量子力学(特に不確定性原理)に飛びついたキリスト教擁護者・神学者

 自然法則に対抗するこの反応の影響のもとに,キリスト教の弁解者(注:apolotist :弁解者,弁証者,擁護者)のなかには,最新の原子論(注:量子力学,特に不確定性原理のこと)に飛びついた者もいた。この学説は,我々がこれまで信じてきた物理法則は,多数の原子(の集合)に適用される近似的かつ平均値の真理であるにすぎず,また,一方,(それらの集合のなかの)個々の電子は好き勝手に行動している(注:法則に支配されていないように見える)ことを示す傾向がある。私自身が信じているのは,これは一時的な局面にすぎず,物理学者は,-それらの法則は,伝統的な物理学とは異なるであろうが- いずれ微小な現象を支配する法則を発見するであろう(注:自然界における「4つの力(=電磁相互作用,弱い相互作用,強い相互作用,重力)」を統一する理論=大統一場理論の発見に対する期待。アインシュタインが試みてできなかったこと)。それはともかく,微小な現象(極微の世界における現象)に関する現代の(種々の)学説は,実際的な重要性のあることとは,まったく関係を持っていない,ということは注視に値する。目に見える運動,実際に誰に対しても何か差異を生じさせるようなあらゆる運動は,十分(首尾よく),旧い(物理)法則の範囲内にはいるところの多数の原子(の集合)に関係している(のである)。(前の例示にもどることとして)詩を書いたり,あるいは,殺人を犯したりするためには,相当量のインク,あるいは,鉛の弾丸を運動させる必要がある。インクを構成する電子は,自分たちの小さな舞踏場を自由に踊り回っているかもしれないが,舞踏場全体としては,物理学の旧い法則によって動いているのであり,このことだけが,詩人と彼の本を出す出版社とに関係しているのである。それゆえ,現代の(物理)学説は,神学者が関心を持っている人間の利益の諸問題に対しては,とりあげるに値するような関係はまったくないのである。

Under the influence of this reaction against natural law, some Christian apologists have seized upon the latest doctrines of the atom, which tend to show that the physical laws in which we have hitherto believed have only an approximate and average truth as applied to large numbers of atoms, while the individual electron behaves pretty much as it likes. My own belief is that this is a temporary phase, and that the physicists will in time discover laws governing minute phenomena, although these laws may differ considerably from those of traditional physics. However that may be, it is worth while to observe that the modern doctrines as to minute phenomena have no bearing upon anything that is of practical importance. Visible motions, and indeed all motions that make any difference to anybody, involve such large numbers of atoms that they come well within the scope of the old laws. To write a poem or commit a murder (reverting to our previous illustration), it is necessary to move an appreciable mass of ink or lead. The electrons composing the ink may be dancing freely around their little ballroom, but the ballroom as a whole is moving according to the old laws of physics, and this alone is what concerns the poet and his publisher. The modern doctrines, therefore, have no appreciable bearing upon any of those problems of human interest with which the theologian is concerned.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-120.HTM

<寸言>
現代の先端科学と宗教との整合性や親和性を何とか確保しようとする無益な努力。科学は真理の探求であり,人間の欲望とは無関係なもの。

「キリスト教」対「進化論」

 それから,また,進化論は,それを受け入れたキリスト教徒に,かなりの影響を与えてきた。彼らは,他の種々の生き物のために創られているもの(注:神によって創造された無生物や人間以外の生き物)とはまったく異なっている人間のために,進化論が,(人間について)いろいろ主張をすることがないように,注意を払ってきた。【注:see that it will not do to make :~しないように注意する。/大竹勝・訳『宗教は必要か』では,see that の意味を取り違えて次のように意味不明の訳となっている。即ち,「彼らは,他の生の形式のためになされる権利の要求とは全然ちがった権利の要求を,人間のためになすわけにはいかないことを知ったのである。」】。
そこで,人間の自由意志を保護するために,彼らは,生物の行動物理的及び化学的法則で説明しようとするあらゆる試みに反対した(のである)。あらゆる下等動物は機械人形(automata :オートマタ/オートマトン。自由意志のないロボット)であるという(趣旨の)デカルトの立場は,もはや,自由主義神学者たちの間では人気がない。デカルトの)連続創造説(注:doctrine of continuity)は,彼ら(キリスト教徒)をさらに一歩前進させて,無機物(無生物)と呼ばれるものでさえ,その運動において,不変の法則によって厳しく支配されるものではないと主張したい気にさせる。彼らは,もし法則(law)の支配を廃するならば,(神による)奇蹟の可能性も廃する(ことになる)という事実も見逃していたように思われる,なぜなら,奇蹟は,通常の現象を支配する法則に反する神の行為(なせるわざ)であるからである。けれども,私は,現代の自由主義神学者たちが深淵な面持ちで,すべての創造は奇蹟であり,それゆえ,もはや特定の出来事を神による干渉の特別な証拠としてしがみつく必要はないと主張する姿を想像することができる。

