私がケンブリッジで身につけた真に価値ある一つの思考習慣は,知的誠実ということであった。この美徳は,単に友人たちの間ばかりでなく,教師たちの間にも,確かに存在していた。私は,学生の誰かが先生の誤りを指摘した時,指摘されたことに憤慨した教師の実例を一つも思い出せないが,学生がこのような手柄をなしとげることに成功した機会は,かなりの数,思い出すことができる。ある時,流体静力学の講義中に,若い学生の一人が講義をさえぎってこう言った。「先生はフタにかかる遠心力を忘れていはませんか?」と。その講師は驚いて息を止め,そうしてこう言った「・・・私は20年間この例をそういう風に扱ってきた。しかし君の方が正しい」と。
第一次世界大戦中,ケンブリッジ大学においてさえ,’知的誠実さ’に限界があることを発見したのは,私にとって打撃であった。それまでは,私は,どこに住んでいようと,ケンブリッジ大学だけがこの地上において安息所(我が家)とみなせる唯一の場所であると感じていた。
The one habit of thought of real value that I acquired there was intellectual honesty. This virtue certainly existed not only among my friends, but among my teachers. I cannot remember any instance of a teacher resenting it when one of his pupils showed him to be in error, though I can remember quite a number of occasions on which pupils succeeded in performing this feat. Once during a lecture on hydrostatics, one of the young men interrupted to say: ‘Have you not forgotten the centrifugal forces on the lid? The lecturer gasped, and then said : ‘I have been doing this example that way for twenty years, but you are right.’
It was a blow to me during the War to find that, even at Cambridge, intellectual honesty had its limitations. Until then, wherever I lived, I felt that Cambridge was the only place on earth that I could regard as home.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-340.HTM
[寸言]
「誠実」にもいろいろな種類がある。”他人の信頼”を裏切らない「誠実さ」(そのためには嘘をつくこともある。いわばヤクザの誠実さ)もあれば、なんであれ”言ったことを否定しないという(人に対するというより発言に対する)「誠実さ」もある。
しかし、自分の言ったことに「誠実」といっても2種類ある。自分が言った以上(それが間違ったことであてっても)「否定」しないで責任をとるという「誠実さ」もあれば、自分が間違ったことを言ったらすぐに修正する(したがって「変節」もありうる)という、真理や真実に対する「誠実さ」もある。
欧米人には後者の意味での「誠実さ」を大事にする人が少なくないが、日本人にはそういった意味での「誠実さ」を大事にしない人が少なくないのではないだろうか? だから、論理的に矛盾したことを言ってもあまり気にしないことになる。政治家に多いタイプであろう。自分は「ぶれない」「ぶれていない」と主張することを売りにして、従って過去の矛盾するような発言について苦しい弁解をすることになる。
間違っていることがわかれば、すぐに発言を訂正して反省し、出なおしてもらいたいが・・・。安倍総理、あなたのことですよ!