と言われるだろうが,もし仮に一層重要な公表の手段が正統として是認されている意見にのみ開かれるとするならば,自由な言論の効果的な実存(現存)は悲惨なほど切り詰められる(ことになる)。

One of the worst things resulting from the modern increase of the powers of the authorities is the suppression of truth and the spread of falsehood by means of public agencies. Russians are kept as far as possible in ignorance about Western countries, to the degree that people in Moscow imagine theirs to be the only subway in the world. Chinese intellectuals, since China became Communist, have been subjected to a horrible process called “brain-washing.” Learned men who have acquired all the knowledge to be obtained in their subject from America or Western Europe are compelled to abjure what they have learned and to state that everything worth knowing is to be derived from Communist sources. They are subjected to such psychological pressure that they emerge broken men, able only to repeat, parrot fashion, the jejune formulas handed down by their official superiors. In Russia and China this sort of thing is enforced by direct penalties, not only to recalcitrant individuals, but also to their families. In other countries the process has not yet gone so far. Those who reported truthfully about the evils of Chiang Kai-shek’s regime during the last years of his rule in China were not liquidated, but everything possible was done to prevent their truthful reports from being believed, and they became suspects in degrees which varied according to their eminence. A man who reports truly to his government about what he finds in a foreign country, unless his report agrees with official prejudices, not only runs a grave personal risk, but knows that his information will be ignored. There is, of course, nothing new in this except in degree. In 1899, General Butler, who was in command of British forces in South Africa, reported that it would require an army of at least two hundred thousand to subdue the Boers. For this unpopular opinion he was demoted, and was given no credit when the opinion turned out to be correct. But, although the evil is not new, it is very much greater in extent than it used to be. There is no longer, even among those who think themselves more or less liberal, a belief that it is a good thing to study all sides of a question. The purging of United States libraries in Europe and of school libraries in America, is designed to prevent people from knowing more than one side of a question. The Index Expurgatorius has become a recognized part of the policy of those who say that they fight for freedom. Apparently the authorities no longer have sufficient belief in the justice of their cause to think that it can survive the ordeal of free discussion. Only so long as the other side is unheard are they confident of obtaining credence. This shows a sad decay in the robustness of our belief in our own institutions. During the war, the Nazis did not permit Germans to listen to British radio, but nobody in England was hindered from listening to the German radio because our faith in our own cause was unshakable. So long as we prevent Communists from being heard, we produce the impression that they must have a very strong case. Free speech used to be advocated on the ground that free discussion would lead to the victory of the better opinion. This belief is being lost under the influence of fear. The result is that truth is one thing and “official truth” is another. This is the first step on the road to Orwell’s “double-talk” and “double-think”. It will be said that the legal existence of free speech has been preserved, but its effective existence is disastrously curtailed if the more important means of publicity are only open to opinions which have the sanction of orthodoxy.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-080.HTM

<寸言>
60年前のこのラッセル(やオーウェル)の警告がまさに現実のものとなっている。

このような事態は共産主義国だけのことであり,自由主義国には「言論の自由」があるから大丈夫というのが政権を握り政党政治家の常套句であった。しかし,世界中の多くの人々がそのようなことを信じなくなってきている。

しかしそれは気がつくのが遅すぎた。我々凡人(普通の一般市民)は,短期的なことしか考えない場合が多いので,そのうち良くなるだろうとか,そこまで為政者は悪いことはしないだろう,と甘く考えがちである。

ヒトラーが(民主主義の手続きによって)政権を奪取し戦争に突入していった事態など,民主主義が広く行き渡った現代世界には起こらないだろう(ただし共産主義に対しては常に彼らに上回る武力を持っている必要があるがそうしておけば民主主義国家は必ず勝利する)といった油断があったのではないか?

