ラッセル『私の哲学の発展 」第14章 普遍者、個別者、固有名 n.11

 「点=瞬間」 (point-instant) の構成の問題は、その後まもなく、ホワイトヘッドによってとりあげられ、私の著書『外界に関する我々の知識』で展開されたが、それは既に1911年に、私がとても気になっていた問題であった。 「時=空」 (space-time) を構成するに用いられる個別(そのようなものが存在すると仮定して)は、それ自身、(幾何学における)点的なものではなく、有限な広がりをもつもの(訳注:有限の広がりをもつ最小のもの/現代物理学でいえば「紐のようなもの」)であるはずだということは明らかだと、当時既に、私には思われていた。そうして、物理学が必要とすると思われる(幾何学的な)点的な性質は、有限な広がりを持つ個物(個別者)の束にのみ属するであろう。 しかし、二片の赤色が二つの異なる場所にある場合、二つの個別の(存在者である)赤があるのだということを、当時の私は疑っていなかった。そしてそれらを二つの個物(個別者)と考える必要は位置の相対性という考えと結びついていた。すなわち、二片の色はただ位置においてのみ異なっており、しかも「位置」なるものは「性質」 (quality) ではない(私は当時そう考えていた)のだから、位置は個物(個別者)相互の異他性を既に前提して(前もって仮定して)成り立っているのであって、異他性そのものを構成しうるのではない と私は(当時)考えたのである。しかし、感覚的空間における位置は絶対的なものであることを認めるにいたって、状況は変化した(訳注:物理的な世界における位置は相対的であっても、個人の感覚の世界の位置は絶対的なものであるという認識)。私の右側にみえる赤色の一片は、赤さと右側性という二つの性質の複合物であると言うことが可能であり、私の左側に見える赤色の一片は赤さと左側性との複合物であると言うことが可能である。左右は、上下と同じく、 様々なあらゆる程度において、 幾何学の要求する(幾何学が必要とする)論理的特質を持っており、これら左右上下という位置が、何らかのひとつの性質、たとえば赤さ、と合体(統合化)することによって、同時に見られた赤色の二片は、複数性を持つこととなるのである。同様な考え(considerations 熟慮した結果)を、私は時間における順序にも適用した。 何らかの性質が一人の人の経験の中で二度くりかえして現われるとしよ う。 たとえば、時計が時を打っている(ある時間を告げている)としよう。我々をして二つの打音を二つ(注:つまり2時)と認めさせ、一つのものが繰り返して現われているのではないと認めさせるものは何だろうか? この認知(このことを認知すること))は「主観的過去性」 (subjective pastness) と呼んでよいところのひとつの性質に依存するという結論に、私は達した。 私の精神の内容は、経験された出来事に関するかぎり、感覚から始まって随伴感覚(akoluthic sensation)に至り、次に直接的記憶に至り、さらに現在の感覚から多少とも(時間的に)へだたっているという性質をもつところの記憶にいたるところの系列(時系列)に排列することができる(可能である)。このようにして、、客観的見地から見れば全て「いま」 (now) であるところの、諸項目(複数のアイテム)からなる(ひとつの)主観的的時系列が生成される(のである)。 時計がきわめてよく似た音を繰り返し打っているのを聞くとき、すでに聞き終った諸音(noises)は、「漸消(fading)」 (fading 徐々に消える)とも言うべきものの種々なる程度(の音の高さ)をもっており、そのような、音と漸消との複合物が 複数的なのであって、音という性質そのものが複数的なのではない。私はこの理論を『人間の知識』で 述べたが、これは今でも私にとって満足すべきものと思われる。私がこの理論を好む理由は、もしそう考えない場合には個物(個別者)というものを認知不可能かつ不可知な存在者と想定しないといけなくなるが、この理論はその必要性を取り除いてくれるからである。

