ラッセル「人類に害を与えてきた思想(6)」

“If you can’t take it with you, this must be Hell.”

この心理様式(注:人間を正しい人間と罪人とに分けて、罪人に罰を与えようとする心性など)は,非常に持続性があり,またまったく新しい教義の装いをまとうことができると思われることから,その根源はいくらか人間性の深いところにあるに違いない。これは,精神分析学者(精神分析家)たちによって研究されている性質の事柄(問題)である。私は彼等の主張のすべてに賛意を表するといった立場からははるかに遠い立場にあるが,悪の源泉を我々人間のもっとも深い部分に求めたいと思うならば,精神分析学者たちの一般的方法は重要である,と考える。罪と報復的な罰という一対の概念は,宗教および政治の(世界の)双方において,最も精力的な多くのものの根源にあるように思われる。私は,罪悪感情は,幼少期のごく初期に形成されるものだと信じるが,精神分析学者の何人かが言うように,その感情が生得的なものであるとは信じない。もし仮に,その感情を根絶することができるならば,世界中の残酷さの分量は劇的に減少するだろう,と私は考える。我々人間全ては罪人(原罪を負っている者)であり,我々は全て処罰に値する,と(仮定)すれば,処罰が自分(たち)以外の人々に下されるような組織を弁護することが,明らかに容易となる。カルヴァン主義者たち(or カルヴィン主義者たち)は,自ら値しない慈悲を受けて,天国へゆくことになろうが,その場合,罪が罰に値する彼等(カルヴァン主義者たち)の感情は,ただ単に代償的な満足を得るだけである。共産主義者たちも,同様な考え方をもっている。我々は生まれるときに,資本家あるいはプロレタリアの家に生まれるべきか否かの選択を行うわけではない(選択できない)が,もし後者であれば,(共産主義の思想においては)我々は選ばれた者(集団)に属し,前者であればそうではない(ということになる)。我々の側での選択がまったくなしに,経済的決定論の働きによって,我々は一方の場合には正義の側にあり,他方の場合には間違っている側に立つ運命にあるのである。マルクスの父は,マルクスが幼児であったころにキリスト教徒となっており,そのときに受け容れたに違いない教義の少なくともいくらかは,その息子(マルクス)の心理の中で実を結んだように思われる。

As this psychological pattern seems so persistent and so capable of clothing itself in completely new mantles of dogma, it must have its roots somewhat deep in human nature. This is the kind of matter that is studied by psycho-analysts, and while I am very far from subscribing to all their doctrines, I think that their general methods are important if we wish to seek out the source of evil in our innermost depths. The twin conceptions of sin and vindictive punishment seem to be at the root of much that is most vigorous, both in religion and politics. I cannot believe, as some psycho-analysts do, that the feeling of sin is innate, though I believe it to be a product of very early infancy. I think that, if this feeling could be eradicated, the amount of cruelty in the world would be very greatly diminished. Given that we are all sinners and that we all deserve punishment, there is evidently much to be said for a system that causes the punishment to fall upon others than ourselves. Calvinists, by the fiat of undeserved mercy, would go to heaven, and their feelings that sin deserved punishment would receive a merely vicarious satisfaction. Communists have a similar outlook. When we are born we do not choose whether we are to be born capitalists or proletarians, but if the latter we are among the elect, and if the former we are not. Without any choice on our own parts, by the working of economic determinism, we are fated to be on the right side in the one case, and on the wrong side in the other. Marx’s father became a Christian when Marx was a little boy, and some, at least, of the dogmas he must have then accepted seem to have borne fruit in his son’s psychology.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(5)」

