
この心理様式(注:人間を正しい人間と罪人とに分けて、罪人に罰を与えようとする心性など)は,非常に持続性があり,またまったく新しい教義の装いをまとうことができると思われることから,その根源はいくらか人間性の深いところにあるに違いない。これは,精神分析学者(精神分析家)たちによって研究されている性質の事柄(問題)である。私は彼等の主張のすべてに賛意を表するといった立場からははるかに遠い立場にあるが,悪の源泉を我々人間のもっとも深い部分に求めたいと思うならば,精神分析学者たちの一般的方法は重要である,と考える。罪と報復的な罰という一対の概念は,宗教および政治の(世界の)双方において,最も精力的な多くのものの根源にあるように思われる。私は,罪悪感情は,幼少期のごく初期に形成されるものだと信じるが,精神分析学者の何人かが言うように,その感情が生得的なものであるとは信じない。もし仮に,その感情を根絶することができるならば,世界中の残酷さの分量は劇的に減少するだろう,と私は考える。我々人間全ては罪人(原罪を負っている者)であり,我々は全て処罰に値する,と(仮定)すれば,処罰が自分(たち)以外の人々に下されるような組織を弁護することが,明らかに容易となる。カルヴァン主義者たち(or カルヴィン主義者たち)は,自ら値しない慈悲を受けて,天国へゆくことになろうが,その場合,罪が罰に値する彼等(カルヴァン主義者たち)の感情は,ただ単に代償的な満足を得るだけである。共産主義者たちも,同様な考え方をもっている。我々は生まれるときに,資本家あるいはプロレタリアの家に生まれるべきか否かの選択を行うわけではない(選択できない)が,もし後者であれば,(共産主義の思想においては)我々は選ばれた者(集団)に属し,前者であればそうではない(ということになる)。我々の側での選択がまったくなしに,経済的決定論の働きによって,我々は一方の場合には正義の側にあり,他方の場合には間違っている側に立つ運命にあるのである。マルクスの父は,マルクスが幼児であったころにキリスト教徒となっており,そのときに受け容れたに違いない教義の少なくともいくらかは,その息子(マルクス)の心理の中で実を結んだように思われる。
As this psychological pattern seems so persistent and so capable of clothing itself in completely new mantles of dogma, it must have its roots somewhat deep in human nature. This is the kind of matter that is studied by psycho-analysts, and while I am very far from subscribing to all their doctrines, I think that their general methods are important if we wish to seek out the source of evil in our innermost depths. The twin conceptions of sin and vindictive punishment seem to be at the root of much that is most vigorous, both in religion and politics. I cannot believe, as some psycho-analysts do, that the feeling of sin is innate, though I believe it to be a product of very early infancy. I think that, if this feeling could be eradicated, the amount of cruelty in the world would be very greatly diminished. Given that we are all sinners and that we all deserve punishment, there is evidently much to be said for a system that causes the punishment to fall upon others than ourselves. Calvinists, by the fiat of undeserved mercy, would go to heaven, and their feelings that sin deserved punishment would receive a merely vicarious satisfaction. Communists have a similar outlook. When we are born we do not choose whether we are to be born capitalists or proletarians, but if the latter we are among the elect, and if the former we are not. Without any choice on our own parts, by the working of economic determinism, we are fated to be on the right side in the one case, and on the wrong side in the other. Marx’s father became a Christian when Marx was a little boy, and some, at least, of the dogmas he must have then accepted seem to have borne fruit in his son’s psychology.