Chapter 14, n.11
The question of the construction of point-instants, which was shortly afterwards taken up by Whitehead and developed in my book on Our Knowledge of the External World, was already very much in my mind in 1911. It already seemed clear that the particulars (if any) used in constructing space-time should not themselves be punctual, but should have a finite extension. The punctual quality which physics seems to require would only belong to bundles of particulars of which each separate one had a finite extent. But it did not, at that time, seem to me doubtful that, if there are two patches of red in two different places, there are two particular reds. The necessity of thinking them two was bound up with the relativity of position: the two patches, I thought, differ only in position, and since position is not a quality (or so I thought), it presupposes diversity and cannot constitute it. With the recognition that position in sensible space is absolute, the situation changed. A red patch on my right can be a complex of the two qualities redness and rightness; and a red patch on my left can be a complex of the two qualities redness and leftness. Right and left, as well as up and down, have, in all their various degrees, the logical characteristics that are required for geometry, and it is their union with some one quality, such as redness, which gives plurality to two patches of redness seen simultaneously. I applied similar considerations to order in time. Suppose that some quality occurs twice over in one man’s experience, as, for example, when a clock is striking the hour. What is it that makes you recognize two strokes as two, and not as one thing repeated? I came to the conclusion that this recognition depends upon a quality which we may call ‘subjective pastness’. The contents of my mind, in so far as they are concerned with experienced occurrences, can be arranged in a series beginning with sensation, going on to akoluthic sensation, thence to immediate memory, and thence to memories having a quality of more or less distance from present sensation. In this way a subjective time series is generated consisting of items which, from an objective point of view, are all now. When you hear the striking clock repeating closely similar noises, the noises that you have already heard have varying degrees of what we may call ‘fading’, and it is the complex of noise plus fading that is plural, not the actual quality which is the noise. This theory, which I developed in Human Knowledge, still seems to me satisfactory, and I prefer it because it gets rid of the need for assuming the unrecognizable and unknowable entities which particulars would otherwise be.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展 」第14章 普遍者、個別者、固有名 n.10

 私は、後に、これらの議論を妥当ではないと思うようになった。 感覚的世界に関していえば、知覚空間(experienced space 特定の個人によって経験される空間 → perceptual space)における位置は、物理学の空間における位置のように相対的なものではないということは、よく考えてみれば明白なことである(訳注:物理的空間は「相対的」)。私(個人)の瞬間的視野において、位置はいろいろな性質によって定義される。(その人の)視野の中心にあるものは、「中心性」と呼んでよいひとつの性質を有している。その瞬間に私が見ている他の全てのものは、二つの性質、すなわち(中心から見て)上下とか左右という性質を、種々な程度において、持っている。 けれども、この点は、我々が今検討している(先の)論文において採っていた見解を私が捨てた理由のなかの最も重大なものではない最も重大な理由は、時空関係(spatio-temporal)の論理的特性に関するものである。時空関係は、系列を生む(もの)と考えられる。議論を単純にするために、問題を時間に、それもひとりの人間が経験する時間に限ることにしよう。もし、AがBの前に起こっていれば、AとBは必然的に異なるものである、と我々は考える。(また)AがBの前に起こっており、BがCの前に起こっていらば、その時は、AはCの前に起こっていると我々は考える(訳注:今は時間に限定していることに注意)。もし、これらの時間的関係の特質が疑われると(are called in question)どのようにして時系列を構成することができるか理解し難くなる。(そういうわけで)、1911年当時の私には、 時系列と幾何学的空間は、それぞれ独自な時空の位置をもつところの質料的(物質的)要素(materials 素材)を用いることなくしては、構成されず、しかも、そのような質量的(物質的)要素は、個物(個別者)以外には見つけることができないと思われた(訳注:特性をどれだけ集めても、時系列も幾何学空間も構成できない、ということ)。

Chapter 14, n.10 I came later to think these arguments invalid. As regards the sensible world, it is clear on reflection that position in experienced space is not relative, like position in the space of physics. In my momentary visual field, position is defined by qualities. What is in the centre of the field of vision has a quality that we may call ‘centrality’. Everything else that I am seeing at the moment has various degrees of two qualities: up-and-down and right-and-left. This, however, is not the most serious point on which I have abandoned the views in the paper we are considering. The most serious point has to do with the logical properties of spatio-temporal relations. Such relations are conceived as generating series. For the sake of simplicity we may confine ourselves to time, and even to time in one person’s experience. We think that if A is before B, A and B are necessarily different. We think that, if A is before B, and B is before C, then A is before C. If these characteristics of temporal relations are called in question, it becomes difficult to see how the time series can be constructed. It seemed to me in 1911, that the time series and the space of geometry could not be constructed without the use of materials that had unique spatio-temporal position, and that such materials could not be found if particulars were rejected.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第14章 普遍者、個別者、固有名 n.9

(注意: 以下は、ラッセルが後に間違っていると思うようになった考え)