 残忍性の禁欲主義的な形態は,不幸にもキリスト教の教義のより激しい(狂暴な)形態に限定されておらず,そのようなキリスト教教義の激しい(狂暴な)形態は,現在では,以前のような狂暴さで信じられることはめったになくなっている。(そうして)世界は,同じ心理的様式の新しくまた威嚇的な形態をうみだしてきている。ナチズムの信奉者たちは,権力を掌握する前の時代においては,苦労の多い生活を送っており,精力的であることをよしとする信念や,「人間はみずからを鍛えるべきだ 」(注:One should make oneself hard/ニーチェの超人思想)というニーチェの格言への信念,に服従して,安楽や目前の快楽の多くを犠牲にしていた。彼等が権力を獲得した後においても,「バターよりも大砲を」というスローガンは,なおも将来の勝利という精神的快楽 -- のために,感覚の快楽を犠牲にすることを含んでいた(意味していた/伴っていた)。そのような精神的快楽は,まさに,ミルトンの(『失楽園』の)悪魔が地獄の炎で苦しめられたときにみずからを慰めたものである。同じ心性(メンタリティ)は,熱心な共産主義者の間にも見出しうるもので,彼等にとって,贅沢は悪であり,はげしい労働が主要な義務であり,また,貧困が普遍的に存在することは至福千年(millennium)への手段なのである。禁欲主義と残忍性との結合は,キリスト教教義が柔軟化するにつれて消えさったわけではなく,キリスト教に敵対する新らしい形態をとるようになったのである。今もなお,同様な心性は強く存在する。(即ち)人間は聖者と罪人とにわけられ,聖者は、ナチスあるいは共産主義者の天国で祝福を受けることになっており、一方,罪人たちは粛清されてしまうか,強制収容所で人間が加えることができるような苦痛にさらされなければならない(といった心性である。)。もちろん,それは,全能なる神が地獄で課される(罪人に加えられる)と考えられた苦痛(責め苦)と比較すればまだましであるが,限りある力をもつ人間になしうることができる,最悪の苦痛(責め苦)である。また,聖者たちには,厳しい試練の期間があり,そのあとに,キリスト教の賛美歌が天上の歓喜について描写して言っているように,「勝利の叫び声,楽しき歌声・・・」が続くのである。

The ascetic form of cruelty is, unfortunately, not confined to the fiercer forms of Christian dogma, which are now seldom believed with their former ferocity. The world has produced new and menacing forms of the same psychological pattern. The Nazis in the days before they achieved power lived laborious lives, involving much sacrifice of ease and present pleasure in obedience to the belief in strenuousness and Nietzsche’s maxim that one should make oneself hard. Even after they achieved power, the slogan ‘guns rather than butter’ still involved a sacrifice of the pleasures of sense for the mental pleasures of prospective victory – the very pleasures, in fact, with which Milton’s Satan consoles himself while tortured by the fires of hell. The same mentality is to be found among earnest Communists, to whom luxury is an evil, hard work the principal duty, and universal poverty the means to the millennium. The combination of asceticism and cruelty has not disappeared with the softening of Christian dogma, but has taken on new forms hostile to Christianity. There is still much of the same mentality: mankind are divided into saints and sinners; the saints are to achieve bliss in the Nazi or Communists heaven, while the sinners are to be liquidated, or to suffer such pains as human beings can inflict in concentration camps – inferior, of course, to those which Omnipotence was thought to inflict in hell, but the worst that human beings with their limited powers are able to achieve. There is still, for the saints, a hard period of probation followed by ‘the shout of them that triumph, the song of them that feast’, as the Christian hymn says in describing the joys of heaven.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(4)」

