子育てのためにお金を稼ぐ必要が生じて ーベストセラー本の執筆

CARNVOEL (長男が生まれた)1921年の秋から1927年の秋までの6年間の生活全てが,一つの長いロマンチックな物語(夏の田園詩)だったと想像してはならない。親であるということが,金を稼ぐということを不可避なものとした。二軒の家の購入(写真:1922年春,子どもたちのために購入したコーンウォールの田舎の別荘 ‘Carn Voel’ )によって,私に残っていた資産のほぼ全てを使い尽くしてしまった。中国から戻った時,私には金を稼ぐはっきりした手段をまったく持っていなかった。それで,当初は,かなり心配でならなかった。臨時の新聞雑誌関係の(ジャーナリスティックな)仕事は,どのようなものでも引き受けた。息子のジョンが生まれようとしていた頃,中国人の娯楽としての花火大会に関する記事を一つ書いたが,そのような状況において,(そういった)まったくかけ離れた話題に精神を集中することは困難であった。
TPJ-PC 1922年中国に関する著書The Problem of China/理想社版の邦訳書名『中国の問題』)を,1923年に(妻のドーラと共著で)『産業文明の前途』The Prospects of Industrial Civilization)を出したが,どちらもたいしてお金にならなかった。それよりもよく売れたのは,1923年の『原子のABC』(The ABC of Atoms)と1925年の『相対性理論のABC』(The ABC of Relativity)という2冊の小著,それから,1924年の『イカルス,即ち科学の将来』(Icarus, or the Future of Science)と1925年の『私の信条』(What I Believe)という2冊の小著であった。1924年には,アメリカヘの講演旅行でかなりの収入があった。しかし,1926年教育に関する本を出すまでは,どちらかというと貧乏(な状態)が続いた。その後1932年までは,特に1929年の『結婚と道徳』(Marriage and Morals)と1930年の『幸福論』(The Conquest of Happiness/『幸福の獲得』)がよく売れたため,経済的に豊かであった。この数年の間の著作のほとんどは一般向きの(通俗的な)ものであり,またそれはお金を稼ぐために執筆したものであった。しかし,より専門的な著作も何冊か執筆した。1925年に『プリンキピア・マテマティカ』の新版Principia Mathematica, 2nd ed.)を出し,その新版には多くの増補をした。1927年には『物質の分析』The Analysis of Matter)を出版したが,この本はある意味では獄中で書き始めて1921年に出版した『精神(心)の分析』The Analysis of Matter)の姉妹書と言える。

It must not be supposed that life during these six years from the autumn of 1921 to the autumn of 1927 was all one long summer idyll. Parenthood had made it imperative to earn money. The purchase of two houses had exhausted almost all the capital that remained to me. When I returned from China I had no obvious means of making money, and at first I suffered considerable anxiety. I took whatever odd journalistic jobs were offered me: while my son John was being born, I wrote an article on Chinese pleasure in fireworks, although concentration on so remote a topic was difficult in the circumstances.

In 1922 I published a book on China, and in 1923 (with my wife Dora) a book on The Prospects of Industrial Civilization, but neither of these brought much money. I did better with two small books, The A.B.C. of Atoms (1923) and The ABC of Relativity (1925), and with two other small books, Icarus or The Future of Science (1924) and What I Believe (1925 ) . In 1924 I earned a good deal by a lecture tour in America. But I remained rather poor until the book on education in 1926. After that, until 1933, I prospered financially, especially with Marriage and Morals (1929) and The Conquest of Happiness (1930) . Most of my work during these years was popular, and was done in order to make money, but I did also some more technical work. There was a new edition of Principia Mathematica in 1925, to which I made various additions; and in 1927 I published The Analysis of Matter, which is in some sense a companion volume to The Analysis of Mind, begun in prison and published in 1921.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 4: Second Marriage, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB24-030.HTM

[寸言]
FAM-1924 長男(1921年11月)に続き長女(1923年12月)も生まれ、子供を育てるという親の責任を果たすために、お金を稼ぐ必要がでてくる。(写真:1924年時のラッセル一家)
そうして、一般向きの売れそうな本も積極的に執筆するようになる。
1931年までに出した一般向けの本(いわゆる popular books)は以下のとおり。

・『原子のABC』,1923.
・『科学の将来』,1924.
・『私は信ずる(私の信条)』,1925.
・『相対性理論入門』,1925.
・『教育論』,1926.
・『ラッセル著作選』,1927.
・『哲学概説』,1927(邦訳書名:『現代哲学』)
・『懐疑論』,1928.
・『結婚論』,1929.
・『幸福論』,1930.
・『科学的見方(科学の眼)』,1931.

