第六番目(の先入見):これは(前述のことは)、私が当初持っていた先入見の最後のもの- これは私の思索においておそらく最も重要なものであり続けたもの- をもたらす。それは方法に関係しているものである。私の方法はいつも変わらず(invariably)、はっきりわからないが不可解なもの(something vague but puzzling)や、疑いの余地がないものと思われるが明確に言いあらわせないもの、から出発する。そして私は、あるるものを最初に裸眼で見てその後に顕微鏡で検査する(examine)いう手続き(process 手続き,手順)に似た手続きをとる。私は注意を集中することによって(by fixity of attention),当初見えなかったところに.分割や区別(divisions and distinctions 諸部分があることや差異があること)が見えてくる(appear 現れる)のを発見する。それはちょうど、顕微鏡なしでは識別できないバシラス綱 (Bacilli)を、顕微鏡を通して泥水の中に見ることができるようなものである。分析(という方法)を批難する人は多いが、汚水を見る場合と同様、分析が、既存の知識のいずれをも破壊することなく新たな知識を与えるということは明らかだ、と私には思われた(ずっと思ってきた)。これは、物理的対象の構造に対してだけでなく、概念を対象とする場合にも全く同様に適用できる。たとえば、通常使われている「知識」という語(言葉)は、非常に不正確な用語(言葉)であり、種々の異なるものを意味し、確実なものからわずかな蓋然性しかないものにいたるまでの諸段階をカバーしている(含んでいるということが、分析によって明らかになる)。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.7 Sixth.
This brings me to the last of my initial prejudices, which has been perhaps the most important in all my thinking. This is concerned with method. My method invariably is to start from something vague but puzzling, something which seems indubitable but which I cannot express with any precision. I go through a process which is like that of first seeing something with the naked eye and then examining it through a microscope. I find that by fixity of attention divisions and distinctions appear where none at first was visible, just as through a microscope you can see the bacilli in impure water which without the microscope are not discernible. There are many who decry analysis, but it has seemed to me evident, as in the case of the impure water, that analysis gives new knowledge without destroying any of the previously existing knowledge. This applies not only to the structure of physical things, but quite as much to concepts. ‘Knowledge’, for example, as commonly used is a very imprecise term covering a number of different things and a number of stages from certainty to slight probability.
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.6
五番目の先入見:1918年に私が気づいたことのひとつは、それまで「意味」の問題に、また一般的に言って、言語の問題に、自分が十分な注意を払っていなかった、ということであった。このとき(then 1918年に)初めて語ともの(things)との関係に関する多くの問題に気づいた。まず単語の分類の問題がある。(即ち)固有名詞、形容詞、関係語、接続詞、それから「全て(all)」とか「ある(some)」(とか言った語である)。次に、文の意味(the significance of sentences)とは何か、文が真と偽という二元性(duality)をもつにいたるのはいかにしてであるか、という問題がある。算術における形式主義者が存在し、彼らは、数が物を数えるために用いらなければならないとうことを熟考(without reflecting)せずに、ただ数と数とを加える(doing sums 合計を出す)ための規則を立てるだけで満足しているが(content to lay down)、ちょうどそれと同じく(just as ~ so)、言語一般というより広い領域にも、形式主義者が存在しており、真理とはある一定の規則に従うことであって事実に対応する(correspond with)ではない、と考えている、ということに私は気づいた(見出した)。多くの哲学者が真理の「対応説」(‘correspondence theory’ of truth)を批判するけれども、私には常に、論理学と数学において以外は、対応説以外のいかなる理論も正しいといえる見込みは全くない、と思われた。 私はまた、人間の知性と動物の知性との連続性を保持したいという私の欲求のひとつの帰結として、言語の重要性は、非常に大きいとしても、これまで過大視されて来ている、と(も)考えた。信念や知識は言語以前の形態をもっているのであり、このことがよく理解されていなければ信念も知識も正しく分析されえない(分析することはできない)、と私には思われた。 言語の問題に最初に関心を持ち始めた時、私はその困難さと複推さとにまったく理解していなかった。当初はそれらの問題(の本質)が何であるか十分知るこもなく、ただそれらは重要であるという感覚(感じ)のみを持っていた。そして(現在)この領域の完全な知識を持つにいたったなどと言うつもりはないが、いずれにせよ(ともかくも)私の考えは、次第に明瞭かつ明確になり(more articulated, more definite)、そこに含まれている問題を一層よく意識するにいたっている。