ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.16

「意識」の問題は,ことによると,もっと難しい問題かも知れない。我々(人間)は「意識を持っている」が棒切れや石は意識を持っていない,と言う。我々は目が覚めている時には「意識を持っている」が,眠っている時には意識を持っていないと言う。我々がこのように言う時,何かを意味していることは確かであり,また,何か真実であることを意味している。しかし,真実であることは何かについて,いくらかでも正確にその内容を述べることは困難であり,また,そのためには説明の仕方を変える必要がある。  我々が「意識を持っている」という時には,二つのことを意味している。即ち,一方ではある一定のやり方で(我々は我々の)環境に反応するということを意味し,他方では内省によって(on looking within)我々の思考や感情の中に,無生物の中には見出されないある種の質(性質)を発見するように思われるということを意味している(我々をとりまく)環境に対する我々の反応について言えば,それは何か「について(関して)」(現在)意識していることにある(で成り立っている)。もしあなたが「へい(おい)」と叫ぶなら,人間は周囲を見回すが,石はそうしない。そのような場合に,あなたが周囲を見回す時,それはあなたが音が聞こえたからだということをあなたは知っている(理解している)。人が外界にある事物を「知覚する」ことを想定できた限り(において),人は知覚においてそれらを「意識した」という事ができる。現在,我々が(確実に)言うことができるのは,我々(人間)は刺激に反応するし -石が反応する刺戟はより少ないが- 石もまた反応する,ということだけである(注:ここでは,刺激にもいろいろな種類があり,石に話しかけるという刺激をしても石は反応しない,ということを言っている。つまり「fewer」というのは量的な問題というよりもどちらかというと「質的」な問題である,ということなので訳し方に要注意)。従って,外的「知覚」に関する限り,我々(人間)と石との相違は程度の差にすぎない。(注:人間からみれば「質的な」問題に見えるが,人間よりずっと高度な生命体から見れば(人間とは異なる)「質的な問題」かもしれない、と言えそう)。

Chapter 5: Soul and body, n.16
The question of “consciousness” is perhaps rather more difficult. We say that we are “conscious,” but that sticks and stones are not ; we say that we are “conscious” when awake but not when asleep. We certainly mean something when we say this, and we mean something that is true. But to express with any accuracy what it is that is true is a difficult matter, and requires a change of language. When we say we are “conscious,” we mean two things ; on the one hand, that we react in a certain way to our environment ; on the other, that we seem to find, on looking within, some quality in our thoughts and feelings which we do not find in inanimate objects. As regards our reaction to the environment, this consists in being conscious “of” something. If you shout “Hi,” people look round, but stones do not. You know that when you yourself look round in such a case, it is because you have heard a noise. So long as it could be supposed that one “perceives” things in the outer world, one could say that, in perception, one was “conscious” of them. Now we can only say that we react to stimuli, and so do stones, though the stimuli to which they react are fewer. So far, therefore, as external “perception” is concerned, the difference between us and a stone is only one of degree.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-160.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.15

 その対象(物)が主な原因であるような何か我々(の身体/感覚器官)に起こり、そうして,その対象に対して我々が推論することを許すような性質を持っているような何か我々(の身体/感覚器官)に対して起こる時,おおざっぱな意味で(in a loose sense),我々はその対象を「知覚」すると言うことが出来る。ある人物が話しているのを聞く時,我々の聞くことの内にある相違(点)はその人物の話していることの内にある相通(点)に対応している。(対象とその人物との間に)介在する媒体の影響はおおざっぱに言って定常的であり,従ってほとんど(more or less)無視してもよいだろう(注:Those chairs are more or less the same. それらの椅子はほぼ同じ)。同様に,我々が赤い斑点青い斑点隣り合っているのを見る時,その赤い光と青い光がやってくるそれぞれの場所(注:2つの光の発生源)の間にある相違は -両者の相違は赤の感覚と青の感覚との間にある相違と類似していると想定することはできないけれども- 赤い光がくる場所と青い光がくる場所との間に何らかの相違があることを想定する権利を持っている。このように,我々は「知覚」概念を救う試みをしてもよいかも知れないが,その試みに正確さを与えることに決して成功しないだろう。両者の間にある媒体は常にある種の歪みを生じさせる影響力を有している。(即ち)赤い場所は中間にある霧(やもや)のために赤く見えているのかも知れないし,また(あるいは)青い場所は我々が色眼鏡(サングラス)をつけているため青く見えるのかも知れない(注:荒地出版社刊の津田訳では「coloured glasses」を「色ガラス」と訳出。やれやれ)。我々が通常「知覚」と呼んでいる種類の経験から(当該)対象に関して推論をするためには,我々は物理学や感覚器官の生理学について知らなければならず,また我々と対象との間の空間に何があるかについても徹底的に(網羅的に)知らなければならない。このような知識(情報)が全て与えられ,また,外界(外的世界)の実在が仮定(想定)されるなら,「知覚される」対象についてある種の高度に抽象的な知識(情報)を引き出すことが出来る。しかし,「知覚」という言葉の中に含まれているあらゆる直接性(immediacy)や温かさは,難しい数学的公式による推論過程のなかで消滅してしまっているであろう。太陽のように遠く隔った(ところにある)対象の場合には,このことを理解するのは困難ではない。しかし,我々が触れ,匂いを嗅ぎ,味わうもの(注:身近なもの)に関しても,同様に真理である。なぜなら,そのようなものの「知覚」も,神経を通って脳に達する複雑な(elaborate 入り組んだ)過程によるものだからである。

