第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」09

 ライル教授は、オックスフォード学派(←その学派)とともに、生じる諸問題に対して言語的な形態を与えるという情熱的な決意を飾り立てている。(訳注:みすず書房版の野田又夫訳は次のようになっています。「ライル教授は、彼が花形役者となっている学派の共通の傾向として、問題が起るとそれに言語的形式を与えるという強い決心をもっている」。← なぜ「花形役者」なのか?野田氏は、
adorn’は’the school’にかかり、’passionate determination‘を’share with‘するととっているようです?)
参考:share A with B が通常の形ですが share with B A の形は可能でしょうか? 「Yahoo 知恵袋」より : Irregular ですが、Aが長い場合、可能です。これはShareにかぎらずですが、英語では誤解を避けるために、長い節は後ろに倒置することが度々あります。 例えば、 「あなたが昨晩完成したレポートを私に共有してくれませんか」は、 Can you share the report that you completed last night with me? ではなくて、 Can you share with me the report that you completed last night? とするほうがわかりやすくなりますし、実際にこのように表現されます。】
 たとえば、彼は、視覚対象の知覚について次のように言っている。  つまり、問いは、「どうやって我々は駒鳥を見るか」という機械論の (para-mechanical 力学に関する) 形式の 問いではなく、「どうやって我々は『島を見た』と機械論のような記述を用いるか」という問いである (p.225)。  これは、言語上の些細なこと(とるにたらないこと)を優先して(in favour of 支持して)、重要な科学的知識を無視している(involve dismissing 無視を伴っている)と私には思われる。 「いかにしてわれわれは駒鳥を見るか」という問いは、物理学と生理とが結合して、答を与えている問いであり、その答は興味もあり重要でもあり、かつ、いくらか奇妙な帰結をもっている。 視神経におけるある種のプロセスは -知覚者の身体の外部の何らかのものによって引き起こされたのではなくても- 「駒鳥を見る(見える)」こと(という現象)をどうやら引き起こすようである。私はかつて、生理学者が他人の脳を調べている時にその生理学者が見ているものは、その生理学者自身の脳の中にあるのであって、彼が調べている脳の中にあるのではないと言ったことで咎められてきている(訳注:人の脳の中の現象を観察しているように見えても、実際は他人の脳に起こっていることが自分の目から入り、自分の神経を通して、自分の脳に反映されたものを見ているのだといういうこと)。この私の陳述(statement)を十分に理由づけるためには、「見る(see)」という語と「中に(in)」という語についての長い議論が必要だろう。特に、「中に(中で)(in)」という語は普通考えられているよりはるかに複雑かつ曖昧な言葉である。 しかし、これらの問題は別の場所で論じているので、ここではそれに立ち入らないことにする。

Chapter 18, n.4: What is mind? n.9 Professor Ryle shares with the school that he adorns a passionate determination to give a linguistic form to the problems that arise. He says, for example, in regard to our perception of visual objects: The questions, that is, are not questions of the para-mechanical form ‘How do we see robins?’ but questions of the form, ‘How do we use such descriptions as “he saw a robin”?’ (page 225). This seems to me to involve dismissing important scientific knowledge in favour of verbal trivialities. The question, ‘How do we see robins?’ is one to which physics and physiology, combined, have given an answer which is interesting and important, and has somewhat curious consequences. It appears that certain processes in the optic nerve will cause you ‘to see a robin’ even if these processes have not been caused, as they usually are, by something outside the body of the percipient. I have been taken to task for saying that what a physiologist sees when he examines another man’s brain is in his own brain, and not in the other man’s. To justify this statement fully would require a long discussion of the word ‘see’ and the word ‘in’. This latter word, in particular, is much more complicated and ambiguous than is usually supposed. But I will not go into these questions here as I have dealt with them elsewhere.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」08

 同じような考えが色にもあてはまる(適用できる)ライル教授は言う。
 ありふれた物(a common object 日常的な物・対象)をだとか苦いとか私が記述する時、私はその見た目や味について何かを言っているけれども、私は私の現在の感覚についての(一つの)事実を報告しているのではない。それを適切に (properly) 見たり味わったりする状態にある人なら誰にとっても、その対象はかくかくに見えあるいは味がするだろう、と私は言っているのである。従って、今私には灰色がかった青に見える草原緑(の草原)と言っても自己矛盾しているわけではない(p.220)。