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.6 Fifth. One of the things that I realized in 1918 was that I had not paid enough attention to ‘meaning’ and to linguistic problems generally. It was then that I began to be aware of the many problems concerned with the relation between words and things. There is first the classification of single words: proper names, adjectives, relation words, conjunctions and such words as ‘all’ and ‘some’. Then there is the question of the significance of sentences and how it comes about that they have the duality of truth and falsehood. I found that, just as there are formalists in arithmetic, who are content to lay down rules for doing sums without reflecting that numbers have to be used in counting, so there are formalists in the wider field of language in general who think that truth is a matter of following certain rules and not of correspondence with fact. Many philosophers speak critically of the ‘correspondence theory’ of truth, but it always seemed to me that, except in logic and mathematics, no other theory had any chance of being right. I thought, also, as a consequence of my desire to preserve continuity with animal intelligence, that the importance of language, great as it is, has been over-emphasized. It seemed to me that belief and knowledge have pre-verbal forms, and that they cannot be rightly analysed if this is not realized. When I first became interested in linguistic problems, I did not at all apprehend their difficulty and complexity. I had only the feeling that they were important, without at first knowing quite what they were. I do not pretend to have arrived at any completeness of knowledge in this sphere, but at any rate my thinking has gradually become more articulated, more definite, and more conscious of the problems involved.
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959. Z
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ラッセル『私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.5
第四(の先入見):これまで(先入見だと)考えてきたものとは反対の方向に働く(作用する)もうひとつ別の先入見(prejudice)も私は持っていた。また、今も持っている。この世界に存在するものに関するあらゆる知識は、それが知覚あるいは記憶によって知られる諸事実を直接に伝えるものでなければ、(いくつかの)前提から推論されなければならないが、その前提のうち少なくとも一つは知覚あるいは記憶を通して知られるものでなければならない、と私は考える。何らかの物の存在を証明する(ところの)、まったくアプリオリな何らかの方法があるとは、私は思わない。しかし、経験によって証明することはできないけれども受けいれられなければならない蓋然的な推論の諸形式が存在する、と私は(強く)考える。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.5
Fourth. I had, and have, another prejudice which works in the opposite direction from the one we have just been considering. I think that all knowledge as to what there is in the world, if it does not directly report facts known through perception or memory, must be inferred from premisses of which one, at least, is known by perception or memory. I do not think that there is any wholly a priori method of proving the existence of anything, but I do think that there are forms of probable inference which must be accepted although they cannot be proved by experience.
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959.
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.4
第三: 「経験」という概念は、特に観念論哲学において過大に強調されてきたが、多くの形の経験論においても同様に過大に強調されてきた、と感じている。私は、知識論(theory of knowledge = epistemology 認識論)について考えはじめたとき、「経験」を強調するいかなる哲学者も、「経験」という語(言葉)で何を意味しているかを語っていない,ということがわかった(found に気づいた)。彼らはその語を、込められた意味(significance)は明白であるが定義不可能な語として受け入れたがっているように思われる。彼ら(経験主義者)は、経験されるもののみが存在することが知られうる(知ることができる)のであり、また存在することを知らないけれども存在するものがあると主張することは無意味であると考える傾向がある。しかし、そういった見解(見方)は、知識に対して、あるいは少なくとも知識に類似したものに対して、あまりにも過大な(much too much)重要性を付与するものであると私は考える。またそういう見解を主張する人々は、そういう見解の全ての帰結(implications 含意及びその結果)を十分理解していないと私は考える。「全ての A は B である」とか「A の何かが存在する(?)」とかいう形の命題を、A のひとつの例も個別的に知ることなしに、我々は知りうるということ(の意味合い)を理解している哲学者はほとんどいないように思われる。しかし、小石の多い海岸にゆけば、そこには自分が見たり触れたりしたこともない多くの小石があることは確かであろう。