訪日したラッセル-ラッセル・ブームが起こり連日各紙で報道

BR-1921J 私たちは,猛暑のなか京都から横浜まで(東海道線で) 10時間の旅をした(写真:神戸港でラッセルを出迎えた賀川豊彦とともに)。暗くなってすぐの頃,横浜に到着した。そうして,私たちはカメラマンたちが連続的にたくマグネシウムの爆発音で迎えられた。マグネシウムが一回爆発するごとにドーラはとび上がったので,「流産」するのではないかという心配が増した。私は怒りで我を失った。私がそんなふうになったのは,かつてフィッツジェラルドの首を絞めて殺しそうになった時以来,この時だけであった。私は,フラッシュライト(閃光灯)をもっている男性カメラマンたちを追いかけたが,’びっこ’をひいていたためにつかまえることができなかった。私は間違いなく殺人をおかしたであろうから,そのことは幸いであった。一人の冒険心のあるカメラマンが,怒りで眼が爛々としている私の写真を撮ることに成功した。私がそのように完璧に狂気じみて見えるようになるなどとは,この写真がなければついぞ知らなかったことである。この写真で私は東京に紹介された。(下の写真:改造社の建物の前にて)
Kaizoshamae-BR あの時の私の感情は,インド暴動(注:Mutiny 1857年のインドのベンガル地方のインド人傭兵が英国支配に対して起こした反乱)に際して,インド在住の英国人がもったにちがいない感情 -すなわち 有色人種の叛徒にとり囲まれた時の白人の感情- と同じ種類のものであった。その時私は,異人種の手によって害を被ることから自分の家族を守りたいという欲求は,人間が持つことができる感情のうちで最も荒々しく情熱的なものであろうと実感した。
日本での私の最後の体験は,日本国民への私のお別れのメッセージとして,日本人はもっと愛国的になれという趣旨のものを,愛国的な新聞に発表してほしいとの依頼であった。私はこの依頼のメッセージはもとより,他のどんなメッセージも,この愛国的な新聞あるいはその他のいかなる新聞にも送らなかった。

We made a ten hours’ journey in great heat from Kyoto to Yokohama. We arrived there just after dark, and were received by a series of magnesium explosions, each of which made Dora jump, and increased my fear of a miscarriage. I became blind with rage, the only time I have been so since I tried to strangle FitzGerald. I pursued the boys with the flashlights, but being lame, was unable to catch them, which was fortunate, as I should certainly have committed murder. An enterprising photographer succeeded in photographing me with my eyes blazing. I should not have known that I could have looked so completely insane. This photograph was my introduction to Tokyo. I felt at that moment the same type of passion as must have been felt by Anglo-Indians during the Mutiny, or by white men surrounded by a rebel coloured population. I realized then that the desire to protect one’s family from injury at the hands of an alien race is probably the wildest and most passionate feeling of which man is capable. My last experience of Japan was the publication in a patriotic journal of what purported to be my farewell message to the Japanese nation, urging them to be more chauvinistic. I had not sent either this or any other farewell message to that or any other newspaper.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB23-150.HTM

[寸言]
ラッセルは大正10年(1921年)夏に約2週間、訪日した。主な動静は以下のとおり)

7月17日~7月30日: 日本訪問
kobe_toa-hotel7月17日正午: 営口丸にて神戸着。神戸クロニクル主筆ヤング(Robert Young, 1858.10.9-1922.11.7)の出迎え。最初の夜は,神戸 北野のトア ホテル(右写真)の2階57号室に泊まる。(現在跡地は「神戸外国倶楽部」となっている。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
http://russell-j.com/cool/KOBE-BR.HTM
7月18日,大阪ホテルにて,大阪毎日新聞副主幹と午餐。夜,神戸の阿弥陀寺で開催された演説会に出席し,約1,000名の労働者の前で短い講演を行った(通訳は賀川豊彦)。その後,自動車でトア・ホテルに帰り,夜12時頃まで歓談。トアホテル泊(2泊目)。
7月19日,ラッセル,ヤング,ブラック,及びパワー(Eileen Power,1889~1940)は,午前11時2分神戸三宮駅発の列車で大阪に向かう。大阪ホテルにて昼食をとり,自動車で奈良へいく。奈良公園などで遊ぶ。夜は,奈良ホテル泊。
7月20日,奈良の大仏見学,夕刻,同じ車で京都にいく。夜は,都ホテルに泊まったものと思われる。
(7.20~7.24,京都)
7月21日: 京都大学荒木総長と短時間会見。夕方5時より,改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席。京都大学教授その他の学者27名(新聞報道では26名)出席。
7月22日,午前中,祇園,知恩院,本願寺等見学。午後は,ホテルで静養。
7月23日 京都で静養していたと思われるが,この日の詳細不明(要調査)(注:金子務『アインシュタイン・ショック(1)』(p.71)には7月22日箱根に1泊と書いてあるが,ラッセルの行程に関する金子氏の記述は間違いが多い。)
7月24日,7.49p.m.:東海道線特急で横浜着。山下町のグランドホテルに一泊
7月25日,午後5時入京。夜,改造社の山本社長の案内で帝劇見物。帝国ホテルにて東京の第一夜を過ごす(2階32号室)。
7月26日,午前11時より,帝国ホテルにて日本の著名な思想家達と会見(大杉栄,堺利彦,桑木厳翼,姉崎正治,上田貞次郎,阿部次郎,和辻哲郎,北澤新次郎,鈴木文次,与謝野晶子,福田徳三,石川三四郎他)
7月27日,午前11時~12時半まで,都下新聞記者20名と共同記者会見。午後は,上野及び日本橋丸善へ(桑木或雄が同行)
7月28日,夜,慶應義塾大学大講堂にて講演(講演開催にあたっては小泉信三などが尽力/聴衆は3,000人以上(2,000人と書いてある文献もあるが,これは座席の数であり,立って聞いている多数の聴衆をカウントしなかったと思われる。)通訳は,帆足理一郎)
7月29日,横浜のグランドホテル泊
7月30日,午後,Canadian Pacific 社の Empress of Asia 号でバンクーバー向け出帆

