ラッセル『権力-その歴史と心理』第7章 革命的な権力 n.5

 ローマ皇帝コンスタンティヌス一世の(キリスト教への)改宗教会と国家との間に調和(和合)をもたらすだろうと,当時想った人がいたかもしれない。けれども,そうならなかった。初期のキリスト教徒の皇帝(たち)はアリウス派 (注:イエスの神聖を否定して異端とされたキリスト教の一派) であり,また、西洋における正統の皇帝たちの時期は,アリウス派のゴート族やヴァンダル族の侵入のために,きわめて短いものであった。後,東方の皇帝たちのカトリック信仰が疑問の余地がなくなった時,エジプトは,キリスト単性論(注:monophysite キリストにはただ神的な一性があるのみという主張 )にたっており,西アジアの大部分は,ネストリウス派(注:キリスト教異端派の一派で,キリストには人格と神としての位格の二つのペルソナがあったと主張)であった。こうした国々の異端派の人々は,予言者モハメッドに従う人々(注:the Prophet と大文字になっていることに注意)を,(キリスト教の)ビザンチン政府ほど迫害的でないとして歓迎した。キリスト教会は,キリスト教国家と対抗し,これらの多くの国々において,どこにおいても勝利した。ただ新宗教(イスラム教)のみが,国家に対してキリスト教会を支配する力を与えたのである。

Chapter VII: Revolutionary Power, n.5

It might have been supposed that the conversion of Constantine would lead to harmony between Church and State. This, however, was not the case. The first Christian Emperors were Arians, and the period of orthodox Emperors in the West was very brief, owing to the incursions of the Arian Goths and Vandals. Later, when the adherence of the Eastern Emperors to the Catholic Faith had become unquestionable, Egypt was monophysite and much of Western Asia was Nestorian. The heretics in these countries welcomed the followers of the Prophet, as being less persecuting than the Byzantine government. As against the Christian State, the Church was everywhere victorious in these many contests; only the new religion of Islam gave the State power to dominate the Church.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第7章 革命的な権力 n.4

 我々は人に従うよりもむしろ神に従うべきであるという原則は,キリスト教徒によって二通りに解釈されてきた。(即ち)神の命令は個人の良心に直接伝えられるか,あるいは,教会という媒体を通して間接的に伝えられるか,の二通りに解釈されてきたのである。ヘンリー八世とヘーゲルを除いて,今日まで,神の命令が国家を媒体として伝えられるという考えを抱く者はかつてまったく存在しなかった。こうして,キリスト教の教えは,個人の判断の正しさを支持するか(例:無教会派/神は個人と直接対話),教会を支持するか,どちらかの方法で,国家の弱体化を(必然的に)伴った。理論的には,前者(個人宗教/無教会派)は無政府主義を意味する。後者は教会と国家という二つの権威を意味するが(必然的に伴うが),両者の領域の限界(範囲)を定めるための明確な原則はまったく存在していない。どれがカエサルによって支配されるものであり,どれが神によって支配されるのであるか。キリスト教徒にとっては,全てのものは神のもの(思し召し)だというのが当然であろう。従って,教会の主張は,国家が堪えがたいと見なすだろうものになりがちである。教会と国家の争いは,これまで理論上決して解決されたためしがなく,今日でもやはり,教育のような事柄(問題)においては,依然として未解決のままである。

The principle that we ought to obey God rather than man has been interpreted by Christians in two different ways. God’s commands may be conveyed to the individual conscience either directly, or indirectly through the medium of the Church. No one except Henry VIII and Hegel has ever held, until our own day, that they could be conveyed through the medium of the State. Christian teaching has thus involved a weakening of the State, either in favour of the right of private judgment, or in favour of the Church.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第7章 革命的な権力 n.3