実際、あらゆる人が(自らが)経験したことがない事物についての無数の命題を受けいれているが、人々が哲学的に思索し始めると(begin to philosophize)、人為的に(わざと)自ら馬鹿になることが必要だと考えているように思われる。経験を超えた知識をいかにしてわれわれは獲得するかを説明するには多くの困難があることを、私はただちに(at once)承認するが、しかしそういう知識を我々が持たない(持てない)という見解は、まったく支持できないものであると私は考える。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.4 Third. I feel that the concept of ‘experience’ has been very much over-emphasized, especially in the Idealist philosophy, but also in many forms of empiricism. I found, when I began to think about theory of knowledge, that none of the philosophers who emphasize ‘experience’ tells us what they mean by the word. They seem willing to accept it as an indefinable of which the significance should be obvious. They tend to think that only what is experienced can be known to exist and that it is meaningless to assert that some things exist although we do not know them to exist. I think that this sort of view gives much too much importance to knowledge, or at any rate to something analogous to knowledge. I think also that those who profess such views have not realized all their implications. Few philosophers seem to understand that one may know a proposition of the form ‘All A is B’ or ‘There are A’s’ without knowing any single A individually. If you are on a pebbly beach you may be quite sure that there are pebbles on the beach that you have not seen or touched. Everybody, in fact, accepts innumerable propositions about things not experienced, but when people begin to philosophize they seem to think it necessary to make themselves artificially stupid. I will admit at once that there are difficulties in explaining how we acquire knowledge that transcends experience, but I think the view that we have no such knowledge is utterly untenable.
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959.
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私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.3
第二(の先入見)。行動主義の方法を支持する(in favor of 賛成する)先入見に加えて、可能な場合には常に物理学の言葉(用語)で説明することを支持する、もうひとつの先入見があった。宇宙的観点から見れば、生命や経験は、因果的には(causally)大した重要性をもたない、という深い確信を私はずっと抱いて来た(訳注:個々の生命や経験は宇宙に対してまったくといってよいほど影響を与えない、ということ)。天文学の世界は私の想像を支配しており(支配的な影響を与えており)、我々の(住んでいる)惑星(注:地球は恒星である太陽のまわりを回っている惑星)は諸銀河系と比較すればまったくもってちっぽけなものだということを、私は強く意識している。私は F. ラムジーの『数学の基礎』の中に、私が感じないことを述べている一節を見つけた。それは次のとおりである。 「私と幾人かの私の友人とが違っていると思われるところは、私が物理的な大きさというものをほとんど重要だとは考えないということである。天空の巨大さを前にして、私は自分の卑小さをまったく感じない。星々は大きいかも知れないが、それらは考えたり愛したりできない。そうして、考えたり愛したりすることこそ、大きさよりもはるかに強い感銘を私に与える特性(qualities)である。私の体重が100kg近くもあるからといって、それが私の価値になるとはまったく思わない。」(訳注:stone 体重測定用の単位として使われているもので、one stone は14ポンド(約6.35kg)。したがって seventeen stone は約100kg。) 「私の世界像は、遠近法によって描かれており、それは一定の縮尺に従って作られた模型(model to scale)には似ていない。(私の世界像の)前景は人間によって占められ、星々は全て3ペニー硬貨(threepenny bit 旧3ペンス硬貨=銀貨)のように小さい。私は天文学を真実なものだと信じない。それは、人間の有するところの、またおそらくは動物ももつところの、感覚(作用)の過程の一部の、複雑な記述である、と思うだけである(except)。私はこの遠近法を、空間だけでなく時間にも適用する。いずれ(in time やがて)世界は冷えて万物は死滅するであろうが、それはまだずいぶん先のことである。そうして、そういう未来に起るべき事実が現在においてもつ価値は、複利法で割引きして考えると(at compound discount 先であればあるほど現時点での価値が低くなる、つまり複利で計算すると・・・といった意味合い)、ほとんど無に等しい。さらに、未来が空白(blank まったくわからない)であるだろうからといって、それだけ現在の価値が減ずるわけでもない。人類(humanity)は私の世界像の前景を満たしており、私は人類に興味をもっており、そうして、全体として見て、称賛にあたいするものである。」 感情(の良し悪し)について議論しても仕方がない(注:ラッセルとラムジーの感情のどちらがよいかと論じても仕方がない)。また、私は自分の感じ方がラムジーの感じ方よりすぐれていると一瞬たりとも考えたことがあると言うつもりはないが( I do not pretend for a moment )、ラムジーの感じ方は私の感じ方とはひどくかけはなれている。私は人類と人類の多くの愚行とを沈思黙考して満足を感ずることはほとんどない。私は、成吉思汗(ジンギスカン)のことを考えるよりもアンドロメダ星雲のことを考える方が、私はより楽しい。