 過去の歴史において(←関して)もっとも明白な(有害な信念の)事例は,人間の個人的な偏見に応じて宗教的あるいは迷信と呼べるような,いろいろな信念によって成り立っている。人間を生贄(いけにえ)として(神に)捧げれば収穫が増える,とかつて考えられていた。それは,最初は純粋に呪術的な理由のためであったが,その後,生贄の血が神々 -それは崇拝する人々が持つイメージで創られたものだが- を喜ばす,と考えられたからである。旧約聖書の中には,征服した民族を完全に絶滅させることが宗教的義務であり,彼等の(彼らの飼っている)牛や羊でさえ容赦することは神への不信心(不敬)になる,と書かれている。来世(あの世)における暗い恐怖(地獄の責め苦)や災難(という考え)は,エジプト人やエトルリア人(注:イタリア半島中部の先住民族)に圧迫感を与えていたが,そのような考えはキリスト教の勝利によって絶頂に達したのである(参考:キリスト教の地獄思想)。陰うつな聖者たちは,感覚的な快楽をすべてひかえ,砂漠の中に孤独に暮らし,肉や酒や女性と接触(交際)することを避けていたが,それにもかかわらず,あらゆる快楽をひかえることを義務付けられていたわけではなかった。(即ち)精神の快楽は肉体の快楽よりも優れたものと考えられ,異教徒や異端者に対し来世(あの世)で加えられる永遠の責め苦を冥想することは精神の快楽のうちで高い位置を与えられてた。禁欲主義が,感覚的なもの以外の快楽は無害だととしたのは,禁欲主義の欠点の一つであり,実際のところ,最善の快楽ばかりではなくまさに最悪の快楽もまた,純粋に精神的なもの(肉体的な要素がまったくないもの)なのである。ミルトンの描いた悪魔(ミルトン『失楽園』の中の悪魔)が,人間にどのような害悪を加えうるかを考えている時の悪魔の快楽を,検討してみよう。ミルトンはその悪魔に,次のように言わせている。

心にはそれ自身のための場所がある。
そして心は自らのうちに地獄から天国をつくり,
また天国から地獄を作り出す。

また,この悪魔の心理は,呪われた人々の苦しみを天国から眺められるだろうという想いに大喜びしたテルトゥリアヌス(注:Tertullian カルタゴの神学者)の心理と,それほど異なっているわけではない。感覚的快楽を禁欲主義的に軽視することは,親切心や寛容な心,あるいは人間性に関する非迷信的な考え方が我々を望むように導くような,その他のいかなる美徳をも助長したことはこれまでなかった。それとは逆に,人間が自分自身に責め苦を課する場合には,そのことによって自分は他の人々を苦しませる権利をもつのだと感じ,その権利を強化させるような教義(ドグマ)なら,いかなるものも受け容れようという気にさせるのである。

The most obvious case as regards past history is constituted by the beliefs which may be called religious or superstitious, according to one’s personal bias. It was supposed that human sacrifice would improve the crops, at first for purely magical reasons, and then because the blood of victims was thought pleasing to the gods, who certainly were made in the image of their worshippers. We read in the Old Testament that it was a religious duty to exterminate conquered races completely, and that to spare even their cattle and sheep was an impiety. Dark terrors and misfortunes in the life to come oppressed the Egyptians and Etruscans, but never reached their full development until the victory of Christianity. Gloomy saints who abstained from all pleasures of sense, who lived in solitude in the desert, denying themselves meat and wine and the society of women, were, nevertheless, not obliged to abstain from all pleasures. The pleasures of the mind were considered to be superior to those of the body, and a high place among the pleasures of the mind was assigned to the contemplation of the eternal tortures to which the pagans and heretics would hereafter be subjected. It is one of the drawbacks to asceticism that it sees no harm in pleasures other than those of sense, and yet, in fact, not only the best pleasures, but also the very worst, are purely mental. Consider the pleasures of Milton’s Satan when he contemplates the harm that he could do to man. As Milton makes him say:
The mind is its own place, and in itself
Can make a heaven of hell, a hell of heaven.
and his psychology is not so very different from that of Tertullian, exulting in the thought that he will be able to look out from heaven at the sufferings of the damned. The ascetic depreciation of the pleasures of sense has not promoted kindliness or tolerance, or any of the other virtues that a non-superstitious outlook on human life would lead us to desire. On the contrary, when a man tortures himself he feels that it gives him a right to torture others, and inclines him to accept any system of dogma by which this right is fortified.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(3)