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残忍性の禁欲主義的な形態は,不幸にもキリスト教の教義のより激しい(狂暴な)形態に限定されておらず,そのようなキリスト教教義の激しい(狂暴な)形態は,現在では,以前のような狂暴さで信じられることはめったになくなっている。(そうして)世界は,同じ心理的様式の新しくまた威嚇的な形態をうみだしてきている。ナチズムの信奉者たちは,権力を掌握する前の時代においては,苦労の多い生活を送っており,精力的であることをよしとする信念や,「人間はみずからを鍛えるべきだ 」(注:One should make oneself hard/ニーチェの超人思想)というニーチェの格言への信念,に服従して,安楽や目前の快楽の多くを犠牲にしていた。彼等が権力を獲得した後においても,「バターよりも大砲を」というスローガンは,なおも将来の勝利という精神的快楽 -- のために,感覚の快楽を犠牲にすることを含んでいた(意味していた/伴っていた)。そのような精神的快楽は,まさに,ミルトンの(『失楽園』の)悪魔が地獄の炎で苦しめられたときにみずからを慰めたものである。同じ心性(メンタリティ)は,熱心な共産主義者の間にも見出しうるもので,彼等にとって,贅沢は悪であり,はげしい労働が主要な義務であり,また,貧困が普遍的に存在することは至福千年(millennium)への手段なのである。禁欲主義と残忍性との結合は,キリスト教教義が柔軟化するにつれて消えさったわけではなく,キリスト教に敵対する新らしい形態をとるようになったのである。今もなお,同様な心性は強く存在する。(即ち)人間は聖者と罪人とにわけられ,聖者は、ナチスあるいは共産主義者の天国で祝福を受けることになっており、一方,罪人たちは粛清されてしまうか,強制収容所で人間が加えることができるような苦痛にさらされなければならない(といった心性である。)。もちろん,それは,全能なる神が地獄で課される(罪人に加えられる)と考えられた苦痛(責め苦)と比較すればまだましであるが,限りある力をもつ人間になしうることができる,最悪の苦痛(責め苦)である。また,聖者たちには,厳しい試練の期間があり,そのあとに,キリスト教の賛美歌が天上の歓喜について描写して言っているように,「勝利の叫び声,楽しき歌声・・・」が続くのである。
過去の歴史において(←関して)もっとも明白な(有害な信念の)事例は,人間の個人的な偏見に応じて宗教的あるいは迷信と呼べるような,いろいろな信念によって成り立っている。人間を生贄(いけにえ)として(神に)捧げれば収穫が増える,とかつて考えられていた。それは,最初は純粋に呪術的な理由のためであったが,その後,生贄の血が神々 -それは崇拝する人々が持つイメージで創られたものだが- を喜ばす,と考えられたからである。旧約聖書の中には,征服した民族を完全に絶滅させることが宗教的義務であり,彼等の(彼らの飼っている)牛や羊でさえ容赦することは神への不信心(不敬)になる,と書かれている。来世(あの世)における暗い恐怖(地獄の責め苦)や災難(という考え)は,エジプト人やエトルリア人(注:イタリア半島中部の先住民族)に圧迫感を与えていたが,そのような考えはキリスト教の勝利によって絶頂に達したのである(参考:キリスト教の地獄思想)。陰うつな聖者たちは,感覚的な快楽をすべてひかえ,砂漠の中に孤独に暮らし,肉や酒や女性と接触(交際)することを避けていたが,それにもかかわらず,あらゆる快楽をひかえることを義務付けられていたわけではなかった。(即ち)精神の快楽は肉体の快楽よりも優れたものと考えられ,異教徒や異端者に対し来世(あの世)で加えられる永遠の責め苦を冥想することは精神の快楽のうちで高い位置を与えられてた。禁欲主義が,感覚的なもの以外の快楽は無害だととしたのは,禁欲主義の欠点の一つであり,実際のところ,最善の快楽ばかりではなくまさに最悪の快楽もまた,純粋に精神的なもの(肉体的な要素がまったくないもの)なのである。ミルトンの描いた悪魔(ミルトン『失楽園』の中の悪魔)が,人間にどのような害悪を加えうるかを考えている時の悪魔の快楽を,検討してみよう。ミルトンはその悪魔に,次のように言わせている。
クルミの樹を鞭打つことによる道徳的効果について,私はまったく経験したことはない。しかし,文明人であるならば,この詩の妻に関するところを正当化する人は一人もいないであろう。罰による改善効果は,なかなか消えてなくならない信念であるが、その主な理由は,罰することがわれわれのサディズム的衝動を非常に満足させる,ということにある,と私は考える。
