ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.2 

 これら3つの形態の全てが、既に言及したBBC(英国放送協会)の談話(talks 形式張らない講演)を収録した本のなかに表われている。バーミンガムの主教(Bishop)は有神論的形態を、ホールデン教授は汎神論的形態を、アレキサンダー教授は「発現的」形態を ーただし,ベルグソンとロイド・モルガン教授はもしかするとこの3番の形態の最も典型的な代表者かも知れない- を主張している。これらの学説はそれらの主張者自身の言葉で述べられていることにより,おそらく,より明らかになるであろう  バーミンガムの主教は、「宇宙には人間の理性(rational mind)に類似した合理性があり」また「このこと(それ)が、宇宙の(進化の)過程は心(心的なもの)によって方向付けされているのではないだろうか(←方向付けされていないことを疑う)という疑問を抱かせる」と主張している。この(バーミンガムの主教の)疑いは長く続かない。(彼によれば)我々はすぐに以下のように学ぶのである。(即ち) 「この(宇宙の)巨大なパノラマの中に、文明人の創造において頂点に達した進歩が明らかに存在してきた。そのような進歩は盲目的な力から出てきたものであろうか? この疑問に『そうだ』と答えることは空想的であると私(バーミンガムの司教)には思われる。・・・事実、今日科学的な方法によって勝ち取られた知識から自然に得られる結論は、この宇宙は思考 -意志によって明確な目的に向って導かれた思考- の振動の支配下にある(注:subject to the sway of thought 物質は現象にすぎず,宇宙の本質は心的なものである,という考え方)。人間の創造は、こうして(従って),電子や陽子の特性,あるいは,そういう表現がお好みなら,時空における非連続性の,まったく解釈不能で全てありそうもない結果ではなかった(のである)。(即ち)それは何らかの宇宙の目的の結果であった。そうして、その(宇宙の)目的がめざして向かっている終局(ends 最後の目的地)は、人間の際立った性質と能力との中に発見されなければならない。事実、人間の道徳的及び霊的能力は、その頂点において、人間の存在の源泉であるところの宇宙の目的の本質を示している(のである)。」

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.2
All these three forms are represented in the volume of B.B.C. talks already mentioned. The Bishop of Birmingham advocates the theistic form. Professor J. S. Haldane the pantheistic form, and Professor Alexander the “emergent” form – though Bergson and Professor Lloyd Morgan are perhaps more typical representatives of this last. The doctrines will perhaps become clearer by being stated in the words of those who hold them. The Bishop of Birmingham maintains that “there is a rationality in the universe akin to the rational mind of man,” and that “this makes us doubt whether the cosmic process is not directed by a mind.” The doubt does not last long. We learn immediately that “there has obviously, in this vast panorama, been a progress which has culminated in the creation of civilized man. Is that progress the outcome of blind forces? It seems to me fantastic to say ‘yes’ in answer to this question. … In fact, the natural conclusion to draw from the modern knowledge won by scientific method is that the Universe is subject to the sway of thought – of thought directed by will towards definite ends. Man’s creation was thus not a quite incomprehensible and wholly improbable consequence of the properties of electrons and protons, or, if you prefer so to say, of discontinuities in space-time : it was the result of some Cosmic Purpose. And the ends towards which that Purpose acted must be found in man’s distinctive qualities and powers. In fact, man’s moral and spiritual capacities, at their highest, show the nature of the Cosmic Purpose which is the source of his being.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose    
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-020.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.1

 現代の科学者は,宗教に対し敵対的でないかあるいは無関心でない場合,旧い教義の残骸の中で生き残ることができると彼らが考える一つの信念(belief 信条) -即ち,宇宙の目的への信念((宇宙には何らかの目的が存在しているとの信念)- にしがみついている(cling to 固執している)。(キリスト教の)リベラルな神学者たちも,同様に,宇宙の目的を彼らの信条(creed)の中心的な条項(article)としている。この説にはいくつかの形態があるが,それらは全て倫理的に価値のあるもの -それはある意味で長い進化の過程全体に対する理由を与えるもの- に向かうという方向性があるという進化の概念 を共通に持っている。アーサー・トムソン卿は,先に見たように,科学は「何故(どうして)」という疑問に答えることができないので不完全であると主張した(訳注:もちろん科学は「なぜ」という疑問のもとに研究をすすめるが,「how どのようにして」という回答はしても、「なぜ(目的)」に答えてくれない。(たとえば)「なぜ宇宙(この世の中)は存在するのか」とか「神は存在するか存在しないか、もし存在する場合はなぜ神はこの宇宙を創ったのか?」という問いには科学は答えてはくれない。哲学者だって答えてくれないが・・・)。 宗教はそれに答えることができる,と彼は考えた。何故,星(恒星)は形成されたのか? 何故,太陽は惑星を生み出したのか? 何故,地球は冷たくなり,ついには生命を生み出しているのか? なぜなら最終的に何か望ましいものを生みだそうとしつつあったからであり - 私はその望ましいものが何かは確信をもてないが,その望ましいものとは(トムソン卿にとっては)科学的神学者や宗教心を持った科学者たちだったと信じる。(注:宗教家たちに対する皮肉か?)(注:荒地出版社刊の津田訳では「それらは,究極的に望ましいものを生み出すためだ。-そう答えた者が何者であるか私にははっきりわからないが,科学的神学たちと宗教心をもった科学者たちだったと思う」と訳出している。構文や文法を無視していないか? それに,ラッセルはリベラルな神学者(自由主義神学者)は宇宙の目的は倫理的に価値を持つものを生み出すと考えているとすぐ前の方で述べているのであるから「そう答えた者が何者であるか私にははっきりわからないが・・・」という訳はでてこないはずであろう。)