Then, again, evolution has had a considerable influence upon those Christians who have accepted it. They have seen that it will not do to make claims on behalf of man which are totally different from those which are made on behalf of other forms of life. Therefore, in order to safeguard free will in man, they have objected to every attempt at explaining the behaviour of living matter in terms of physical and chemical laws. The position of Descartes, to the effect that all lower animals are automata, no longer finds favor with liberal theologians. The doctrine of continuity makes them inclined to go a step further still and maintain that even what is called dead matter is not rigidly governed in its behaviour by unalterable laws. They seem to have overlooked the fact that, if you abolish the reign of law, you also abolish the possibility of miracles, since miracles are acts of God which contravene the laws governing ordinary phenomena. I can, however, imagine the modern liberal theologian maintaining with an air of profundity that all creation is miraculous, so that he no longer needs to fasten upon certain occurrences as special evidence of Divine intervention.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-110.HTM

<寸言>
この世界は神が創造したものであり,人間には意志の自由がないとしたら、倫理が成り立たず大変なことになる,ということで,自由意志を認めることにすると同時に,神の行為を奇跡と考えることにしたところ・・・。

キリスト教の「自由意志の教義」と「自然法則に対する信仰」

 自然法則に関するキリスト教徒の態度は,奇妙に揺れていて,はっきりしない。一方においては,自由意志の教義があり,大部分のキリスト教徒はそれを信じていた。そうして,この教義は,少なくとも,人間の行為は自然法則に服従すべきではないことを必要としていた(注:人間は自然法則に従うだけで自由意志がないとしたら倫理が成り立たなくなるため)。 他方,特に18世紀 及び19世紀には,立法者としての神(へ)の信仰及び(世界の)創造者が実在する主要な証拠の一つとしての自然法則への信仰があった。近代においては,(神が)立法者である証拠を与えるものとしての自然法則への信仰よりも,(人間の)自由意志のために法則(自然法則)の支配に対する異議がより強く感じられ始めてきた。唯物論者たちは,人体の動きは機械的に決定されており,その結果,我々(人間)の言う全てや我々がなすあらゆる位置の変化は,いかなる可能な自由意志の範囲外になる(注:それらについては人間に自由意志はない),ということを示すために,あるいは示そうとして,物理法則を用いた。もしそれが正しいのであれば,束縛されない意志(の力)として我々人間に何が残されようとも,それはほとんど価値はない。もし,人が詩を書いたり,あるいは殺人を犯す場合,その行為に含まれる人体の運動がもっぱら物理的な原因からの結果であるとするならば,ある場合には(その人の功績をたたえ)銅像を建て,別の場合には首を締める(絞首刑にする)というのは,馬鹿げていると思われるであろう。ある種の形而上学の体系の中においては,意志が自由であるような(肉体が関係しない)純粋な思惟の領域が残っているかも知れない。(注:カントの「純粋理性」などに対する皮肉であろう。/大竹勝・訳『宗教は必要か』では次のように訳されており,哲学の知識の不足により,不適切な訳となっている。「ある形而上学体系の中に,意志が自由であるような純粋思想の分野は残っているであろうが,それは人体の運動によってのみ他人に伝えられるのだから・・・」 それから,“certain” という単語は漠然とした「ある~」というものではないことに注意が必要であろう。)
しかし,その意志は人体の運動によってのみ他人に伝えることができるのであるから,自由の領域は,伝達の対象にはなりえないものであり,社会的な重要性を決して持ちえないものとなるであろう。

The attitude of the Christians on the subject of natural law has been curiously vacillating and uncertain. There was, on the one hand, the doctrine of free will, in which the great majority of Christians believed; and this doctrine required that the acts of human beings at least should not be subject to natural law. There was, on the other hand, especially in the eighteenth and nineteenth centuries, a belief in God as the Lawgiver and in natural law as one of the main evidences of the existence of a Creator. In recent times the objection to the reign of law in the interests of free will has begun to be felt more strongly than the belief in natural law as affording evidence for a Lawgiver. Materialists used the laws of physics to show, or attempt to show, that the movements of human bodies are mechanically determined, and that consequently everything that we say and every change of position that we effect fall outside the sphere of any possible free will. If this be so, whatever may be left for our unfettered volitions is of little value. If, when a man writes a poem or commits a murder, the bodily movements involved in his act result solely from physical causes, it would seem absurd to put up a statue to him in the one case and to hang him in the other. There might in certain metaphysical systems remain a region of pure thought in which the will would be free; but, since that can be communicated to others only by means of bodily movement, the realm of freedom would be one that could never be the subject of communication and could never have any social importance.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-100.HTM