Chapter 5: Soul and body, n.15
We can say, in a loose sense, that we “perceive” an object when something happens to us of which that object is the main cause, and which is of such a nature as to allow us to make inferences as to the object. When we hear a person speaking, the differences in what we hear correspond to differences in what he says ; the effect of the intervening medium is roughly constant, and may therefore be more or less ignored. Similarly, when we see a patch of red and a patch of blue side by side, we have a right to assume some difference between the places from which the red and blue light come, though this difference cannot be supposed to resemble the difference between the sensation of red and the sensation of blue. In this way we may attempt to save the concept of “perception,” but we shall never succeed in giving it accuracy. The intervening medium always has some distorting effect : the red place may look red because of intervening mist, or the blue place blue because we are wearing coloured glasses. To make inferences as to the object from the sort of experience which we naturally call a “perception,” we must know physics and the physiology of the sense-organs, and we must have exhaustive information about what is in the intervening space between us and the object. Given all this information, and assuming the reality of the external world, we can derive some highly abstract information as to the object “perceived.” But all the warmth and immediacy that are implicit in the word “perception” will have vanished in this process of inference by means of difficult mathematical formula. In the case of distant objects, like the sun, this is not difficult to see. But it is equally true of what we touch and smell and. taste, since our “perception” of such things is due to elaborate processes which travel along the nerves to the brain.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-150.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.14

 心理学及び物理学は,より科学的になるにつれ,両者の伝統的概念はますます精度の高い新しい概念に道を譲るようになる(とって代わられることになる)。物理学はごく最近まで,物質と運動で満足していた。そして,物質は -(今日まで)哲学的契機(本質的構成要素)において(in philosophical moments)そのように考えられてきたけれども- 専門的には(technically),中世的な意味での実体であった。物質と運動は,今日では,専門的にも適切でないことがわかっており,理論物理学者のやり方(procedure)が科学哲学の要求と大いに一致するようになってきている(注:come into line with と一列に並ぶ;考え方などが~と一致する)。同様に,心理学も「知覚」や「意識」といった概念を放棄する必要性を認めつつある。なぜなら,これらの概念は正確さに欠けることが見出されたからである。このことを明らかにするため,それぞれの概念について少しく述べておく必要があろう。 「知覚」は,一見,まったく直截(straightforward 単刀直入で明快)(な言葉/表現)に思われる(注:津田訳では「完全な表現」←なにが完全なのか?)。我々は太陽や月を(目で=視覚で)知覚」し,語られる言葉を(耳で=聴覚で)「知覚」し,我々が触れる物の硬さや柔らかさを(手で=触覚で)「知覚」し,腐った卵の臭いや辛子の味を(舌で=臭覚で)「知覚」する。我々がこのように記述する出来事(事象)についてはまったく疑問の余地はない。疑わしいのはその記述(の方)のみである。我々が太陽を「知覚」する時,(その知覚が生じるまでに)長い因果の過程が存在する。まず,太陽と(知覚する)人間との間にある9300マイルの空間のなかに因果関係があり,次に(刺激を受ける)眼の中に,視神経の中に,そうして,脳のなかに因果関係が存在している。我々が太陽を見ているという最後の心的出来事(精神現象)は,太陽それ自体多くの類似性があるとは思えない(注:bear much resemblance to 多くの類似性を有する)。太陽は,カントの物自体と同様に,我々の(直接的な)経験の外側にあり続けており,たとえ(なんらかのことが)知られうるにしろ(if at all),それは我々が「太陽を見ている」と呼んでいる経験からの困難な類推によってである。我々は太陽が我々の経験外に存在していると想定する。なぜなら,多くの人々が同時に太陽を見るからであり(注:自分の経験の中にしかなければ同時に他の人が太陽を見ることはない)であり,また,あらゆる種類のものごとが,月の光のように(注:月の満ち欠け,月蝕,その他)、観察者(人間など)のいないいろいろなところで太陽が影響を与えていると想定することにより,最も容易に説明される(説明できる)からである。しかし,我々が感覚作用の精密な物理的な因果関係を理解する以前に理解していると思っていたほど,我々は,直接的かつ単純な意味で,太陽を「知覚」してはいないのは確かなことである。