私はカントのように(人間社会の)道徳法を星空と同列に置くことはできない(on the same plane 同一の平面に)。「観念論」と名のる哲学の底にひそんでいるところの、宇宙を人間化しようとする試みは、それが真であるか偽であるかの問いとは全く独立に、私にとって不愉快である。世界はヘーゲルの多くの時間と労力(lucubrations)から生まれた、またヘーゲルの天体のプロトタイプから生れた、などとは思いたくない(訳注:ヘーゲルの大学教授就職のための論文『惑星の軌道についての哲学的論稿』(Dissertatio Philosophica de Orbitis planetarum,1801) について言っていると思われるが詳細不明。この中でヘーゲルは、ニュートンの重力論を非難しているらしい)。いかなる経験的な問題(empirical subject-matter)においても、私は、完全な確信をもってではないが、我々にとって重要な因果法則も、理解を完全にすれば、物理学の因果法則に還元されるであろう、と期待する。ただし、問題がきわめて複雑である場合は、そういう還元を実際上実行可能であるかどうかは疑わしい。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.3
Second. Along with the prejudice in favour of behaviourist methods there went another prejudice in favour of explanations in terms of physics wherever possible. I have always been deeply persuaded that, from a cosmic point of view, life and experience are causally of little importance. The world of astronomy dominates my imagination and I am very conscious of the minuteness of our planet in comparison with the systems of galaxies. I found in Ramsey’s Foundations of Mathematics a passage expressing what I do not feel: ‘Where I seem to differ from some of my friends is in attaching little importance to physical size. I don’t feel the least humble before the vastness of the heavens. The stars may be large, but they cannot think or love; and these are qualities which impress me far more than size does. I take no credit for weighing nearly seventeen stone. ‘My picture of the world is drawn in perspective, and not like a model to scale, the foreground is occupied by human beings and the stars are all as small as three penny bits. I don’t really believe in astronomy, except as a complicated description of part of the course of human and possibly animal sensation. I apply my perspective not merely to space but also to time. In time the world will cool and everything will die ; but that is a long time off still, and its present value at compound discount is almost nothing. Nor is the present less valuable because the future will be blank. Humanity, which fills the foreground of my picture, I find interesting and on the whole admirable.’ There is no arguing about feelings, and I do not pretend for a moment that my way of feeling is better than Ramsey’s, but it is vastly different. I find little satisfaction in contemplating the human race and its follies. I am happier thinking about the nebula in Andromeda than thinking about Genghis Khan. I cannot, like Kant, put the moral law on the same plane as the starry heavens. The attempt to humanize the cosmos, which underlies the philosophy that calls itself ‘Idealism’, is displeasing to me quite independently of the question whether it is true or false. I have no wish to think that the world results from the lucubrations of Hegel or even of his Celestial Prototype. In any empirical subject-matter I expect, though without complete confidence, that a thorough understanding will reduce the more important causal laws to those of physics, but where the matter is very complex, I doubt the practical feasibility of the reduction. Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959. More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_11-030.HTM
ラッセル『私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.2