<寸言>
人は矛盾をしたことを言っても、普段、(発言)全体の整合性を考えることはしないので、その矛盾に気が付かないことが少なくない。宗教の教義と(教義化されていない)宗教の根本思想との間にもそういった矛盾がけっこう存在する。宗教家や宗教の信者は、「信じることが重要」ということで、そういった矛盾について論理的につめて考える事をしない者が多い。「信じることが重要」であるならば、他の宗教を「信じている(=信じることが重要だから特に理由はない)」という者に対しては、「邪教」を信じてはいけない、「呪われる」「地獄に落ちる」とか言って脅かす「狂信者」も散見される。それなら、「(まず)信じることが重要」という言葉は撤回したほうがよいのではないか?

キリスト教徒は,キリスト教の負の歴史をもっと知るべき

 キリスト教の到来によって世界中に広まった不寛容は,キリスト教のもっとも奇妙な特徴の一つであるが,それは,私の考えでは,正義(の存在)についてのユダヤ人の信仰と,ユダヤの神の排他的な実在に対する信仰(注:唯一神信仰)によるものである。なぜユダヤ人がこのような特徴を持つに至ったか,私にはわからない。彼らは,バビロン捕囚(注:the capitivity = babylonian captivity バビロンほしゅう:紀元前597年に,バビロニアのネブカドネザル王によって,ユダヤ人がバビロニア地方へ捕虜として連れてこられた出来事のこと)の時代に,外国の住民たちのなかにユダヤ人を併合する試みに対する反動として,そのような特徴を発達させたように思われる。それはともかく,ユダヤ人たち,とりわけユダヤの予言者たちは,個人的な正義(注:社会的正義ではないことに注意)に対する強調や,一つを除いて他のいかなる宗教を寛大に取り扱うことは邪悪であるという考えを,創りだしたのである。これら二つの考え(思想)は,西洋の歴史に,悲惨な影響を及ぼしてきた。キリスト教会は,コンスタンティヌス帝時代以前のローマ帝国によるキリスト教徒の迫害を大げさに言っている。けれども,この迫害は軽いものであり,また断続的に起こったにすぎず,まったく政治的なものであった。コンスタンティヌス帝の時代から17世紀の終わりまでの全期間を通じて,彼ら(ユダヤ教徒=キリスト教徒の一派)はローマの諸皇帝によって迫害されたよりも,はるかに激しく,他のキリスト教徒によって迫害されたのである。キリスト教が起こる以前には,ユダヤ人同志の間を除き,この迫害的な態度は古代世界には知られていなかった。たとえば,ヘロドトス(の歴史書)を読めば,彼が訪問した頃の外国民族の習慣についての柔和かつ寛大な記述を見い出す(であろう)。確かに,時々,奇妙に野蛮な習慣が彼に衝撃を与えることはあるだろうが,概して,彼は外国の神々や習慣に対して好意的である。彼は,(ギリシア人があがめる)ゼウスの神を何か他の名前で呼ぶ人々は永遠の罰に苦しむであろうとか,彼らの処罰ができるだけ早く始めるためには,死刑に処すべきである,というようなことを熱心に証明しようとはしない。(しかし)こういった(残酷な)態度はキリスト教徒の中に保持されてきた。なるほど,現代のキリスト教徒は以前ほど粗野ではないが,それはキリスト教のおかげではない。(即ち)ルネッサンスから今日までに至る幾世代にわたる自由思想家たちが,因襲的な信仰の多くの事について,キリスト教徒を恥ずかしく思わせてきたからである。現代のキリスト教徒が,その穏やかさと合理性のすべてが,それぞれの時代において,全ての正統派のキリスト教徒によって迫害された人々の教えによるものであるという事実を無視して,キリスト教が実際においていかに穏やかかつ合理的なものであるか,と言っているのを聞くことは面白い。今日,世界はキリスト降誕以前四〇〇四年に創造されたと信じる者は誰もいない。しかし,つい先頃までは,この点を疑うことはいまわしい罪悪とみなされていた(のである)。私のひいひいおじいさんは,エトナ山の傾斜にある溶岩の深さを観測した後に,世界は正統派の人々(キリスト教徒)が想像したよりも古いという結論に達し,この意見を一冊の本にして発表した。この(キリスト教に対する)違反行為により彼は自分の州(注:ラッセル家が代々ついできたベッドフォード公爵家が治めてきたベッドフォード州のことか?)からは職を解かれ,社会からは排斥されたのである。彼がもっと低い身分の人間であったら,彼に対する罰は必ずやもっと厳しいものであったに違いない。彼らが,150年前に信じられていたばかばかしいことを今日信じないからといって,それは決して正統主義(キリスト教)の正しさを認めることにはならないのである。キリスト教教義の去勢化(無力化)は,(キリスト教徒からの)この上もなく激しい抵抗にもかかわらず成し遂げられてきたのであり,もっぱら自由思想家たちの攻撃の結果によるものなのである。