 私は特に(ライル氏の)「適切に」という言葉に当惑を覚える。 鳥は、(左右の)二つの眼が(両方共正面を向いているのではなくそれぞれの目が)反対方向を見ており、恐らくく、は我々(人間)とは全く異なった仕方で見るに違いない。は二つの異なった種類の五つの目を持っている だから、さらにかけはなれた仕方で物を見るだろう。鳥や蝿なら、自分たちは「適切に」見ており、ライル教授の見方は風変わりで独特だと言うだろう、ライル教授の見方は風がわりで奇妙だ、と言うであろう。世界には人間の数よりも多くの蝿が存在していることから見て、民主主義の原則は(訳注:多数決原理によれば)我々に蝿の意見に同意するように導くべきであろう。
 ライル教授素朴実在論を支持しようとしたために陥った複雑な事態(complications)は、プトレマイオス説の主張者が コペルニクスの体系に反対することによって陥った(追い込まれた)複雑な事態を想い起させる。 コペルニクスの体系は想像力をかなり働かせる必要があった(要求した)。即ち、全く不動と見える地球を、自転し(太陽の周りを)公転していると考えられるという可能性を受け入れることを要求した(のである)。天文学において、この初期の想像力を働かせる努力によって、飛躍的な単純化が達成されたのである。「ひとつの対象を知覚すること」と呼ばれることが、その対象の遠隔効果(作用)であり、それはおおよそのところのみ、また一定の点に関してのみ、似ていると想像することを学ぶことができれば、同様の単純化が知覚の理論においても達成される。この理論が(我々の)想像力に対して大きな困難もたらすのは、我々の近隣にある日常的対象に関してのみである。プレアデス星団が、-我々がその星団の一つの星に近づいて見たとき- (地球上で)我々に見えていると同じように見えるだろうなどと想定できる人は誰もいない。 そしてプレアデス星団と我々の自宅の部屋の家具との相違は、ただ程度の相違にすぎないのである。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.8
The same sort of considerations apply to colours. Professor Ryle says: When I describe a common object as green or bitter, I am not reporting a fact about my present sensation, though I am saying something about how it looks or tastes. I am saying that it would look or taste so and so to anyone who was in a condition and position to see or taste properly. Hence I do not contradict myself if I say that the field is green, though at the moment it looks greyish-blue to me (page 220). I am particularly puzzled by the word ‘properly’. Birds, whose eyes look in opposite directions, presumably see things, quite differently from the way in which we see them. Flies, which have five eyes of two different sorts, must see things even more differently. A bird or a fly would say that it sees ‘properly’ and that Professor Ryle’s way of seeing is eccentric and peculiar. Seeing that there are more flies than human beings in the world, democratic principles should lead us to agree with the fly. The complications into which Professor Ryle is led by his desire to uphold naive realism remind me of the complications into which upholders of the Ptolemaic theory were driven by their opposition to the Copernican system. The Copernican system demanded one considerable effort of imagination, namely, to entertain the possibility that the earth, which seems so immovable, can be conceived as rotating and revolving. By means of this initial effort of imagination, an immense simplification was effected in astronomy. An equal simplification is effected in the theory of perception if we can learn to imagine what is called ‘perceiving an object’ as a remote effect of the object, which resembles it only approximately and only in certain respects. It is only in regard to everyday objects in our neighbourhood that this theory offers serious imaginative difficulties. Nobody can suppose that the Pleiades, if you got near to one of them, would look at all the way they look to us. The difference between the Pleiades and the furniture of our room is only one of degree.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」07

 知覚の問題は昔から(ごく初期の時代から)哲学者を悩まして来た。私自身の信念は、この問題は科学の問題であって哲学の問題ではない、あるいはむしろ、もはや哲学の問題ではなくなっているということである。非常に多くの哲学的問題(哲学の問い)は、実際、科学がまだ扱う準備ができていない(ところの)科学の問題である。感覚及び知覚はどちらも(以前は)そういう部類の(=扱う準備のできていない)問題に属していたが、現在では、科学的な扱いが可能であり、科学がそれらの問題について言うことを無視しようとする者には実り多い対処ができない、と私は主張しなければならない。