この研究(知識論の研究)の当初、私は定まった確信は何ももっておらず、ただいくつかの格率(注:maxims たとえばオッカムのカミソリなど)と先入見(注:prejudices 悪い意味での「偏見」ではなく、誰もが抱かないわけにはいかない先入見/先入観のこと)とを持っていたにすぎない。私は(主題に関連する)多くの本を読んだ。しかし結局のところ、(私が)『数学の諸原理』(1903年出版)を執筆する前に読んだ本の時( に思った)と同様、読んだ本の大部分は私の目的には無関係なものだということがわかった(気づいた)。 私が当初から持っていた先入見の中で特に重要なものとして以下の6つを列挙しておかなければならない。 その第一。(即ち)動物の心と人間の心との間の連続性を強調することが望ましいと私には思われた(注:人間の心はチンパンジーなどの動物の心とはまったく異なったものだという先入見はもたないでおこうという気持ち)。動物の行動を主知主義(者)的な観点で解釈することへの反対は普通のことであると気づいており、そういう反対に私も全体としては同意していた(注:Intellectualist interpretations:主知主義・知性主義者の観点での解釈。主知主義とは、「知性・理性」「意志・気概」「感情・欲望」に三分割する見方の中で、知性・理性の働きを重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場。因みに、野田氏は「動物の行動を知的に解釈すること」と訳出/動物を人間よりに見るのはよくないが、人間を動物夜寄りに見た方がより有効だとラッセルは考えている)。しかし、動物の行動を解釈するにあたって採られる方法は、人間において「思考されたもの(thought 思想)」や「知識」や「推論」とみなされるところのものを解釈するにあたっても、通常認められているよりもずっと広い適用囲を持っていると私は考えた。こういった先入観を持っていたので、私は動物心理学の本を大量に読んだ。そうして -いくらか面白いことに- この分野には二つの学派があり、、それぞれの最も有力な代表者はアメリカのソーンダイク(注:Edward L. Thorndike, 1874-1949:アメリカの心理学者・教育学者でコロンビア大学教授/試行錯誤学習説で有名)とドイツのケーラー(注:W. Kohler, 1887-1967:、ドイツの心理学者で、ゲシュタルト心理学の創始者として有名)- であることを知った。動物たちは常に、動物たちを観察する人々が享受する哲学の正しさを示すように、行動する(かの)ように思われた。(devastating 何もかも台なしにしてしまうような)この破壊的な発見は、さらに広い範囲に適用される(hold over)。(即ち)17世紀において、動物たちは狂暴であったが、その後ルソーの影響のもと、ピーコック(注:Thomas Love Peacock, 1785-1866:イングランドの風刺小説家)がオランオトン卿(注:ピーコックが1817年に出版した2冊目の小説 Melincourt のなかの登場人物。この小説で、イングランド議会の議員候補として Sir Oran Haut-Ton という名のオランウータンが立候補する。)においてからかった「気高い野蛮人(the Noble Savage)」の崇拝を、動物たちは例示し始めた(例示となるように小説の中で行動した)。ビクトリア女王の統治期間はずっと、全ての猿は道徳的な一夫一婦主義者(猿)であったが、自堕落な1920年代には猿たちの道徳は破滅的な悪化を蒙った(ということらしい)。けれども、動物の行動のこの側面については、私の関心事項ではなかった。私が関心を持ったのは、動物の学習方法についての観察であった。アメリカ人の観察する動物は気が狂ったように走りまわり、偶然に解決につきあたる。ドイツ人の観察する動物は正座し頭をかきむしり、(ついには)彼らの内的意識から解決法を展開する(といったしだいである)。私は、どちらの観察結果も十分信頼できるものであり、動物のなすところは我々が動物に課する問題の種類に依存する、と信ずる。この問題について私が(関連文献の)読書で得た正味の結果は、いかなる理論でも、観察が確証した理論の範囲をこえて拡張させることにきわめて慎重にさせたことであった( make me very wary of )。 正確な実験的知識が相当多量に存在するびとつの領域(region)があった。それは犬の条件反射についてのパブロフの観察の領域であった。これらの実験は、行動主義(Behaviourism)という、かなり流行した哲学(行動主義哲学)を生み出した。この哲学の要点(gist)は、心理学においては全て外部観察(外部からの観察)に信頼を置くべきであり、その証拠がもっぱら内観に由来するいかなる事実を決して受け入れてはならないということである。私は哲学としてこの見解を受けいれたいという気をまったく起きなかったが、しかし、追求すべき一つの方法として、その価値があると感じた。この方法はきわめて明確な限界をもつことを信じつつも(while)それをできるかぎり広い範囲に適用して見ようと、私はあらかじめ(in advance)心に決めた。
Chapter 11 The Theory of Knowledge, n.2
At the beginning of this work I had no fixed convictions, but only a certain store of maxims and prejudices. I read widely and found, in the end, as I had with the reading that preceded the Principles of Mathematics, that a great part of what I had read was irrelevant to my purposes. Among the prejudices with which I had started, I should enumerate six as specially important: First. It seemed to me desirable to emphasize the continuity between animal and human minds. I found it common to protest against intellectualist interpretations of animal behaviour, and with these protests I was in broad agreement, but I thought that the methods adopted in interpreting animal behaviour have much more scope than is usually admitted in interpreting what in human beings would be regarded as ‘thought’ or ‘knowledge’ or ‘inference’. This preconception led me to read a great deal of animal psychology. I found, somewhat to my amusement, that there were two schools in this field, of whom the most important representatives were Thorndike, in America, and Kohler in Germany. It seemed that animals always behave in a manner showing the rightness of the philosophy entertained by the man who observes them. This devastating discovery holds over a wider field. In the seventeenth century, animals were ferocious, but under the