The intolerance that spread over the world with the advent of Christianity is one of the most curious features, due, I think, to the Jewish belief in righteousness and in the exclusive reality of the Jewish God. Why the Jews should have had these peculiarities I do not know. They seem to have developed during the captivity as a reaction against the attempt to absorb the Jews into alien populations. However that may be, the Jews, and more especially the prophets, invented emphasis upon personal righteousness and the idea that it is wicked to tolerate any religion except one. These two ideas have had an extraordinarily disastrous effect upon Occidental history. The church made much of the persecution of Christians by the Roman State before the time of Constantine. This persecution, however, was slight and intermittent and wholly political. At all times, from the age of Constantine to the end of the seventeenth century, Christians were far more fiercely persecuted by other Christians than they ever were by the Roman emperors. Before the rise of Christianity this persecuting attitude was unknown to the ancient world except among the Jews. If you read, for example, Herodotus, you find a bland and tolerant account of the habits of the foreign nations he visited. Sometimes, it is true, a peculiarly barbarous custom may shock him, but in general he is hospitable to foreign gods and foreign customs. He is not anxious to prove that people who call Zeus by some other name will suffer eternal punishment and ought to be put to death in order that their punishment may begin as soon as possible. This attitude has been reserved for Christians. It is true that the modern Christian is less robust, but that is not thanks to Christianity; it is thanks to the generations of freethinkers, who from the Renaissance to the present day, have made Christians ashamed of many of their traditional beliefs. It is amusing to hear the modern Christian telling you how mild and rationalistic Christianity really is and ignoring the fact that all its mildness and rationalism is due to the teaching of men who in their own day were persecuted by all orthodox Christians. Nobody nowadays believes that the world was created in 4004 B. C.; but not so very long ago skepticism on this point was thought an abominable crime. My great-great-grandfather, after observing the depth of the lava on the slopes of Etna, came to the conclusion that the world must be older than the orthodox supposed and published this opinion in a book. For this offense he was cut by the county and ostracized from society. Had he been a man in humbler circumstances, his punishment would doubtless have been more severe. It is no credit to the orthodox that they do not now believe all the absurdities that were believed 150 years ago. The gradual emasculation of the Christian doctrine has been effected in spite of the most vigorous resistance, and solely as the result of the onslaughts of freethinkers.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-090.HTM

<寸言>
(欧米から)各国に派遣されているキリスト教の宣教師たちは,キリスト教の負の歴史をどれだけ学んでいるのであろうか? 他国民を「教化」する前に、まず自分たちの先入観や偏見を取り払うべきではないか?

キリスト教における霊魂不滅の教義

 この(キリスト教の)個人主義は,個人の霊魂の不滅という教義 -それは,場合(状況/境遇)によって,あの世において無限の悦びを享受するか,あるいは無限の悲しみを味わうことになる。- として頂点に達した。この(天国か地獄かの)重大な相違がそのよりどころとしている状況というのは,いくらか奇妙である。たとえば,僧侶がある言葉を唱えながら,その人の頭に水(聖水)をふりかけた直後に死んだ人は永遠の悦びを受けることになるが,しかるに,長い有徳の生涯のあとで,靴ひもを引きちぎってしまったために悪い言葉(例:金竹小/ Oh, my God!)を使っている瞬間に稲妻に打たれたならば,永遠の責苦を受けることになる。私は,現代のプロテスタントのキリスト教徒がこれを信じていると言っているのでも,また,神学について十分に教授されていない現代のカトリックのキリスト教徒でさえおそらく信じていると言っているのでもない。しかし、私は,このようなことが正統派の教義であり,つい最近まで堅く信じられていた,と言いたいのである。メキシコやペルーにいたスペイン人たちは,かつて(常習的に),インディアンの赤ん坊に洗礼を施し,その直後に彼らの脳みそを打ち砕いていたのである。(つまり)こういうやり方によって,スペイン人たちはこれらの赤ん坊が天国に行けることを確保したのであった。正統派のキリスト教徒であれば -今日ではみな(感情的には)非難はするけれども- 誰も彼らの行為を非難する論理的な理由を見つけ出すことはできない。無数のやり方で,このキリスト教の形式による個人の(霊魂の)不滅の教義は,道徳に悲惨な影響を及ぼしてきており,また霊魂と肉体(心と体)の形而上学的分離は,哲学に対し悲惨な影響を与えてきたのである。