Chapter V Soul and Body, n.14
As psychology and physics become more scientific, the traditional concepts of both give way increasingly to new concepts capable of greater accuracy. Physics, until very recently, was content with matter and motion ; and matter, however it may have been thought of in philosophical moments, was, technically, substance in the mediaeval sense. Matter and motion have now been found inadequate even technically, and the procedure of theoretical physicists has come much more into line with the demands of scientific philosophy. Psychology, in like manner, is finding it necessary to give up such concepts as “perception” and “consciousness,” because it is found that they are incapable of precision. To make this plain, a few words about each will be necessary. “Perception” seems, at first sight, perfectly straightforward. We “perceive” the sun and moon, the words we hear spoken, the hardness or softness of the things we touch, the smell of a rotten egg, or the taste of mustard. There is no doubt about the occurrences of which we give this description ; it is only the description that is questionable. When we “perceive” the sun, there has been a long causal process, first in the ninety-three million miles of intervening space, then in the eye, the optic nerve, and the brain. The final “mental” event which we call seeing the sun cannot be supposed to bear much resemblance to the sun itself. The sun, like Kant’s thing-in-itself, remains outside our experience, and only to be known if at all, by a difficult inference from the experience which we call “seeing the sun.” We suppose that the sun has an existence outside our experience because many people see it at once, and because all sorts of things, such as the light of the moon, are most simply explained by assuming that the sun has effects in places where there are no observers. But we certainly do not “perceive” the sun in the direct and simple sense in which we seem to do so before we have realized the elaborate physical causation of sensations.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-140.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.13

 心理学(人間の)意志に関する理論に戻ろう。多分、大部分の,我々(人間)の意志には原因があることは,常に明らかである。しかし,正統派の哲学者たちは,これらの原因は物理的世界(物的世界)における(諸)原因とは異なり,必ずしも結果を伴うものではない,と主張した(necessitate their effects 結果を必要とする,結果を伴う)。最大限強い欲求にも純粋な(混じりけのない)意志行為(注:機械的な行為ではなく意志が介在する行為)によって抵抗することが常に可能であると,彼らは主張した(注:sheer 混ぜ物のない;全くの/荒地出版社刊の津田訳では「a sheer act of will」を「意志の全力でもって」と訳出している。/ここでは全力かそうでないかは関係ないことに気づくべきであろう)。こうして,我々(人間)の行為が強い感情(激情)によって導かれる時には原因があるゆえに(我々は)自由ではないが,時に「理性」と呼ばれ,時に「良心」と呼ばれる能力(function 機能・働き)が存在し,その導きに従う時,理性や良心は我々に本物の自由を与える、と考えられるようになった。(また)こうして,単なる気まぐれ(caprice)と対立する「真の」自由は,道徳律への服従と同一視された。ヘーゲル学派(ヘーゲル主義者たち)はさらに一歩を進め,道徳律を国家の法律と同一視し,そうして「真の」自由は警察に従うことにあった(注意:つまり国家権力に従うこと)。この説は政府によって大いに好まれた(のであった)。  けれども,(人間の)意志には時に(時々)原因がないという説(理論)を維持することはとても困難であった。最も有徳な行為さえ,動機が(まったく)ないとは言えない。(たとえば)人は,神を喜ばしたいとか,隣人あるいは自分自身の是認を得たいとか,他人(誰か)が幸せであるのを見たいとか,苦痛を軽減したいとか(いった動機である)。これらの欲求の中の一つ(どれか)は善い行ないを起こさせる可能性があるが,もし人にある種の善い欲求が存在していないなら,その人は道徳律が是認するようなことをしないだろう。我々(人間)は今日,欲求の(いろいろな)原因について,以前我々が知っていたよりずっと多くのことを知っている。(その欲求の原因として)時には内分秘腺(ductless glands)の働きの中にその原因が発見され,時には初等教育に,時には忘れていた(過去の)経験に,ときには是認されたいという欲求の中に,その他(の中に)(欲求の)動機が発見される。ほとんどの場合,多くの異なった起源のものが(個々の)欲求の因果関係(the causation of a desire)の中に入ってくる(enter into ~の一部となる)。そうして,我々(人間)が決意する時(何かを自分で決める時) -我々を(その欲求の)反対の方向に押しやろうとする別の欲求が同時に存在しているかも知れないが- 何らかの欲求の結果として決意をしていることは明らかである。そのような場合,トマス・ホッブスが言っているように,意志は熟慮における「最後の(貪欲な)欲求」(the last appetite in deliberation)である。このようにして,全く原因のない意志行為を防御することはできない。このことが倫理学においてどのような結果をもたらすかについては,後の章で取り扱うことにしよう。