「我々が知覚空間から導き出した数的異他性(numerical diversity)についての議論は、異なる精神(心)の内容についての同様な議論によって強化(補強)されるかも知れない。(即ち、) 二人の人間がいずれも「2+2=4」 であると信じている時、彼ら(二人)が「2」という語や「+(たす)」 「4」「ある」という語に与えている意味は(二人とも)同一であるということ、、また、従って、二人のもつ信念の対象に関する限り、一方の信念と 他方の信念を区別すべき理由はないということは、少なくとも理論的には可能である。それにもかかわらず、二つの実体(entities 存在者)、即ち、一方の人間の信念及び他方(もう一方)の人間の信念の2つの実体が存在していることは、明らかであると思われる。すなわち、ひとつの個別的信念とは、我々が主観(subject 主体)と呼んでよい何らかのものをその構成要素として含むところの一つの複合体である。我々が今考えている場合では信念の異他性を生むものは主観の異他性である。しかし、これら二つの主観なるものは、一般的性質の単なる束ではありえない。二人の中の一人が、「博愛」と「魯鈍」と「ダジャレ好き」という(3つの)特徴 を持つと仮定してみよう。「博愛と魯鈍とダジャレ好き(の3つの性質で構成されたもの)gが、2+2=4であると信じている」と言うの正しくないであろう。そして、一般的性質の多くをさらにつけ加えても、上の文は正しいものにならないであろう。さらに、いかに多くの性質をそこに加えていっても、もう一方の主観(主体)もまた同じくそれらの 特質をもつということが、依然として可能である。 従って、 諸性質は、主観の異他性を構成するものではありえないことになる。二つの主観が異なるというとき、その異なる点はただ、それら個別的主観が他の個別者に対して持つ関係においてであるより他(以外)はない。 たとえば、一方の主観(主体)はそれが他方の主観(主体)に対して持つ関係を、自分自身に対しては持たないというようなことである。 しかし、すべてのものが、両者(両方)の主観の一方に関わり、かつ、それ以外のことは普遍者のみに関わりを持ち、そのことが他方の主観についてもやはり真でありうるということは、論理的には不可能でない(訳注:2つのものがまったく同じ特性を全て持ち、両者間の関係に関わるものだけが普遍的なものである、ということらしい)。従って、たとえ そういう命題に関していろいろな相違が現われても、それらの相違が、二つの主観の異他性を構成するのではないのである(訳注:人物Aは人物Bの左にいるとして、そのことが両者の異他性を創っているのではなく、両者が別々の個物であるというおとで異他性が生じている、ということか?)。それゆえ、主観(主体)は、個別者と考えらなければならず、それらについて述語されうる 一般的性質の集合のいずれとも根本的に異なったものであると考えなければならない(のである)。」

Chapter 14, n.9

The argument as to numerical diversity which we have derived from perceived space may be reinforced by a similar argument as regards the contents of different minds. If two people are both believing that two and two are four, it is at least theoretically possible that the meanings they attach to the words two and and and are and four are the same, and that therefore, so far as the objects of their beliefs are concerned, there is nothing to distinguish the one from the other. Nevertheless, it seems plain that there are two entities, one the belief of the one man and the other the belief of the other. A particular belief is a complex of which something which we may call a subject is a constituent ; in our case, it is the diversity of the subjects that produces the diversity of the beliefs. But these subjects cannot be mere bundles of general qualities. Suppose one of our men is characterized by benevolence, stupidity, and love of puns. It would not be correct to say: ‘Benevolence, stupidity, and love of puns believe that two and two are four.’ Nor would this become correct by the addition of a larger number of general qualities. Moreover, however many qualities we add, it remains possible that the other subject may also have them; hence qualities cannot be what constitutes the diversity of the subjects. The only respect in which two different subjects must differ is in their relations to particulars: for example, each will have to the other relations which he does not have to himself. But it is not logically impossible that everything concerning one of the subjects and otherwise only concerning universals might be true of the other subject. Hence, even when differences in regard to such propositions occur, it is not these differences that constitute the diversity of the two subjects. The subjects, therefore, must be regarded as particulars, and as radically different from any collection of those general qualities which may be predicated of them.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展 」第14章 普遍者、個別者、固有名 n.8

 個物(個別者)に関する上記の困難を扱う私の最初の試みは、1911年に、アリストテレス協会(訳注:英国最大の哲学会)で読みあげた論文普遍(者)と個物(個別者)との関係について」であった。その時は、ベルクソンの出席によって威厳を増していたが、彼は、 証明が必要なのは、普遍者の存在ではなく個別者の存在であると私(ラッセル)は考えているように思われると言って、驚いていた(remark with surprise)。この論文において私は一つの仮説を吟味し、しりぞけたが、 その仮説はそれ以来,私は採用してきている(訳注:In this paper I examined, but rejected, a hypothesis which I have since adopted. 前文が「examined」「rejected」と過去形になっており、後文は 「have since adopted」と現在まで続いている現在完了形になっていることに注意)。 その仮説というのは、種々の性質(quality) が内在する(inhere)主体 (subject) として個別者を立てる必要はないという仮説であり、その仮説によれば、諸性質の束が個別者の代りになることができる(というものである)。当時この説をしりぞけたのは、数的異他性 (numerical diversity) と、それが空間と時間とに対してもつ関係の問題のためであった(訳注:1911年では、一般相対性理論は発表されていなかったので、space-time ではなく、「space and time」と表現されている)。そして(1911年)当時私は、心的現象が主観と客観との関係で成り立っていると信じており、主観は針の先のような個物(個別者)の性格を持っていると信じていた(のである)。そこで、空間的=時間的位置の相対性のゆえに、感覚的世界には個物(個別者)のあることが必要だと論じた後、私は二人の人間の間の相違(違い)に関しても全く同様な議論を進め、私は次のように言った。(訳注:あくまでも、間違った思考をした例について述べていることに注意)