 ライル教授素朴実在論を主張する闘いにおいて苦境に立たされている(注:tie oneself in knots 混乱[苦境]に陥る、苦境に立たされる)。彼は円い皿を観察者に対して傾けると楕円形に見えるという事実をほぼ否定している。彼は言う。  理論的に物を考えない人は,「円い皿が楕円形に見えることもある」と言うのに何の躊躇(qualms)も感じない。また「円い皿が楕円形であるかのごとくに見える」と言うときにも何の躊躇も感じないであろう。しかし、私は丸い皿の楕円形の外見 (look) を見ていると言うべきだとの勧めに従うことには躊躇を感ずるであろう(同書 p.216)(訳注:)。
 彼が正確にいって何を主張しているのか、私には理解できない。皿の場合、円く作られているのだから、それは円いと いうことを我々は知っている。しかし、それが空中にある対象物で、我々が触ることができないものだとしよう。(その場合には)我々はそれが「本当に」円いのか楕円形なのかわからなくなり、それが「~のように見える」と言えるだけであろう。本質的な点は、ひとつの物でも異なる見地からは異なって見えるということであり、また異なる物でも異なる見地から見れば同じ形に見えることがあるうるということであり(訳注:たとえば、全部丸い皿に見えても、楕円形の皿がその傾きによって丸く見える場合もある)、さらにまた、物がどのように見えるかは、その物が「本当は」何であるかについての我々の知識にとって不可欠の条件であるけれども、上述の理由により、それ(=物がどのように見えるか)はそれだけでは決定的な証拠を与えない(決定的な証拠にはならない)ということである。この問題を考察するに当って、精神あるいは感覚を持ち込む(bring in)ことは全く不要である。問題全体が物理的なものである。(人間の感覚を持ち出さなくても、たとえば)与えられたひとつの対象物の写真をとる多数のカメラは、我々の視覚が様々に異なるのと全く同じように様々に異なる諸結果を生み出すのである。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.7
The problem of perception has troubled philosophers from a very early date. My own belief is that the problem is scientific not philosophical, or, rather, no longer philosophical. A great many philosophical questions are, in fact, scientific questions with which science is not yet ready to deal. Both sensation and perception were in this class of problems, but are now, so I should contend, amenable to scientific treatment and not capable of being fruitfully handled by anyone who chooses to ignore what science has to say about them. Professor Ryle ties himself in knots in struggles to maintain naive realism. He almost denies that a round plate tilted away from the observer looks elliptical. He says: A person without a theory feels no qualms in saying that the round plate might look elliptical. Nor would he feel any qualms in saying that the round plate looks as if it were elliptical. But he would feel qualms in following the recommendation to say that he is seeing an elliptical look of a round plate (page 216). I cannot understand what, exactly, he is maintaining. In the case of the plate, you know that it is round because that is the way plates are made. But suppose it is an object in the sky which you cannot touch. You will be at a loss to know whether it is ‘really’ circular or elliptical, and you will be confined to saying what it ‘looks like’. The essential point is that a given thing looks different from different points of view, and that differing things may look alike from different points of view, and, further, that what things look like is essential to our knowledge of what they ‘really’ are, although, for the above reasons, it does not by itself afford conclusive evidence. It is quite unnecessary, in considering this problem, to bring in minds or sensations: the whole thing is physical. A number of cameras photographing a given object produce results which differ in just the same way as our visual perceptions do.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」06

 ライル教授の科学に対する態度は奇妙である。ライル教授の論ずる問題に重要な関係があると(科学者達が)考える事柄について、科学者達がいろいろ主張しているのを、ライル教授は疑いもなく知っている。 しかし、彼は、哲学者は科学(そのもの)にまったく注意も払わなくてもよいと信じきっている(ようである)。 ライル教授は、哲学者は我々の祖先が大青(訳注:woad たいせい:タイセイの葉から採れる藍色染料)で身を染めていた時代にすでに知っていたこと以上に、科学的知識をもつ必要がない、と信じているように見える(訳注:たとえば、アインシュタインは相対性理論によって時空の概念を根本的に変えてしまったので、哲学においても相対性理論を理解した上で時空の問題を論ずる必要があるが、多くの哲学者は、科学と哲学は異なるので、相対性理論を理解しないで時空の問題を論じてもよいと考えている。)。 こういった態度が、哲学者は教養のない人々の物の言い方に注意を払うべきであり、学者の洗練された言語を軽蔑すべきであると彼に考えることを可能にさせるのである。けれども、彼の意見において、この原理にも例外がひとつある。それは普通の人々は、思想や観念が人々の頭に宿ると考えているということである(訳注:ライル教授はそう考えていない)。 ゴールドスミスの言うように
