公平(正義)を遊びを通して子供に教えること

 一度に一人しか楽しめないような遊び,たとえば,手押し一輪車に乗るというような遊び,のために争うような場合には,子供たちは,公平(正義)ということを容易に理解することがわかるだろう。子供の衝動は,もちろん,他の子供を押しのけて自分だけ楽しむことを要求するものである。しかし,おとなが,かわりばんこ(に遊ぶ)制度をもうけてやると,この衝動がいかに速く克服されるか,驚くほどである。私は,公平の感覚が生得的なものであるとは信じないが,それがどんなに速く創りだされるか(育まれるか)かを知り,驚いている。もちろん,それは,本物の公平でなければならない。いかなる内密の偏りがあってはならない。もし,あなたがある子供を特に好きであるとすれば,愛情が楽しみ(娯楽)の分配に影響を与えないように,用心しなければならない。おもちゃは平等に与えるべきだというのは,むろん,広く認められている原則である。

公平への要求を,道徳的な躾けでうまく対処しようとしても,まったく無益である。-公平以上のもの(ルール)を与える必要はないが,子供が公平でないことを受け入れること(不公平を甘受すること)を期待してはいけない(注:岩波文庫版の安藤訳では「公平以上のものを与える必要はないが,子供は公平などを求めないと考えてはいけない」となっているがずれているのではないか?)

Where there is competition for a pleasure which can only be enjoyed by one at a time, such as a ride in a wheelbarrow, it will be found that the children readily understand justice. Their impulse, of course, is to demand the pleasure for themselves to the exclusion of the others, but it is surprising how quickly this impulse is overcome when the grown-ups institute the system of a turn for each. I do not believe that a sense of justice is innate, but I have been astonished to see how quickly it can be created. Of course, it must be real justice ; there must not be any secret bias. If you are fonder of some of the children than of others, you must be on your guard to prevent your affections from having any influence on your distribution of pleasures. It is, of course, a generally recognized principle that toys must be equal.
It is quite useless to attempt to cope with the demand for justice by any kind of moral training. Do not give more than justice, but do not expect the child to accept less.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-030.HTM

<寸言>
 だから同じ年齢の子供と遊ぶことは重要。年齢が違う子供といつも遊んでいると、力関係で譲られたり、譲ったりすることが多くなり、平等の立場で調整する精神が育たない。

社会的に無害な唯一の私有財産の源泉-不労所得ではなく・・・

 多くの美徳の第一歩は,建設的な喜び経験することから生じる子供が自分の作ったものを壊さないでおいてほしいと頼むとき,他の人が作ったものを壊してはいけないということを,子どもに容易に理解させることができる。このようにして,労働から生み出されたもの - 即ち,社会的に無害な唯一の私有財産の源泉 - を敬う心を育てることができる。同時に,子供に忍耐・根気・観察への刺激も与えることになる。こういう性質がなければ,子供は,自分の(積み木の)塔を,心に決めていた高さに積み上げることに成功しないであろう。子供と遊ぶときには,子供の野心を十分に刺激し,どのようにすればよいかを示すために,まず(親が)自分で作ってみせるだけでよい。その後は,建設は子供みずからの努力にまかせなければならない。

The first beginnings of many virtues arise out of experiencing the joys of construction. When a child begs you to leave his constructions undestroyed, you can easily make him understand that he must not destroy other people’s. In this way you can create respect for the produce of labour, the only socially innocuous source of private property. You also give the child an incentive to patience, persistence and observation; without these qualities, he will not succeed in building his tower to the height upon which he had set his heart. In play with children, you should only construct yourself sufficiently to stimulate ambition and to show how the thing is done; after that, construction should be left to their own efforts.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-030.HTM

<寸言>
努力して得たものに対しては誰も非難したり,奪い取ったりすることも少ない。しかし、不労所得やあくどいやり方や地位を利用して不当に得たものに対しては人(国民など)は非難し、剥奪しようとする。しかし、現代においては国民の財産をかすめとる巧妙な方法を考えつく「利口な人」がけっこういて、「現行の」法の抜け穴を利用して、合法的な搾取が行われている。

危険に対する合理的な理解は必要だが,「蛮勇」も「恐怖心」もどちらも不要

 息子は今では(彼は三歳九ケ月であるが)6フィートの高さから躊躇なく飛び降りるし,放っておけば20フィートの高さ(注:約6メートル/因みに1フィートは約30センチ)からでも飛びおりることだろう。このようにして,危険性を把握することを教えたことは,確かに,行きすぎた結果をもたらすことはなかった。それは,暗示によるのではなく,知識を授けたためだ,と私は考えている。
知識を授けている時,私も息子も恐怖を感じていなかった。このことは,教育上非常に重要であると考える。危険に対して合理的な理解は必要である。(しかし)恐怖心は必要ではない。子供は,恐怖の要素がいくらかないと危険を把握することができない。しかし,教える側にこの要素が存在しない場合は,恐怖心という要素を大幅に減らすことができる。子供の世話をしている大人は,決して恐怖心を感じてはいけない。女性も,男性と同様に勇気を養わなければいけない一つの理由は,ここにある。