 権力との関係において,キリスト教教義のなかで最も重要なものは,「人は人に従うよりもむしろ神に従うべきである」という言葉であった。この言葉は,ユダヤ人の間を除いて,それ以前に(その言葉が言われた以前に)類似した言葉がまったく存在したことがなかった教え(教訓)であった。確かに,宗教的義務はあったけれども,ユダヤ人やキリスト教徒の間でのこと(事例)を除いて,そのような宗教的義務国家に対する義務と衝突(矛盾)するものではなかった。異教徒たち(非キリスト教徒たち)は,ローマ皇帝の王権神授説の主張はまったく形而上学的な真理に欠けていると見なした時でさえ,皇帝崇拝(礼賛)に進んで黙従した。これに反して,キリスト教徒にとって,形而上学的な真理は最高に重要なものであった。もし自分たちが唯一の真実な神以外のものに礼拝を捧げたならば,それは天罰の危険を招くものだというふうに,彼ら信じていたのであり,地獄に落ちるくらいならばむしろ殉教するほうがより罪が軽いと信じていた。

Chapter VII: Revolutionary Power, n.3

In relation to power, the most important of Christian doctrines was: “We ought to obey God rather than man.” This was a precept to which nothing analogous had previously existed, except among the Jews. There were, it is true, religious duties, but they did not conflict with duty to the State except among Jews and Christians. Pagans were willing to acquiesce in the cult of the Emperor, even when they regarded his claim to divinity as wholly devoid of metaphysical truth. To the Christians, on the contrary, metaphysical truth was of the utmost moment: they believed that if they performed an act of worship to any but the one true God they incurred the risk of damnation, to which martyrdom was preferable as the lesser evil.
 出典: Power, 1938.
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ラッセル『権力-その歴史と心理』第7章 革命的な権力 n.2

 私は,革命的な権力(革命をもたらす権力)について,以下の4つの例を考察することによって,例証(説明)してみよう。

(I) 初期キリスト教; (II) 宗教改革;(III) フランス市民革命とナショナリズム;(IV) 社会主義とロシア革命

(I)初期キリスト教

 私は(ここでは),権力と社会組織に影響を及ぼしたかぎりでのキリスト教に関心をもっており,付随的に(ついでに)述べる場合を除き,キリスト教の個人的宗教の側面(注:無教会主義によく現れている)については対象外とする。

 キリスト教は,その最も初期の時代においては,政治とは全く無関係であった。現代において,この原始的な伝統を最もよく代表しているのは,(キリスト教の)クリスタデルフィアン(注:アデルフィアン派とも呼ばれる/意味はキリストの兄弟姉妹)であり,彼らはこの世の終りが差し迫っていると信じ,世俗の事に関与することを拒否する。けれども,このような態度は,キリスト教の少数派にのみ可能なことである。キリスト教の信者数が増え,キリスト教会が強力になってゆくにつれて,国家に影響を及ぼしたいという欲求が大きくなっていくことは避けがたいことであった。(ローマ皇帝)ディオクレティアヌス(紀元244年~311年)が行なったキリスト教徒の迫害は,この欲求を大いに強めたに違いない。(ローマ皇帝)コンスタンティヌス1世(注:272年-337年/ミラノ勅令を発布してキリスト教を公認)のキリスト教への改宗の動機はいささか(多少)はっきりしないままであるが,主として政治的なもの(動機)であったことは明らかであり,それは,キリスト教会が(当時)政治的に大きな影響力を持つようになっていたことを暗示している。教会の教えとローマ帝国の伝統的な教義との間の違いは非常に大きく,コンスタンティヌス帝の時代に起こった革命(注:キリスト教の公認)は,我々の既知の歴史の上で最重要なもの(出来事)に数えなければならない。

Chapter VII: Revolutionary Power, n.3

I shall illustrate revolutionary power by considering four examples :

(I) Early Christianity; (II) The Reformation ; (III) The French Revolution and Nationalism ; (IV) Socialism and the Russian Revolution.
I. Early Christianity.

I am concerned with Christianity only as it affected power and social organization, not, except incidentally, on the side of personal religion.
Christianity was, in its earliest days, entirely unpolitical. The best representatives of the primitive tradition in our time are the Christadelphians, who believe the end of the world to be imminent, and refuse to have any part or lot in secular affairs. This attitude, however, is only possible to a small sect. As the number of Christians increased and the Church grew more powerful, it was inevitable that a desire to influence the State should grow up. Diocletian’s persecution must have very much strengthened this desire. The motives of Constantine’s conversion remain more or less obscure, but it is evident that they were mainly political, which implies that the Church had become politically influential. The difference between the teachings of the Church and the traditional doctrines of the Roman State was so vast that the revolution which took place at the time of Constantine must be reckoned the most important in known history
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER07_020.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第7章 革命的な権力 n.1