ドーラの妊娠を知り、病床にありながらも初めて生きる喜びを感じたラッセル

BR-1921 私は,回復期の全期間を通して,弱々しく,肉体的には非常に不快であったにもかかわらず,きわめて幸福だった。ドーラ(写真:恋人 Dora Black とともに北京大学にて)は非常に献身的で,不愉快なことはすべて忘れさせてくれた。私の病気の回復期の初めの頃,ドーラは自分が妊娠していることを発見した。そうしてそれは,私たち二人にとって計り知れない幸福の源泉であった。アリス(初婚相手)とリッチモンド・グリーンを散策した時以来,子供がほしいという私の願望は日増しに強まってゆき,とうとう心を焼き尽くすほどの情熱にまでなっていた。私は,自分が生き残っただけでなく,子供を持つことになったことがわかると,回復期間中,もろもろの一連の軽い病気を併発していたにもかかわらず,自分が回復の途上にあるということにはまったく無頓着になった。主な病名は,両側肺炎であったが,それに加えて心臓病,腎臓病,赤痢,静脈炎も併発していた。けれども,そのいずれも,私の申し分のない幸福感を妨げることはなかった。そうして,これらあらゆる陰気な徴侯にもかかわらず,回復後は,いかなる悪い影響も後に残らなかった。
もう死なないということを感じながらベットに横たわっていることは,驚くほど愉快なことであった。その時まで私は,自分は根本においては悲観的な人間であり,生きていることに大きな価値をおいていない,と常に想っていた。しかしそのように考えることは完全な間違いであり,人生は無限に甘美なものだということを,私は発見した。
北京では雨はまれにしか降らないが,回復期間中,大雨が降り,それが湿った大地の快い香りを窓を通して運んできた。そうして,もし二度とこの香りをかぐことがなかったとしたら,何と恐ろしいことだったろう,と私はよく思った。私は,太陽の光にも,また風の音にも,これと同様の感情を抱いた。私の病室の窓のちょうど外側に,何本かの非常に美しいアカシアの木が立っており,私が良くなって鑑賞できるようになったその最初の時に,いっせいに開花した。その時以来私は,生きていることは楽しいということを心の底からわかるようになった。大部分の人々には,疑いもなくいつもそのことがわかっているのに,私にはわからなかったのである。

All through the time of my convalescence, in spite of weakness and great physical discomfort, I was exceedingly happy. Dora was very devoted, and her devotion made me forget everything unpleasant. At an early stage of my convalescence Dora discovered that she was pregnant, and this was a source of immense happiness to us both. Ever since the moment when I walked on Richmond Green with Alys, the desire for children had been growing stronger and stronger within me, until at last it had become a consuming passion. When I discovered that I was not only to survive myself, but to have a child, I became completely indifferent to the circumstances of convalescence, although, during convalescence, I had a whole series of minor diseases. The main trouble had been double pneumonia, but in addition to that I had heart disease, kidney disease, dysentery, and phlebitis. None of these, however, prevented me from feeling perfectly happy, and in spite of all gloomy prognostications, no ill effects whatever remained after my recovery.
Lying in my bed feeling that I was not going to die was surprisingly delightful. I had always imagined until then that I was fundamentally pessimistic and did not greatly value being alive. I discovered that in this I had been completely mistaken, and that life was infinitely sweet to me. Rain in Peking is rare, but during my convalescence there came heavy rains bringing the delicious smell of damp earth through the windows, and I used to think how dreadful it would have been to have never smelt that smell again. I had the same feeling about the light of the sun, and the sound of the wind. Just outside my windows were some very beautiful acacia trees, which came into blossom at the first moment when I was well enough to enjoy them. I have known ever since that at bottom I am glad to be alive. Most people, no doubt, always know this, but I did not.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB23-100.HTM

[寸言]
幼い時に両親が亡くなり、自分は生涯,幸福になれないだろうとずっと思っていたラッセル。しかし、ラッセルは、異郷の地で病床にあっても、恋人のドーラが妊娠して自分にも子供を持てることがわかり、50歳近くになって初めて幸福感にひたることができた。
1911年秋以降、アリスとは別居していたが、当時の英国の法律では、どちらかに結婚生活を継続できない重大な事実(違反)がない限り、離婚ができなかった。
ラッセルとドーラは、日本経由(日本には約2週間滞在)で、1921年秋に英国にもどった。そうして、長男が生まれ、裁判で離婚が認められ、二人は正式の夫婦になれ、★しばらくの間★、幸福な結婚生活を送ることができた。