残酷な行為を正当化する意見は残酷な衝動によって吹き込まれる(引き起こされる),という主張(thesis 命題)を支持する事例を(さらに)たくさんあげることは容易であろう。現在では馬鹿げていると認識されている昔のいろいろな見解を再考してみると,十中八,九,それらが,苦しみを加えることを正当化するような見解であることがわかるであろう。たとえば,医療行為(診療行為)の例をとってみよう(注:安藤訳では medical practice を「医師の慣行」と訳している。これは「医師の行為」即ち,医療行為(診療行為)が適訳であろう)。麻酔剤(anethetics)が発明された時,それは神の意向を妨害する試みなので邪悪である,と考えられた。また狂気は悪魔がとりついたせいだと考えられ,狂人の心に住みついた悪魔は,狂人に苦痛を加えて悪魔の居心地を悪くさせることによって追い出すことができる,と信じられていた。このような見解が追求され,狂人たちは長い間引き続き(on end),組織的かつ’良心的な’残忍さをもって扱われたのである。誤った医学的治療(法)で,患者にとって不快であるよりむしろ快適だった,というような事例を,私は一つとして考えつくことができない。あるいはまた,道徳教育の例をとってみよう。次の詩によって,これまでどれだけ多くの残忍な行為が正当化されてきたかを考えてみよう。
犬や女房やクルミの樹は,
打てば打つほど良くなる

クルミの樹を鞭打つことによる道徳的効果について,私はまったく経験したことはない。しかし,文明人であるならば,この詩の妻に関するところを正当化する人は一人もいないであろう。罰による改善効果は,なかなか消えてなくならない信念であるが、その主な理由は,罰することがわれわれのサディズム的衝動を非常に満足させる,ということにある,と私は考える。
しかし,信念よりは情熱の方が,人間生活における不都合なものに,より多くの関連をもっているけれども,それでもなお,信念は,特に古代からのもので,体系化され,いろいろな組織の中に具体化されたものである場合には,意見の望ましい変化を遅らせるか,さもなければ,いずれの方向にも強い感情を持たないような人々に誤まった方向へと影響を及ぼす,大きな力をもっている。「人類に害を与えてきた思想」というのが私の(ここでの)主題であるので,特に有害な信念の諸体系について考察することにしよう。
It would be easy to multiply instances in support of the thesis that opinions which justify cruelty are inspired by cruel impulses. When we pass in review the opinions of former times which are now recognized as absurd, it will be found that nine times out of ten they were such as to justify the infliction of suffering. Take, for instance, medical practice. When anesthetics were invented they were thought to be wicked as being an attempt to thwart God’s will. Insanity was thought to be due to diabolic possession, and it was believed that demons inhabiting a madman could be driven out by inflicting pain upon him, and so making them uncomfortable. In pursuit of this opinion, lunatics were treated for years on end with systematic and conscientious brutality. I cannot think of any instance of an erroneous medical treatment that was agreeable rather than disagreeable to the patient. Or again, take moral education. Consider how much brutality has been justified by the rhyme:
A dog, a wife, and a walnut tree,
The more you beat them the better they be.
I have no experience of the moral effect of flagellation on walnut trees, but no civilized person would now justify the rhyme as regards wives. The reformative effect of punishment is a belief that dies hard, chiefly I think, because it is so satisfying to our sadistic impulses.

But although passions have had more to do than beliefs with what is amiss in human life, yet beliefs, especially where they are ancient and systematic and embodied in organizations, have a great power of delaying desirable changes of opinion and of influencing in the wrong direction people who otherwise would have no strong feelings either way. Since my subject is ‘Ideas that have Harmed Mankind,’ it is especially harmful systems of beliefs that I shall consider.
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バートランド・ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(2)