 この説には -有神論的,汎神論的,及び「発現的(emergent)」と呼んでよいだろうものの- 三つの形態がある。
 第1の形態は,最も単純かつ最も正統的なものであり,神はいずれある種の善が展開することを予見したので宇宙を創造し,自然の法則を定めたのだと考える(holds that ~と考える)。この見解においては,目的は創造主の心の中に意識的に存在しており,そうして神は神の創造物(His creation)の外側に残っている。
 汎神論的形態においては,神は宇宙の外側に存在するのではなく,神とは一つの全体として考えられた宇宙にすぎない。従って,創造行為はありえず,宇宙の中に一種の創造的力が存在し,その力が宇宙をこの創造力が発展の全過程を通して心に持っている計画に従って宇宙を発展させる(cause A to develop :Aを発展させる)。
「発現的」形態においては,目的はより盲目的である。初期の段階においては宇宙にあるものは後の段階をまったく予見しないが,しかし,一種の盲的目な衝動がより発展した形態を生じさせる変化へと導く。従って,ある程度曖昧な意味で,目的はその始まりにおいて内包されている。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.1

Modern men of science, if they are not hostile or indifferent to religion, cling to one belief which, they think, can survive amid the wreck of former dogmas – the belief, namely, in Cosmic Purpose. Liberal theologians, equally, make this the central article of their creed. The doctrine has several forms, but all have in common the conception of Evolution as having a direction towards something ethically valuable, which, in some sense, gives the reason for the whole long process. Sir J. Arthur Thomson, as we saw, maintained that science is incomplete because it cannot answer the question why? Religion, he thought, can answer it. Why were stars formed? Why did the sun give birth to planets? Why did the earth cool, and at last give rise to life? Because, in the end, something admirable was going to result – I am not quite sure what, but I believe it was scientific theologians and religiously-minded scientists.

The doctrine has three forms – theistic, pantheistic, and what may be called “emergent.” The first, which is the simplest and most orthodox, holds that God created the world and decreed the laws of nature because He foresaw that in time some good would be evolved. In this view the purpose exists consciously in the mind of the Creator, who remains external to His creation.
In the pantheistic form, God is not external to the universe, but is merely the universe considered as a whole. There cannot therefore be an act of creation, but there is a kind of creative force in the universe, which causes it to develop according to a plan which this creative force may be said to have had in mind throughout the process.
In the“emergent”form, the purpose is more blind. At an earlier stage, nothing in the universe foresees a later stage, but a kind of blind impulsion leads to those changes which bring more developed forms into existence, so that, in some rather obscure sense, the end is implicit in the beginning.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-010.HTM


ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.10

 神秘主義者たちの確信(certainty)や彼らの部分的な相互一致は,事実問題に関する彼らの主張を受容れる決定的な理由にはまったくならない。科学者は,自分が観察したことを他人に見せたい時には,顕微鏡や望遠鏡を用意する。即ち,外界に対しては変化を加えるが,観察者に対してはただ普通の視力を要求するだけである。これに反し,神秘主義者は,断食,呼吸訓練,あるいは外界の観察から注意深く身を引くこと(注:この世で起こることは仮象/現象にすぎないので惑わされないようにとの理屈)により,観察者自身の中に変化が生れることを求める。(そのような訓練に反対し,神秘的な悟りには人為的に達することはできないと考える者もいる。科学的観点から見る時,そのような場合(case 事例)は,ヨガに信頼を置く人々の場合(事例)よりも検証が困難になる。しかし,断食や禁欲的生活が有益であることはほとんど全ての人々が同意見である)。我々は皆,阿片(opium)やハッシッシ(hashish 大麻製品の一種)やアルコールが観察者に一定の影響を与えることを知っているが,これらの効果は褒められるものとは思わないので,我々が今考えている宇宙の理論においては考慮しないでおく。神秘主義者たちは,時には真理の一片を明らかにするかも知れない。しかし,我々はそれらを一般的な知恵の源泉とはみなさない。(酔って)蛇を見る酔っぱらいは,後に(注:酔いが冷めてから) -それと似通った(←まったく別物ではない)信念がバッカス崇拝を生み出したに違いないのかも知れないが- 他の人には隠されている実在が(自分に)啓示されたとは想像しない。ウイリアム・ジェームス(William James, 1842-1910:アメリカ合衆国の哲学者,心理学者)が語ったように(原注:W.『宗教的経験の諸相』参照),今日でも,笑気ガスによって生み出される陶酔(状態)は,通常は隠されている真理を啓示すると考えている人々がある。科学的見地からは,ほとんど何も食べずに天国を見る人と酔いどれて蛇を見る人とを区別することはできない(注:現代では脳スキャナーで両者の「違い」をある程度視認できる)。どちらも異常な身体的状態にあるので,異常な(いろいろな)知覚を持つ。正常な知覚は,生存競争に役立つものでなければならないので,事実とある一定の対応(物)を持っていなければならない。しかし,異常な知覚においては,そのような対応(物)を期待する理由はまったくない。従って,異常な知覚の証言が正常な知覚の証言に優ることはありえない。  神秘主義的情緒は -正当な理由(根拠)のない信念(unwarranted beliefs)から解放され,人々に通常の生涯(人生)の仕事(ordinary business of life)から全く手を引かせてしまうほど極端なものでない場合,- 非常に高い価値を持つものを与えるかも知れない。(参考:All of the animals except for man know that the principle business of life is to enjoy it. 人間以外の動物は生涯の主な仕事は,それを楽しむ事だと知っている(サミュエル・バトラー))-それは,高度な形態においてであるが,冥想によって与えられるものと同じである。(心の)寛大さ(breadth),穏やかさ(calm)及び深さ(profundity)は全てこのような情緒に源泉を持っているかも知れない。そこに於ては,差当り,すべての我欲は死に,心は宇宙の広大さの鏡となる。このような経験を持ち,それが宇宙の本性と不可避的に結びついていると信じている人々は,おのずからこのような主張を固持する。私はこのような主張は本質的なものでないし,それらが真理であると信ずべき理由もないと思う。私は科学の方法以外に真理に達する方法を認めることは出来ない。しかし,感情の領域に於ては,宗教にまで高まる経験の価値を否定しない。それらは,多くの善なるものへ導くと同時に,誤った信仰と結びつくことにより多くの悪へも導いてきた。このような誤った結びつきから解放される時,善い信仰だけが残ることが期待されるにちがいない。