死線をさまようラッセルを助けるべきか!?ーキリスト教徒の看護婦

[以下は,ロシアから帰国後、1921年の夏まで約1年間、北京大学の客員教授として中国を訪問した時に死にかけたラッセルの思い出]

BR-DB20 ・・。私たちがようやく家に着く頃には,私は正に重病になっていた。私に何が起こっているのか認識できる時がくるまで,私はずっと譫妄状態だった。私はドイツ人経営の病院に運ばれ,その病院では,昼間はドーラ(右写真:中国服を着たドーラ)が私を看病し,夜は北京にたった一人しかいなかった専門の英国人看護婦が私を看護した。2週間の間,医師団は毎晩,朝までには私は死ぬだろう,と考えた。私は,この時のことは,2,3の夢を除いて何一つ記憶していない。譫妄状態を脱した時,私は,自分がどこにいるのかわからなかったし,その看護婦のことも誰なのか認識できなかった。ドーラ(注:英国帰国後に結婚することになる恋人)は,私がずっと危篤状態で死にそうな状態であった,と語った。それに対し,私は「それは大変面白い!」と応えた。しかし私は非常に衰弱していたので5分後にはそれも忘れてしまい,彼女はまたも同じやりとりを繰り返さなければならなかった。私は自分の名前すら思い出せないほどだった。そのような譫妄状態が終わってからも,一ケ月間は,いつ死ぬかもしれない状態だと言われ続けたが,私は彼らの言うことは一言も信じなかった。
私のために見付けてくれた看護婦は,専門職としてかなり抜きん出ており,第一次世界大戦中はセルビアの病院で看護婦長を務めていた。その病院は全てドイツ人に占領され,看護婦たちはブルガリアに移された。彼女は,ブルガリア王妃とどんなに親しい間柄になったかということを,まったく疲れをみせずに,私に語った。彼女は深い宗教心を持った女性であった。そうして,彼女は,私が快方に向かった時,私を死なせることが彼女の責務ではないのかどうか真剣に考えた,と私に話してくれた(松下注:キリスト教徒としては,反キリスト教徒で無神論者のラッセルを助けずに死なせるべきだが,専門職としての看護婦としてはラッセルを助けるべきであったので,どちらを優先すべきか迷ったという意味.)。彼女の職業的訓練が,彼女の道徳感よりもずっと強力であったことは,私にとって幸運だった。

By the time we finally got home, I was very ill indeed. Before I had time to realise what was happening, I was delirious. I was moved into a German hospital, where Dora nursed me by day, and the only English professional nurse in Peking nursed me by night. For a fortnight the doctors thought every evening that I should be dead before morning. I remember nothing of this time except a few dreams. When I came out of delirium, I did not know where I was, and did not recognise the nurse. Dora told me that I had been very ill and nearly died, to which I replied: ‘How interesting’, but I was so weak that I forgot it in five minutes, and she had to tell me again. I could not even remember my own name. But although for about a month after my delirium had ceased they kept telling me I might die at any moment , I never believed a word of it. The nurse whom they had found was rather distinguished in her profession, and had been the Sister in charge of a hospital in Serbia during the War. The whole hospital had been captured by the Germans, and the nurses removed to Bulgaria. She was never tired of telling me how intimate she had become with the Queen of Bulgaria. She was a deeply religious woman, and told me when I began to get better that she had seriously considered whether it was not her duty to let me die. Fortunately, professional training was too strong for her moral sense.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB23-090.HTM

[寸言]
R-GOHO 革命直後のロシア訪問から帰国してしばらくすると、中国の北京大学から客員教授になってほしいとの招待状がラッセル宛に届いた。ロシアの現状をありのままに書いた著作によって非難を浴びていたところであったので、ラッセルは快諾し、恋人のドーラとともに約1年間、中国に行くことになる
上記の文章は、1921年3月初旬にインフルエンザにかかり、死線をさまよった時の思い出を書いたものである。
聞記者に対応するドーラの沈鬱な様子を見て、日本の新聞記者は「ラッセル死亡」の誤報を打ったために、そのニュースは世界中に伝わり、ラッセルは生きながらに自分の死亡記事を読むという貴重な経験をすることになる。

革命直後のロシア(1920年)-アストラハンの場合

[以下は,1920年に、革命直後のロシアに,英国労働党代表団に同行して訪問した時のラッセルの思い出です。]