He now (three years and nine months) jumps from heights of six feet without hesitation, and would jump twenty feet if we would let him. Thus the instruction in apprehension certainly did not produce excessive results. I attribute this to the fact that it was instruction, not suggestion ; neither of us was feeling fear when the instruction wag given. I regard this as very important in education. Rational apprehension of dangers is necessary ; fear is not. A child cannot apprehend dangers without some element of fear, but this element is very much diminished when it is not present in the instructor. A grown-up person in charge of a child should never feel fear. That is one reason why courage should be cultivated in women just as much as in men.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-050.HTM

<寸言>
つまり,母親の臆病さや恐怖心は幼い子供に伝染することから,勇気は男性だけでなく女性にも必要である。
 危険に対する合理的な理解を持つことと恐怖心を持つことは同じではなく,過度な恐怖心を持つことは望ましくない。「蛮勇」を「勇気(があること)」と混同する人が少なくない。

未知のもの,見慣れないものは不安や希望を与える

 息子を怯えさせた影は,通りを通り過ぎた見えない対象物(たとえばバスなど)によって部屋の中に投げかけられた,ぼんやりした,迅速に動くであった。私は,自分の指で壁や床の上に影を作ってみせ,息子にも私のまねをさせて,彼の恐怖心を治してあげた。まもなく息子,影というものを理解したように感じて,影を面白がるようになった。同じ原理が,機械じかけのおもちゃにもあてはまった。息子は,仕組み(メカニズム)を理解すると,もう怖がらなくなった。しかし,仕組みが目に見えない場合は,慣れるのに時間がかかった。(たとえば)息子は,その上に座ったり押えたりすると,陰気な音が長く出るクッションを誰かにもらったことがあった。このクッションは,長いこと彼をビクビクさせた。私たちは,この息子を怖がらせるものを完全に撤去するようなことは,断じてしなかった。私たちは,それをやや離れたところに置いた。そこなら,少し怖いだけであった。このようにして,しだいに慣れるようにした。そして,恐怖心がまったくなくなるまで続けた。一般的に,最初は恐怖心を起こさせる神秘的な性質も,恐怖心が克服されれば,喜びを生み出すものとなった。私の考えでは,合理的でない恐怖心(恐れる客観的な理由のないもの)は,決してただ放っておくべきではなく,弱い形でそれに慣れるようにして,しだいに克服しなければならない。

The shadows that frightened him were vague, quickly-moving shadows thrown into a room by unseen objects (such as omnibuses) passing in the street. I cured him by making shadows on the wall and the floor with my fingers, and getting him to imitate me; before long, he felt that he understood shadows and began to enjoy them. The same principle applied to mechanical toys ; when he had seen the mechanism he was no longer frightened. But when the mechanism was invisible the process was slow. Someone gave him a cushion which emitted a long melancholy whine after being sat upon or pressed. This alarmed him for a long time. In no case did we entirely remove the terrifying object: we put it at a distance, where it was only slightly alarming ; we produced gradual familiarity, and we persisted till the fear completely ceased. Generally the same mysterious quality which caused fear at first produced delight when the fear had been overcome. I think an irrational fear should never be simply let alone, but should be gradually overcome by familiarity with its fainter forms.
* whine (名):すすり泣きの声;ヒューという音
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-040.HTM

<寸言>
恐れる合理的な理由がないものに対する恐怖心は、幼いころから徹底的に除去すべき。

「本能」といっても,生まれてすぐに現れるとは限らず・・・

 生後2年目及び3年目には,新しい恐怖心が出てくる。こういった恐怖心がどこまで暗示によるものか,どこまで本能によるものかは,議論の余地のある問題である。生後一年目に恐怖心が存在しないとしても,そのことは,恐怖心は本能的なものではないという決定的な証拠にはならない。なぜなら,本能は何歳のときに成熟するかも知れないからである。最も極端なフロイト主義者でさえ,性本能は生まれたときから成熟していると主張する者はいないであろう。

During the second and third year, new fears develop. It is a moot point how far this is due to suggestion, and how far it is instinctive. The fact that the fears do not exist during the first year is not conclusive against their instinctive character, since an instinct may ripen at any age. Not even the most extreme Freudian would maintain that the sex-instinct is mature at birth.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-020.HTM

<寸言>
ある性質が遺伝や本能によるものか,あるいは、生まれた後の環境や躾や教育によるものか、よくわからないものがある。通常、その両方の影響だとする場合が多いが、それならどちらの要素が強いかで、人の意見は様々となる。

ペットのように子どもをかわいがってはいけない!