Chapter 5: Soul and body, n.13
To return to psychology and the theory of will ; it was always obvious that many, perhaps most, of our volitions have causes ; but orthodox philosophers maintained that these causes, unlike those in the physical world, do not necessitate their effects. It is always possible, so they maintained, to resist even the most powerful desires by a sheer act of will. Thus it came to be thought that when we are guided by passion our acts are not free, since they have causes, but that there is a faculty, sometimes called “reason” and sometimes “conscience,” which, when we follow its guidance, gives us real freedom. Thus “true” freedom, as opposed to mere caprice, was identified with obedience to the moral law. The Hegelians took a further step, and identified the moral law with the law of the State, so that “true” freedom consisted in obeying the police. This doctrine was much liked by governments. The theory that the will is sometimes uncaused was, however, very difficult to maintain. It cannot be said that even the most virtuous acts are unmotived. A man may wish to please God, to win his neighbours’ approval or his own, to see others happy or to alleviate pain. Any one of these desires may cause a good action, but unless some good desire exists in a man he will not do the things of which the moral law approves. We know much more than we knew formerly as to the causes of desires. Sometimes they are to be found in the working of the ductless glands, sometimes in early education, sometimes in forgotten experiences, sometimes in the desire for approval, and so on. In most cases, a number of different sources enter into the causation of a desire. And it is clear that, when we make a decision, we do so as a result of some desire, though there may at the same time be other desires pulling us in a contrary direction. In such cases, as Hobbes said, will is “the last appetite” in deliberation. The idea of a wholly uncaused act of volition is thus not defensible. With the results of this in ethics we shall be concerned in a later chapter.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-130.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.12