Astrakan-now_google アストラハン(右写真:Astrakhan/ヴォルガ川下流域デルタに位置するアストラハン地方の首都でカスピ海岸から約90kmのところにある。/出典:Google map)  は,私がそれまでに想像したいかなるものよりもひどい地獄のようなところだと思われた。その町の給水は,アストラハンに入ってくる船舶が廃棄物を捨てる川の場所と同じところからとられていた。どの通りにも腐敗した泥水がたまり,それが何百万という蚊を繁殖させた。毎年,住民の三分の一がマラリアにかかった。下水道システム(排水処理システム)がまったくなく,街の真ん中の目立つ場所に,排泄物(糞便)の山ができていた。ペストが風土病のように流行していた。。我々がアストラハンに到着した少し前に,デニキン(Anton Ivanovich Denikin, 1872-1947:ロシア反革命軍の指導者)に叛逆する内乱が起こり,戦闘が行われていた。蝿がとてつもなくたくさん飛んでいたために,食事時には,食べ物の上にテーブル・クロースをかけ,そうしてテーブルクロスの下に手を入れて,一口分の食べものをすばやく取り出さなければならなかった。テーブル・クロースが落ちるやいなや,蝿がたかって完全に真黒になり,そのため食べ物は何一つ見えなくなった。アストラハンの土地は,海面よりもかなり低く,気温は日陰でも華氏120度(注:摂氏になおすと48.9度)もあった。

Fly_4Astrakan seemed to me more like hell than anything I had ever imagined. The town water-supply was taken from the same part of the river into which ships shot their refuse. Every street had stagnant water which bred millions of mosquitoes; every year one third of the inhabitants had malaria. There was no drainage system, but a vast mountain of excrement at a prominent place in the middle of the town. Plague was endemic. There had recently been fighting in the civil war against Denikin. The flies were so numerous that at meal-time a table-cloth had to be put over the food, and one had to insert one’s hand underneath and snatch a mouthful quickly. The instant the table-cloth was put down, it became completely black with flies, so that nothing of it remained visible. The place is a great deal below sea-level, and the temperature was 120 degrees in the shade.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2:Russia, 1968]
https://russell-j.com/beginner/AB22-150.HTM

[寸言]
革命直後のロシアの現状を知りたいと、英国労働党の代表団に同行したラッセル。最初はロシアに希望を見出そうとして訪問(レーニンとも会見)したが、実際目撃したのは、ロシアの厳しい現実・現状であった。

TP-PTB 英国帰国後、ロシア共産主義(Bolshevism)の理論と実際(やロシアの現状)についてありのままに書くことを決意。それが 1920年に出された The Practice and Theory of Bolshevism (みすず書房版の邦訳書名『ロシア共産主義』)であり、ロシア共産主義の問題点をはっきりと指摘したために、ロシア革命シンパから大きな非難を浴びた。

ラッセルは(穏健な)社会主義者であったが、そうであるからこそ、権力の問題を甘く見ているロシア共産主義(ボルシェヴィズム)の誤りを指摘せずるを得なかったのである。即ち、資本主義であろうと、社会主義あるいは共産主義であろうと、権力の問題(権力は必ず腐敗するので監視が必要)を重大に考えない政治理論は大きな欠陥があると、明確に自覚していたのである。

「正当な」遺産相続と「不当な」遺産相続ーラッセル家の場合

donation_jar_full_of_coin 金銭上(家計上)の観点から言っても,終戦(第一次世界大戦の終結)は非常に好都合であった。『プリンキピア・マテマティカ』を書いている間は,(利益がでない純粋にアカデミックな意義のある仕事をしている間は)(父の)遺産で生計をたてることは正当化されると思っていたが,さらに祖母が遺してくれた資産も自分のものにすることは正しくないと感じた。そこでその金額に相当するお金は全て寄付することとし,一部はケンブリッジ大学(本部)へ,一部は(ケンブリッジ大学)ニューナム・コレッジヘ,残りは種々の教育目的のために寄付した(*注1)。そうして社債T.S.エリオットにあげ,手放して以後,私の手許に残った不労所得は,年約百ポンドだけになった。それだけは私の婚姻継承的不動産処分(marriage settlement)のためのものであったので,なくすることができなかった(*注2)。
このこと(収入は年100ポンドのみという状態)は --私は著作でお金を稼げるようになっていたので-- たいした事だとは思われなかった。けれども,刑務所内においては,数学に関する著作は許されていたが,お金を得られるような本を書くことは許されなかった。そのために,もし,チャールズ・サンガーや何人かの他の友人が,私にロンドンにおける哲学の講師(講演者)の仕事を世話してくれなかったら,私が出所してきた時は,ほとんど一文無しの状態になっていたであろう。終戦とともに,私は再び執筆で収入を得ることができるようになった。以後,--滞米時に時々経済的に苦しい時はあったが(注:1939年にカリフォルニア大学の客員教授をやめてバーンズ財団に雇われる1940年末までは経済的に困窮した。)--,それ以外には,深刻な経済的な困難に陥ることはまったくなかった。
(注1:トリニティ・コレッジではなく,なぜ女子校のニューナム・コレッジ(ニューンハム・コレッジ)に寄付したのか不詳。祖母か,亡き母の関係だろうか)
(注2)marriage settlement:不動産譲渡の性質をもった継承的不動産処分。婚姻することを条件として婚姻の前に婚姻当事者の双方または一方,あるいは両親や親族が設定するもの(『研究社新英和大事典』より/参考:イギリス不動産法の単純化と土地移転の簡易化)