そういった信仰が、冷徹な科学によってすっかり置き換えられてしまえば、恐らく世界は、その興味のいくつかと多様性を失うことであろう(Pehaps + would)。もしかすると(Pehaps)、私達は、アブセダリアンズ(Abecedarians)のことを喜ぶことを自分自身に許してしまうかも知れない。彼らは、あらゆる冒涜的な(profane 神聖を汚す)学習を拒否し、ABCを学ぶのは邪悪であると考えたために、そう呼ばれたのである。そうして、私達は、ナマケモノがノアの洪水以後どうやってアララト山からペルーまでの旅 -大洪水以降、旅行は、移動の極度の遅延によってほとんど信じられないほどになった(はずである)- ができたのか疑問に思ったイエズス会士の当惑を楽しむかも知れない。
私は特に1820年頃、ニューヨーク州北部の湖畔に住んでいたある女予言者を称賛している。彼女は無数の信者達に向かって、自分は水の上を歩く力をもっていると宣言し、そうして、ある朝の11時に水の上を歩くことにしようと提案した(proposed to)。決められた時刻になると、信者達が何千人も湖畔に集まった。女予言者は信者達に話しかけ、次のように言った。「皆さんは、私が水の上を歩くことができると、本当に信じていますか?」。彼らは一斉に「はい、信じています」と答えた。「それなら」・・・「私が水の上を歩く必要はありません」と彼女は宣言した。そうして、彼らは皆大いに啓発されて帰宅した(とのことである)。
しかし、(話が)真面目になり過ぎつつある(ようである)。 迷信は、常に暗くて残忍なものであるわけではない。 迷信はしばしばが人生に陽気さをつけ加える(add to)。 私はかつて、(自称)オシリス神(注:the god Osiris 古代エジプトの死と復活の神で冥界の支配者)から連絡(a communication)を受けたことがあり、彼の電話番号が書かれていた。彼は当時ボストンの郊外に住んでいた。私は彼の崇拝者仲間に加わらなかったが(enroll myself)、彼の手紙は私に喜びを与えてくれた。私はしばしば自分はメシア(救世主)だと名乗る人達から手紙を受け取ってきているが、彼らはこの重要な事実(救世主であること)を私の講演のなかで言い忘れないようにと促していた。(米国で)禁酒法が施行されていた期間、聖餐式(the communion service)はブドウ酒(ワイン)ではなくウィスキーで祝福されるべきだと主張する一派(セクト)があった。この教義(tenet)は彼らに強い酒をふるまう法的権利を与え(注:信仰の自由!!)、この宗派は急速に成長した。イングランド(英国のイングランド)には英国人は(イスラエルの)失われた十支族だと主張する一派があり、またそれよりももっと厳格な宗派があり、彼らは英国人(の源流)はエフライム族とマナセ族にすぎないと主張する。これらのどちらかの派に属する人に出会うたびに、私は他方の信奉者のふりをする(profess myself)。すると、多くの面白い議論が生まれる。私はまた、大ピラミッドの神秘的な伝承を解読しようとして(deciphering its mystical lore)、大ピラミッドを研究する人達も好きである。この問題については 大著が多数執筆され、そのうちの何冊かは著者から私に贈呈されている(贈呈していただいている)。当該書籍は、大ピラミッドが常にその本が出版された日までの世界の歴史を正確に予言しているが、その本の出版以後(の世界の歴史)について)信頼性が低くなるというのは、特異な事実( a singular fact)である(訳注:著者は、その本の出版日までに起こったことは大ピラミッドの伝承とつじつまのある解釈を施すが、出版以後はそれがかなわなくなるという皮肉か?)。以後は信頼度が低くなる。 一般的に言って、(大ピラミッド本の)著者は、(大ピラミッドが建設されて)すぐに、エジプトに戦争が起こり、それに続いてアルマゲドン(注:新約聖書「ヨハネの黙示録」16章16節に記述された、終末に行われる善と悪の最終決戦)と反キリストの到来が続くと予想するが、この頃までに非常に多くの人々が反キリスト者として認識されてしまっているため、読者は不本意ながら懐疑主義に駆り立てられる(のである)。
集団的な恐怖(心)は群れの本能(群衆本能)を刺激する。そして、その群れの一員とみなされない人々に対する凶暴性(残忍さ)を生み出す傾向がある。フランス市民革命においても同様であり、革命時、外国の軍隊に対する恐怖(心)は、恐怖政治を生み出した(のである)。ソビエト政府は、(政権樹立後の)始めの数年間にあれほどの敵意に会わなければ、狂暴さはよりすくなっていたであろう。