 この説(心身並行説)は信じ難い上に,自由意志を救えないという欠点がある。心身並行説では,身体の状態心の状態との間には厳密な対応があると想定されており(There wa supposed to be),従って,どちらか一方(の状態)を知ることができれば他方(の状態)も理論的に(は)推論可能だと考えられた(のである)。この対応説を知っており,かつ,物理学の法則も知っている者は,充分な知識とスキルさえあれば,物理的な出来事(事象)と同様に心的出来事(事象)(の生起を)を予言可能になる。いずにせよ(in any case)心的な意志作用は,もしそれに身体的な表現(manifestations 現れ)が伴わなければ無用なものとなる。あなたは「今日は(こんにちは/お元気ですか」と言おうとする時,それは身体的行為(物理的な行為)であるので,物理学の法則が支配した(determined 決定した)。そうして,もしあなたが反対の(意味の)ことを言うことが事前に決定していたとするなら(=こんにちは、という事が物理的/身体的に事前に確定していたとするなら),「さようなら」 と言おうと「意志する」こともできたと信ずることはほとんど慰めにならないであろう(注:精神は物質に影響をまったく与えないというなら,「さようなら」と言いたくても言えない、ということ)。  従って,18世紀のフランスにおいて,このデカルト説(心身並行説)が,人間を完全に物理学の法則によって支配されるものとして扱う純粋な唯物論に席を譲ったことは驚くべきことではない(注:give place to 席を譲る,~にとって代わられる)。この哲学(唯物論哲学)においては,(人間の)意志はもはやいる場所はなく,罪の概念は消失する。魂(精神)といったものはまったく存在せず,従って,人体の中で一時的に結合するバラバラの個々の原子の不滅(不死)以外には不滅(不死)なものは存在しない唯物論哲学は -フランス革命を過激なものにする一つの要因になり- (フランス革命中)恐怖の的となり,恐怖政治の時代(注:フランス革命時にロベスピエールを中心とするジャコバン派が行った統治のこと)以後は,当初はフランスと戦っている全ての人々にとって,(また)1814年以後はフランス政府を支持した全ての人々にとって,恐怖の対象となった((注:ナポレオン戦争中の1814年5月30日に,フランス帝国と第六次対仏大同盟の間の戦争を終わらせたパリ条約が締結された。) 英国は正統信仰にあと戻りし,ドイツはカントの後継者たちの理想主義哲学(idealistic philosophy)を採用した(idealistic philosophy 理想主義。idealism は理想主義と訳されたり,観念論と訳されたりするが,ここでは理想主義が適切と思われる)。次に,ロマン主義(浪漫主義)運動が起こり,感情を好み,人間の行為を数学の公式によってコントロールすることに耳を傾けようとはしなかった。  その間,人体生理学において,唯物論を嫌った人たちは,神秘主義あるいは「生命力」(vital force)の中に逃避した(注:たとえば,「生命に非生物にはない特別な力を認める」生気論(italism)など)。科学は決して(生きた)人体を理解できないと考える者もいれば,化学や物理学の原理以外の原理に頼る(訴える)ことによってのみ科学は人体を理解することができると宣言する者もいた。後者には現在いまだ少数の支持者がいるが,両方の見解のどちらも,今日では生物学者の間にあまり人気がない。胎生学,生化学,有機化合物の人工生産等においてなしとげられてきた成果により,生命体の特質化学や物理学の言葉(用語)によって完全に説明可能となることがますます有り得そうになってきている。もちろん,進化論は動物の体に適用される原理は人間の身体には適用され得ないと想定することを不可能にしてきた(してきている)。

Chapter 5: Soul and body, n.12
This theory, besides being difficult to believe, had the disadvantage that it could not save free will. There was supposed to be a strict correspondence between states of body and states of mind, so that, when either was known, the other could theoretically be inferred. The man who knew the laws of this correspondence, and also the laws of physics, could, if he had enough knowledge and skill, predict mental occurrences as well as physical ones. In any case, the mental volitions were useless if no physical manifestations followed. The laws of physics determined when you would say “how do you do,” since this is a physical action ; and it would be small consolation to believe that you could will to say “goodbye” if it was foreordained that you should in fact say the opposite. It is not surprising, therefore, that the Cartesian doctrine gave place, in eighteenth-century France, to pure materialism, in which man is treated as wholly governed by the laws of physics. Will no longer has any place in this philosophy, and the concept of sin disappears. There is no soul, and therefore there is no immortality except that of the separate atoms which are temporarily joined together in the human body. This philosophy, which was supposed to have contributed to the excesses of the French Revolution, became an object of horror, after the Reign of Terror, first to all who were at war with France, and then, after 1814, to all Frenchmen who supported the government. England relapsed into orthodoxy, Germany adopted the idealistic philosophy of Kant’s successors. Then came the romantic movement, which liked emotions and would not hear of the control of human actions by mathematical formulae. In human physiology, meanwhile, those who disliked materialism took refuge either in mystery or in the “vital force” : some thought that science could never understand the human body, others declared that it could only do so by invoking principles other than those of chemistry and physics. Neither of these views has now much popularity among biologists, though the latter still has a few supporters. The work which has been done in embryology, in bio-chemistry, and in the artificial production of organic compounds, makes it more and more probable that the characteristics of living matter are wholly explicable in terms of chemistry and physics. The theory of evolution has, of course, made it impossible to suppose that principles applicable to animal bodies are not applicable to those of human beings.  出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.11