influence of Rousseau they began to exemplify the cult of the Noble Savage which Peacock makes fun of in Sir Oran Haut-ton. Throughout the reign of Queen Victoria all apes were virtuous monogamists, but during the dissolute ‘twenties their morals underwent a disastrous deterioration. This aspect of animal behaviour, however, did not concern me. What concerned me were the observations on how animals learn. Animals observed by Americans rush about frantically until they hit upon the solution by chance. Animals observed by Germans sit still and scratch their heads until they evolve the solution out of their inner consciousness. I believe both sets of observations to be entirely reliable, and that what an animal will do depends upon the kind of problem that you set before it. The net result of my reading in this subject was to make me very wary of extending any theory beyond the region within which observation had confirmed it. There was one region where there was a very considerable body of precise experimental knowledge. It was the region of Pavlov’s observations on conditioned reflexes in dogs. These experiments led to a philosophy called Behaviourism which had a considerable vogue. The gist of this philosophy is that in psychology we are to rely wholly upon external observations and never to accept data for which the evidence is entirely derived from introspection. As a philosophy, I never felt any inclination to accept this view, but, as a method to be pursued as far as possible, I thought it valuable. I determined in advance that I would push it as far as possible while remaining persuaded that it had very definite limits.
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959.
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第11章 知識の理論 n.1
1914年8月から1917年の終りまで、私は自分が戦争に反対したことから生じた諸問題に没頭していたが(右写真:ラッセルが入っていたブリクストン監獄)、1918年始めには、平和主義者として有益にできる仕事はこれ以上(まったく)ないと信ずるようになっていた。以前に執筆することを約束していた『自由への道』と名付けられた本をできるだけ早く書き上げたが、それが私の手を離れると、私はふたたび哲学の問題の仕事(研究)を始めた。私は、前章の中で、私が刑務所に入る直前に書き終えた、論理的原子論についての講演(の内容)について取り扱った。刑務所の中で、私は J. デューイに対する攻撃的な批評(a polemical criticism)を書き、ついで『数理哲学入門』を書いた。その後、私の考えは、知識論(知識の理論)と知識論に関係のありそうに思われた心理学や言語学の(関係する)諸部分とに向っていた(向かっていることに気づいた。これは、私の哲学的関心におけるいくらか永続的な変化であった。その結果は、私自身の考えだけについていえば、次の3冊の書物に示されている。即ち、『精神の分析』(1921年)。『意味と真理の探究』(1940年)。『人間の知識、その範囲と限界』(1948年)。
Chapter 11 Theory of Knowledge, n.1
From August 1914 until the end of 1917 I was wholly occupied with matters arising out of my opposition to the war, but by the beginning of 1918 I had become persuaded that there was no further pacifist work that I could usefully do. I wrote as quickly as I could a book, which I had contracted to produce, called Roads to Freedom, but when that was out of the way I began again to work at philosophical subjects. I have dealt in the preceding chapter with the lectures on Logical Atomism which I finished just before going to prison. In prison, I wrote first a polemical criticism of Dewey and then the Introduction to Mathematical Philosophy. After this I found my thoughts turning to theory of knowledge and to those parts of psychology and of linguistics which seemed relevant to that subject. This was a more or less permanent change in my philosophical interests. The outcome, so far as my own thinking was concerned, is embodied in three books: The Analysis of Mind (l92l); An Inquiry into Meaning and Truth (1940); Human Knowledge: Its Scope and Limits (1948).