Chapter 7: Mysticism, n.10
The certainty and partial unanimity of mystics is no conclusive reason for accepting their testimony on a matter of fact. The man of science, when he wishes others to see what he has seen, arranges his microscope or telescope ; that is to say, he makes changes in the external world, but demands of the observer only normal eyesight. The mystic, on the other hand, demands changes in the observer, by fasting, by breathing exercises, and by a careful abstention from external observation. (Some object to such discipline, and think that the mystic illumination cannot be artificially achieved ; from a scientific point of view, this makes their case more difficult to test than that of those who rely on yoga. But nearly all agree that fasting and an ascetic life are helpful.) We all know that opium, hashish, and alcohol produce certain effects on the observer, but as we do not think these effects admirable we take no account of them in our theory of the universe. They may even, sometimes, reveal fragments of truth ; but we do not regard them as sources of general wisdom. The drunkard who sees snakes does not imagine, afterwards, that he has had a revelation of a reality hidden from others, though some not wholly dissimilar belief must have given rise to the worship of Bacchus. In our own day, as William James related,(* See his Varieties of Religious Experience) there have been people who considered that the intoxication produced by laughing-gas revealed truths which are hidden at normal times. From a scientific point of view, we can make no distinction between the man who eats little and sees heaven and the man who drinks much and sees snakes. Each is in an abnormal physical condition, and therefore has abnormal perceptions. Normal perceptions, since they have to be useful in the struggle for life, must have some correspondence with fact ; but in abnormal perceptions there is no reason to expect such correspondence, and their testimony, therefore, cannot outweigh that of normal perception. The mystic emotion, if it is freed from unwarranted beliefs, and not so overwhelming as to remove a man wholly from the ordinary business of life, may give something of very great value – the same kind of thing, though in a heightened form, that is given by contemplation. Breadth and calm and profundity may all have their source in this emotion, in which, for the moment, all self-centred desire is dead, and the mind becomes a mirror for the vastness of the universe. Those who have had this experience, and believe it to be bound up unavoidably with assertions about the nature of the universe, naturally cling to these assertions. I believe myself that the assertions are inessential, and that there is no reason to believe them true. I cannot admit any method of arriving at truth except that of science, but in the realm of the emotions I do not deny the value of the experiences which have given rise to religion. Through association with false beliefs, they have led to much evil as well as good ; freed from this association, it may be hoped that the good alone will remain.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-100.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.9

 今までずっと私は,我々は陪審員団であると想定し,神秘主義者たちの証言を傾聴し,そうして,彼らの証言を受け入れるか拒否するかを決めようと試みてきた。彼らが感覚世界の実在を否定する時,それがもし(実際の)法廷において普通に使われる「実在」(という言葉)を意味するものととるとしたら,彼らの主張を拒否するのをまったく躊躇すべきではない。なぜなら,我々はそうした主張は(神秘主義者たち以外の)あらゆる他の証言と矛盾し(注:run counter to ~に逆行する),また,彼らが(瞑想状態から) 日常の状態(mundane moments)に戻った時(瞬間)の彼ら自身の証言にも反しているのに気づく(発見する)からである。従って,我々は(本当は彼らが何を言おうとしているのか)何か他の意味を探さなければならない神秘主義者が「実在」(という言葉)を「仮象(現象)」(という言葉)と対照させる時,「実在」という言葉は論理的な意味ではなく,情緒的な意義(significance)を持っていると私は考える。それ(「実在」)は,ある意味で,重要なことを意味している。時間は「実在しない(架空のものである)」と言われる時,ある意味において,またある場合において,創造主(神)が -もし創造主が存在したなら- 宇宙(この世界)を創造する決意をした時に心に抱いたよう,に一つの全体としての宇宙を抱くことは重要である。そのように宇宙が抱かれる場合(構想される場合),全ての(創造の)過程は一つの完結せる全体の中にある(注:見かけ上の時間も同時に創造)。(即ち)過去,現在,未来は全て,ある意味で,同時に存在し,現在は、我々の通常の認識方法では持っている(ように見える)あの優れた実在(性)(that pre-eminent reality)を持っていない(のである)。もしこのような解釈が受け入れられるのなら,神秘主義は情緒を表している(表現している)のであって,事実を表しているのではない(ことになる)。(そうであれば)それは何も主張しておらず,従って,科学によって検証もされなければ反駁もされない。神秘主義者たちが(いろいろな)主張をするという事実は,彼らが情緒面での重要性と科学的妥当性(信頼性)とを区別することができないせいである。もちろん,このような見解を彼らが受け容れるとは期待できないが,私の理解できる限りでは,このような見解は,-彼らの主張をも幾分認めると同時に(while)- 科学的知性にとって許容できる(not repugnant 気に食わないと思わない)唯一のものである

Chapter 7: Mysticism, n.9 All this time I have been supposing that we are a jury, listening to the testimony of the mystics, and trying to decide whether to accept or reject it. If, when they deny the reality of the world of sense, we took them to mean “reality” in the ordinary sense of the law-courts, we should have no hesitation in rejecting what they say, since we should find that it runs counter to all other testimony, and even to their own in their mundane moments. We must therefore look for some other sense. I believe that, when the mystics contrast “reality” with “appearance,” the word “reality” has not a logical, but an emotional, significance : it means what is, in some sense, important. When it is said that time is “unreal,” what should be said is that, in some sense and on some occasions, it is important to conceive the universe as a whole, as the Creator, if He existed, must have conceived it in deciding to create it. When so conceived, all process is within one completed whole ; past, present, and future, all exist, in some sense, together, and the present does not have that pre-eminent reality which it has to our usual ways of apprehending the world. If this interpretation is accepted, mysticism expresses an emotion, not a fact ; it does not assert anything, and therefore can be neither confirmed nor contradicted by science. The fact that mystics do make assertions is owing to their inability to separate emotional importance from scientific validity. It is, of course, not to be expected that they will accept this view, but it is the only one, so far as I can see, which, while admitting something of their claim, is not repugnant to the scientific intelligence.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-090.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.8