戦争は常にこぜりあいから発展して起こってしまう。北朝鮮,ISISへの対応の食い違い,世界的な格差の解消に努めないことから,紛争が起こり,それが大きな衝突となり,戦争までに発展していってしまう。集団的自衛権が国会で承認された日本にあっては,望まない戦争にいつのまにか関与することになってしまうという実際的な危険が存在している。特定秘密保護法の制定,報道規制,安保法案(集団安全保障)の国会承認,憲法への緊急事態条項の追加,自衛隊の海外派遣の拡大,日米共同軍事行動に対する報復としての国内でのテロの発生・・・。それよりも,東京大地震や南海トラフ大地震の方がより大きな打撃を日本にもたらすか!?

第二の警察権力が必要 - 冤罪や不当かつ過大な刑罰を防ぐために

 現代(世界)における組織の増大(増加)は,もし自由に関するいかなるものも保存されるべきだとしたら,新しい機関(や制度)が要求される(必要とする)。これは,16世紀において君主の権力の増大によって起った状況に似ている。伝統的な自由主義のあらゆる戦いが行われ,勝利を勝ちとったのは,この過大な王権(君主の権力)に対してであった。しかし,王権が衰退した後,少くとも同程度に危険な新しい諸権力が起ったが,今日その中の最悪のものは警察の権力である。私が理解できるかぎりにおいては(私の見るかぎり),それに対する唯一の可能な救済策は,有罪ではなく無罪であることを証明するための第二の警察権力を確立させることである。一人の無実な人間が罰せられるよりも,99人の有罪な人間が罪を逃れるほうがましだ,とよく言われる。我々の(現在の)制度はこれと反対の物の見方に立って定められている。たとえば,ある男が殺人で告訴される場合,警官や探偵の形としてのあらゆる国家資源は,彼の有罪を証明するために使われるが,しかるに,彼の(自分の)無罪を証明することは彼個人の努力に委ねられる。彼が探偵を雇えば,その人たちは彼や彼の友人の所持金(ポケット)から報酬を受ける私立探偵でなければならない。彼の職業が何であったとしても,その職業(仕事)によって(探偵を雇い続けながら)お金を稼ぎ続ける時間も機会もないだろう。検察側の弁護士は,国から報酬が支払われる,彼の弁護士は,貧困を訴えなければ,自分で報酬を支払わなければならないし,その時には,自分で支払わない弁護士(注:いわゆる国選弁護人)は,検察側の弁護士ほど多分優秀ではないだろう。これは全てまったく不当なことである。犯罪人がそれを犯したことを証明することと同様に,無実な人間が罪を犯さなかったことを証明することは少くとも公衆の利益である。無実を証明するために企図された警察力は,次の唯一の場合を除いて有罪を証明することを試みてはならない,即ち,罪を疑われている者が政府当局者である場合である。このような第二の警察力をつくれば,ある種の伝統的な自由を保護を可能にすると考えるが,それ以下の方策では(伝統的な)自由を保護できるとは思われない。
【参考:最初の行の英文の中の “in the way of” は,ここでは「~のじゃまになって)」の意味ではなく,「~の点で,~としては」の意味。例文: I don’t think there’s anything in the way of a haircut or a shave or a shampoo that could make me like my girl any less. 髪型とか肌剃とかシャンプーとかいったことで,私が恋人の女の子への愛情が少なくなるなんて思わない。】

The increase of organization in the modern world demands new institutions if anything in the way of liberty is to be preserved. The situation is analogous to that which arose through the increased power of monarchs in the sixteenth century. It was against their excessive power that the whole fight of traditional liberalism was fought and won. But after their power had faded, new powers at least as dangerous arose, and the worst of these in our day is the power of the police. There is, so far as I can see, only one possible remedy, and that is the establishment of a second police force designed to prove innocence, not guilt. People often say that it is better that ninety-nine guilty men should escape than that one innocent man should be punished. Our institutions are founded upon the opposite view. If a man is accused, for example, of a murder, all the resources of the State, in the shape of policemen and detectives, are employed to prove his guilt, whereas it is left to his individual efforts to prove his innocence. If he employs detectives, they have to be private detectives paid out of his own pocket or that of his friends. Whatever his employment may have been, he will have neither time nor opportunity to continue earning money by means of it. The lawyers for the prosecution are paid by the State. His lawyers have to be paid by him, unless he pleads poverty, and then they will probably be less eminent than those of the prosecution. All this is quite unjust. It is at least as much in the public interest to prove that an innocent man has not committed a crime, as it is to prove that a guilty man has committed it. A police force designed to prove innocence should never attempt to prove guilt except in one kind of case: namely, where it is the authorities who are suspected of a crime. I think that the creation of such a second police force might enable us to preserve some of our traditional liberties, but I do not think that any lesser measure will do so.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-070.HTM