From a financial point of view also the ending of the War was very advantageous to me. While I was writing Principia Mathematica I felt justified in living on inherited money, though I did not feel justified in keeping an additional sum of capital that I inherited from my grandmother. I gave away this sum in its entirety, some to the University of Cambridge, some to Newnham College, and the rest to various educational objects. After parting with the debentures that I gave to Eliot, I was left with only about £100 a year of unearned money, which I could not get rid of as it was in my marriage settlement. This did not seem to matter, as I had become capable of earning money by my books. In prison, however, while I was allowed to write about mathematics, I was not allowed to write the sort of book by which I could make money. I should therefore have been nearly penniless when I came out but for the fact that Sanger and some other friends got up a philosophical lectureship for me in London. With the end of the War I was again able to earn money by writing, and I have never since been in serious financial difficulties except at times in America.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2:Russia, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB22-010.HTM

[寸言]

Cartoon boss man looking greedily at a pair of money bags.
Cartoon boss man looking greedily at a pair of money bags.

大部分の人は高額な遺産を受け取ることはない。そうして、もしも高額な遺産をもらったり、高額な宝くじが当たったら、「一部を寄付をします!」と言ったりする(人が少なくない)。しかし、そう言う人でも、「実際に」寄付をする人は少ない。

ラッセルは,収入を得られない学術研究に専念するために「遺産」を活用することは許されるだろうが、自分が安楽に暮らすために(労働せずに)遺産を使うことは不当だと考え、そのような余分な遺産は全て社会的目的のために寄付をした。
 もし多額の遺産を相続するようなことがあった場合、あなたならどうしますか? 執筆だけで生計をたてることはできないので・・・?

今後(第一次大戦以上の)最悪の事態がやってくるだろう(1931年時点での予想)

DOKUSH60 第一次世界大戦が終わった時,自分がそれまでやってきたことは,自分自身に対して以外,まったく何の役にもたたなかったことがわかった。私はたった一人の人間の生命を救うことさえも,また戦争を一分たりとも短縮することもできなかった。ヴェルサイユ条約をもたらす原因となった敵意(bitterness)を減らすためにいかなることもなすことに成功しなかった。
かし,ともかくも私は,すべての交戦国が犯した罪の共犯者ではなかったし,また,自分のためには,新しい人生観(philosophy)と新しい青春を得た。私は,大学教師であることと厳格な人間ピューリタン)であることから解放された。以前はまったくもっていなかった本能的なプロセス(本能が働くプロセス?)を理解することについて学んだ。また,非常に長い間孤立していたことから(独自の立場を貫いたことから),ある種の心の平静さ身に着けた
休戦期間中,人々はアメリカのウィルソン大統領に大いに期待を抱いた。他の人々は,ボルシェヴィキ・ロシア(革命ロシア)に霊感を見出した。しかし,これら2つの楽観主義の源のいずれも,私にとって,何の役にも立たないことがわかった時に,それにもかかわらず,絶望に陥らないでいることができた。今後,最悪の事態がやってくるだろうということは,慎重に検討した上での私の予想である(ラッセル注:ここの部分は,1931年に書いたものである) しかし,私はそのことを理由に人間(の男女)は,究極的には,本能的な喜びの単純な秘訣を学ぶだろうという信念を捨てることはしない。

When the War was over, I saw that all I had done had been totally useless except to myself. I had not saved a single life or shortened the War by a minute. I had not succeeded in doing anything to diminish the bitterness which caused the Treaty of Versailles. But at any late I had not been an accomplice in the crime of all the belligerent nations, and for myself I had acquired a new philosophy and a new youth. I had got rid of the don and the Puritan. I had learned an understanding of instinctive processes which I had not possessed before, and I had acquired a certain poise from having stood so long alone. In the days of the Armistice men had high hopes of Wilson. Other men found their inspiration in Bolshevik Russia. But when I found that neither of these sources of optimism was available for me, I was nevertheless able not to despair. It is my deliberate expectation that the worst is to come,’ but I do not on that account cease to believe that men and women will ultimately learn the simple secret of instinctive joy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB21-350.HTM

[寸言]
XENOPHOB 第一次世界大戦に勝利した連合国は,支払い不可能な賠償金をドイツに課した。当初期待された国際連盟も,アメリカは国内の反対が強く加盟せず,弱体であり,ラッセルは第一次世界大戦よりも残酷な世界大戦が起こるだろうと予測した。
因みに、ラッセルは1921年に訪日した時に,土田杏村にいずれ日本とアメリカは戦うことになるだろう(そして日本は敗ける),と暗い見通しを述べている。)
https://russell-j.com/beginner/ochibohiroi.htm#r2009-97