Source: My Philosophical Development, chap. 11:1959.
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第10章 「ヴィトゲンシュタインの衝撃」 n.24
ラムジーがウィトゲンシュタインの弟子として執筆し、(ウィトゲンシュタインの)神秘主義(的側面)以外の全てにおいてウィトゲンシュタインに従っているが、彼(ラムジー)が諸問題に立ち向かうやり方はウィトゲンシュタインとは驚くほど異なっている。ウィトゲンシュタインは短い警句(aphorisms)を述べ、読者がそれらの警句の深遠さを各自が可能な限り推定評価する(estimate)ことに任せる)。彼の警句のなかには、文字通りにとると、記号論理学の存在とほとんど両立できないものがある。ラムジーは、逆に -最大限ウィトゲンシュタインに従う時でさえ- 関係する学説が何であろうと、それを数学的論理学の体系に組み入れることができるかを示そうと注意を払った。 数学的論理学の基礎に関しては、(現在)多量かつとても難解な文献が存在している。しかし私は、一九二五年の『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』第二版以降、これはというような(definitely )論理学上の仕事をしていない。ただし『意味と真理の研究』における外延性の原理や原子性の原理や排中律の原理(principle of excluded middle)に関する仕事は別である。従って、数学的論理学についてのその後の研究は、私の哲学の発展には影響しなかった(影響していない)。それゆえ、そういう研究は、本書の範囲外である。
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.24 Although he writes as a disciple of Wittgenstein and follows him in everything except mysticism, the way in which he approaches problems is extraordinarily different. Wittgenstein announces aphorisms and leaves the reader to estimate their profundity as best he may. Some of his aphorisms, taken literally, are scarcely compatible with the existence of symbolic logic. Ramsey, on the contrary, is careful, even when he follows Wittgenstein most closely, to show how whatever doctrine is concerned can be fitted into the corpus of mathematical logic. There is a large and very abstruse literature on the foundations of mathematical logic. I have done no definitely logical work since the second edition of the Principia in 1925, except the discussion of the principles of extensionality and atomicity and excluded middle in the Inquiry into Meaning and Truth. Consequently, the later work on this subject has not affected my philosophical development and therefore lies outside the scope of the present volume.
Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第10章 「ヴィトゲンシュタインの衝撃」 n.23
ラムジーの仕事(work)が決定的に正しいと認められるべきだと私には思われるところの、もうひとつの問題がある。私は様々な論理的矛盾を列挙した。即ち、「私は嘘をついている」という者によって例示される集合(に関わる論理的矛盾)、最大の基数が存在するかどうかという問題によって例証される集合(に関わる論理的矛盾)などである。ラムジーは、前者は、語あるいは句とそれらの意味との関係に関わる論理的矛盾であり、これらの二つのものの混同から生ずる、ということを示した。この混同が回避されると、この種の論理的矛盾は消滅する。もう一方(後者の)の論理的矛盾は、ラムジーは、ただ「型の学説(the doctrine of types)」によってのみ解決されるという考えている(考えていた)。『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』においては、型(タイプ)の二つの異なる種類の階層が存在していた。(即ち)(まず)外延的な型の階層があり、それは個物、個物の集合、個物の集合の集合等々である。ラムジーはこの階層を保持している。しかし、もう一つの階層も存在しており、これが還元公理を必要とさせた(他の/別の)階層であった。これは、所与の独立変数(augument)の関数の階層、あるいは(言い換えれば)所与の対象の諸属性の階層であった。まず(諸)関数の全体に言及しない述語的関数があり、次に(たとえば)「ナポレオンは偉大な将軍のもつあらゆる性質をもっていた」というような、述語的関数の全体に言及する関数があった。これらを「第一次の関数」と言ってよいであろう。それから、この第一次の関数の全体に言及する関数があり、その他、際限なく進む(ad infinitum)。ラムジーはこの(後者)を「命題関数」という概念についての彼の新たな解釈によって廃棄し、そうして、外延的階層のみが残されている。私は彼のこの理論は妥当であると思う(妥当であることを願っている)。
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.23