 人間が相互に加える害悪,そしてそれがはね返ることによって,自分自身に加える害悪の,主要な源泉は,思想あるいは信念にあるというよりは,むしろいろいろな悪しき情熱にある,と私は考える。しかし,害をなす(有害であるような)思想や原理は,常にではないが,概して,悪しき情熱の仮面(口実)である。異端者たちが公衆の面前で焼かれた(火あぶりの刑に処せられた)頃のリスボンでは,時々,異端者のうちで,特に人を啓発するような変説(異端信仰撤回)をしたものには,炎の中に入れられる前に絞め殺すという恩恵が認められる事態が起こった。しかしこのことは,観衆を非常に激怒させ,そのため当局者たちは,懺悔した者(異端者)に観衆が私刑(リンチ)を加えるのを妨止し,当局者側で(規定通りの)焚刑(ふんけい)をおこなうのに非常に苦労したのである。犠牲者がもだえ苦しむのを眺めることが,事実,民衆の主な楽しみの一つだったのであり,それによって,彼等はいくらか単調な暮らしを活気づけることを期待したのである。こういった楽しみが,異端者を焚殺の刑に処するのは正しい行為であるという一般的な信念に,多大の寄与をしたことを,私は疑うことができない。同じようなことが,戦争についても当てはまる。精力にあふれた残忍な人々は,しばしば戦争を楽しめるものだと考える。ただし,それは,勝利した戦争であり,レイプ(婦女暴行)や掠奪にあまり邪魔が入らないという条件付きである。戦争は正しい(正義のためだ),ということを人々に納得させるに当って,このことは多大の助けとなっている。『トム・ブラウンの学校時代』の主人公であり,(英国の)パブリック・スクールの改革者だと賞讃されたアーノルド博士は,少年(生徒)を鞭で打つ罰は誤まっているという意見を持つ変人(cranks)に出あうが,その意見に対して)怒りを爆発させているアーノルド博士のとこを読めば,誰もが,博士は鞭打ちの刑を楽しんでいたのであり,その楽しみを奪われたくないと考えていたのだ,と結論を下さざるえないであろう。
I think that the evils that men inflict on each other, and by reflection upon themselves, have their main source in evil passions rather than in ideas or beliefs. But ideas and principles that do harm are, as a rule, though not always, cloaks for evil passions. In Lisbon when heretics were publicly burnt, it sometimes happened that one of them, by a particularly edifying recantation, would be granted the boon of being strangled before being put into the flames. This would make the spectators so furious that the authorities had great difficulty in preventing them from lynching the penitent and burning him on their own account. The spectacle of the writhing torments of the victims was, in fact, one of the principal pleasures to which the populace looked forward to enliven a somewhat drab existence. I cannot doubt that this pleasure greatly contributed to the general belief that the burning of heretics was a righteous act. The same sort of thing applies to war. People who are vigorous and brutal often find war enjoyable, provided that it is a victorious war and that there is not too much interference with rape and plunder. This is a great help in persuading people that wars are righteous. Dr Arnold, the hero of Tom Brown’s Schooldays, and the admired reformer of Public Schools, came across some cranks who thought it a mistake to flog boys. Anyone reading his outburst of furious indignation against this opinion will be forced to the conclusion that he enjoyed inflicting floggings, and did not wish to be deprived of this pleasure.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(1946)n.1