 我々が(これまで)見てきた伝統的な制度は,2つの方法で破綻する可能性がある。(ひとつは)旧制度が基礎を置いている信条や精神的な習慣が,単なる懐疑主義に敗けてしまうことがある(事態が起こる場合がある)かも知れない。そのような場合においては,社会的団結はむきだしの権力の行使によってのみ維持することができる。あるいは(もうひとつは),新しい精神的習慣を伴う新しい信条が,次第に人々の心をつかむようになり,ついには,時代遅れになったと感じられる政府の代りに,新たな確信と調和した政府に置きかえるに足るだけの強さを,この新しい信条が獲得することがある(事態が起こる場合がある)。そのような場合には,新しい革命的権力は,伝統的な権力やむきだしの権力(の両者)と違った諸特徴をもっている。確かに,革命が成功した場合には,革命によって樹立された制度はすぐに伝統的なものになり,また,革命的闘争は,厳しく長引くと,むきだしの権力を求める闘争へと堕落していく(ことも事実である)。にもかかわらず,新しい信条を固守する者は,心理的にみて,野心に動かされた冒険家ともとても異なっており,彼らの及ぼす影響(力)はより重大かつ永続的なものになりがちである(なる傾向がある)。

Chapter VII: Revolutionary Power, n.1

A traditional system, we observed, may break up in two different ways. It may happen that the creeds and mental habits upon which the old regime was based give way to mere scepticism; in that case, social cohesion can only be preserved by the exercise of naked power. Or it may happen that a new creed, involving new mental habits, acquires an increasing hold over men, and at last becomes strong enough to substitute a government in harmony with the new convictions in place of the one which is felt to have become obsolete. In this case the new revolutionary power has characteristics which are different both from traditional and from naked power. It is true that, if the revolution is successful, the system which it establishes soon becomes traditional ; it is true, also, that the revolutionary struggle, if it is severe and prolonged, often degenerates into a struggle for naked power. Nevertheless, the adherents of a new creed are psychologically very different from ambitious adventurers, and their effects are apt to be both more important and more permanent.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER07_010.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第6章 むきだしの権力 n.33

 私はこのこと(権力の監視及びコントロール)は容易だと言うつもりはない。そのためには,ひとつには,戦争の根絶が必要である(必要となる)。なぜなら,戦争は全てむきだしの権力の行使であるからである。(また)そのためには,世界から反抗を生む耐え難い抑圧をなくす必要がある(自由な世界の実現)。(また)そのためには,全世界を通じての生活水準の向上が - 特にインドと中国と日本において少なくとも世界大恐慌前の米国で達せられていた水準まで向上することが - 必要である(注:この本がだされたのが1938年=昭和13年であり,当時の日本は非常に貧しかった。なお,みすず書房版の東宮訳では,before the depression を「不景気前」と誤訳している)。(また)そのためには,古代ローマの護民官に似たような何らかの制度が必要であり,それは人民(国民)全体のためではなく,マイノリティー(少数派)や犯罪者などのような,抑圧されがちなあらゆる階層のために必要である。(さらにまた)そのためには,とりわけ用心深い世論が必要であり,その世論には事実を確認する(確かめる)いろいろな機会が伴っていなければならない。

 特定の個人とか特定の個人の集団の徳(道徳的美点)を当てにすること(信頼を置くこと)は無益である。哲人王(注:頭脳明晰な哲学者が支配者になること)は随分前に怠惰な夢として退けられたが,(今日)哲人政党は -これも同様に間違っているが- 偉大な発見として,歓呼して迎え入れられている。(注:本書の出版は1938年であることから、ドイツにおけるナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)による1933年の政権獲得を指していると思われる。) 権力の問題の真の解決は,少数者による無責任な政治においては見つけることはまったくできないし,それ以外のいかなる近道においても見つけることはできない。しかし,この問題についてのこれ以上の論議は,後の章に譲らなければならない。

Chapter VI: Naked Power, n.33

I do not pretend that this is easy. It involves, for one thing, the elimination of war, for all war is an exercise of naked power. It involves a world free from those intolerable oppressions that give rise to rebellions. It involves the raising of the standard of life throughout the world, and particularly in India, China, and Japan, to at least the level which had been reached in the United States before the depression. It involves some institution analogous to the Roman tribunes, not for the people as a whole, but for every section that is liable to oppression, such as minorities and criminals. It involves, above all, a watchful public opinion, with opportunities of ascertaining the facts.