Chapter 14, n.8 My first attempt to deal with the above difficulties as to particulars was a paper read before the Aristotelian Society in 1911, ‘On the Relations of Universals and Particulars’. The occasion was dignified by the presence of Bergson, who remarked, with surprise, that I seemed to think it was the existence of particulars, not of universals, that needed proving. In this paper I examined, but rejected, a hypothesis which I have since adopted. According to this hypothesis, there is no need of particulars as subjects in which qualities inhere. Bundles of qualities, according to this hypothesis, can take the place of particulars. What led me to reject this view at that time was the problem of numerical diversity and its connection with space and time. I believed, at that time, that mental phenomena consist in relations between subjects and objects, and that the subjects have the character of pin-point particulars. After arguing from the relativity of spatio-temporal position to the need of particulars in the sensible world, I went on to a closely similar argument as regards the difference between two persons. I said:
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ラッセル『私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.7


 (もうひとつの)別の種類の難点があり、それは、実体(substance)という概念に対する定評のある反論(objections 異論)と関連している。 私がラテン語の小文字で示した個物(個別者)は、構文的な意味(文法的な意味)での実体でなければならないように思われた。もっとも、それらの実体は、伝統的に実体が有すると考えられてきた不滅性という特性を持つ必要はないであろう。 「これこれの特性を持つ」という陳述が常に(文として)有意義であり(意義を持ち)、かつ、決して分析的なものではないとすると、その結果として(必然的に)、x はその全ての特性の和とは異なる何ものかであり、他の個物(個別者) y とは純粋に数的にも異なるものでなければならず、二つの個物(個別者)x と y は全ての特性を共有しつつやはり2つであるということが論理的に可能でなくてはならないということになる、と私には思われた。 しかしもちろん、我々はそれらが二つであることを知ることはできないであろう。なぜなら、もし二つであると我々知ることができるならば、x と y とは異なるが、y は異ならない(訳注:x は yと異なるという特性を持つが、y は (x は y と異ならない)という特性を持たない)、ということを知りうることを含む(伴う)ことになるからである。(訳注:x は 「xはyと異なる」という特性をもつとしても、yは「xはyと異なる」という特性をもつはずはない、ということ?)このようにして、実際上、、x は、単なる不可知な基体(subsratum)、あるいは(即ち)、もろもろの特性が、農家の梁(はり)からハムのように吊るされるところの(梁からでている)かけ釘(beams)のようなものになるであろう(訳注:その釘は見えない!!)。 このような考察 は「個別」の概念を困難におとしいれ、何らかの脱出手段を求めることを促す(のである)。

There was another class of difficulty which was connected with the well-established objections to the notion of substance. It seemed as if the particulars which I had denoted by small Latin letters would have to be substances in a syntactical sense, though they would not need to have the property of indestructibility which substances were traditionally supposed to possess. If the statement that x has such and such a property is always significant, and never analytic, it seems to follow that x is something different from the sum of all its properties, and that it must differ from another particular, y, purely numerically, so that it should be logically possible for the two particulars, x and y, to share all their properties and yet be two. We could not, of course, know that they were two, for that would involve knowing that x differs from y, which y does not do: x, in fact, would become a mere unknowable substratum, or an invisible peg from which properties would hang like hams from the beams of a farmhouse. Such considerations make the concept of ‘particulars’ difficult, and invite a search for some way of escape.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.5

 当時の私の見解は、昼の仕事(労働)と暑さとによって失われる一種の朝の無邪気さ(morning innocence)を備えていた。当時私は、もし(一つの)語が(一つの)文の意味に寄与するなら、その語の意味する何物かが存在しなければならないと考えていた。この点については、『数学の原理』の第47節を引用しよう。