(種々の)人間の不幸(災い)は,二種類に分けることができるだろう。第一に,非人間的な環境によって被る不幸であり,第二には,他の人間によって被る不幸である。人類は知識や技術においてこれまで進歩をとげてきているので,第二の種類の不幸は,不幸(災難)全体の中で占める割合(パーセンテージ)を,絶え間なく増大させるようになっている。昔は,たとえば飢饉は自然のいろいろな原因によるものであり,それと闘うために人々は最善をつくしたが,多数の人々が飢えのために亡くなった。現在(も),世界の広大な地域が飢饉の恐れに直面しており,そのような状況は自然の諸原因によるところが大きいけれども,(飢饉の)主たる原因は人間的なものである。(過去)6年間にわたって,世界の文明諸国民は,みずからの最良のエネルギーをすべて相互殺戮に捧げた(注:第二次世界大戦のこと)。また,(現在)お互いに生かしあうことへ急に方向転換することは困難であると認めている。収穫をダメにし,農業機械類を取り壊し(注:兵器製造のための材料として?),船舶輸送の組織をこわしてしまった文明諸国民は,ある地域における農作物の不足を,他の地域における過剰作物によって救済する,ということがけっして容易でないことを認識(発見)している。もしも経済組織が,正常(通常)の機能を発揮しているとしたならば,そういった救済は容易にできたであろう。この例が示すように,人間(人類)の最悪の敵は今や(自然ではなく)人間(人類)である。たしかに,自然は,我々人間を今なお死すべき存在としている(遅から早かれ死ななければならない)。しかし,医学の進歩とともに,我々人間が天寿をまっとうするまで生きることが,ますます普通であるようになるだろう。我々は,永遠に生きることを願い,天国の終わりのない喜び -(つまり)神の奇蹟によってその単調さがけっしてうんざりするものにまでならない喜び- を期待するものだ,と想定されている。しかし,実際,もはや若くない正直な人に質問すれば,誰もが,たいてい次のように答えそうである。(即ち,これまで)この世の生活を味わってきたので,あの世で再び「新人(new boy)」として,生活を始めようとは思わない,と。従って,今後のことについては,(あの世のことではなく)人類が考慮すべきもっとも重大な害悪は,人類が自らの愚かさや悪意,あるいはその両方によって互いに他の上に生じさせる害悪であると,言ってよいであろう。
The misfortunes of human beings may be divided into two classes: First, those inflicted by the non-human environment and, second, those inflicted by other people. As mankind have progressed in knowledge and technique, the second class has become a continually increasing percentage of the total. In old times, famine, for example, was due to natural causes, and although people did their best to combat it, large numbers of them died of starvation. At the present moment large parts of the world are faced with the threat of famine, but although natural causes have contributed to the situation, the principal causes are human. For six years the civilized nations of the world devoted all their best energies to killing each other, and they find it difficult suddenly to switch over to keeping each other alive. Having destroyed harvests, dismantled agricultural machinery, and disorganized shipping, they find it no easy matter to relieve the shortage of crops in one place by means of a superabundance in another, as would easily be done if the economic system were in normal working order. As this illustration shows, it is now man that is man’s worst enemy. Nature, it is true, still sees to it that we are mortal, but with the progress in medicine it will become more and more common for people to live until they have had their fill of life. We are supposed to wish to live for ever and to look forward to the unending joys of heaven, of which, by miracle, the monotony will never grow stale. But in fact, if you question any candid person who is no longer young, he is very likely to tell you that, having tasted life in this world, he has no wish to begin again as a ‘new boy’ in another. For the future, therefore, it may be taken that much the most important evils that mankind have to consider are those which they inflict upon each other through stupidity or malevolence or both.
Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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知的戯言の概要(1943) n.61(完)

 そういった信仰が、冷徹な科学によってすっかり置き換えられてしまえば、恐らく世界は、その興味のいくつかと多様性を失うことであろう(Pehaps + would)。もしかすると(Pehaps)、私達は、アブセダリアンズ(Abecedarians)のことを喜ぶことを自分自身に許してしまうかも知れない。彼らは、あらゆる冒涜的な(profane 神聖を汚す)学習を拒否し、ABCを学ぶのは邪悪であると考えたために、そう呼ばれたのである。そうして、私達は、ナマケモノがノアの洪水以後どうやってアララト山からペルーまでの旅 -大洪水以降、旅行は、移動の極度の遅延によってほとんど信じられないほどになった(はずである)- ができたのか疑問に思ったイエズス会士の当惑を楽しむかも知れない。
賢明な人間は、豊富に供給される財貨(goods)を享受するだろうし、知的なゴミのようなもの(財貨)からも、 他の時代と同様、現代においても、豊富な食事(味わうもの)を見つけるだろう。
(参考:助動詞のmayの意味を使い分ける!知っておくべきポイントとは?
→ https://kimino-school.com/study/post-2660/)

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.61
Perhaps the world would lose some of its interest and variety if such beliefs were wholly replaced by cold science. Perhaps we may allow ourselves to be glad of the Abecedarians, who were so called because, having rejected all profane learning, they thought it wicked to learn the ABC. And we may enjoy the perplexity of the South American Jesuit who wondered how the sloth could have traveled, since the Flood, all the way from Mount Ararat to Peru — a journey which its extreme tardiness of locomotion rendered almost incredible. A wise man will enjoy the goods of which there is a plentiful supply, and of intellectual rubbish he will find an abundant diet, in our own age as in every other.