 最初の困難は力学の諸法則の発見によって生じた。17世紀の間に,実験や観察が真理であることを示すように思われた(力学の)諸法則は全ての物質の運動を完璧に示しているように思われるということが明らかになった。動物や人間の肉体のために例外を設ける理由はまったく存在しないように思われた。デカルトは「動物」は自動機械(automata オートマタ=オートマトン)であるという推論結果(推断)を引き出したが,なおも「人間」については意志は身体運動を引き起こすことができると考えた。(しかし)物理学の進歩はすぐに彼の折衷案(compromise 妥協案)は不可能であることを示し(物理学の進歩によって示され),また,彼の後継者たちは,心(精神)は物(物質)に何らかの影響を与えることができるという見解を放棄した。彼らは,逆に,物質もまた心(精神)にまったく影響を与えることはできないとを主張することによって天秤(scales てんびん)(の釣り合い)を維持しようとした(注:荒地出版社刊の津田訳では「物質もまた心に影響を与ええないことを主張することにより公平な裁きをしようとした」と訳出されており,ニュアンスが異なってしまっている)。このことは,彼らを,精神と物質はいずれもそれぞれの法則に従い,お互いに影響しあわないという心身並行説(の主張)へと導いた。(たとえば)あなたがある人に会い,「今日はお元気ですか?」と言おうと決意すると,あなたのその決意は精神の系列に属する。しかし,その決意から生じると人間には思われる唇や舌の動きは,本当は(実際は)純粋に力学的な原因(要因)を持っている。彼ら(デカルトの後継者たち)は,心(精神)と肉体(身体)とを,両者とも完全な時間を刻む,2つの時計と対照させた(compared ~ to)。(即ち)一方の時計がある(特定の)時刻に達すると,一方は他方にまったく影響を与えないけれども、両方の時計は(同時に)時を告げる(同時に鳴る)。もしあなたがどちらか一方の時計を見ることができるが他の時計はその時計の音でだけ知ることができるとすれば,あなたは見ることが出来る時計がその(時刻を告げる)音の原因だと思うだろう(注:つまり,心と物は独立しており,両者はお互いを知ることはできないということ)。

Chapter V Soul and Body, n.11
The first difficulty arose through the discovery of the laws of mechanics. During the seventeenth century it became apparent that the laws which experiment and observation seemed to show to be true were such as to determine completely all the motions of matter. No reason appeared for making an exception in favour of the bodies of animals or men. Descartes drew the inference that animals are automata, but still thought that in men the will could cause bodily movements. The progress of physics quickly showed his compromise to be impossible, and his followers abandoned the view that mind could have any effect on matter. They tried to hold the scales even by maintaining that, conversely, matter could have no effect on mind. This led them to the theory of two parallel series, mental and physical, each with its own laws. When you meet a man and decide to say “how do you do,” your decision belongs to the mental series ; but the movements of lips and tongue and larynx which seem to result from it really have purely mechanical causes. They compared mind and body to two clocks which both keep perfect time : when one reaches the hour, both strike, though the one has no influence on the other. If you could see one of the clocks, but only knew the other through its strike, you would think that the one you could see caused the strike.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-110.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.10

 魂(精神)と肉体の関係を考えることにおいて,現代哲学との調和が困難なのは実体の概念だけではなかった。(即ち)因果律(の概念)に関しても同様な困難があった。  原因の概念(観念)は,主とし,て罪(注:キリスト教の原罪)との関連で神学(キリスト教神学)の中にに入ってきた(entered into)。罪(原罪)意志(will)の属性であり(付きものであり),意志(volition)は行為の原因だった(とされた)。しかし,意志はそれ自体必ずしも先行する原因の結果ではありえない。なぜなら,もしそうであったとすると,我々(人間)は自分の行為に対し責任を持たなくてよいことになるからである(注:自分の意志とは関係なく,自分の行為には抵抗できない原因があるとしたら,人間は自分の行為に責任を持てない=持たなくて良い,ということになってしまう)。従って、罪(原罪)の観念を保護するためには,(人間の)意志は(少なくとも時には)原因ではなく,また,意志は原因でなければならない,ということが等しく必要であった(注:場合によって,意志は原因となったりなかったりする必要があった)。このことは,精神現象の分析及び両者(心と肉体)の関係に関する多くの命題を(必然的に)伴った。そうして,これらの命題のいくつかのものは時代が進むに連れて維持することが極めて困難になった