<寸言>
従来の「おまわりさん」のイメージであれば,警察官は一般国民にとって親しみがあり,「庶民の味方」であるかのように見える。しかし,警察は,(軍隊ほどではないにしても)上官に対しては絶対服従を旨とする組織であり,警察庁の指導層(の一部が)が政権と癒着するととても危険な存在となる可能性がある
日本は,(大正時代における自由民権運動は例外として),欧米のように国家権力(あるいは宗主国/例:米国にとっての英国)と闘って自由を勝ち取った歴史はないといってよく,戦後に,進駐軍から自由を与えられたような国柄(国民)である。それゆえ,国民の権利が少しずつ奪われていったとしても,気づかない人が多いのではないだろうか?
特定秘密保護法制定の場合も,政権側は,どの国にも国家機密を保護する法律があると宣伝し,外国では「他国に特定秘密を漏洩することを罰する法律」であるのに,「他国に」という言葉を抜いて,相手が誰であっても「特定秘密を漏洩すること」は国家犯罪であるとしてしまった。最近自民党が言いだした,大災害に備えるために,憲法に緊急事態条項を追加し,緊急事態においては国民の権利を一時的に制限できるようにしようという動き(お試し改憲)には,同様の危険がある(庇を貸して母屋を取られる事態)。
「由らしむべし知らしむべからず」の基本姿勢に気が付かないといけない。

「魔女狩り」はどの国でも,いつの時代にも - 最高権力者に睨まれたら大変

 確かに,アメリカにはこれまで持ちこたえることができたほどの(抵抗し続けることができたほどの)強力な教育機関がいくつかある。けれども,これは非常な威信を持ち,自らの機関の方針を遂行する任にあたる勇敢な人たちがいる機関にのみ可能なことである。例えば,マッカーシー上院議員が,ハーバード大学について言ったことを考えてみよう。彼は「共産主義者である教授たちによって教化される道が開かれているハーバード大学へ子供をやる(通学させる)親を私は想像することはできない(そんな親がいるなどと想像できない)」と発言した。彼は,ハーバードには,「息子や娘たちをそこへやる親たちが知っておくべき悪臭を放つ嘔吐物」があると言った。ハーバードほど優れていない機関では,(国会議員による)このような攻撃の矢面に立つことはほとんど不可能であった。(注:戦時中の日本では,東大でさえも・・・)

 けれども,警察権力マッカーシー上院議員よりも,もっとずっと重大であり,もっと普遍的な現象である(注:マッカーシー上院議員は一人しかいなかったが,警察は世界中にあるため)。もちろん, 警察の権力は,鉄のカーテンの両側(注:東側及び西側の両方)に存在する不安の雰囲気によって,はるかに増大している。あなたがロシアに住んでいて,共産主義に同情的でなくなれば,家族の内においてさえ沈黙を守らなければ災難にあうことであろう。アメリカでは,あなたがかつて共産主義者であって(あったが)今はそうでないとしても(if = even if),やはり,諸君が偽証に陥れられなかったとしたら,法的ではないが,経済的かつ社会的な罰を受けやすいだろう。そのような処罰を逃れる方法はただ一つだけある。それは自分を司法省へ情報通報者として売ることである。その場合,あなたの成功は,どれほど大げさな話(tall story)を FBI(米国連邦捜査局)に信じさせることができるかにかかっているだろう。