「哲学は、多少とも等価(同等)の何組かの区別に精通している(親しみがある → 区別をよく行う)。即ち、主語と述語実体と形容詞的規定「これ(このもの (this) )」と 「何(何であるか) (what) 」、の区別である。これらの同語源語(cognate 源が同じ言葉)の区別に関して真であると私に思われる事柄についてここに簡単に示しておきたい。それは重要な問題である。というのは、(1)一元論と単子論(ライプニッツの monadism)、(2)観念論と経験論、また、(3)あらゆる真理は、存在するものに関わる(関係している)と主張する人々とそれを否定する人々の間にある、それらの論争点は全て、全体的あるいは部分的に、上の問題(訳注:「主語と述語の区別の問題ほか)に関して我々がて採用する理論に依存するからである。しかしこの問題(訳注: the subject と”the”がついているので、少し前にでてくる subject 「主語」ではないことに注意)をここで論ずるのは、ただそれが数の理論や変項の性質についての理論のいかなるものにとっても不可欠だからである。この問題が哲学一般に対して持つ関係は、重要 はあるが、ここではまったく考慮の外におくことにする。
 思考の対象となりうるものは何であれ、また、真または偽なる任意の命題の中に現われうるものは何であれ、また、「一」として数えられるものは何であれ、私は「項」 (term) と呼ぶ。その場合(then)、これは、哲学用語の中で最広義の語であることになる。私はそれと同じ意味に、単位 (unit) とか,個体・個物 (individual) とか,存在者 (entity)とかいう語を用いるであろう。これらの語のうち最初の2つ、即ち、「単位」と「個体」は、全ての項が 「一」であることを強調しており、三番目の「存在者」(という語)は全ての項が「存在」 (being) を持つ、言いかえれば、何らかの意味で「存在する(is)」という事実に由来している。人間、瞬間、数、集合、関係、化け物(キメイラ)、その他、言葉で呼びうるいかなるものも、それぞれ確かに一つの「項」である。(従って)これこれのものが項であることを否定することは、常に偽でなければならない。
 このように極度に一般的な意味をもつ語は大して役には立たせることができないと考えられるかもしれない。けれども、そういった見方は、広く行われている哲学説のおかげで、誤まりであろう。実際、 一つの項は、普通に実体や実体詞(substantives〕 が持つ認められている特性の全てを備えている(is possessed of)。第一に、全ての項は論理的主語である。たとえば、それは、「項自体は一なるものである(itself is one)」という命題の主語である。さらに、いかなる項も不変であり、不滅である。一つの項は何かというと存在であり(?)(What a term is, it is)、それについて考えられうるいかなる変化もそれの同一性を破壊しそれを別の項にしてしまうであろう。項が持つもう一つの(別の)特徴は、自己自身との数的同一性、及び他の全ての項に対する数的多様性である。数的同一性と数的多様性とは、単一性と多数性の源泉である。そうして、そのように多数の項の存在を認めることは、一元論を破壊することである。そうして、いかなる命題のいかなる構成要素も「一」として数えられうるものであり、かつ、いかなる命題も少なくとも二つの構成要素を含んでいるということは否定できないと思われる。それゆえ「項」は有用な語である。なぜなら、我々は多くの命題において「任意の」 項とか「ある」項とかについて語る必要があるとともに、また、「項」なる語は様々な哲学に対する我々の異論を特徴づけるからである。

Chapter 14: , n.5
My views at that time had a kind of morning innocence which they lost in the labour and heat of the day. I imagined that, if a word contributes to the meaning of a sentence, there must be something that the word means. In this connection I will quote §47 of The Principles of Mathematics: Philosophy is familiar with a certain set of distinctions, all more or less equivalent: I mean, the distinction of subject and predicate, substance and adjective, this and what. I wish now to point out briefly what appears to me to be the truth concerning these cognate distinctions. The subject is important, since the issues between monism and monadism, between idealism and empiricism, and between those who maintain and those who deny that all truth is concerned with what exists, all depend, in whole or in part, upon the theory we adopt in regard to the present question. But the subject is treated here only because it is essential to any doctrine of number or of the nature of the variable. Its bearings on general philosophy, important as they are, will be left wholly out of account. Whatever may be an object of thought, or may occur in any true or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This, then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The first two emphasize the fact that every term is one, while the third is derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense. A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything else that can be mentioned, is sure to be a term: and to deny that such and such a thing is a term must always be false. It might perhaps be thought that a word of such extreme generality could not be of any great use. Such a view, however, owing to certain widespread philosophical doctrines, would be erroneous. A term is, in fact, possessed of all the properties commonly assigned to substances or substantives. Every term, to begin with, is a logical subject: it is, for example, the subject of the proposition that itself is one. Again every term is immutable and indestructible. What a term is, it is, and no change can be conceived in it which would not destroy its identity and make it another term. Another mark which belongs to terms is numerical identity with themselves and numerical diversity from all other terms. Numerical identity and diversity are the source of unity and plurality; and thus the admission of many terms destroys monism. And it seems undeniable that every constituent of every proposition can be counted as one, and that no proposition contains less than two constituents. Term is, therefore, a useful word, since it marks dissent from various philosophies, as well as because, in many statements, we wish to speak of any term or some term.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.4