 神秘主義の教義(信条)の中には智慧の核心があるように思われるので茶化さないことは重要である。時間を否定することから出てくると思われる極端な結果を避けるために神秘主義がどのような努力をしているか見てみよう(seek to 努力する)。  神秘主義にもとづく哲学には,パルメニデスからヘーゲルに至る偉大な伝統がある。パルメニデスは次のように言っている。(即ち)「(現在)存在するものは創造されることも破壊することもない。なぜなら,それは完全かつ不動かつ終りがない(ものである)からである。それは過去こうであったということもないし,将来こうであるだろうということもない。というのは,それは現在であり,全体が連続一体(連続的な一つのもの)だからである。」(バーネット『初期ギリシア哲学』p.199から引用)彼は,形而上学に,実在と仮象(appearance)との区別,あるいは,彼が名付けるところの,真理の道と臆見の道(the way of opinion)との区別を導入した(注:「臆見(おっけん)」というのは,実在でないものを実在だと錯覚して抱く意見や知識)。時間の実在を否定する者は誰もがそういった何らかの区別を導入しなければならないことは明らかである。なぜなら,世界は明らかに時間の中にあるように(私たち人間には)「思われる」からである。また,もし日常経験が「完全に」幻想であるわけではないとしたら,仮象(現象)とその背後にある実在との間に何らかの(ある一定の)関係がなければならないことも明らかである。だが,最大の問題(difficulties 困難)が生ずるのもこの点においてである。もし仮象(現象)と実在との関係が余りに親密なものにされると,仮象(現象)の不快な特色の全てが実在の中にその不快な対応物を持つことになり,一方,もし両者の関係が離れすぎたものにされるなら,我々は仮象(現象)の性格から実在の性格を推論することができなくなるだろう。そして,実在は,ハーバート・スペンサーの(場合)ように(as with と同様に),不明瞭かつ不可知なもののままにされるだろう(取り残されるであろう。キリスト教徒には汎神論を避けるのに関連した問題(困難)がある。(即ち)もし,世界が単に見かけ上のもの(仮象/現象)に過ぎないとしたら,神(注:キリスト教の神)は何も創造しなかったことになり,世界(宇宙)に対応する実在は神の一部であることになる。しかし(そうではなくて),世界がいかなる程度であっても実在し,また,神より区別されるとしたら,我々は神秘主義の本質的な学説である万物の一体性(という考え)を放棄し,また,世界が実在する限り,世界が(その一部として)含んでいる悪もまた実在するということを想定せざるをえなくなる。そういった問題(困難)は,正統派のキリスト教徒が徹底した神秘主義をとることをとても困難にするバーミンガムの司教が言うように,「もし人間が実際に神の一部であるとしたら,人間の中に存在する悪は神の中にもまた存在することになるが故に,あらゆる形態の汎神論は斥けられなければならないと私には思われる」(ということになる)

Chapter 7: Mysticism, n.8
It is important not to caricature the doctrine of mysticism, in which there is, I think, a core of wisdom. Let us see how it seeks to avoid the extreme consequences which seem to follow from the denial of time. The philosophy based upon mysticism has a great tradition, from Parmenides to Hegel. Parmenides says : “What is, is uncreated and indestructible ; for it is complete, immovable, and without end. Nor was it ever, nor will it be ; for now it is, all at once, a continuous one.”(* Quoted from Burnet’s Early Greek Philosophy, p. 199.) He introduced into metaphysics the distinction between reality and appearance, or the way of truth and the way of opinion, as he calls them. It is clear that whoever denies the reality of time must introduce some such distinction, since obviously the world appears to be in time. It is also clear that, if everyday experience is not to be wholly illusory, there must be some relation between appearance and the reality behind it. It is at this point, however, that the greatest difficulties arise : if the relation between appearance and reality is made too intimate, all the unpleasant features of appearance will have their unpleasant counterparts in reality, while if the relation is made too remote, we shall be unable to make inferences from the character of appearance to that of reality, and reality will be left a vague Unknowable, as with Herbert Spencer. For Christians, there is the related difficulty of avoiding pantheism : if the world is only apparent, God created nothing, and the reality corresponding to the world is a part of God ; but if the world is in any degree real and distinct from God, we abandon the wholeness of everything, which is an essential doctrine of mysticism, and we are compelled to suppose that, in so far as the world is real, the evil which it contains is also real. Such difficulties make thorough-going mysticism very difficult for an orthodox Christian. As the Bishop of Birmingham says : “All forms of pantheism … as it seems to me, must be rejected because, if man is actually a part of God, the evil in man is also in God.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-080.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.7