There are, it is true, some educational institutions in America which, so far, have been strong enough to hold out. This, however, is only possible for an institution which has great prestige and has brave men in charge of its policy. Consider, for example, what Senator McCarthy has said about Harvard. He said he “couldn’t conceive of anyone sending children to Harvard University where they would be open to indoctrination by Communist professors.” At Harvard, he said, there is a “smelly mess which people sending sons and daughters there should know about.” Institutions less eminent than Harvard could hardly face such a blast.
The power of the police, however, is a more serious and a more universal phenomenon than Senator McCarthy. It is, of course, greatly increased by the atmosphere of fear which exists on both sides of the Iron Curtain. If you live in Russia and cease to be sympathetic with Communism, you will suffer unless you keep silence even in the bosom of your family. In America, if you have been a Communist and you cease to be, you are also liable to penalties, not legal unless you have been trapped into perjury but economic and social. There is only one thing that you can do to escape such penalties, and that is to sell yourself to the Department of Justice as an informer, when your success will depend upon what tall stories you can get the FBI to believe.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-060.HTM

<寸言>
警察権力や公安調査庁などは,本来,「政治的に中立」であるはずである。しかし,田中角栄(首相)は5億円の収賄の容疑で逮捕されたが,造船疑獄事件の時に,佐藤栄作(首相)は犬養法務大臣の指揮権発動により,逮捕を免れた。それどころか,日本の非核三原則のおかげでノーベル平和賞まで受賞した(しかし,実際は,非核三原則を無視し,有事における核持ち込みだけでなく,核兵器を積んだ米国の原子力空母の自由な寄港を密約で認めていたことも,後に明らかになった。そのこともあり,ノーベル平和賞選定委員会は,佐藤栄作への授与をもっとも後悔が残るものだとして,以後細心の注意を払っているとのことである。) つまり,原則的に,政治的中立的だとしても,人事権や予算権を握っている権力者に対しては弱く,政権の圧力を受けやすい。

総理大臣は表立って動く事はできないので,官房長官や法務大臣が動くことになる。内閣機密費も効果的に使われる。公安調査庁などは,野党の有力議員のスキャンダルもたくさんつかんでいることであろう。与党の有力議員や大臣などが窮地にたった時は,官房長官あるいは秘書官が公安調査庁の幹部に圧力をかけ,野党議員などのスキャンダル(極秘情報)を聞き出し,日頃目にかけている新聞(やイエロージャーナルや週刊誌)に直接あるいは第三者経由でその情報を渡し,新聞等に掲載させることによって,「中和」させ,政治家は皆お金に弱いと国民に思わせて,両成敗とさせてしまうことは,よくあると思われる。そうでない場合は,国民のアイドルやタレントのショッキングな事実を暴露させることによって国民の関心をそらすという手法がとられる。このようなことをバレずに行える政治家は,業師(できる人間)とされ,一目を置かれることになる。

役人(官公吏)の権力悪 - 「全体の奉仕者」というのは表向き

 自由に関する一般的退歩(悪化)には理由がある。それは,組織の増大した権力及び人間活動があれこれの大組織によって統制される程度の増大である。あらゆる組織には二つの目的がある。一つは組織が存在する表向きの目的であり,他の一つは役人(officials)の権力の増大である(注:あらゆる組織のことを言っているので,officials は,ここでは官僚=公務員だけでなく,権限を有している全ての役職者のことを言っていると解釈すべきか/また,いかなる組織も常に規模を大きくしようとする力が働くことを言っている。)。後者(二番目)の目的の方が,関係する役人がそれに奉仕するのを期待される公けの目的よりも彼ら役人にずっと強く訴えそうである。あなたが警察の不正行為を暴露しようとして彼らと衝突をすれば,彼らの敵意を招くことが予想されるだろうし,そうなればあなたはひどい目にあうことはきわめてありそうなことである。