This individualism culminated in the doctrine of the immortality of the individual soul, which was to enjoy hereafter endless bliss or endless woe according to circumstances. The circumstances upon which this momentous difference depended were somewhat curious. For example, if you died immediately after a priest had sprinkled water upon you while pronouncing certain words, you inherited eternal bliss; whereas, if after a long and virtuous life you happened to be struck by lightning at a moment when you were using bad language because you had broken a bootlace, you would inherit eternal torment. I do not say that the modern Protestant Christian believes this, nor even perhaps the modern Catholic Christian who has not been adequately instructed in theology; but I do say that this is the orthodox doctrine and was firmly believed until recent times. The Spaniards in Mexico and Peru used to baptize Indian infants and then immediately dash their brains out: by this means they secured that these infants went to Heaven. No orthodox Christian can find any logical reason for condemning their action, although all nowadays do so. In countless ways the doctrine of personal immortality in its Christian form has had disastrous effects upon morals, and the metaphysical separation of soul and body has had disastrous effects upon philosophy.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-080.HTM

<寸言>
人間は人間に都合のよい神を考える(想定する)。キリスト教徒はキリスト教徒に都合のよい神を考える。
最近では、移民問題の関連で、イスラム教を邪教と考えてイスラム教徒を排斥したり、場合によっては迫害することさえも許されると考えるキリスト教徒も少なくない。そうして、天国を想定するだけでなく、地獄も併せて想定して、キリスト教の神を信じない者は地獄に陥ると考えたり信じたりする。一方イスラム教徒は・・・?

宗教に対する「知的な」異議

 宗教に対する異議には,知的なものと道徳的なもの,との二つの種類がある。知的な異議は,いかなる宗教も真理であると想定する理由がまったくないということである。道徳的な異議は,宗教の教えは,今日よりもっと人間が残酷であった時代からのものであり,また,それゆえ,宗教の教えがなければその時代の道徳的良心が脱皮・成長したであろう非人間的なもの(要素)を永続(化)させる傾向があるということである。
まず,知的な異議を取り上げよう。現代のような実際的な時代(実用主義的な時代)においては,宗教の教えが真理であるかどうかはどうでもよいと考える一定の傾向がある。なぜなら,重要な問題は宗教が有益であるかどうか,であるからである。けれども,(真理か有益かのどちらの)一方の問題も,他方の問題を抜きにしてはうまく解決できない。もし我々がキリスト教(が真理であること)を信ずる場合には,善とはなんであるかという我々の観念は,(もし)我々がキリスト教を信じない場合とでは,異なるであろう。従って,キリスト教徒にとっては,,キリスト教の影響は善く見えるであろうが,キリスト教を信じない者(unbeliever)には悪とみえるかもしれない(のである)。さらに,裏付けとなる(支持する)証拠があるかないか関係なく,しかじかの命題を信ずべきだという態度は,(不利になるような)証拠を嫌うようになり,自分たちの偏見にそわないあらゆる事実に我々の心を閉ざさせる(ような)態度である。

 ある種の一定の科学的な公平無私(の精神)は,非常に重要な性質であり,それは,信ずることが自分の責務であると想像する(ような)人には,滅多に存在しない性質である。それゆえ,我々は宗教が真理であるかどうかという問題を調べることなしに,宗教が本当に善をなすかどうかを決定することはできない。キリスト教徒,回教徒,ユダヤ人にとって,宗教の真理に関係ある最も根本的な問題は神の存在である。宗教がまだ全勢時代であった頃は,「神」という言葉は,完全に明確な意味を持っていた。しかし,合理主義者たちによる猛攻撃の結果,それはしだいに色あせてしまい,ついには,人々が神を信じていると主張するときそれが何を意味しているのか知ることは困難な状態になっている。議論のために,マシュー・アーノルドによる(神の)定義を取り上げてみよう。即ち(彼によれば)「(神とは)我々人間のものではない,正義を促進する力(である)」。恐らく,我々はこの定義をもっと漠然とさせて,この惑星(地球)の表面にいる生命の目的を離れて,宇宙に目的があるという証拠があるかどうかについて,自問してみるのがよいだろう。