 驚きはなお募り行くなり、
 小さき(人間の)頭、その知るところをすべて容るるなれば。

 この点について(は)、ライル教授は日常の用法(common usage 一般的な用法)を拒否する(訳注:それ以外においては、ライル教授は通常の用法の信奉者)。彼は思考/思想や感情が我々の頭の中にあることを信じることができず、この点について普通の人は彼に同意することを証明しようとする(make out :理解する;主張する;証明する)。 (ただし)彼は思考が人々の頭の中にないということを示すいかなる種類の議論も提出しない。 また、私は不安を覚えながら言うが(with trepidation) - 彼はこのことに関してはいかなる心的なものにも空間的位置を指定すること馬鹿げている(preposterous)と思わせるデカルト風の二元論に知らず知らずの内に影響を受けているのではないか、と私は思う(I fear 危ぶむ)。心的と呼んで然るべき構造についての彼の主張を認めるとするならば、当然、心的と呼ばるべきものは空間の中に存在しないということになるだろう。クリケットはクリケット場(のどこか)にあるわけでないし、賢さは賢い人々の中(空間のどこかに)に位置しているわけではない。しかし、もし彼の主張(説)がしりぞけられるのなら -私はしりぞけるべきだと信じるが-、我々が心的出来事を脳に位置づけることを妨げる二元論的な偏見だけが残ることになる。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.6
Professor Ryle’s attitude to science is curious. He no doubt knows that scientists say things which they believe to be relevant to the problems he is discussing, but he is quite persuaded that the philosopher need pay no attention to science. He seems to believe that a philosopher need not know anything scientific beyond what was known in the time of our ancestors when they dyed themselves with woad. It is this attitude that enables him to think that the philosopher should pay attention to the way in which uneducated people speak and should treat with contempt the sophisticated language of the learned. To this principle, however, there is, in his opinion, one exception: common people think that thoughts and ideas are in people’s heads. As Goldsmith says. Still the wonder grew That one small head could carry all he knew. On this point, Professor Ryle rejects common usage. He cannot believe that thoughts and feelings are in our heads, and tries to make out that on this point the plain man agrees with him. He offers no argument of any sort or kind to show that thoughts are not in people’s heads, and I fear — though I say this with trepidation — that he has allowed himself to be influenced on this matter by the Cartesian dualism, which makes it seem preposterous to assign a spatial location to anything mental. Granted his thesis as to the sorts of structure that can be called mental, it would, of course, follow that what is to be called mental is not in space. Cricket is not located on the cricket field and cleverness is not located in clever people. But if his thesis is rejected as I believe it should be, there remains only a dualistic prejudice to prevent us from locating mental occurrences in brains.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」05

 ライル教授内観( introspection 内省)を知識のひとつの源泉として否定する(認めない)という点で行動主義者とつながる。彼は、本書を、行動主義についてのある議論で終えており(終えているが)、その議論の中で、行動主義の擁護者と自分との意見が一致しない唯一の点は、行動主義者達が機械論的説明を信じているのに対し自分はそれを信じていないことである、と述べている機械論(Mechanism)もまた彼が無頓着な独断主義(的態度)で扱う事柄のひとつである。彼が 機械論について語る時、彼は古風なビリヤードボールの機械論(訳注:ニュートン物理学の機械論)を考えており、(訳注:量子力学などの影響を受けて)物理学者がそういう古風な機械論を捨てて以降は、物理学者も機械論を捨ててしまっている、と彼(ライル教授)は考えているように思われる(訳注:現代の物理学者もマクロな世界については、従来どおり、ニュートン力学が成立することを認めていることに注意)。彼は現代的意味での機械論をしりぞける根拠をまったく示していない議論に値する問いはこうである。(即ち)物理学の諸方程式は、ある所与の時刻におけるエネルギー分布に関するデータが結び付けられると(結び付けられた場合)、それはある最小の大きさ以下でない物質の部分に対して、それまでに起ったこととそれ以後に起るであろうこととを決定するに十分であるか(という問いである)。問題を具体的に述べると、話すということは物質のマクロな運動を伴うので、理想的に有能な物理学者ならば、 何某(誰々)が死ぬまでに語るであろうことを、計算することができるであろうか?(訳注:話すという行為も含めあらゆる行為には物理的な運動が伴っており、そのことからいろいろなことが推論できるということに注意) 私はこの問いの答を知っているとは主張しない。しかし、ライル教授は知っていると主張している(ことになる)。私は彼がその理由を我々に教えてくださればと願う