 私は,多くの自由主義的な人たちが,訴訟事件(裁判)になった時に裁判所公正な判決を行うかぎりは大丈夫だと信じているのを,(経験から)気づいている。だがこれは全く非現実的である。たとえば,ある教授が祖国に忠実でないという誤った告発によって解雇されるという,決して仮定の問題とはいえない場合をとってみよう(注:ラッセルは実際,第一次世界大戦時に反戦運動をしたために,ケンブリッジ大学を解雇されている! だからありそうもない「仮定」の問題ではない)。彼が幸い裕福な友人を持っていれば,(優秀な弁護士を雇うなどして)この攻撃が間違っていることを法廷で決着できるだろうが,決着するまでにおそらく長い年月がかかり,その間に飢えるかあるいは慈善に頼ることになるだろう(注:従って現職の人間は,家族を養わないといけないので,長い時間がかかりそうな裁判に訴えかけることをしない。たとえば,国立大学においても同様であり,不当な人事が行われたとしても,文科省から天下ってきている人事担当理事や事務局長に抵抗できず泣き寝入りすることになる)。ついには,彼はマークされた人物(要注意人物)となる。知恵をつけた大学当局は,彼は講義がへたで(よい教師ではなく),研究も十分やっていない(など)と言い出すだろう。こうして,(刑が確定し)再び彼は(正式に)解雇され,今度は補償もなく,しかもほとんど雇ってもらえる見込がないことに気づくことになるだろう。

There is a reason for the general deterioration as regards liberty. This reason is the increased power of organizations and the increasing degree to which men’s actions are controlled by this or that large body. In every organization there are two purposes: one, the ostensible purpose for which the organization exists; the other, the increase in the power of its officials. This second purpose is very likely to make a stronger appeal to the officials concerned than the general public purpose that they are expected to serve. If you fall foul of the police by attempting to expose some iniquity of which they have been guilty, you may expect to incur their hostility; and, if so, you are very likely to suffer severely.
I have found among many liberal-minded people a belief that all is well so long as the law courts decide rightly when a case comes before them. This is entirely unrealistic. Suppose, for example, to take a by no means hypothetical case, that a professor is dismissed on a false charge of disloyalty. He may, if he happens to have rich friends, be able to establish in court that the charge was false, but this will probably take years during which he will starve or depend on charity. At the end he is a marked man. The university authorities, having learned wisdom, will say that he is a bad lecturer and does insufficient research. He will find himself again dismissed, this time without redress and with little hope of employment elsewhere.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-050.HTM

<寸言>
組織で力を持つには‘ひと’(人事)と’かね’(財務)の権限を握らなければならない。そこで,人事権や予算の裁量権(予算案作成の権限及び予算執行の権限)を握ろうと競争が起こる。
独立法人化した国立大学においても同様。文科省から天下ってくる役人(人事担当の理事や事務局長になる高級官僚や人事部長や財務部長になるエリート官僚)は,東大法学部の出身者が多く,影で国立大学(法人)の異動官職の須要な全国人事を操って,特権や利権をほしいままにしている(表向きは各大学が独自の人事をやっていることになっている)。もちろん,少数の立派な官僚はいるが,ヒラメのように目が上についている人間が多く・・・。

かつて英国の誇りであった政治的亡命権の縮小化

 その害悪(権力悪)のひどさは場所によって異なるが(平等に分配されていないが),(権力悪の)問題は特定の国には限定されない。私の母国(注:このエッセイはニューヨークタイムズのために書かれたが結局掲載されなかった。)ではアメリカ合衆国よりも事は静かに,また、合衆国ほどの騒ぎは起きずに,運ばれ,そうして,一般大衆(公衆)はそれらのことについて,ほんの少ししか知らない。(英国では)議会の委員会の関与なしに公務員の追放が行われてきた。移民(の数)を制御する英国内務省は,世論の反対がなければ(世論を動員することができなければ),極めて反自由主義的である。聡明な作家のあるポーランド人の私の友人は,英国に長く住んだ後に英国への帰化を申請したが,かつて共産主義者だったことはないのに,当初,ポーランド大使の友人だという理由で申請は却下された。彼の願いは,申し分のない名声をもった多くの人たちの抗議によって最終的には認められた(注:only がついているので,「それがなければみとめられなかったのである」と行ったニュアンスあり))。かつて英国の誇りであった政治的亡命者の亡命権(保護を受ける権利)は,もしかすると宣伝をやれば回復できるかもしれないが,いまでは内務省によって取上げられてしまっている。