 ヨガは洞察力を与えるという主張をいかにして験証できるか理解するために,その主張(assertion 断言)を人為的に単純化してみよう。(たとえば)ある一定の時間,ある一定の仕方で呼吸すれば,我々は時間が存在(実在)しないことを信じるようになると,多くの人々が我々に保証すると想定(仮定)しよう。さらに一歩を進め,そのような秘法(recipe)を行なった後に,彼らの述べているような心的状態を経験したとしてみよう。しかし,今や,普通の呼吸状態(normal mode of respiration)に戻っており,我々はその洞察力(vision)を信じうるか否かについては完全には確信をもてない(注:not quite 完全には~でない)。この問題をどのように調査したら(取り調べたら)よいだろうか?  まず,時間は存在しないというのはどういう意味で言っているのだろうか? もし,文字通りに,言っている通りの意味だとしたら,(たとえば)「これはあれよりも以前である(前の時間に起こった)」というような陳述は,「twas brillig」といった無意味な文字列のように,空虚な雑音にすぎない、と言わなければならない。もし,我々が,これ(上記)ほどではないがそれに近い(anything less than)、たとえば,時間的な前後関係と同じ順序に諸事象を配列する関係が事象間にあるが(しかし)それは(時間的な前後関係とは)別な関係である,ということを想定(仮定)するとしたら,(それは)我々の見解において何らかの実際的な変更をするような主張をしたことにはまったくならないだろう。(たとえば)『イリアッド』はホメロス(Homer)によって書かれたのではなく,同じ名前の別の人によって書かれたのだと想定するようなものであろう。(注:今日でもホメーロスが実在したのかどうか、また本当にイリアッドという叙事詩の作者であったかどうか確定していない,ということを理解した上でこの一文を読む必要がある。https://goo.gl/aUzRWL)(時間は存在しないとしたら)我々は「事象」というものはまったく存在(実在)しないと想定しなければならない。時間の進行という人を誤り導く仮象(appearance 外観,見かけ)の中に現れる全てのものを包括する,巨大な一つの宇宙の全体(総体)のみが存在するということでなければならない。前後の事象間にある明白な区別に対応するものは,現実においては(in reality)まったく何も存在しないに違いない(ということになる)。(もしそうであれば)我々は生れ,成長し,そして死ぬと言うのは,我々は死に,そして小さくなり,最後に生れると言うのとちょうど同じく誤りである違いない。個人の人生と思われる全てのものについての真理は,宇宙という無時間で不可分な存在(分割不可能は存在)のなかの一つの要素を,孤立したものだと錯覚したにすぎない。改善と悪化(improvement and deterioration)には区別はなく,幸福に終る悲しみと悲しみに終る幸福との間に区別はない。もしあなたが短剣が突き刺さった死体を発見すらば,その人が(短剣による)傷のために死んだのか,あるいは死後に短剣が刺されたのかは区別がつかない。もしこのような見解が真実なら,それは科学に終止符を打つだけでなく,人間の思慮分別,希望,努力にも終止符をうつことになる。それは世俗の知恵と両立せず -宗教にとってもっと重要なことには- 道徳とも両立しない。  もちろん,大部分の神秘主義者たちはこれらの結論を全面的に受容れはしない。しかし,これらの結論が必然的に導き出されるような説をしきりに主張する(urge)。そういうわけで(Thus),インゲ主席司祭は,進化に訴えるような宗教を,それが時間的進行に強調を置きすぎるという理由で斥ける。彼は「進歩の法則など存在せず,また,普遍的な進歩も存在しない」と言い,また「自動的かつ普遍的な進歩という考えは,多くのヴィクトリア朝時代人の俗人信仰(注:the lay religion 平信徒の信仰)であったが,今日,明らかに反駁しうるほとんど唯一の哲学説であるという不利に苦労している(labours)」とも言っている。このこと(注:世の中は後退することなく進歩するのみ進歩に対する絶対的信仰)に関しては,後でまた論ずるが,私はインゲ主席司祭と同意見であり,私は多くの理由から彼には極めて高い尊敬の念を抱いている。しかし,彼は,当然のことでもあるが,その前提から,私には(その前提の)当然の結果と思われる推論の全てを導き出さない(導き出さないのは,当然のことである)。
Chapter 7: Mysticism, n.7 In order to see how we could test the assertion that yoga gives insight, let us artificially simplify this assertion. Let us suppose that a number of people assure us that if, for a certain time, we breathe in a certain way, we shall become convinced that time is unreal. Let us go further, and suppose that, having tried their recipe, we have ourselves experienced a state of mind such as they describe. But now, having returned to our normal mode of respiration, we are not quite sure whether the vision was to be believed. How shall we investigate this question? First of all, what can be meant by saying that time is unreal ? If we really mean what we say, we must mean that such statements as “this is before that” are mere empty noise, like “twas brillig.” If we suppose anything less than this – as, for example, that there is a relation between events which puts them in the same order as the relation of earlier and later, but that it is a different relation – we shall not have made any assertion that makes any real change in our outlook. It will be merely like supposing that the Iliad was not written by Homer, but by another man of the same name. We have to suppose that there are no “events” at all ; there must be only the one vast whole of the universe, embracing whatever is real in the misleading appearance of a temporal procession. There must be nothing in reality corresponding to the apparent distinction between earlier and later events. To say that we are born, and then grow, and then die, must be just as false as to say that we die, then grow small, and finally are born. The truth of what seems an individual life is merely the illusory isolation of one element in the timeless and indivisible being of the universe. There is no distinction between improvement and deterioration, no difference between sorrows that end in happiness and happiness that ends in sorrow. If you find a corpse with a dagger in it, it makes no difference whether the man died of the wound or the dagger was plunged in after death. Such a view, if true, puts an end, not only to science, but to prudence, hope, and effort ; it is incompatible with worldly wisdom, and – what is more important to religion – with morality. Most mystics, of course, do not accept these conclusions in their entirety, but they urge doctrines from which these conclusions inevitably follow. Thus Dean Inge rejects the kind of religion that appeals to evolution, because it lays too much stress upon a temporal process. “There is no law of progress, and there is no universal progress,” he says. And again : “The doctrine of automatic and universal progress, the lay religion of many Victorians, labours under the disadvantage of being almost the only philosophical theory which can be definitely disproved.” On this matter, which I shall discuss at a later stage, I find myself in agreement with the Dean, for whom, on many grounds, I have a very high respect. But he naturally does not draw from his premisses all the inferences which seem to me to be warranted.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-070.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.6

