私は,倫理(道徳原理)は情熱に由来するという原理,及び,情熱から出発して何がなされるべきかということ(当為)に到達する論理的に妥当な方法はまったく存在しないという原理を自分の基本的な考え方(基本思想)として採用した。私は,デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の格言「理性は情熱の奴隷であり,またただそうあるべきである」を採用した。私はこれで満足しているわけではないが,採用することができるとすればこれが最善である。批評家たちは,私がまったく合理主義的であるといって私を責めたがるが,少なくともこの格言に私が同感していることをみれば,私が完全に合理主義的であるわけではないことの証拠となるだろう。様々な情熱の間の実際的な区別は,その情熱の結果(成功あるいは失敗)に関して生ずる。ある感情は欲求していることがらにおいて成功に導き,他の感情は失敗に導く。もし前者を追求すれば幸福になり,後者を追求すれば不幸になるだろう。おおざっぱに言えば,それが一般原則であろう。
「義務」,「自已否定」,「当為」(・・・すべし)などの高尚な概念の探求の結果としては,これは貧弱かつ卑俗だと思われるかもしれない。しかし私は,ある一点を除けば,それが正当な結果の全てであると確信している。その例外の一点とは,自分自身の不幸という代償において広く一般に幸福をもたらす人々は,他人に不幸をもたらして自分にだけ幸福を求める人々よりも善人である,と我々は感じるということである。(しかし)こういった見方を支持する合理的な根拠を私はまったく知らない(見つけていない)。あるいは,多分,何であれ多数の人々の求めるものは少数の人々が求めるものよりも好ましいという見解の方が幾らかより理屈にかなった見方であるが,そういった見方に対する合理的な根拠さえ,私はまったく知らない。これらはまったく倫理的な問題であるが,それらの問題が,政治や戦争以外のいかなる方法で解決し得るのか,私にはまったくわからない。この問題について私が言えることは,倫理的な意見は,ただ倫理学上の公理(注:それ以上証明できない命題)によってのみ擁護することができるということだけである。しかし,もしその公理が容認できないものとすれば,もはや合理的な結論に到達する方法はまったくない。(松下注:いわゆる emotive theory of value 価値情緒説/ラッセルは倫理の問題はあくまで知識論の対象にならず,論理的に導きださるものではないと考える。)
(ただ)ある程度根拠をもつ倫理的結論に到達するためのほぼ合理的と思われる方法がある。それは,両立可能性の説(原則)と名づけてもよいだろう。すなわち次のような原則である。人が,自分が持っていると気づいている欲望の中には種々のグループがあり,いずれも,’同時に満たされることのできる欲望’から成り立っているグループと,’互いに反発しあう欲望’でなりたっているグループがある。たとえば,あなたがたが民主党の熱心な支持者であるのにたまたまその民主党の大統領候補は嫌いだということがあり得る。そのような場合,党を愛するということと,その個人は嫌いだということとは,両立可能ではないのである。あるいはまたある人間は嫌いだがその息子は愛しているという場合もあるかもしれない。そのような場合,もし彼らがいつも一緒に旅行しているとすると,あなたがたは,彼らを親子一対の組み合わせは両立可能とは考えないであろう。政治の手腕は,できるだけ多数の両立可能な人々の集団をきわめて沢山発見しうるということに存する。幸福になりたいと望む人間は,できるだけ大きな集団の共存可能な欲望を’自分の人生の支配者’にしようと努力することであろう。けれども理論的な観点から見れば,その様な信条はすこしも’究極の解決’にはならない。幸福であるということは幸福でないということよりもいいことだと想定している。これは別に(論理的に)立証することのできない倫理上の原則(原理)である。そうした理由から私は,両立可能性を倫理学の基盤(支えとなるもの)とは考えなかったのである。
I adopted as my guiding thought the principle that ethics is derived from passions and that there is no valid method of travelling from passion to what ought to be done. I adopted David Hume’s maxim that ‘Reason is, and ought only to be, the slave of the passions’. I am not satisfied with this, but it is the best that I can do. Critics are fond of charging me with being wholly rational and this, at least, proves that I am not entirely so: The practical distinction among passions comes as regards their success: some passions lead to success in what is desired; others, to failure. If you pursue the former, you will be happy; if the latter, unhappy. Such, at least, will be the broad general rule. This may seem a poor and tawdry result of researches into such sublime concepts as ‘duty’, ‘self-denial’, ‘ought’, and so forth, but I am persuaded that it is the total of the valid outcome, except in one particular: we feel that the man who brings widespread happiness at the expense of misery to himself is a better man than the man who brings unhappiness to others and happiness to himself. I do not know any rational ground for this view, or perhaps, for the somewhat more rational view that whatever the majority desires is preferable to what the minority desires . These are truly ethical problems, but I do not know of any way in which they can be solved except by politics or war. All that I can find to say on this subject is that an ethical opinion can only be defended by an ethical axiom, but, if the axiom is not accepted, there is no way of reaching a rational conclusion. There is one approximately rational approach to ethical conclusions which has a certain validity. It may be called the doctrine of compossibility. This doctlrne is as follows: among the desires that a man finds himself to possess, there are various groups, each consisting of desires which may be gratified together and others which conflict. You may, for example, be a passionate adherent of the Democratic Party, but it may happen that you hate the presidential candidate. In that case, your love of the Party and your dislike of the individual are not compossible. Or you may hate a man and love his son. In that case, if they always travel about together, you will find them, as a pair, not compossible. The art of politics consists very largely in finding as numerous a group of compossible people as you can. The man who wishes to be happy will endeavour to make as large groups as he can of compossible desires the rulers of his life. Viewed theoretically, such a doctrine affords no ultimate solution. It assumes that happiness is better than unhappiness. This is an ethical principle incapable of proof. For that reason. I did not consider compossibility a basis for ethics.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB31-260.HTM
[寸言]
「倫理学」は客観的な科学としてはたして成立するかどうか? 数学や論理学や物理学などは,科学的かつ合理的な説明によって大部分の人が納得する結論を得ることができる。しかし,倫理学はそのような学問にはなりえない。人間がこの地球上で繁栄したほうがよいかどうかなど、自然科学的な、人間以外の(どこかの天体にいる/いるかも知れない)高等生命も同意するような厳密な学問になりえないであろう。
ラッセルは,価値情緒説に立つ。即ち,「(倫理(道徳原理)は情熱に由来するという原理,及び,情熱から出発して何がなされるべきかということ(当為)に到達する論理的に妥当な方法はまったく存在しないという原理」を出発点にしている。科学的に証明はできないとしても,人間の一員である以上、「人間の生命は尊い」とか「人類の繁栄は善である」とかいった基本原理を設定しなければ、倫理学は先に進むことはできないからである。しかし、ラッセルは、(他に納得できる原理がないので)その基本原理を不承不承受け入れているのであり、満足しているわけではない。
これに対し、価値情緒説にたてば、「一人ひとりの人権を重視する理論」は「国家や公共のためには国民の命は二の次にしてもよいというような理論」よりもすぐれていることを、理論的に説明できなってしまうと、ラッセルは非難される。
そこで、ラッセルは価値情緒説にたった上で、倫理の諸問題について、いかにして多くの人が納得できる説明ができるか、本書(『倫理と政治における人間社会』)において、自分(ラッセ)ルの考え方を体系的に紹介していく。