The problem is not confined to this country or that, although the intensity of the evil is not evenly distributed. In my own country things are done more quietly and with less fuss than in the United States, and the public knows very much less about them. There have been purges of the Civil Service carried out without any of the business of Congressional Committees. The Home Office, which controls immigration, is profoundly illiberal except when public opinion can be mobilized against it. A Polish friend of mine, a very brilliant writer who had never been a Communist, applied for naturalization in England after living in that country for a long time, but his request was at first refused on the ground that he was a friend of the Polish Ambassador. His request was only granted in the end as a result of protests by various people of irreproachable reputation. The right of asylum for political refugees that used to be England’s boast has now been abandoned by the Home Office, though perhaps it may be restored as the result of agitation.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-040.HTM

<寸言>
アインシュタインも(政治的)亡命者であり、難民であった。

思想において先を行く者は常にと言ってよいほど大衆から迫害される

 問題は量的なものだけであり(量的に異なってきていることによる問題はあるが),それ以外に新しい問題はない。文明の開始以来,大部分の国の統治者(支配者)国民(非支配者)の最も優れた人たちを迫害してきた。我々はみなソクラテスやキリストに対する取り扱い方に驚かされるが,多くの人々はそのようなことはそれ以後の異常に優れているといわれた多くの人たちの運命だったことに気づいていない。初期のギリシア哲学者の大多数は亡命者だった。アリストテレスはアレクサンダー大王の軍隊によってのみアテネ(人)の敵意から守られていたので,アレクサンダー大王が亡くなると逃亡しなければならなかった。17世紀における科学の革新者(科学に革新をもたらした人々)は,オランダを除いて,ほとんど何処においても迫害された。スピノザは彼がもしオランダ人でなかったならば仕事をする機会をもたなかっであろう,デカルトやロックは,オランダへ逃亡するのが賢明であると気づいた。英国が1688年に(名誉革命の時に)オランダ人の王を迎えると,オランダの寛容を引き継ぎ,革命期のフランスとナポレオンに対する戦争期を除いて,大部分の国よりも自由主義的であった。大部分の時代の大部分の国において,後で最も優れていと考えられるようになったものはすべて,その当時権力をふるう者からは恐怖の眼で見られた。我々の時代で新しいことは,権力者(統治者)の偏見を(国民に)強いる彼らの権力の増大である。警察はどこでも昔よりはずっと強力である。彼らは通常,犯罪を鎮圧する一方,それと同様に,異常に優れたものを抑圧することに活動的になりやすい。

The problem is not new except quantitatively. Ever since civilization began, the authorities of most States have persecuted the best men among their subjects. We are all shocked by the treatment of Socrates and Christ, but most people do not realize that such has been the fate of a large proportion of the men subsequently regarded as unusually admirable. Most of the early Greek philosophers were refugees. Aristotle was protected from the hostility of Athens only by Alexander’s armies, and, when Alexander died, Aristotle had to fly. In the seventeenth century scientific innovators were persecuted almost everywhere except in Holland. Spinoza would have had no chance to do his work if he had not been Dutch. Descartes and Locke found it prudent to flee to Holland. When England, in 1688, acquired a Dutch king, it took over Dutch tolerance and has been, ever since, more liberal than most states, except during the period of the wars against revolutionary France and Napoleon. In most countries at most times, whatever subsequently came to be thought best was viewed with horror at the time by those who wielded authority.
What is new in our time is the increased power of the authorities to enforce their prejudices. The police everywhere are very much more powerful than at any earlier time; and the police, while they serve a purpose in suppressing ordinary crime, are apt to be just as active in suppressing extraordinary merit.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-030.HTM