 我々(注:陪審員)はまず,証人たち(注:神秘主義者たち)がある点までは一致するが,それを過ぎると,一致した時とちょうど同じように確信をもちながら,全く不一致になることを見いだすだろう(find 気がつくであろう)。プロテスタントは違うが,カトリック教徒聖母が出現するというヴィジョン(注:聖母幻視)をいだくだろうし,仏教徒は違うが,キリスト教徒やマホメット教徒は,大天使ガブリエルによって啓示された偉大な真理を確信するだろう。道教の古代中国の神秘主義者たちは,道教の中心的教義の必然的結果(direct result)として,全ての統治(government 政治/政府)は悪であると教え,ヨーロッパや回教(イスラム教)の神秘主義者たちは,ほとんどが同じような確信を以て,既成の権威に服従するように駆り立てる。彼らがその見解を異にする点については,それぞれの集団が他の集団は信ずるに値しないと言うだろう。従って,もし我々が単に法廷での勝利で満足するのなら(注:ここでは法廷での裁判を比喩に使っていることに注意/荒地出版社の津田訳では単に「討論での勝利」),大部分の神秘主義者たちは大部分の他の神秘主義者たちが大部分の点で誤っている,と指摘するかもしれない。けれども,彼らも,それを半分の勝利にすぎないとして,意見を異にする事柄よりも意見が同じ(一つである)事柄の方がより重要だということで一致するかも知れない。いずれにせよ,我々は彼らが相互の相違を落ち着かせ(注:compose their differences),防御を次の三点,即ち,世界の一性(ひとつの全体であること),悪の幻影的性格,及び,時間の非実在性に集中したと想定(仮定)しよう。我々は,公平な部外者(outsider)として,彼らの一致した証拠に対しどのような検証を適用できるだろうか?  科学的な気質を持つ者として,当然,我々は最初に我々自身も直接同じ証拠を獲得できる方法はあるかどうか,問うことにしよう。この問に対し,いろいろな解答が与えられるだろう。(たとえば)我々は明らかにそれ(その証拠)を受けるような精神構造にないとか,我々はそれに必要な謙虚さに欠けるとか,断食や宗教的な冥想が必要であるとか,あるいは,(もし我々の証人がインド人か支那人であれば),必要な前提(essential prerequisite)は呼吸訓練の過程であるとか,言われるかも知れない。断食もまたしばしば効果的であると認められてきたが,最後の見解(注:ヨガの実践)を支持する実験的証拠の重要性を見いだすであろうと思われる。事実,ヨガと呼ばれる明確な肉体的訓練がある。それは神秘主義者の確信を生むために行なわれ,それを試みた人々によって大いに自信をもって勧められている。(原注:中国におけるヨガについてはアーサ・ウェイリー(著) The Way and its Power, pp. 117-118 を参照のこと)(訳注:津田訳ではこの原注が省略されている)。呼吸法の訓練がその最も本質的な特徴であり,我々の目的のためには,その他のものは無視してよいだろう。

Chapter 7: Mysticism, n.6
We shall find, in the first place, that, while the witnesses agree up to a point, they disagree totally when that point is passed, although they are just as certain as when they agree. Catholics, but not Protestants, may have visions in which the Virgin appears ; Christians and Mohammedans, but not Buddhists, may have great truths revealed to them by the Archangel Gabriel ; the Chinese mystics of the Tao tell us, as a direct result of their central doctrine, that all government is bad, whereas most European and Mohammedan mystics, with equal confidence, urge submission to constituted authority. As regards the points where they differ, each group will argue that the other groups are untrustworthy ; we might, therefore, if we were content with a mere forensic triumph, point out that most mystics think most other mystics mistaken on most points. They might, however, make this only half a triumph by agreeing on the greater importance of the matters about which they are at one, as compared with those as to which their opinions differ. We will, in any case, assume that they have composed their differences, and concentrated the defence at these three points – namely, the unity of the world, the illusory nature of evil, and the unreality of time. What test can we, as impartial outsiders, apply to their unanimous evidence ? As men of scientific temper, we shall naturally first ask whether there is any way by which we can ourselves obtain the same evidence at first hand. To this we shall receive various answers. We may be told that we are obviously not in a receptive frame of mind, and that we lack the requisite . humility ; or that fasting and religious meditation are necessary ; or (if our witness is Indian or Chinese) that the essential prerequisite is a course of breathing exercises. I think we shall find that the weight of experimental evidence is in favour of this last view, though fasting also has been frequently found effective. As a matter of fact, there is a definite physical discipline, called yoga, which is practised in order to produce the mystic’s certainty, and which is recommended with much confidence by those who have tried it.(* As regards yoga in China, see Waley, The Way and its Power, pp. 117-18.) Breathing exercises are its most essential feature, and for our purposes we may ignore the rest.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-060.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.5

 神秘主義者を支持する主な論拠(議論)彼ら相互に同意が存在していることである。インゲ主席司祭はこう言っている。「キリスト教の神秘主義者が最も信頼に値するが,古代,中世,近世を通じて,またプロテスタントやカトリックの,さらには仏教徒やマホメット教徒神秘主義者たちの間に一致(unanimity 全員一致)が存することほど驚嘆に値することを私は知らない」。私は,ずっと以前,『神秘主義と論理』という私の著書において承認したこのような議論(論拠)の力(force 影響力)を軽視しようとは思はない。神秘主義者たちが自分の経験に言語的表現を与える能力にはかなり相違があるが,最もうまく成功している人々は皆次のようなことを主張しているように思われる。 (1)全ての分割や分離は非現実的なもの(架空のもの)である。宇宙は一つの不可分な統一体である (2)悪は幻影である。幻影は誤って部分を自立したもの(実体)と考えることにより生じる。 (3)時間は実在しない。実在は,永続という意味においてではなく,全く時間の外にあると言う意味において永遠である。  私は,この三つが神秘主義者たちが皆同意する事柄を完全に説明しつくしていると言うつもりはないが,私の指摘した三つの命題は全体の特質を現わすのに役立つだろう。我々は,今,法廷にいる陪審員であると仮定しよう。その仕事は上述のような三つの幾分驚くべき主張をなす証人の信頼性を判定することである。