 私の論理記号法に関係している形而上的な信念を述べようとする最初の試みは、『数学の諸原理』(The Principles of Mathematics)の第四章に「固有名、形容詞及び動詞」という見出しのもとに、記載されている。おおざっぱに言えば、当時私が考えたことは、変項(注:数学で言えば変数)に代入できる(割り当てることができる)値に関することであった。私がラテン語の小文字で示した変項(変数)は、その可能な値として、特性または関係を有する存在者(entities)をもつべきであった。ギリシャ文字は一つの特性、 あるいはその特質をもつものの集合を指示すべきであった。ラテン語の大文字は関係を指示すべきであった。その当時の私の考えでは、ラテン語の小文字に値を与えることは、変項に一つの固有名を代入することであった。たとえば、xが何であろうとも、もし、x が人間ならばxは死すべきものであるということを知っている場合、我々は「x」に「ソクラテス」を代入することができる。同様に、ギリシャ文字には、 一つの特性を代入することができる;ラテン語の大文字には、一つの関係を代入することができる。このように、変項に常項(注:数学でいえば定数=常数)を代入することは、論理(学)を適用する手続きである。この手続きは、論理(学)の領域外にあるものである。なぜなら、論理学者は、それ自体としては(as such)、ソクラテスの存在について、また、その 他の何ものの存在についても、知らないからである。

Chapter 14: , n.4
My first attempt to state the metaphysical beliefs involved in my logical symbolism was set forth in Chapter IV of the Principles of Mathematics, entitled ‘Proper Names, Adjectives and Verbs’. Roughly speaking, what I thought then had to do with the values that could be assigned to variables. The variables for which I used small Latin letters were to have as their possible values entities which have properties or relations. A Greek letter was to denote a property or the class of things having that property. Capital Latin letters were to denote relations. I thought, at that time that the assigning of a value to a small Latin letter consisted in substituting a proper name for the variable — for example, if we know that whatever x may be, if x is a man x is mortal, we can substitute the name ‘Socrates’ for ‘x’. Similarly, for a Greek letter, we can substitute a property; and, for a capital Latin letter, we can substitute a relation, This substitution of a constant for a variable is the process of applying logic. It is a process which lies outside logic, for the logician, as such, does not know of the existence of Socrates or of anything else.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.3

 私自身のことを言えば (For my part)、(この問題については)2つの方向に導かれた。一つの方向へはライプニッツの研究によってであり、もうひとつの方向へは次の事実によってである。その事実というのは、数学の基礎概念(基本概念)の多くが非対称的関係(asymmetrical relations)を必要とし、非対称的関はその関係項のもつ述語や,関係項が構成する全体の持つ述語に還元できないという事実である。このように関係の「実在性」を信ずるようになった私は、主語-述語論理を受けいれることはできなかったし、また個物(個別者)のみが存在するという経験論の見解を受けいれることができなかった。  一元論を捨てて以来の私の哲学の発展の全体を通して、見解がいろいろな変化したけれども、私はある一定の根本的な信念を保持し続けた。その信念は、私にはどのようにして実証すればよいかわからないけれども、どうしても疑えないものである。それらの信念の第一は、私には非常に明らかに思われることであるが、それに正反対の意見が主張され続けているという状況がなければ(but for)、わざわざ言及するのは恥かしい(blush 赤面する)ほどのものである。それは、「真理」は「事実」へのある種の関係に依存するという信念である。第二は、世界は相互に関係する(しあう)多くのものからなっているという信念である。第三は、構文(構文論、統語論) 、即ち、文の構造は、事実の構造に何らかの関係を持たなければならず、、少なくとも、どのような文にも不可欠であってあれこれの言語に特有ではないところの構文の側面に関してはそういった関係を持たなければならないという信念である。最後の信念として(第四に)、上の3つほどには確かではないと感じるが、何か非常に強力な考慮事項(considerationsが私を強いるのでなければどこまでも維持し続けたい一つの原理・原則がある。それは、ひとつの複合物について言うことができること(は全て)、その複合物に言及することなく、その諸部分と部分相互の関係とを説明する(明記する)ことによって、言い表すことができるという原理である。  これらの前提(仮定)は『数学原理』の記号法において暗黙の了解であった(含意であった)。『数学原理』の記号法は、「もの」(things) があり、それらのものはいろいろな特性 (properties) をもち、かつ他の「もの」に対する関係(relations) をもっているということを想定していた。私は、当初、2つの基本的な種類の構文論的記号法を用いた。 第一は、ひとつの「もの」がひとつの集合のひとつの要素(メンバー)であることを述べるものであり、第二は、ある「もの」が他の「もの」と一定の関係をもつことを述べるものである。私は「もの」を示すにラテン語の小文字を用い、集合を示すのにギリシャ字の小文字を用い、関係を示すのにラテン語の大文字を用いた。しかしながら、「集合」は次第に「特性」によっておきかえられ、ついには、記号法上の一便宜手段として以外には姿を消した。