<寸言>
上記で引用されている言葉(以下の言葉)は、 BBCの1958年8月8日の放送のなかでもラッセルの言葉として紹介されています。

「我々の時代で新しいことは,権力者(統治者)の偏見を(国民に)強いる彼らの権力の増大である。」
(What is new in our time is the increased power of the authorities to enforce their prejudices. )

革命後のロシアと同様に,西欧もまた以前享受した自由の多くを失った

 ロシア革命後,長い間,「(ロシア革命後のロシアの)新しい政治体制はあきらかに欠陥をもっているが,少なくとも前の体制(とって変わった体制)よりは良い」と言うのが慣例であった。これはまったくの幻想であった。ツァー政府の下でのシベリア流刑(者)の記録を読みなおす時,ずっと前に読んだ時の嫌悪感を再体験することは不可能である。流刑者は,精神的にも肉体的にも,かなりの自由をもっており,彼らの運命は,ソヴュト政府の下で強制労働をさせられた人たちの運命とはまったく比較にならないものであった。(革命前には)教養のあるロシア人は,自由に旅行し,西欧の人たちとの接触を自由に楽しむことができたが,これは現在では不可能である。政府への反抗は処罰されがちであったけれども可能であったし,その処罰は概して現在ほどびどいものではまったくなかった。圧政は現在ほど広範にはゆきわたってはいなかった。私は最近,ドイッチャー(Isaac Deutscher,1907-1967:英国の歴史学者,政治活動家)によって語られたトロツキーの若いころの伝記を読んだが,それは(トロツキーの若い頃には)現在のロシアとは比べものにならないほどの政治的かつ精神的な自由が存在したことを明らかにしている。ロシアと西欧との間にはツァー時代と同様,大きな深淵が横たわっているが,この深淵は当時よりも大きいとは考えられない。なぜなら,ロシアもより悪くなったけれども,西欧もまた以前享受した自由の多くを失ったからである。

For a long time after the Russian Revolution, it was customary to say, “No doubt the new regime has its faults, but at any rate it is better than that which it has superseded.”
This was a complete delusion. When one rereads accounts of exile in Siberia under the Czar, it is impossible to recapture the revulsion with which one read them long ago. The exiles had a very considerable degree of liberty, both mental and physical, and their lot was in no way comparable to that of people subjected to forced labor under the Soviet Government. Educated Russians could travel freely and enjoy contacts with Western Europeans which are now impossible.
Opposition to the Government, although it was apt to be punished, was possible, and the punishment as a rule was nothing like as severe as it has become. Nor did tyranny extend nearly as widely as it does now. I read recently the early life of Trotsky as related by Deutscher, and it reveals a degree of political and intellectual freedom to which there is nothing comparable in present-day Russia. There is still as great a gulf between Russia and the West as there was in Czarist days, but I do not think the gulf is greater than it was then, for, while Russia has grown worse, the West also has lost much of the freedom which it formerly enjoyed.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-020.HTM

<寸言>
ロシア革命により一党独裁とKGBによる監視社会ロシアが出現。
ソ連崩壊後は、崩壊前に比べ自由はましたようであるが、プーチンに対する批判だけは厳しく取り締まられている。
一方、中国はあいかわらず共産党による一党独裁である。
これに対し、ロシアには大きな政党が4つ(統一ロシア-保守主義;ロシア連邦共産党-共産主義;ロシア自由民主党-民族主義;公正ロシア-社会民主主義)ある。