 以上を要約しよう。生まれたばかりの赤ん坊でも,将来この世でしかるべき位置を占める人間として,尊敬をもって扱おう。あなたの現在の都合のために,あるいは,赤ん坊を甘やかして楽しむために,赤ん坊の未来を犠牲にしてはならない。どちらも,負けず劣らず有害である。他の場合と同様,この場合も,正しいやり方に従おうとするのであれば,愛情と知識の結びつき(組み合わせ)が不可欠である。

To sum up: Treat even the youngest baby with respect, as a person who will have to take his place in the world. Do not sacrifice his future to your present convenience, or to your pleasure in making much of him : the one is as harmful as the other. Here, as elsewhere, a combination of love and knowledge is necessary if the right way is to be followed.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-080.HTM

<寸言>
ペットとして動物のように可愛がるのも,稚すぎる頃から厳しく独立した個人として躾けるのも、どちらも好ましくない。

子どもの躾や教育のための武器としての「飴と鞭」

 生後二,三ケ月頃,赤ん坊(親の表情をまねして)微笑むようになり,また,物に対する感情とは異なった感情を人間に対して持つようになる。この時期に,母と子(赤ん坊)の間に社会的な関係が可能になりはじめる。即ち,赤ん坊は,母親を見ると喜びを表すことができ、また、実際に喜びを表し,単に動物的ではないいろいろな反応を発達させる。すぐに,褒められたり認められたりしたいという欲望が発達する。私の息子(注:1921年に生まれたラッセルの初めての子どもジョン)の場合,その欲望は,生後五ケ月の時,初めてはっきりと示された。彼はいろいろ試みたあげく,テーブルからいくらか重い鈴を持ち上げ,それを鳴らしながら,得意そうな微笑みを浮かべて,みんなの顔を見回したのである。この瞬間から,教育者は,新しい武器を手にしたことになる。即ち,褒めること(注:飴)と,叱ること(注:鞭)である。

At about the age of two to three months, the child leans to smile, and to have feelings about persons which are different from its feelings about things. At this age a social relation between mother and child begins to be possible : the child can and does show pleasure at the sight of the mother, and develops responses which are not merely animal. Very soon a desire for praise and approval grows up; in my own boy, it was first shown unmistakably at the age of five months, when he succeeded, after many attempts, in lifting a somewhat heavy bell off the table, and ringing it while he looked round at everybody with a proud smile. From this moment, the educator has a new weapon: praise and blame.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-070.HTM

<寸言>
褒めることと叱ること(飴と鞭)は、上手に使えばよいが、悪い使い方をすると、人間をスポイルすることになる。

幼児期に良い習慣を身につけることの重要さ

 ごく早くから身につけた習慣は,後年,まるで本能のように感じられる。(良い習慣も悪い習慣も)いずれの習慣も深く体に刻み込まれる。その後に新しく,前のとは反対の習慣を身につけたとしても,同じような力を持つことはできない。この理由からも,生後最初の習慣(形成)は重大な関心事でなければならない。

Habits acquired very early feel, in later life, just like instincts; they have the same profound grip. New contrary habits acquired afterwards cannot have the same force; for this reason, also, the first habits should be a matter of grave concern.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-020.HTM

<寸言>
「身につけた悪い習慣は全て,後によりよい習慣を身につける妨げになる。幼年期初期における最初の習慣形成が非常に重要なのは,このためである。」に続く文章。

証拠がなくても信じてしまう?ー 思い込みは冤罪発生の原因の一つ

 隣人の犯した罪は,宗教の慰めと同様,(噂話の種としては)とても心地よいものなので,私たちは立ち止まって,その証拠を詳しく吟味するようなことはしない。

Our neighbour’s sins, like the consolations of religion, are so agreeable that we do not stop to scrutinize the evidence closely.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-190.HTM

<寸言>
冤罪(えんざい)がなくならない原因の一つ思い込み,先入観、悪い人間を罰したいという強い感情

自分も無関係ではない残酷な出来事を、無知を理由に自分を無罪放免できる人

 個人的な交際においては常に非常に思いやりのある人も,戦争を扇動したり,「後進国」の子供たちを虐待することによって,収入を得ているかもしれない。このようなお馴染みの現象はすべて,大部分の人は単なる抽象的な刺激では共感(同情)をかきたてられない,という事実によっている。

A man who is full of kindliness in all personal dealings may derive his income from incitement to war or from the torture of children in ‘backward’ countries. All these familiar phenomena are due to the fact that sympathy is not stirred, in most people, by a merely abstract stimulus.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-170.HTM

<寸言>
弁解できない残酷さが明らかになると,(無意識の日和見主義により)見て見ぬふりをしていた人は,無作為による残虐行為への加担を非難されると,「知らなかった」と言って,自らを無罪放免する。