Chapter 5: Soul and body, n.10 In considering the relations of soul and body, it was not only the conception of substance that was found difficult to reconcile with modern philosophy ; there were equal difficulties as regards causality. The conception of cause entered into theology chiefly in connection with sin. Sin was an attribute of the will, and the will was the cause of action. But volition could not itself be always the result of antecedent causes, since, if it were, we should not be responsible for our actions ; in order to safeguard the notion of sin, therefore, it was equally necessary that the will should be (at least sometimes) uncaused, and that it should be a cause. This entailed a number of propositions both as to the analysis of mental occurrences and as to the relation; of mind and body, and some of these propositions, as time went on, became very difficult to maintain.  出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:  情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-100.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.9

 哲学がこのような中途半端な場所(a half-way house)に留まっていることは不可能だった。カントの学説の懐疑的な部分のほうが,正統説を救おうと試みた部分よりも,より永続的な価値を持っていることが証明された。まもなく,その不可知性が強調された旧い「実体」(の概念)にすぎない物自体の存在を想定(仮定)すべき必要のないことがわかった。カントの理論において、観察可能な「現象」は単なる見かけ(上のもの)であり、それらの現象の背後にある実在は、もし倫理の要請(← the postulates of ethics 倫理の公理/仮定/前提/必要条件)がなければ,単に存在(実在)するということだけ(only the bare existence)が知られるようなあるもの(何らかのもの)である(注:逆に,倫理的な問題については,その倫理の中身がわからないといけないという要請が出てくる,ということ)。カントの後継者たちにとって - カントが示唆した考え方がヘーゲルにおいて頂点に達した後 ー 「現象」は我々が知りうるいかなる実在をも(全て)持ち、知覚されえないもの(知覚できないもの)に属する上級の品質の実在(a superior brand of reality)を想定する必要はないことが明らかになった。もちろん、そのような上級の品質の実在が「あるかも」知れないが、「存在しなければならない」ということを証明する論拠は薄弱である。従って、その可能性は、現在知らている,あるいは,今後知られるかも知れないことの領域外にあることから,無視されるべき無数の単なる可能性の一つにすぎない。そうして、知られうることの領域内には、実体の概念あるいは主観や客観という実体の概念の修正版をいれる余地はまったくない我々が観察しうる主要な事実はそのような二元論を持っておらず,また,「事物」あるいは「人物」を,現象の集合以外のものとみなす理由をまったく与えない(のである)。

Chapter V Soul and Body, n.9
It was impossible for philosophy to rest long in such a half-way house, and the sceptical parts of Kant’s doctrine proved of more lasting value than those in which he tried to rescue orthodoxy. It was soon seen that there was no need to assume the existence of the thing-in-itself, which was merely the old “substance” with its unknowability emphasized. In Kant’s theory, “phenomena,” which can be observed, are only apparent, and the reality behind them is something of which we should know only the bare existence if it were not for the postulates of ethics. To his successors – after the line of thought which he suggested had reached a culmination in Hegel – it became evident that “phenomena” have whatever reality we can know of, and that there is no need to assume a superior brand of reality belonging to what cannot be perceived. There may, of course, be such a superior brand of reality, but the arguments proving that there must be are invalid, and the possibility, therefore, is merely one of those countless bare possibilities which should be ignored because they lie outside the realm of what is known or may be known hereafter. And within the realm of what can be known there is no room for the conception of substance, or for its modification in the form of subject and object. The primary facts which we can observe have no such dualism, and give no reason for regarding either “things” or “person” as anything but collections of phenomena.  出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-090.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.8