Chapter 14: , n.3
For my part, I was led in two directions: on the one hand, by the study of Leibniz; and, on the other hand, by the fact that many of the fundamental concepts of mathematics demand asymmetrical relations, which cannot be reduced to predicates of the related terms or of the whole which the terms compose. Having become firmly convinced of the ‘reality’ of relations, I could not accept either the subject-predicate logic or the empiricist view that there are only particulars. Throughout my philosophical development since abandoning monism, I have retained, in spite of changes, certain fundamental beliefs, which I do not know how to demonstrate, but which I cannot bring myself to doubt. The first of these, which seems so obvious that I should blush to mention it but for the circumstance that the contrary opinion has been maintained, is that ‘truth’ depends upon some kind of relation to ‘fact’. The second is that the world consists of many interrelated things. The third is that syntax — i.e. the structure of sentences — must have some relation to the structure of facts, at any rate in those aspects of syntax which are unavoidable and not peculiar to this or that language. Lastly, there is a principle of which I feel less certain, but which I wish to adhere to except where very powerful considerations compel me to depart from it. This is the principle that what can be said about a complex can be said without mentioning it by setting forth its parts and their mutual relations. These assumptions were implicit in the symbolism of Principia Mathematica. This symbolism assumed that there are ‘things’ which have properties and have, also, relations to other ‘things’. I employed, at first, two fundamental kinds of syntactical symbolism, the first stating that a ‘thing’ is a member of a class, the second stating that one ‘thing’ has such and such a relation to another ‘thing’. I employed small Latin letters for ‘things’, small Greek letters for classes, and capital Latin letters for relations. Classes, however, were gradually more and more replaced by properties, and in the end disappeared except as a symbolic convenience. Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_14-030.HTM

ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.2

 私は、これらの伝統的な見解のいくつかを寓話の形で雑誌 「ポレミック」 (Polemic) に記述した (1946年,第2号, pp.24-25)。) 「かつて(昔々),様々な学派の哲学者達の一行がヨーロッパ大陸の辺鄙な地方を旅行していました。彼らはつつましやかな(質素)な宿屋を見つけ 食事を注文しました。宿屋の亭主は牛肉の骨付き肉(a joint of beef)を出しますと約束しました。しかし、出てきた骨付き肉はいかにもまずそうでした(食欲をそそられないものでした)。ヒュームの信奉者で旅行の経験を積んでいたひとりの哲学者が、亭主(mine host) を呼んでこう言ました。 「これは 牛肉ではない、馬肉だ!」  彼はその宿屋の亭主が、昔はもっと盛んに商売をしていたが、哲学に凝ったために仕事を疎かにして落ちぶれた人だということを知りませんでした。それで亭主が次のように返事した時には驚きました。 「意味不明のことをあなたが言われるので、私は驚いています。あなたがた(哲学者の方々)の御意見によれば、「牛肉」や「馬肉」とはどちらも単なる言葉に過ぎず、非言語的世界における何ものも指示しません(そのようにあなた方は言っています。) 従って、牛肉であるか馬肉であるかの争いは、ただ言葉(上)の争いに過ぎないことになります(なるはずです)。 もしあなたが「馬肉」という言葉を好むのであればそれで結構です。 しかし、私としては牛肉という言葉の方がを有利である(profitable そう言ったほうが儲かる)と思っている(発見した)次第でございます。」(訳注:言葉は実体を反映しないのであるのなら、「牛肉」と言ったほうが宿屋の主人としては儲けになる、との屁理屈)  この返事を聞いて全ての哲学者達(いろんな学派の哲学者達)がいっせいに話しはじめた。ロスケリヌス(Roscelin = Roscellinus ロスケリヌス、1050年頃-1125:フランスの哲学者・神学者で唯名論の創始者)の信奉者は言った、「亭主の言うことはもっともだ。 「牛肉」や「馬肉」は人間の息の発した音に過ぎず、いずれの言葉もこの忌むべき固い肉片を指示することはできない」。 プラトン主義者は次のように言い返した。「ナンセンスだ! この骨付き肉は、生きてた時には天上の永遠の馬のひとつの写しであった動物のものだ。天上の永遠の牛の写しだった動物のものではない」。(次に)アウグスティヌス主義者はこう言った、「「牛肉」や「馬肉」は神の精神における一つの観念(イデア)である。また、 私は、牛肉についての神の観念(イデア)はこの(亭主が出した)骨付き肉とは非常に異なったものである確信している」。  哲学者たちの意見が一致しているものがたった一つだけあった。それは、そのようなひどいものを「牛肉」の名のもとに売った人間はいかなる者も詐欺罪で告訴されるべきであるということであった。このことを聞いて亭主は、その地方の治安判事が哲学者ではないことを知っていたので、大いに恐れをなし、別の肉を出し、それは全ての哲学者に満足を与えた。  この寓話のただひとつの要点は、「普遍(者)」の問題はただ単に言葉の問題ではなく、事実を述べようとする試みから生ずる問題であるということである。