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.5
Professor Ryle’s denial of introspection as a source of knowledge links him with the Behaviourists. He ends his book with a discussion of Behaviourism in which he says that the only point on which he disagrees with its advocates is that they believe in mechanistic explanations and he does not. Mechanism is another of the matters that he treats with cavalier dogmatism. When he speaks of it, he seems to be thinking of the old-fashioned billiard-ball mechanism and to think that since physicists have abandoned this, they have abandoned mechanism. He never gives any reason for rejecting mechanism in the modern sense of the word. The question that deserves to be discussed is this: do the equations of physics, combined with data as to the distribution of energy at some given time, suffice to determine what has happened and will happen to portions of matter not below a certain minimum size? To make the question concrete: since speaking involves macroscopic movements of matter, could an ideally competent physicist calculate what So-and-so will say throughout the rest of his life? I do not profess to know the answer to this question, but Professor Ryle does. I wish he had condescended to give us his reasons.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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 第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」04

 私的データ(訳注:特定の個人に係わる固有のデータの否定によって引きおこされる困難のいくらかは、彼はたしかに多少扱っている(訳注:”he does deal with” が直前の句全体を修飾している構文に注意)。想像力については一章全部をあてている。しかし、私はいかにして彼が自分の主張に満足できのるのか全く理解できない。彼は言う想像の働き心的能力の行使であるが、我々が想像するところのものはどこにも存在しない、と。しばらくこのこについて吟味してみよう。彼の主張は、その明白な意味において、もちろん、自明の理(a truism)である。仮に私が眼を閉じてを想像しても(If = Even if)、馬は部屋の中には存在しない。しかし、馬を想像することと、河馬を想像すること別のことである。私が一方を想像する時にはあることが起り、他方を想像する時には別のことが起る。これら二つの事例(case)において起っていることはいったい何であろうか? ライル教授ははっきりと心的出来事なるものは存在しないと述べている(同書p.61)。知覚を問題とするとき、彼は素朴実在論で満足している。私は馬を知覚し、馬はそこにある。それは「心的」な馬ではない(訳注:眼の前の馬を知覚する場合は、その馬は実際に存在している)。しかし、私が馬を想像するとき、馬はそこにはなく、しかも、その出来事は河馬を想像すること(出来事)とは同一ではない。私の想像しているものが何であるかを人に知らせるために何か外に表われたふるまいを私がするのでないかぎり、何ものかが私の内に起りつつありしかもそれは他の誰にも知られえないということはいかなることにも劣らず明らかである、と私なら考えたであろう。(I should have thought)  同様のことが快と不快(ライル教授は大多数の心理学者と同じく「苦痛」は「快」の反対ではないと指摘する)とについても言えると私なら考えたであろう(I should have thought)。人は快(喜び)の明らかな兆候を外に表すかも知れないが、快(喜び)を隠すということも十分可能である。たとえば、彼が実は憎んでいるが愛するふりをしているところの人に不幸が起ったことを聞く場合である。棒や石が快または不快を感ずると想定することは困難であるが、人間が快や不快を感じないと主張することは成立不可能なパラドクスであろう。私ならばこのことを心的なるものと心的でないものものとの間の、最も重要な相違のひとつ と見なしたであろう(I should have regarded)。(しかし)私はこの地位を知能に与えないであろう。なぜなら、計算機(初期のコンピュータ)は、ある点において(ある意味で)、いかなる人間よりも知的であるからである。しかし、私は計算機(初期のコンピュータ)に票を与えるキャンペーンを支持する気にはならない。なぜなら、計算機は快あるいは不快を経験するとは、私は信じないからである。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.4