 ヒユーム(の問い)に答えようと企図したカントは,その難解さ(不明瞭さ)ゆえに深遠と思われた一つの方法を見つけ出した,と考えた(注:profound 深遠:簡単には理解できないことからカントの考えは深い=深遠だと思われたということ。因みに荒地出版社の津田訳では「深刻」と訳している。何が深刻?)。彼が言うには。感覚(器官)に(おいて)物(もの/事物)は我々に作用するが(act upon 影響を与える),我々(人間)はその本性上,必然的に物それ自体(the things as they are in themselves)ではなく,我々(人間)が多くの(多様な)主観的な附加物を加えた結果生ずる何か別のものを知覚するように強いられる。これらの主観的附加物のなかで最も注目に値するのは,時間と空間である。カントによれば,我々の本性は事物があたかも時間や空間の中に存在しているかのように見る(見える)ように強いるが(余儀なくするが),事物そのものは,時間や空間の中に存在はしていない。物自体としての自我(あるいは魂)も,観察可能な現象としてはその両者(時間と空間)の中に存在しているように思われるが,実際はそうではない。我々が知覚において観察できるのは,現象としての自我の現象としての対象に対する関係であるが,その両者の背後には真の「自我」と真の「物自体」が存在し,そのどちらも(ever 決して)観察することはできない。 では,なぜそれら(両者/真の自我と真の物自体)は存在する(実在する)と想定(仮定)するのか? なぜならそう想定(仮定)することが宗教と道徳のために必要だからである。人間は,科学的な手段によっては真の自我について何も知ることはできないがそれが自由意志をもつこと,有徳でありうることあるいは罪深くありうること,(時間の中においてではないが)不死であること,この世において善人が明らかに不公平な苦しみを受けていることは天国(あの世)での歓喜によって償われなければならないこと(など)を我々は知っている(とカントは言う)。  このような理由(根拠)で,カントは -彼は「純粋」理性は神の存在(実在)を証明することはできないと考えていた- その証明(神の存在証明)は「実践」理性にとっては -神の存在は我々が道徳の領域において直覚的に知ることからの必然的結果であることから(a necessary consequence 必然的結果)- 可能であると考えた

Chapter 5: Soul and body, n.8
Kant, who undertook to answer Hume, thought he had found a way out, which was considered profound because of its obscurity. In sensation, he said, things act upon us, but our nature compels us to perceive, not the things as they are in themselves, but something else, which results from our having made various subjective additions. The most notable of these additions are time and space. Things-in-themselves, according to Kant, are not in time or in space, though our nature obliges us to see things as if they were. The Ego (or Soul), as a thing-in-itself, is also not in time or space, though as an observable phenomenon it appears to be in both. What we can observe in perception is a relation of a phenomenal Self to a phenomenal Object, but behind both there is a real Self and a Real thing-in-itself, neither of which can ever be observed. Why, then, assume that they exist? Because this is necessary for religion and morals. Although we cannot, by scientific means, know anything about the real Self, we know that it has free will, that it can be virtuous or sinful, that (though not in time) it is immortal, and that the apparent injustice of the sufferings of the good here on earth must be redressed by the joys of heaven. On such grounds Kant, who held that “pure” reason cannot prove the existence of God, thought that this was possible for the “practical” reason, since it was a necessary consequence of what we intuitively know in the sphere of morals.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-080.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.7

 自分(私)は昨日の自分(私)と同じ人物であるという「ある種の」意識が明らかに存在する。また,もっと明白な例をあげれば,もし私がある一人の人を見ると同時に彼が話しをしているのを聞いたとすれば,見ている私と聞いている私とは同じ(同一人物)であるという「ある種の」意識が存在している。こうして,私がなんらかの物を知覚する時,私と事物との間には関係が存在すると考えられるようになる。(即ち)知覚する(ところの)私は「主観」であり,知覚されるもの(事物)は「客観」である。不幸なことに,(結局)主観については何も知ることができないことがわかった(turned out 半目した)。即ち,主観は常に他の事物を知覚しているが,それ自身を知覚することはできない(のである)。D.ヒユームは,大胆にも主観というようなものは存在しないと否定したが,このことで決して主観は否定されない(?)(注:but this would never do 精確な意味がよくわからない)。もし主観が存在しないとしたら不死であるものは何か? 自由意志を持っている(有している)ものは何か? 地上で罪を犯し地獄で罰せられるものは何か? これらの疑問に回答不能となる(注:なってしまう→道徳・倫理の問題がなくなってしまう)。ヒユームは答えを見出したいとは思わなかったが,他の者たちはヒュームほどの図太さ(大胆さ)(hardihood)にかけていた。

Chapter V Soul and Body, n.7
There is obviously some sense in which I am the same person as I was yesterday, and, to take an even more obvious example, if I simultaneously see a man and hear him speaking, there is some sense in which the I that sees is the same as the I that hears. It thus came to be thought that, when I perceive anything, there is a relation between me and the thing : I who perceive am the “subject,” and the thing perceived is the “object.” Unfortunately it turned out that nothing could be known about the subject : it was always perceiving other things, but could not perceive itself. Hume boldly denied that there was such a thing as the subject, but this would never do. If there was no subject, what was it that was immortal? What was it that had free will? What was it that sinned on earth and was punished in hell? Such questions were unanswerable. Hume had no wish to find an answer, but others lacked his hardihood,
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-070.HTM