Chapter 7: Mysticism, n.5
The chief argument in favour of the mystics is their agreement with each other. “I know nothing more remarkable,” says Dean Inge, “than the unanimity of the mystics, ancient, mediaeval, and modern, Protestant, Catholic, and even Buddhist or Mohammedan, though the Christian mystics are the most trustworthy.” I do not wish to underrate the force of this argument, which I acknowledged long ago in a book called Mysticism and Logic. The mystics vary greatly in their capacity for giving verbal expression to their experiences, but I think we may take it that those who succeeded best all maintain : (1) that all division and separateness is unreal, and that the universe is a single indivisible unity ; (2) that evil is illusory, and that the illusion arises through falsely regarding a part as self-subsistent ; (3) that time is unreal, and that reality is eternal, not in the sense of being everlasting, but in the sense of being wholly outside time. I do not pretend that this is a complete account of the matters on which all mystics concur, but the three propositions that I have mentioned may serve as representatives of the whole. Let us now imagine ourselves a jury in a law-court, whose business it is to decide on the credibility of the witnesses who make these three somewhat surprising assertions.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-050.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.4

 宗教を支持する上において,科学の領域外にあり「啓示」と呼ばれるのが適切であるような知識の源が存在することを,我々は認めるべきだろうか? これは議論するのが難しい問題である。なぜなら,真理が自分たちに啓示されていることを信ずる人々は,我々が感覚対象に関して抱くのと同じ確実性が自分たちに啓示された真理に関してのあると公言するからである(訳注: so ~ that: that以下と同じ~)。我々は,我々が見たことのないものを望遠鏡で見たという人(の言うこと)を信ずる。そうだとしたら(then),彼ら(啓示を信ずる人々)にとって同様に疑えないことだと彼らに思われることについて彼らが報告する時,あなたがた(我々/科学的気質を持った人など)はなぜ信じないのか,と彼らは尋ねる。  もしかすると,神秘的啓蒙(mystic illumination)を享受した人たちに訴えるような議論を試みることは,無益なことかも知れない。(訳注:荒地出版社刊の訳書で津田氏は「perhaps ~を「多分無駄なことにちがいない」と訳している。本書全体を通して津田氏はそうに訳しているが、「probably」は「多分,おそらく」であるが「perphaps」は「もしかすると,ことによると」の意味) しかし,我々第三者(We others)は彼らの証言を受け入れるべきかどうかについて何らかのことを言うことが可能である。まず,それは通常の試験(test 検査;分析)の対象(subject to)ではない。科学者は,実験結果について語る時,同時にその実験がどのように行われたか(実験方法)についても報告するだから,他の者(第三者)はそれ(検査/検証)を繰り返すことができる。また,もし結果が一致しなければ,その実験は真理として受け取られない。しかし,多くの人々は,神秘主義者の幻視(幻想)が生れたのと同じ状況に自分を置きながら,同じ啓示を得なかったであろう。これに対しては,「人は適切な感覚を用いなければならないという答えが返ってくるかも知れない。(つまり)望遠鏡も眼を閉じている人には無用である。神秘主義者の証明の信憑性に関する議論は果てしないだろう(ほとんど際限なく長引くであろう)。科学は中立であるべきである。なぜなら,この議論も,不確実な実験に関してなされる議論のように,厳密に取扱われるべき科学的議論だからである。科学は知覚と推論に依存している(依拠している)。(即ち)その信頼性は知覚がどの観察者によっても検証しうるものであるという事実によっている。神秘主義者自身は自分が知っていることに確信を持っているであろうし,科学的な検証を必要としない。しかし,その証言を受け入れることを求められる人々は,その証言を「北極に行ってきた」という人に求めるのと同種類の科学的検証にゆだねるであろう。科学は,科学である限り,結果に対して,肯定的にしろ否定的にしろ,予断を持つべきではない。

Chapter 7: Mysticism, n.4 Ought we to admit that there is available, in support of religion, a source of knowledge which lies outside science and may properly be described as “revelation” ? This is a difficult question to argue, because those who believe that truths have been revealed to them profess the same kind of certainty in regard to them that we have in regard to objects of sense. We believe the man who has seen things through the telescope that we have never seen ; why, then, they ask, should we not believe them when they report things that are to them equally unquestionable ? It is, perhaps, useless to attempt an argument such as will appeal to the man who has himself enjoyed mystic illumination. But something can be said as to whether we others should accept this testimony. In the first place, it is not subject to the ordinary tests. When a man of science tells us the result of an experiment, he also tells us how the experiment was performed ; others can repeat it, and if the result is not confirmed it is not accepted as true ; but many men might put themselves into the situation in which the mystic’s vision occurred without obtaining the same revelation. To this it may be answered that a man must use the appropriate sense : a telescope is useless to a man who keeps his eyes shut. The argument as to the credibility of the mystic’s testimony may be prolonged almost indefinitely. Science should be neutral, since the argument is a scientific one, to be conducted exactly as an argument would be conducted about an uncertain experiment. Science depends upon perception and inference ; its credibility is due to the fact that the perceptions are such as any observer can test. The mystic himself may be certain that he knows, and has no need of scientific tests ; but those who are asked to accept his testimony will subject it to the same kind of scientific tests as those applied to men who say they have been to the North Pole. Science, as such, should have no expectation, positive or negative, as to the result.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-040.HTM