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知的戯言の概要(1943) n.60

私は特に1820年頃、ニューヨーク州北部の湖畔に住んでいたある女予言者を称賛している。彼女は無数の信者達に向かって、自分は水の上を歩く力をもっていると宣言し、そうして、ある朝の11時に水の上を歩くことにしようと提案した(proposed to)。決められた時刻になると、信者達が何千人も湖畔に集まった。女予言者は信者達に話しかけ、次のように言った。「皆さんは、私が水の上を歩くことができると、本当に信じていますか?」。彼らは一斉に「はい、信じています」と答えた。「それなら」・・・「私が水の上を歩く必要はありません」と彼女は宣言した。そうして、彼らは皆大いに啓発されて帰宅した(とのことである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.60
I admire especially a certain prophetess who lived beside a lake in Northern New York State about the year 1820. She announced to her numerous followers that she possessed the power of walking on water, and that she proposed to do so at 11 o’clock on a certain morning. At the stated time, the faithful assembled in their thousands beside the lake. She spoke to them, saying: “Are you all entirely persuaded that I can walk on water?” With one voice they replied: “We are.” “In that case,” she announced, “there is not need for me to do so.” And they all went home much edified.

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知的戯言の概要(1943) n.59

 しかし、(話が)真面目になり過ぎつつある(ようである)。 迷信は、常に暗くて残忍なものであるわけではない。 迷信はしばしばが人生に陽気さをつけ加える(add to)。 私はかつて、(自称)オシリス神(注:the god Osiris 古代エジプトの死と復活の神で冥界の支配者)から連絡(a communication)を受けたことがあり、彼の電話番号が書かれていた。彼は当時ボストンの郊外に住んでいた。私は彼の崇拝者仲間に加わらなかったが(enroll myself)、彼の手紙は私に喜びを与えてくれた。私はしばしば自分はメシア(救世主)だと名乗る人達から手紙を受け取ってきているが、彼らはこの重要な事実(救世主であること)を私の講演のなかで言い忘れないようにと促していた。(米国で)禁酒法が施行されていた期間、聖餐式(the communion service)はブドウ酒(ワイン)ではなくウィスキーで祝福されるべきだと主張する一派(セクト)があった。この教義(tenet)は彼らに強い酒をふるまう法的権利を与え(注:信仰の自由!!)、この宗派は急速に成長した。イングランド(英国のイングランド)には英国人は(イスラエルの)失われた十支族だと主張する一派があり、またそれよりももっと厳格な宗派があり、彼らは英国人(の源流)はエフライム族とマナセ族にすぎないと主張する。これらのどちらかの派に属する人に出会うたびに、私は他方の信奉者のふりをする(profess myself)。すると、多くの面白い議論が生まれる。私はまた、大ピラミッドの神秘的な伝承を解読しようとして(deciphering its mystical lore)、大ピラミッドを研究する人達も好きである。この問題については 大著が多数執筆され、そのうちの何冊かは著者から私に贈呈されている(贈呈していただいている)。当該書籍は、大ピラミッドが常にその本が出版された日までの世界の歴史を正確に予言しているが、その本の出版以後(の世界の歴史)について)信頼性が低くなるというのは、特異な事実( a singular fact)である(訳注:著者は、その本の出版日までに起こったことは大ピラミッドの伝承とつじつまのある解釈を施すが、出版以後はそれがかなわなくなるという皮肉か?)。以後は信頼度が低くなる。 一般的に言って、(大ピラミッド本の)著者は、(大ピラミッドが建設されて)すぐに、エジプトに戦争が起こり、それに続いてアルマゲドン(注:新約聖書「ヨハネの黙示録」16章16節に記述された、終末に行われる善と悪の最終決戦)と反キリストの到来が続くと予想するが、この頃までに非常に多くの人々が反キリスト者として認識されてしまっているため、読者は不本意ながら懐疑主義に駆り立てられる(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.59