Some difficulties in his denial of private data he does deal with, more or less. He has a whole chapter on imagination, but I entirely fail to understand how he can be satisfied by what he says. He says that operations of imagining are exercises of mental powers, but what we imagine exists nowhere. Let us examine this for a moment. In its obvious sense, it is, of course, a truism. If I shut my eyes and imagine a horse, there is no horse in the room. But it is one thing to imagine a horse and another to imagine a hippopotamus. Something happens when I imagine the one, and something else happens when I imagine the other. What can it be that is happening in these two cases? Professor Ryle states explicitly (page 16l) that there are no such things as mental happenings. Where perception is concerned, he contents himself with naive realism: I perceive a horse, and the horse is out there. It is not a ‘mental’ horse. But when I imagine a horse, it is not out there, and yet the occurrence is not the same as imagining a hippopotamus. I should have thought it as obvious as anything can be that something is happening in me and cannot be known to anybody else unless I do something overt to let it be known what it is that I am imagining. I should have thought that the same sort of thing might be said about pleasure and unpleasure ( Professor Ryle agrees with most psychologists in pointing out that ‘pain’ is not the opposite of ‘pleasure’). A man may exhibit overt signs of pleasure, but it is quite possible for him to conceal pleasure, for example, if he hears of a misfortune to a man whom he hates but pretends to love. It is difficult to suppose that sticks and stones feel either pleasure or unpleasure, but it would be an impossible paradox to maintain that human beings do not. I should have regarded this as one of the most important differences between what is mental and what is not. I should not give this position to intelligence, because calculating machines are, in some ways, more intelligent than any human being. But I should not favour a campaign to give votes to calculating machines, because I do not believe that they experience either pleasure or unpleasure.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」03

 私は、同様な論理的地位をもつ他の形容詞どうしてライル教授によって「心的」であると考えられないのか、理解することができなかった。彼のお気に入りの例のひとつ「もろい/壊れやすい (brittle) 」という形容詞である。 我々が(一片の)ガラスを「壊れやすい(もろい/割れやすい)」と言うとき、それは(いつか)壊れる(割れる)だろうと言っているのではなく、一定の条件があれば壊れるであろうと言っているのである。それは、ある人を「賢い」 と言うとき、その人がたとえその時にたまたま眠っていたとしても、適当な条件の下に知性(知力)を発揮するであろうならば(その人は)「知的」と言ってよいと言うのと同じである。しかし、 ライル教授は、「壊れやすい」と「知的」(という形容詞)について、後者を心的とし前者をそうではない(心的なものではない)としているところの両者の間の相違が何であるかを決して説明せず、また、説明する必要があると考えているようには思えない。単純な人間(aA plain man)なら、「壊れやすい」は物体の性質を指し示し、「知的」は精神(心)の性質を指し示す、と言うであろう。つまり、その二つの形容詞はちがった種類の「質料」 (stuff)に適用される、と言うであろう。しかし、ライル教授は(彼の理論に立てば)そのように言うことはできないはず である(not open to ~の余地がない)。彼がどう言うであろうか、私にはよくわからない。
 ライル教授は - 他人なら話を聞かないでは知りえないことを- 人は自分自身については 直接知りうるということを、原理的に、否定することによって、(彼が)あらゆる心的「素材(stuff)」を拒否することを支持する(backs up 援護する)。もちろん、彼は、実際に、全てのことが、(物事を)を経験する者(the patient)にとってと同様、(外から)観察する者(to observers)にとっても等しく知られる、と言おうとしているのではない。(たとえば)あなたが(誰かが)荒野にひとりいて他に聞く人がい ないときに雷鳴を聞くかも知れない。しかし、これは偶然的な私的性質(an accidental privacy.)と呼んでよいであろう。ライル教授が否定しようとするのは、「本質的に私的な出来事があってそれはひとりの人にだけ知られ他人は証言による他は絶対に知り得ない、ということ」である(訳注:”could not possibly know “は、みすず書房版の野田訳では「おそらく知ることができない」となっているが、これは強い否定であり「とても~できない」の慣用句。I can’t possibly live without you. 「君なしではいきられない」)。