ジョージ・オーウェル『1984年』 - 管理社会/監視社会と自由の制限

 ジョージ・オーウェル(注:George Orwell, 1903-1950:英国の作家で,全体主義的・管理社会的ディストピア反ユートピアの世界を描いた『1984年』で有名/ラッセルのこのエッセイはオーウェルの死後4年目に書かれたことになる。)の『1984年』は,まさに読者を戦慄させた,身の毛のよだつような本である。けれども,この本は,疑いもなく,著者が意図した効果(影響)をもたなかった。(注:オーウェルが自ら語っているように,彼は民主社会主義者であり,彼はこの小説において社会主義そのものを糾弾しているのではなく,当時のソ連に象徴される全体主義的な社会や国家を批判していることに注意)。
 人々はオーウェルがこれを書いていた時には彼は重病だったと言ったが,事実,彼はその後まもなく亡くなった(注:小説『1984年』は1949年6月8日に出版され,1950年1月21日に死亡した)。読者(彼ら)は,むしろ,その小説が与える恐怖による身震いを楽しみ,次のように考えた。「いや,もちろん,ロシアを除いてけっしてそんなにひどくはならないだろう。オーウェル(著者)が陰気臭さを楽しんでいたのはあきらかだ。真面目にとらずに我々読者も楽しむことにしよう。
こういった心地よい欺瞞(虚偽)で自らを慰め,オーウェルの予言が現実のものとなる道を歩んできたのである。少しずつ,一歩一歩,世界はオーウェルの悪夢の実現に向けて進んできている。しかし,この歩みは少しずつであったため,どのくらいこの致命的な道をどんなにか遠くまで歩んできたか,人々は気が付いてこなかった(気がついていない)のである。
1914年より前の世界を覚えている人たちのみが,これまでにどれほど多くのものが失われてしまったかをよく理解することができる。(1914年以前の)あの幸福な時代には,ロシアを除いたどこにおいても,パスポート(旅券)なしに旅行をすることができた。ロシア以外では,いかなる政治的意見も自由に発言することができた。新聞の検閲は,ロシア以外では,知られていなかった。白人は誰でも,世界中のどこへでも自由に移住することができた。ツァー体制化のロシアにおける自由の制限は,他の文明世界全体で恐怖の眼をもってみられ,ロシアの秘密警察の権力は,忌み嫌うべきこととみなされた。ロシアはまだ西側世界より悪いが,それは西側世界が自由を保持してきたからではなく,西側世界が自由を失ってきた一方で,ロシアはどのツァーも考え及ばなかったほど圧制の方向にさらに進んだからである。

George Orwell’s 1984 is a gruesome book which duly made its readers shudder. It did not, however, have the effect which no doubt its author intended. People remarked that Orwell was very ill when he wrote it, and in fact died soon afterward. They rather enjoyed the frisson that its horrors gave them and thought: “Oh well, of course it will never be as bad as that except in Russia! Obviously the author enjoys gloom; and so do we, as long as we don’t take it seriously.” Having soothed themselves with these comfortable falsehoods, people proceeded on their way to make Orwell’s prognostications come true. Bit by bit, and step by step, the world has been marching toward the realization of Orwell’s nightmares; but because the march has been gradual, people have not realized how far it has taken them on this fatal road.
Only those who remember the world before 1914 can adequately realize how much has already been lost. In that happy age, one could travel without a passport, everywhere except in Russia. One could freely express any political opinion, except in Russia. Press censorship was unknown, except in Russia. Any white man could emigrate freely to any part of the world. The limitations of freedom in Czarist Russia were regarded with horror throughout the rest of the civilized world, and the power of the Russian Secret Police was regarded as an abomination. Russia is still worse than the Western World, not because the Western World has preserved its liberties, but because, while it has been losing them, Russia has marched farther in the direction of tyranny than any Czar ever thought of going.
出典: Symptoms of Orwell’s 1984l,(1954).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1070_SoO-010.HTM

<寸言>
日本人が現在享受している自由は闘って奪い取ったものではなかった。GHQ(米国)から与えられた自由であり、そのため、自由が少しずつ奪い取られていても鈍感である。