But we have been getting too solemn. Superstitions are not always dark and cruel; often they add to the gaiety of life. I received once a communication from the god Osiris, giving me his telephone number; he lived, at that time, in a suburb of Boston. Although I did not enroll myself among his worshipers, his letter gave me pleasure. I have frequently received letters from men announcing themselves as the Messiah, and urging me not to omit to mention this important fact in my lectures. During prohibition, there was a sect which maintained that the communion service ought to be celebrated in whiskey, not in wine; this tenet gave them a legal right to a supply of hard liquor, and the sect grew rapidly. There is in England a sect which maintains that the English are the lost ten tribes; there is a stricter sect, which maintains that they are only the tribes of Ephraim and Manasseh. Whenever I encounter a member of either of these sects, I profess myself an adherent of the other, and much pleasant argumentation results. I like also the men who study the Great Pyramid, with a view to deciphering its mystical lore. Many great books have been written on this subject, some of which have been presented to me by their authors. It is a singular fact that the Great Pyramid always predicts the history of the world accurately up to the date of publication of the book in question, but after that date it becomes less reliable. Generally the author expects, very soon, wars in Egypt, followed by Armageddon and the coming of Antichrist, but by this time so many people have been recognized as Antichrist that the reader is reluctantly driven to skepticism.

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知的戯言の概要(1943) n.58

 集団的な恐怖(心)群れの本能(群衆本能)を刺激する。そして、その群れの一員とみなされない人々に対する凶暴性(残忍さ)を生み出す傾向がある。フランス市民革命においても同様であり、革命時、外国の軍隊に対する恐怖(心)は、恐怖政治を生み出した(のである)。ソビエト政府は、(政権樹立後の)始めの数年間にあれほどの敵意に会わなければ、狂暴さはよりすくなっていたであろう。
(注:。Unpopular Essays(1950年刊)に収録された時には、「ソビエト政府」に関する一文に差し替えられているが、第二次世界大戦中の1943年に始めて出版された時には、次の一文が挿入されていた。
And it is to be feared that the Nazis, as defeat draws nearer, will increase the intensity of their campaign for exterminating Jews.)
恐怖心は残酷な衝動を生み出す。そうして、それゆえに、残忍行為を正当化すると思われるような迷信を助長する。 強い恐怖心の影響下では、個人も群衆も国家も、人道的に振る舞ったり、正気でものを考えたりすることは、信頼できない。そういうわけで、臆病者(poltroons)の方が勇敢な人間よりも残忍になりがちであり、また迷信に陥りがちでもある。私がこのように言う時、私の考えているのは、ただ死に直面した場合だけでなく、あらゆる点で勇敢な人のことである。多くの人が、勇敢に死ぬ勇気を持っているだろうが、自分が死ぬことを求められる理由(大義)は無価値のものであると言ったり、あるいはそう考えたりさえする勇気は持っていないだろう。恥辱(Obloquy)は大部分の人々にとって死よりも苦痛である。これが、集団が興奮している時に、支配的な意見にあえて反対する人がほとんどいないの一つ理由である。カルタゴ人でモロク(崇拝)を否認したものは一人もなかった。それはモロクを否認することは戦闘において死に直面するよりもさらに多くの勇気を必要としたであろうからである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.58

Collective fear stimulates herd instinct, and tends to produce ferocity toward those who are not regarded as members of the herd. So it was in the French Revolution, when dread of foreign armies produced the reign of terror. The Soviet Government would have been less fierce if it had met with less hostility in its first years. Fear generates impulses of cruelty, and therefore promotes such superstitious beliefs as seem to justify cruelty. Neither a man nor a crowd nor a nation can be trusted to act humanely or to think sanely under the influence of a great fear. And for this reason poltroons are more prone to cruelty than brave men, and are also more prone to superstition. When I say this, I am thinking of men who are brave in all respects, not only in facing death. Many a man will have the courage to die gallantly, but will not have the courage to say, or even to think, that the cause for which he is asked to die is an unworthy one. Obloquy is, to most men, more painful than death; that is one reason why, in times of collective excitement, so few men venture to dissent from the prevailing opinion. No Carthaginian denied Moloch, because to do so would have required more courage than was required to face death in battle.

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