The objections to religion are of two sorts — intellectual and moral. The intellectual objection is that there is no reason to suppose any religion true; the moral objection is that religious precepts date from a time when men were more cruel than they are and therefore tend to perpetuate inhumanities which the moral conscience of the age would otherwise outgrow.
To take the intellectual objection first: there is a certain tendency in our practical age to consider that it does not much matter whether religious teaching is true or not, since the important question is whether it is useful. One question cannot, however, well be decided without the other. If we believe the Christian religion, our notions of what is good will be different from what they will be if we do not believe it. Therefore, to Christians, the effects of Christianity may seem good, while to unbelievers they may seem bad. Moreover, the attitude that one ought to believe such and such a proposition, independently of the question whether there is evidence in its favor, is an attitude which produces hostility to evidence and causes us to close our minds to every fact that does not suit our prejudices.
A certain kind of scientific candor is a very important quality, and it is one which can hardly exist in a man who imagines that there are things which it is his duty to believe. We cannot, therefore, really decide whether religion does good without investigating the question whether religion is true. To Christians, Mohammedans, and Jews the most fundamental question involved in the truth of religion is the existence of God. In the days when religion was still triumphant the word “God” had a perfectly definite meaning; but as a result of the onslaughts of the Rationalists the word has become paler and paler, until it is difficult to see what people mean when they assert that they believe in God. Let us take, for purposes of argument, Matthew Arnold’s definition: “A power not ourselves that makes for righteousness.” Perhaps we might make this even more vague and ask ourselves whether we have any evidence of purpose in this universe apart from the purposes of living beings on the surface of this planet.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-050.HTM

<寸言>
宗教を信じていると言っても,その内実は,宗教によって,また,人によって様々。
現代において,宗教といえば,通常、一神教(絶対神)であるが,一神教が生まれる前は,ギリシアの神や日本の八百万の神のような多神教のほうが一般的であったと思われる。
特定の宗教について信じるにせよ,批判するにせよ,まず,宗教とは何か,神(絶対神)とは何か,個別の宗教(キリスト教,回教,仏教など)の教義について基本的な理解をしなければならない。

「全能の」神はサディスト? or 神は全能ではない? 「人間的な」神?

 このような,ひとつの側面における比較的に細かい異議は別にして置くとして,キリスト教の基本的教義(根本教義)は,それが肯定されるには(前に)非常に多くの倫理的なこじつけ(歪曲)を必要していることは明らかである。(即ち)世界は善であり,全能である唯一の神(注:絶対神)によって創造された,と我々に告げられている。(全能の)神は世界を創造する前に,世界に含まれるあらゆる苦痛と惨めさを予見された(とされている)。それゆえ,神はその全てに対して責任がある(ことになる)。この世の中の苦痛は(人間の)原罪にあると論ずることは無用である。第一にそれは真実ではない。河川が堤防を越えて氾濫したり,火山が噴火することは(人間の)罪(が原因)ではない。しかし,たとえそれが真実であったとしても,(神に責任があることには)なんの違いもない。もし,私が将来殺人鬼(殺人狂)になることを知りながら自分の子供をもうける(注:beget こしらえる)とするなら,私は,彼(自分の子供)の罪に対して当然責任がなければならない。神が人間を創造することを決意された時,人間が(将来)犯すであろう罪を事前に知っていたとするならば,神はそれらの罪のすべての結果に対し,明らかに,責任がある。普通のキリスト教徒の論拠(argument 言い分)は,この世の苦痛は,罪の浄化(清め)であるから,善いことである(善である)というものである。もちろん,この議論はサディズムの合理化(理屈付け)であるにすぎない。しかし,いずれにせよ,極めて薄弱な論拠(言い分)である。私は,誰でもよいがキリスト教の信者を病院の子供の病棟(小児病棟)にご招待して,そこで子供が耐えている苦痛を見守ってもらい,そこにいる子供たちは,苦しむに値するほど道徳的に(神から)見捨てられたのだという主張を固執してもらいたいものである。こんなことを彼(そのキリスト教徒)に言わせるには,人間は,心のうちにあるすべての慈悲や同情の感情を殺さねばならない。要するに彼は,彼が信じている神と同様に残酷にならなければならないのである。こうした苦しみに満ちた世界に,全て神様の配剤があるのだ(all is for the best)と信じる者は,誰ひとりとしてその倫理的価値を損なうことなしにいられない。(注:大竹勝訳『宗教は必要か』では「この苦痛の多い世界で,万事この上なくうまくいっていると信じている人は、彼の倫理的な価値をそこなわずにいることはできない」と不適切な訳をされている。一見よさそうに見えるが,’all is for the best’ というのが,「全ては神のなせるわざ(配剤)だ」という慣用句であることにまず気づかなければいけない。)なぜなら,彼は常に(神が創造したこの世の)苦痛と悲惨さに対する言い訳を見つけなければならないからである。