ラッセル『宗教と科学』第7章 神秘主義 n.3

それ故に(thus こうして),アーサー・トムソン卿(John Arthur Thomson, 1861-1933:英国スコットランドの生物学者,博物学者。講演や執筆活動を行う事により、科学と宗教の関連性や生物学の普及に務めた。)は次のように言っている。「科学としての科学(Sceince as science 学問としての科学)は「なぜ?(どうして?)」という問いを(自らに対し)決して発しない。即ち,この(科学という)多様な存在の現在の有り様(Being),なりつつあるもの(Becoming),これまであり続けたもの(Having Being)の意味や意義や目的について問わない」。また続けてこう言っている。(即ち)「このようにして,科学は真理の岩盤であるふりをしない」し,「科学は科学の方法を神秘的なものや霊的なものに適用することができない」と彼は語っている。J. S. ホールデン教授(J. B. S. Haldane, 1892-1964:イギリスの生物学者(集団遺伝学)は,「我々が神の啓示を見出すのは,我々自身のなかと,真理,正義,慈愛,美という我々の実践的理想,及び,その結果として生じる友情(consequent fellowship)の中においてのみである」という考えを抱いている(Haldane holds)。(また)マリノウスキー博士は「宗教的啓示は,原理的に,科学の領域を超えたところに存在している」と言っている。私は,当面,神学者たちの意見は引用しないことにする。なぜなら,彼らがこういった意見(見解)と同意することは予想できるからである。  さらに先に進む前に,(以上で)主張内容(何が主張されているのか),また,その主張の真偽について,明らかにするよう試みてみよう。聖堂参事会員(Canon)のストリーター「科学は十分なものではない」という時,ある意味で,彼は自明のことを言っている(にすぎない)。科学は,芸術や友情やその他の人生に於ける様々な価値的要素を含んでいない。しかし,もちろん,彼の発言はそれ以上のことを意味している。「科学は十分なものではない(不充分である)」ということには別のもっと重要な意味があり,それも私には真理であると思われる。(即ち,)科学は価値については何も語らず,また,「憎むより愛する方がよい」とか「親切は残酷よりも望ましい」というような命題を(科学は)証明することはできない。科学は,我々の欲求を実現する「手段」について多くを語ることができるが,科学はある欲求の方が別の欲求よりもより好ましいと言うことはできない。このことは大きな主題であり,後の章でもっと言及しなければならないだろう。  しかし,私が(先に)引用した著者たちはそれ以上のことを主張しようとしているのは確かであり,私はそれは誤っていると信じる。(たとえば)「科学は『真理』の岩盤であるふりをしない」(『』で囲んだのは筆者=ラッセル)という主張は(主張には),真理に到達する科学とは別の,非科学的な方法があるという意味を含んでいる。(また)「宗教的啓示は・・・科学の領域を超えたところに存在している」という発言は,この非科学的な方法が何であるかについて何らかのことを語っている。(つまり)それは宗教的啓示の方法である。 聖堂参事会長(Dean 主席司祭)のインゲ(William Ralph Inge, 1860-1954:ケンブリッジ大学の神学教授,セント・ポール大聖堂の主席司祭 )はもっと明確にいっている。(即ち)「宗教の証拠は,その場合(then),実験的な(exprimental)ものである」【彼は神秘主義者の証言(testimony)について語っている】(またインゲは)「それ(宗教の証拠)は,神が自ら人類に啓示した3つの属性 -時に絶対的な価値あるいは永遠の価値と呼ばれる- (つまり)善あるいほ愛,真,美,(注:日本では「真・善・美」の順)をそなえた神についての革新的な知識である。もし,そうなら(それが全てなら),,宗教が自然科学と衝突する理由はまったくないとあなたは言うであろう。一方は事実(の問題)を扱い,他方は価値(の問題)を扱う。両者とも本当だとすると,両者は異なった次元(planes 平面)にいる。だがそれは必ずしも正しくない(This is not quite true)。科学が,倫理や詩やその他いろいろ(and what not)に侵入するのを見てきた。宗教はどちらにも侵入せざるを得ない」(訳注:以上は,インゲの主張)。つまり,宗教は(事実が)何であるかについても主張しなければならず,何をすべきかについてだけ言っていればよいのではない。(荒地出版社刊の津田訳は次のように「宗教自身」のことしか触れておらずずれいる。即ち「宗教は自己の現状について確乎たる主張をしなければならないのであり,自己のあるべき状態についてのみ主張するに止まってほならないというのである。」)。このようなインゲ氏によって公言されたこの見解は,アーサー・トムソン卿やマリノウスキー博士の言葉の中にも内包されている(暗に含まれている)のである。

Chapter 7: Mysticism, n.3 Thus Sir J. Arthur Thomson says : ”Science as science never asks the question Why ? That is to say, it never inquires into the meaning, or significance, or purpose of this manifold Being, Becoming, and Having Been.” And he continues : “Thus science does not pretend to be a bedrock of truth.” “Science,” he tells us, “cannot apply its methods to the mystical and spiritual.” Professor J. S. Haldane holds that “it is only within ourselves, in our active ideals of truth, right, charity, and beauty, and consequent fellowship with others, that we find the revelation of God.” Dr. Malinowski says that “religious revelation is an experience which, as a matter of principle, lies beyond the domain of science.” I do not, for the moment, quote the theologians, since their concurrence with such opinions is to be expected. Before going further, let us try to be clear as to what is asserted, and as to its truth or falsehood. When Canon Streeter says that “science is not enough,” he is, in one sense, uttering a truism. Science does not include art, or friendship, or various other valuable elements in life. But of course more than this is meant. There is another, rather more important, sense in which “science is not enough,” which seems to me also true : science has nothing to say about values, and cannot prove such propositions as “it is better to love than to hate” or “kindness is more desirable than cruelty.” Science can tell us much about the means of realizing our desires, but it cannot say that one desire is preferable to another. This is a large subject, as to which I shall have more to say in a later chapter. But the authors I have quoted certainly mean to assert something further, which I believe to be false. “Science does not pretend to be a bedrock of truth” (my italics) implies that there is another, non-scientific method of arriving at truth. “Religious revelation . . . lies beyond the domain of science” tells us something as to what this non-scientific method is. It is the method of religious revelation. Dean Inge is more explicit : “The proof of religion, then, is experimental.” [He has been speaking of the testimony of the mystics.] “It is a progressive knowledge of God under the three attributes by which He has revealed Himself to mankind – what are sometimes called the absolute or eternal values – Goodness or Love, Truth, and Beauty. If that is all, you will say, there is no reason why religion should come into conflict with natural science at all. One deals with facts, the Other with values. Granting that both are real, they are on different planes. This is not quite true. We have seen science poaching upon ethics, poetry, and what not. Religion cannot help poaching either.” That is to say, religion must make assertions about what is, and not only about what ought to be. This opinion, avowed by Dean Inge, is implicit in the words of Sir J. Arthur Thomson and Dr. Malinowski.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 7:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_07-030.HTM

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