獄中で「嫉妬心」に苦しんだラッセル

CONSTAN3 コレット(注:写真。コンスタンス・マレソン夫人)に出会ってまもない頃(注:1911年秋からラッセルは妻と別居状態)は,コレットに対する私の愛がいかに真面目なものであるか,私は気づいていなかった。(コレットに出会うまでは)私の真剣な感情は,オットリン(注:モレル夫人)に全て捧げられていると,常に考えていた。コレットは,オットリンに比べずっと若く,オットリンほど名士ではなく,オットリンよりも軽薄な快楽をより享受できたので,私は自分の感情をまだ信ずることができず,半ば軽い火遊び(情事)をしていると思っていた。

I did not know in the first days how serious was my love for Colette. I had got used to thinking that all my serious feelings were given to Ottoline. Colette was so much younger, so much less of a personage, so much more capable of frivolous pleasures, that I could not believe in my own feelings, and half supposed that I was having a light affair with her.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB21-210.HTM

[寸言]
コレットやオットリンには夫がおり、ラッセル同様、「自由恋愛論者」であった。第一次世界大戦に対する反戦活動を通じ、ラッセルはコレットと親しくなり、いわば「同士」であった。ラッセルの反戦集会での演説の時には,一番前の席にコレットは陣取っており、自然に親しくなり、ついには恋人同士になった。

SITTO ラッセルは反戦活動のために、約5ケ月間、ブリクストン刑務所に入れられるが、コレットに別に恋人ができたことを聞き、入獄中のラッセルは何もできず,「嫉妬」に苦しむことになる。「自由恋愛論者」であるならば、コレットがラッセル以外に恋人を作っても「嫉妬心」などおこさずに認めるべきであろうが、頭では理解しても感情の面ではできず、医者に睡眠薬を処方してもらわないと眠れない状態となった。

ラッセルは1930年に『幸福論』を出すが、その中で「ねたみ(嫉妬心を含む)」は克服すべき悪い感情だとしているが、それはラッセルがコレットやオットリンなどに対する「嫉妬心」を克服した後の境地をまとめたものであった。(だから、ラッセルは「嫉妬心」といった人間的な感情が欠けているとか、『幸福論』には嫉妬心は卑しむべき感情だと書きながら嫉妬心に悩まされているのは「言行不一致」だという批判は、的はずれである。)

「理性の奴隷(?)」(ラッセル) 対 デマゴーグ(D.H.ロレンス)

Lawrence-1912 最初,私が D. H. ロレンスに惹きつけられたのは,彼のある種の精力的な性格(特質)や,人が当然のことと考えがちな仮定(憶説)に挑戦する(異議を唱える)彼の習癖であった。私はすでに,不当に(必要以上に)「理性の奴隷」になっていると非難されるのに馴れていた。そうして,彼は私に活気を与える一服の不合理を与えてくれるものと考えた。事実,私はある一定の刺激を彼から受けた。また,彼を知らずに書いた本の出来よりも,彼からの猛烈な非難にもかかわらず書いた本の出来の方がより良かったと思う。
 しかしこれは,言うまでもなく,彼の思想の中に,何かよいものがあったということではない。私は,いま振り返ってみると,彼の思想に何らかの長所があったとは思わない。それらは,世間がすぐに自分の言うことに従わないからといって立腹する神経質な専制君主気取りの人間’の思想にすぎなかった。他人も(自分と同じように)実在しているということがわかると,彼は彼らを憎悪した。彼は大部分の時を,彼自身の想像の孤独な世界に住んでおり,その世界には彼が望んだ通りにどう猛な亡霊たちが住んでいた。彼は過度に性(セックス)を重視したが,それは,性(セックス)においてのみ,この宇宙で彼だけが唯一の人間ではないことを認めざるを得ないという事実に因るものであった。しかし性(セックス)は彼にとってとても苦痛であったので,彼は,性的関係をお互いが相手を破滅させようとする永遠の闘争であると思い描いた。

What at first attracted me to Lawrence was a certain dynamic quality and a habit of challenging assumptions that one is apt to take for granted. I was already accustomed to being accused of undue slavery to reason, and I thought perhaps that he could give me a vivifying dose of unreason. I did in fact acquire a certain stimulus from him, and I think the book that I wrote in spite of his blasts of denunciation was better than it would have been if I had not known him.
But this is not to say that there was anything good in his ideas. I do not think in retrospect that they had any merit whatever. They were the ideas of a sensitive would-be despot who got angry with the world because it would not instantly obey. When he realised that other people existed, he hated them. But most of the time he lived in a solitary world of his own imaginings, peopled by phantoms as fierce as he wished them to be. His excessive emphasis on sex was due to the fact that in sex alone he was compelled to admit that he was not the only human being in the universe. But it was so painful that he conceived of sex relations as a perpetual fight in which each is attempting to destroy the other.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB21-150.HTM