この点については、また他の多くの点と同様に、彼は驚くべきほどぞんざいに(astonishingly slap-dash)、反対説に対する反論の代りに独断的な主張を置くだけで満足しているのに気づく(I find that)。私は全く明白な例をひとつ挙げよう。それは「夢」の例である。旧約聖書「出エジプト記」を除けば、他人が夢みることは、その人から話を聞かなければ知りえないものだ、と一般的には認められている。しかし、ライル教授は夢については何も言わない。彼の本の事項索引に夢は出ていないし、夢についてのわずかな言及も全くおざなりのものである。奇妙なことであるが、彼は(著書の中で)わき道をしてフロイトを褒めているけれども夢についてのフロイトの著書には言及しておらず、その著書(訳注:フロイト『夢の分析』)を知っているのかどうかさえ見当がつかない。彼は、流行に従って、腹痛や歯痛のようなことについては論ずるが、そういうことは痛みを感じている人の唸り声によって観察者にも知られると主張する(訳注:他人の痛みはわからないはずだ!)。彼の友人にはストア派(禁欲主義者)はいないのは明らかである。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.3 I have failed to understand why other adjectives having a similar logical status are not considered by Professor Ryle to be ‘mental’. One of his favourite examples is the adjective ‘brittle’. When you say that a piece of glass is brittle, you do not say that it will break, but only that in certain circumstances it would break, just as you may call a man ‘intelligent’ even though he happens to be asleep at the moment, if he would exhibit intelligence in suitable circumstances. But Professor Ryle never explains, or seems to think it necessary to explain, what is the difference between ‘brittle’ and ‘intelligent’ that makes the latter mental and the former not. A plain man would say that ‘brittle’ denotes a disposition of bodies and ‘intelligent’ denotes a disposition of minds? in fact, that the two adjectives apply to different kinds of ‘stuff’. But it is not open to Professor Ryle to say this, and I do not quite know what he would say. Professor Ryle backs up his rejection of all mental ‘stuff’ by denying that, in principle, there is anything that a man can know about himself which another cannot know unless he is told. He does not, of course, mean that in fact everything is known to observers as well as to the patient. You may hear a clap of thunder when you are alone in the desert and when no one else hears it, but this may be called an accidental privacy. What he means to deny is that there are occurrences which are essentially private, which are known to one person but are such as others could not possibly know except through testimony. On this point, as on a good many others, I find that he is astonishingly slap-dash and is content to let dogmatic assertion take the place of refutation of adverse theories. I will take one quite obvious example: dreams. Except in the Book of Exodus it is generally accepted that one man cannot know what another dreams unless he is told. But Professor Ryle has nothing to say about dreams. They do not occur in the index and his few allusions to them are entirely perfunctory. It is singular that, although he goes out of his way to praise Freud, he does not allude to Freud’s work on dreams and no one could guess that he even knows of it. He does deal, after a fashion, with such things as stomachaches and toothaches, but such things, he maintains, become known to the observer through the patient’s groans. Evidently none of his friends are Stoics.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」02

 そこで、ライル教授の主な主張をとりあげよう(come now to ・・・に入る)。彼の主張(thesis 主張;中心命題)を次のように述べてよいだろう(と私は考える)。即ち、「心的」 (mental) という形容詞は、特別な種類の「物」 (stuff)に適用できず、 それ自身は「心的」と呼ぶことが無意味であるような諸要素から成る形態(patterns)によって示される(ところの)一定の組織 (organization) や性質 (disposition) にのみ適用できる、と。