It is useless to trust in the virtue of some individual or set of individuals. The philosopher king was dismissed long ago as an idle dream, but the philosopher party, though equally fallacious, is hailed as a great discovery. No real solution of the problem of power is to be found in irresponsible government by a minority, or in any other short cut. But the further discussion of this matter must be left for a later chapter.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER06_330.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第6章 むきだしの権力 n.32

 権力は,政府の権力であれ,無政府主義的で冒険的な権力であれ,なければならない(存在しなければならない)。むきだしの権力さえ,政府に対する反逆者(rebels)が存在する限り,あるいは,通常の(並の)犯罪者(criminals)でさえ存在する限り,むきだしの権力はなければならない(存在しなければならない)。しかし,もし人生(人間の生活)が,人類の大多数にとって,(時々)激しい恐怖の瞬間で中断される退屈なみじめなものである以上のもの(ましなもの)であるべきだとすれば,むきだしの権力は可能な限り少なくなければならない。権力の行使は,それがもし理由なき拷問を課することより以上のものであるべきだとするならば,法と慣習という安全装置で(権力の行使)を取り囲み,然るべき熟慮を経て初めて許されるものとし,権力にさらされる人々の利益になるように,しっかりと監視されている人々(権力者)に委託されなければならない。

hapter VI: Naked Power, n.32

There must be power, either that of governments, or that of anarchic adventurers. There must even be naked power, so long as there are rebels against governments, or even ordinary criminals. But if human life is to be, for the mass of mankind, anything better than a dull misery punctuated with moments of sharp horror, there must be as little naked power as possible. The exercise of power, if it is to be something better than the infliction of wanton torture, must be hedged round by safeguards of law and custom, permitted only after due deliberation, and entrusted to men who are closely supervised in the interests of those who are subjected to them.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER06_320.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第6章 むきだしの権力 n.31

奴隷貿易・奴隷売買で富を築いたナント市(フランス)の金持ちたち

 人間(人類)の歴史において,非常に忌むべき行為(注:abominations 複数形であることに注意)の大部分はむきだしの権力と関連している。それは,戦争と結びついたものだけでなく,たとえ戦争ほど目覚ましくはなくとも戦争と同じくらい恐るべき行為と関連している(if = even if)。(たとえば)奴隷制度と奴隷売買コンゴにおける搾取
(注:ベルギーの植民地下のコンゴにおいては,住民は象牙やゴムの採集を強制されていて,規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され,圧制と搾取が行われていた。/因みに,みすず書房版の東宮訳では「コンゴ族の搾取」と誤訳されている。)
産業主義(革命時代)初期にあった(数々の)恐るぺき出来事児童虐待司法拷問(注:正当に公認の職員によって行われた拷問),(過酷な)刑法,監獄(牢獄),救貧院(workhouses),宗教上の迫害ユダヤ民族に対する虐待専制君主の無慈悲で軽薄な行為,今日(注:執筆当時)のドイツおよびロシアにおける政敵に対する信じられない取扱い--これら全ては,無防備な(抵抗する力を持っていない)犠牲者(餌食)に対するむきだしの権力の使用例である。

 伝統に深く根ざしている多くの不正な権力の形態は,一時期はむきだしなものであったはずである(であったにちがいない)。キリスト教徒の妻は,何世紀にもわたって夫に服従してきたが,その理由は聖パウロがそうせよと言ったからである。しかし,ジェイソンとメデアの物語は,聖パウロの教義(妻は夫に服従)が女性一般に受けいれる以前に,男性が経験しなければならなかった苦労(諸困難)を例証している(よく示している)。(訳注:「ジェイソンとメデアの物語」はギリシア神話のなかの一つで,ジェイソンの妻メディアの残酷さを描いた一話。詳しくは、次のページ「> 帰国後のジェイソンとメディア」を参照。
http://palladion.fantasia.to/003-RAY2/010ARGONAUTES09.html )