Chapter 14: , n.1
There was once a company of philosophers of various schools travelling in an out-of-the-way region on the Continent. They found an unpretentious inn and ordered dinner; the innkeeper promised them a joint of beef. But the joint, when it came, was unappetizing. One of the philosophers, a disciple of Hume and an experienced traveller, summoned mine host and said: ‘This is not beef, it is horse.’ He did not know that the innkeeper had seen better days, but had neglected his affairs and come down in the world through devotion to philosophy; he was therefore amazed when the innkeeper replied: ‘Sir, I am surprised to hear you saying something which you believe to be devoid of meaning. “Beef” and “horse”, according to you, are only words, and do not denote anything in the non-linguistic world. The dispute is therefore only about words. If you prefer the word “horse”, well and good; but I find the word “beef” more profitable.’ This reply set all the philosophers talking at once. ‘The innkeeper is right,’ said a disciple of Roscelin, ‘ “beef” and “horse” are only sounds uttered by human breath, and neither can denote this abominable piece of very tough meat.’ ‘Nonsense,’ retorted a Platonist, ‘this joint comes from an animal which, when alive, was a copy of the eternal horse in heaven, and not of the eternal ox.’ An Augustinian remarked: ‘ “Beef” and “horse” are ideas in the mind of God, and I am sure the divine idea of beef is something very different from this.’ There was only one point on which they were all agreed, and that was, that any person who sold such nasty stuff’ under the name of ‘beef’ deserved to be prosecuted for fraud. At tlhs the innkeeper, who knew the local magistrate to be no philosopher, became frightened, and produced another joint, which gave universal satisfaction. The sole point of this parable is that the question of ‘universals’ is not merely one of words, but one which arises through the attempt to state facts. Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_14-010.HTM

ラッセル 『私の哲学の発展』 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.1

 普遍(者)と個別(者)に関する諸問題及びそれと密接に関係する固有名の諸問題は、一元論の論理(一元論の立場の論理学)を放棄して以来、ずっと私の思索のなかで非常に大きな部分を占めてきた。 それら(の問題)は古い(古くからの)問題であり、事実、少なくともアリストテレスにまで遡るほど古い問題である。(また)それらの問題は、中世のスコラ哲学者達の思索の大きな部分を占めいてた。これら問題に関する彼らの著作は現在でも真剣な考慮に値いする(ものである)。17,18世紀において、普遍(者)の心理学上及び形而上学上の地位についての(意見の)相違は、(ヨーロッパ)大陸の哲学者達とイギリスの経験論者達との間の最も重要な論争点であった。 私は、これらの伝統的な見解のいくつかを寓話の形で雑誌 「ポレミック」 (Polemic) に記述した (1946年,第2号, pp.24-25)。

Chapter 14: , n.1 The problems connected with universals and particulars and with the closely related matter of proper names have occupied a great deal of my thought ever since I abandoned the monistic logic. The problems are old, in fact at least as old as Aristotle. They occupied much of the speculation of the mediaeval Schoolmen, whose work in this connection still deserves serious consideration. In the seventeenth and eighteenth centuries, differences as to the psychological and metaphysical status of universals were among the most important points of controversy between Continental philosophers and British empiricists. I set forth some of these traditional views in Polemic in the form of a fable (No. 2 , 194 ( 5 , pages 24 – 5 ):
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_14-010.HTM