 彼は頭に浮かぶ非常に多くの形容詞や名詞の例を挙げている。クリケット(名詞)は、個々の試合や個々の選手と並ぶところの(side by side)、別の「もの」 (thing) ではなく、論理的により高次のものである、と彼は指摘する。もうひとつの例は「イギリスの政体」である。彼が言うように、下院は英国憲法を構成する構成要素にひとつであるが、しかし下院と上院、最高裁、ダウニング街、バッキンガム宮殿を訪れた後には、イギリス政体であなたが訪れる政体は残っていない。彼は、「心的」 という語はクリケットや英国政体が持つような論理的地位をもつ対象にのみ適用可能である、と主張する。彼が好んであげる「心的」な形容詞の例は、「賢い」(intelligent)とか「怠惰な」(lazy) 「善良な」(good-natured)など、性質(気質)を示す語である。彼の主張を非常にはっきり述べて いると思われる要約を一つ引用しよう。

本書の中心をなす否定的な(消極的な)動機の一つは、「心的な」(という語)は、ある与えられた物や出来事について、それは心的なものであるか物的なものであるか、「心の中にある」のか「外界にある」のかと合理的に(sensibly)問いうるような状態を指し示すものではない、ということを示すことである。ある一人の人物の心について語ることは、「物的世界」と呼ばれるものが収容してはならない対象(objects)を収容することが許される収蔵庫について語ることではない。それは、その人がある種の物事をなしたり経験したりする能力や責任や義務(liabilities)や傾向について語ることであり、また 日常の世界でそういう事柄をなしたり経験したりすることについて語ることである。 二つの世界(訳注:この世とあの世?)や 11の世界(訳注:物理学の超弦理論ではこの世は11次元で成り立っているという仮説があり、そのことか?)がありうるかのように語ることは意味のないことである。特定の趣味にあわせて世界ラベルにづけすること(いろいろに分類すること)によっては混乱以外のなにものお達成されない。 「物的世界」というような厳粛な表現さえ、「貨幣的世界」と 「雑貨小間物的世界」あるいは 「植物的世界」 などと同様、哲学的には無意味である(同書 p.199)。」

Chapter 18,n.4:
What is mind?, n.2 I come now to Professor Ryle’s main thesis. I think his thesis may be stated as follows: the adjective ‘mental’ is not applicable to any special kind of ‘stuff’, but only to certain organizations and dispositions illustrated by patterns composed of elements which it is not significant to call ‘mental’. He gives a great many examples of the kind of adjective or noun that he has in mind. Cricket, he points out, is not another ‘thing’ side by side with particular matches and particular players, but is something of a logically higher order. Another example is the British Constitution. The House of Commons, as he remarks, is one of the constituents of which the British Constitution is composed, but when you have visited both Houses of Parliament, the Law Courts, Downing Street and Buckingham Palace there does not remain another place for you to visit which is the British Constitution. He contends that the word ‘mental’ is only applicable to objects having the kind of logical status belonging to cricket or the British Constitution. His favourite examples of ‘mental’ adjectives are such words as ‘intelligent’, ‘lazy’, ‘good-natured’, which denote dispositions. I will quote a summary which seems to me to state his thesis very clearly: One of the central negative motives of this book is to show that ‘mental’ does not denote a status, such that one can sensibly ask of a given thing or event whether it is mental or physical, ‘in the mind’ or ‘in the outside world’. To talk of a person’s mind is not to talk of a repository which is permitted to house objects that something called ‘the physical world’ is forbidden to house; it is to talk of the person’s abilities, liabilities and inclinations to do and undergo certain sorts of things, and of the doing and undergoing of these things in the ordinary world. Indeed, it makes no sense to speak as if there could be two or eleven worlds. Nothing but confusion is achieved by labelling worlds after particular avocations. Even the solemn phrase ‘the physical world’ is as philosophically pointless as would be the phrase ‘the numismatic world’, ‘the haberdashery world’, or ‘the botanical world’ (page 199 ).
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-350.HTM