There is another matter on which Ramsey’s work should, I think, be accepted as definitely right. I had enumerated various contradictions, one class of which is exemplified by the man who says ‘I am lying’, while the other class is illustrated by the problem as to whether there is a greatest cardinal number. Ramsey showed that the former class has to do with the relation of a word or phrase to its meaning and results from a confusion of these two. When this confusion is avoided, contradictions of this class disappear. The other class of contradictions, Ramsey holds, can only be solved by means of the doctrine of types. In the Principia there were two different kinds of hierarchies of types. There was the extensional hierarchy: individuals, classes of individuals, classes of classes of individuals, and so on. This hierarchy Ramsey retains. But there was also another hierarchy, and it was this other that necessitated the axiom of reducibility. This was the hierarchy of functions of a given argument or properties of a given object. There were first predicative functions, which did not refer to any totality of functions; next, there were functions referring to the totality of predicative functions such as, ‘Napoleon had all the qualities of a great general’. These we might call ‘first order functions’. Then there were functions referring to the totality of first order functions, and so on, ad infinitum, Ramsey abolishes this hierarchy by means of his new interpretation of the concept ‘propositional function’, and is thus left with only the extensional hierarchy. I hope his theories are valid.
Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_10-230.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第10章 「ヴィトゲンシュタインの衝撃」 n.22
「命題関数」の概念に関するラムジーの新しい解釈が妥当であるかどうか(validity)について、自分の考えをはっきりせせることは大変難しい、と私は思っている(感じている)。私は、諸存在(entities)を命題に全く恣意的に対応(相関)させることでは不十分だ、と感ずる。たとえば「fxは x のあらゆる値に対して真である」から fa にいたる推論をとって見よう。fx なる概念についてのラムジーの説明からは、fa がなんでありうるかを我々は語ることはできない。反対に(逆に)、我々は が何を意味するかを知る前に、fa、’fb、fc 等々について、全宇宙を通して、知らなければならない。かくして(thus このようにして,従って)一般命題の主張は、個々の事例の全てを枚挙することによってのみ述べることができることから、一般命題はその存在理由を失う(ことになる)。(しかし)こういう反論にもかかわらず(Whatever may be thought of)、ラムジーの提案は、あきらかに独創的なものであり(certainly ingenious)、諸困難を完全な解決ではないにしても、多分正しい方向であろう。ラムジー自身もいろいろな疑問を抱いていた。彼はこう言った。「ホワイトヘッドとラッセルの見解について私が試みた再構築は、困難(問題)の多くを克服すると私は考えているが、それを全く満足すべきものだと考えることは不可能である。」(『数学的論理学』p.81)
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.22
I find it very difficult to make up my mind as to the validity of Ramsey’s new interpretation of the concept ‘propositional function’. I feel that a correlation of entities to propositions which is wholly arbitrary is unsatisfactory. Take, for example, the inference from ‘fx is true for all values of x’ to ‘fa’. With Ramsey’s explanation of the concept fx we cannot tell what fa may be. On the contrary, before we can know what ‘fx’ means, we have to know ‘fa’ and ‘fb’ and ‘fc’ and so on, throughout the whole universe. General propositions thus lose their raison d’ëtre since what they assert can only be set forth by enumeration of all the separate cases. Whatever may be thought of this objection, Ramsey’s suggestion is certainly ingenious, and, if not a complete solution of the difficulties, is probably on the right lines. Ramsey himself had doubts. He said, ‘Although my attempted reconstruction of the view of Whitehead and Russell overcomes, I think, many of the difficulties, it is impossible to regard it as altogether satisfactory’ (Mathematical Logic, page 81 ).
Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_10-220.HTM