Leaving these comparatively detailed objections on one side, it is clear that the fundamental doctrines of Christianity demand a great deal of ethical perversion before they can be accepted. The world, we are told, was created by a God who is both good and omnipotent. Before He created the world He foresaw all the pain and misery that it would contain; He is therefore responsible for all of it. It is useless to argue that the pain in the world is due to sin. In the first place, this is not true; it is not sin that causes rivers to overflow their banks or volcanoes to erupt. But even if it were true, it would make no difference. If I were going to beget a child knowing that the child was going to be a homicidal maniac, I should be responsible for his crimes. If God knew in advance the sins of which man would be guilty, He was clearly responsible for all the consequences of those sins when He decided to create man. The usual Christian argument is that the suffering in the world is a purification for sin and is therefore a good thing. This argument is, of course, only a rationalization of sadism; but in any case it is a very poor argument. I would invite any Christian to accompany me to the children’s ward of a hospital, to watch the suffering that is there being endured, and then to persist in the assertion that those children are so morally abandoned as to deserve what they are suffering. In order to bring himself to say this, a man must destroy in himself all feelings of mercy and compassion. He must, in short, make himself as cruel as the God in whom he believes. No man who believes that all is for the best in this suffering world can keep his ethical values unimpaired, since he is always having to find excuses for pain and misery.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-040.HTM

<寸言>
どの宗教にも迫害を受けてきた歴史と迫害を行ってきた歴史の両面がある。どの宗教も迫害を与えてきたことについては忘れがちであり,特に他の宗教については「邪教」ととらえ、そういった宗教に対する迫害には「寛容」である。

子供が知りたがっていることを無知にしておくことの弊害

 少年はみな汽車(注:今なら電車 or SL)に興味を持っている。(たとえば)汽車に興味を持つことは悪い(不道徳な)ことであると少年に言ったとしてみよう。(あるいは)少年が汽車に乗っているときや,駅にいるときにはいつもその少年の目に包帯をしておくと仮定してみよう。彼のいる前では,「汽車」という言葉を口にすることが許されず,彼がある場所から他の場所に運ばれる手段に関しては、計り知れない神秘のままに保たれる,と仮定しておこう。その結果は,少年が汽車に興味を失うということにはならないであろう。逆に,彼はより興味を持つことになるであろうが,病的な罪の意識を持つようになるであろう。なぜなら,この興味は,彼には不道徳(不適切)なものとされてきたからである。活発な知性を持つ少年なら,大なり小なり,この方法によって神経衰弱になりうることであろう。これがまさしく,性の問題ににおいてなされたことなのである。しかし,性は汽車よりも興味があることなので,結果はもっと悪い。キリスト教社会(在住)の大部分の大人(成人)が,彼らが若かった時に,性の知識がタブーとなっていた結果として,多かれ少なかれ(現在)神経を病んでいる(注:あくまで,このエッセイが発表された1930年代の欧米の状況です)。そして,そのようにして,人為的に植えつけられた罪の意識は,その後における(大人になってからの)残酷さ,臆病さ,愚かさ,の原因の一つである性の問題であれ,その他の問題であれ,子供が知りたがっていることを無知にしておくことには,いかなる種類の合理的な根拠もない。この事実(真実)が初等教育で認められるまで,健全な住民を決しては得られないであろうが,教会が教育政策を支配できるかぎり,それは不可能である。

Every boy is interested in trains. Suppose we told him that an interest in trains is wicked; suppose we kept his eyes bandaged whenever he was in a train or on a railway station; suppose we never allowed the word “train” to be mentioned in his presence and preserved an impenetrable mystery as to the means by which he is transported from one place to another. The result would not be that he would cease to be interested in trains; on the contrary, he would become more interested than ever but would have a morbid sense of sin, because this interest had been represented to him as improper. Every boy of active intelligence could by this means be rendered in a greater or less degree neurasthenic. This is precisely what is done in the matter of sex; but, as sex is more interesting than trains, the results are worse. Almost every adult in a Christian community is more or less diseased nervously as a result of the taboo on sex knowledge when he or she was young. And the sense of sin which is thus artificially implanted is one of the causes of cruelty, timidity, and stupidity in later life. There is no rational ground of any sort or kind in keeping a child ignorant of anything that he may wish to know, whether on sex or on any other matter. And we shall never get a sane population until this fact is recognized in early education, which is impossible so long as the churches are able to control educational politics.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-040.HTM

<寸言>
体制にとって、大人にとって、◯◯にとって,「不都合なことは知らせないでおこう(隠しておこう)という態度。
【古今の為政者の態度:(由(よ)らしむべし知(し)らしむべからず 《「論語」泰伯から》人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。】