[寸言]
日本にも D. H. ロレンスを礼賛する文学者や愛好家がけっこういますが、仮にロレンスが身近な人間であったとしてもそれらのひとがロレンスを「礼賛」するかは疑問です。
ロレンスは橋本徹と同様のデマゴーグです。橋本徹に対して当てはまると思われるラッセルの次の言葉は,ロレンスにも当てはまると思われます。否、この言葉は、ラッセルがロレンスやニーチエなどを念頭に書いたのかも知れません。

hasimoto_toru02「天才になるための秘訣の最重要要素の一つは,非難の技術の習得である。あなた方は必ず,この非難の対象になっているのは自分ではなくて他人であると読者が考えるような仕方で非難しなければならない。そうすれば,読者はあなたの気高い軽蔑に深く感銘するだろうが,非難の対象が他ならぬ自分自身だと感じたと同時に,彼はあなたを粗野で偏屈だと非難するだろう。」
One of the most important elements of success in becoming a man of genius is to learn the art of denunciation. You must always denounce in such a way that your reader thinks that it is the other fellow who is being denounced and not himself; in that case he will be impressed by your noble scorn, whereas if he thinks that it is himself that you are denouncing, he will consider that you are guilty of ill-bred peevishness.
出典: How to become a man of genius (written in Dec. 28, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/GENIUS.HTM

ラッセルにおける「回心」-内省の5分間の後、帝国主義者から平和主義者に

kaisin そうした内省の5分間が過ぎた時,私はまったく違った人間になっていた。しばらくの間,一種の神秘的な’啓示’が私を捉えた。私は,通りで会うあらゆる人々の’心の奥底の思い’がわかるように感じた。それはもちろん錯覚ではあるが,しかし実際に,友人すべて及び知人の多くの人々の心に,以前よりもずっと親密に触れあえるのがわかった。それ以前は帝国主義者であったが,その5分間の間に,ボーア人の味方となり,平和主義者となった。長年の間,ただ’精確さ’と’分析’をのみ好んできたが,(5分の内省の後)美に対する半ば神秘的な感情,子供に対する強い関心,また,(苦しい)人生を堪えることができる何らかの哲学を見いだしたいという’釈迦’(ブッダ)の場合と同じような深い望みに満たされている自分を発見した。不思議な興奮が私を捉えた。それには,大きな苦痛が内に含まれてはいたが,また同時に,自分は苦痛を支配することができ,その苦痛を’叡智への門’とすることができる --私はその時そう思ったのであるが--,という事実ゆえに,一種の勝利感すら含まれていた。その時たしかに自分は所持していると思った’神秘的な洞察力’もその後かなり色あせ,分析の習慣が再び自己主張し始めた。しかしあの瞬間に確かに自分が悟ったと思うことの幾つかは,いつも心の底に残り,それが,第一次世界大戦中の私の態度,子供への興味,小さな不幸に対する無頓着,及び,私の人間関係すべてにおけるある’感動しやすい情的な傾向’を,私にもたらしたのである。

budhaAt the end of those five minutes, I had become a completely different person. For a time, a sort of mystic illumination possessed me. I felt that I knew the inmost thoughts of everybody that I met in the street, and though this was, no doubt, a delusion, I did in actual fact find myself in far closer touch than previously with all my friends, and many of my acquaintances. Having been an Imperialist, I became during those five minutes a pro-Boer and a Pacifist. Having for years cared only for exactness and analysis, I found myself filled with semi-mystical feelings about beauty, with an intense interest in children, and with a desire almost as profound as that of the Buddha to find some philosophy which should make human life endurable. A strange excitement possessed me, containing intense pain but also some element of triumph through the fact that I could dominate pain, and make it, as I thought, a gateway to wisdom. The mystic insight which I then imagined myself to possess has largely faded, and the habit of analysis has reasserted itself. But something of what I thought I saw in that moment has remained always with me, causing my attitude during the first war, my interest in children, my indifference to minor misfortunes, and a certain emotional tone in all my human relations.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-040.HTM

[寸言]
EVELYN2 ラッセルは,1901年春(ラッセル29歳の時)、(好意をよせていた)ホワイトヘッド夫人が心臓病で苦しんでいる姿を目の当たりにしながら何も助けてあげられないという体験から、人間の孤独をしみじみと感じ、帝国主義的な考え方から平和主義的な考え方に「回心」する。
ここでの「平和主義」は「理論的な」また「絶対的な」平和主義者ではなく,「心情的な」,「平和を優先する」という意味での平和主義
ラッセルは後に,ヒットラーを打倒するために,第2次世界大戦を支持したことから,「平和主義者」として一貫していないと非難された。それに対しラッセルは,防衛のための戦争の中にはやむを得ないものもあることから,「自分は’理論的な’絶対平和主義者であったことは一度もない」と弁明した。
しかし,アメリカに続いてソ連も核兵器を保有するようになってからは,特に1953年のビキニの水爆実験以後は,いかなる小規模な戦争も核戦争に発展する可能性があるということで,’実質的な’平和「主義者」として,死ぬまで反戦・反核活動に尽力した。