真実を知られたら社会が安定しないなどという考え方や思い込みは,支配する側にとってはそれほど悪いことではないと思われるかも知れないが、それを知った時の人間(国民、子供、その他支配される側)にとっては最悪とも言えること。真実が明らかになった時の反動のほうが悲惨なことになるかも知れない。

青年に「罪の意識」を与えることの愚かさ

 キリスト教徒の態度人間の福祉(幸福)にとって危険であるのは,性行為に関してだけでなく,性の問題に関する知識にも関してもそうである。偏見のない精神でこの問題を研究しようと骨を折った人なら,誰でも正統派のキリスト教徒が青年に強用しようとする性に関する作為的な無知は,道徳的及び肉体的健康に極めて危険であり,大抵の子供たちがそうするように,「不適切な(下劣な)」会話によって知識を拾う者に,性とはそれ自体わいせつかつ馬鹿げたものであるという態度をとらせることになるのである。知識は望ましいものではないという見方に弁護の余地はない,と私は考える。いかなる人がいかなる年齢に知識を得ようとしても,障害をもうけるべきではない。しかし,性の知識という特殊な場合には,大部分の他の知識の場合よりも,障害をもいけるべきではないということに対するはるかに重みのある賛成論がある。知識を授けられている場合よりも無知な場合の方が,人はより愚かな行為をする(賢明な行為をいっそうしそうにない)ものであり,青年が重要な問題について自然な好奇心を持つからといって,青年に罪の意識を与えるということは馬鹿げている。

It is not only in regard to sexual behaviour but also in regard to knowledge on sex subjects that the attitude of Christians is dangerous to human welfare. Every person who has taken the trouble to study the question in an unbiased spirit knows that the artificial ignorance on sex subjects which orthodox Christians attempt to enforce upon the young is extremely dangerous to mental and physical health, and causes in those who pick up their knowledge by the way of “improper” talk, as most children do, an attitude that sex is in itself indecent and ridiculous. I do not think there can be any defense for the view that knowledge is ever undesirable. I should not put barriers in the way of the acquisition of knowledge by anybody at any age. But in the particular case of sex knowledge there are much weightier arguments in its favor than in the case of most other knowledge. A person is much less likely to act wisely when he is ignorant than when he is instructed, and it is ridiculous to give young people a sense of sin because they have a natural curiosity about an important matter.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
知性を軽視する宗教あるいは宗教家は益よりも害を与えやすい。

「原罪」の概念(観念)は人間の加虐趣味にはけ口や口実を与える

 キリスト教倫理に結びついている原罪の概念(観念)は,驚くべき量の害悪をなすものである。なぜなら,原罪の概念(注:人間は罪を背負って生まれてくるという考え方) は,人々に,自分たちは正当であり,高邁であるとさえ信じるところの,彼らの加虐趣味(サディズム)のためのはけ口を与えるからである。たとえば,梅毒の予防の問題を取り上げてみよう。前もって用心さえすれば,この病気に感染する危険は無視できるほどのものにすることができることが知られている。しかし,キリスト教徒はこの事実についての知識の普及に反対している,なぜなら,彼らは罪人(注:たとえば,婚外性交をするような者)が罰せられることは善いことだと考えるからである。彼らは罪人を罰することは非常に善いことだと思いこんでいるために,その罰が罪人の妻や子供に及ぶことを望むことさえ望んでいるのである(注:このエッセイを執筆した1930年頃の状況を言っています。)。現在この世には,もしキリスト教徒が罪人は罰せられるべきであるとの欲求を持っていなければ,決して生まれなかったであろう,先天的に梅毒にかかっている何千という子供がいるのである。このような我々を悪魔的な残酷さに導く教義が,どうして道徳に良い影響を与えるなどと考えることができるのか,私には理解できない。

The conception of Sin which is bound up with Christian ethics is one that does an extraordinary amount of harm, since it affords people an outlet for their sadism which they believe to be legitimate, and even noble. Take, for example, the question of the prevention of syphilis. It is known that, by precautions taken in advance, the danger of contracting this disease can be made negligible. Christians, however, object to the dissemination of knowledge of this fact, since they hold it good that sinners should be punished. They hold this so good that they are even willing that punishment should extend to the wives and children of sinners. There are in the world at the present moment many thousands of children suffering from congenital syphilis who would never have been born but for the desire of Christians to see sinners punished. I cannot understand how doctrines leading us to this fiendish cruelty can be considered to have any good effects upon morals.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
加虐の対象が自分に向かえば自虐となる。加虐も自虐もどちらもさけるべき害悪であり,そのような感情を抱いた場合はよくよくその原因を考える必要がある。