Chapter VI: Naked Power, n.31

Most of the great abominations in human history are connected with naked power–not only those associated with war, but others equally terrible if less spectacular. Slavery and the slave trade, the exploitation of the Congo, the horrors of early industrialism, cruelty to children, judicial torture, the criminal law, prisons, workhouses, religious persecution, the atrocious treatment of the Jews, the merciless frivolities of despots, the unbelievable iniquity of the treatment of political opponents in Germany and Russia at the present day–all these are examples of the use of naked power against defenceless victims.
Many forms of unjust power which are deeply rooted in tradition must at one time have been naked. Christian wives, for many centuries, obeyed their husbands because St. Paul said they should; but the story of Jason and Medea illustrates the difficulties that men must have had before St. Paul’s doctrine was generally accepted by women.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER06_310.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第6章 むきだしの権力 n.30

 社会主義者である貸金労働者(注:a Socialist と大文字になっているので「社会党員」のことか?)は,自分の収入が雇傭者の収入より少ないことは不正(不正義)だと感ずるかもしれない。そのような場合,彼(賃金労働者)に(そのことに)黙従させるのはむきだしの権力である。経済的に不平等な旧い制度は伝統的なものであり,それ自体として怒り(憤り)を起こさせるものではない。ただし,それは,伝統に反対している人々を除いて(例外)の話である。このようにして,社会主義的な意見が増すごとに,資本家の権力をよりむきだしなものにさせる。この事例(場合)は,異端派(や異教徒)とカトリック教会の権力の事例(場合)に類似している。既に見てきたように,むきだしの権力には,内在している若干の害悪があり,それは,黙従を勝ち得る権力とは対称的なものである。その結果,社会主義的な意見が増すごとに,資本家の権力はそれだけいっそう有害なものになってゆくただし,資本家が(労働者の反抗に対する)恐怖心によって,権力行使の苛酷さが緩和される限りにおいては,話は別である(例外である)。マルクス主義者の(想定した)型の社会が与えられ,全ての貸金労働者が確信を抱いた社会主義者であり,他の全ての人々が確信を抱いた資本主義体制の擁護者だという場合には,勝利をおさめる側がどちらであろうと,敵側に対するむきだしの権力の行使から逃れることはまったくできないであろう。マルクスが予言したこのような状況は,とてもゆゆしき事態であろう。マルクスの弟子たちのプロパガンダは,それが成功をおさめるかぎり,そのような事態を引き起こしがちとなっている。

Chapter VI: Naked Power, n.30

A wage-earner who is a Socialist may feel it unjust that his income is less than that of his employer; in that case, it is naked power that compels him to acquiesce. The old system of economic inequality is traditional, and does not, in itself, rouse indignation, except in those who are in revolt against the tradition. Thus every increase of socialistic opinion makes the power of the capitalist more naked; the case is analogous to that of heresy and the power of the Catholic Church. There are, as we have seen, certain evils that are inherent in naked power, as opposed to power which wins acquiescence ; consequently every increase in socialist opinion tends to make the power of capitalists more harmful, except in so far as the ruthlessness of its exercise may be mitigated by fear. Given a community completely on the Marxist pattern, in which all wage-earners were convinced socialists and all others were equally convinced upholders of the capitalist system, the victorious party, whichever it might be, would have no escape from the exercise of naked force towards its opponents. This situation, which Marx prophesied, would be a very grave one. The propaganda of his disciples, in so far as it is successful, is tending to bring it about.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER06_300.HTM

ラッセル『権力-その歴史と心理』第6章 むきだしの権力 n.29

 経済学においてむきだしの権力が演ずる役割は,マルクスの影響がまだ働いていなかった頃に考えられていたよりも,もっとずっと大きい。若干の事例(場合)において,このことは明らかである。

(たとえば)追はぎがその犠牲者(餌食)から奪い取る戦利品(分捕品)や征服者が敗戦国民から奪い取る戦利品(分捕品)は,明らかにむきだしの権力の問題である。奴隷制度(slavery)も,奴隷が長い習慣から(離れて)黙従しない場合には,そうである(むきだしの権力の問題である)【注:from 離れて/abesent from home 不在で; The town is 3 miles from here 町はここから3マイル離れたところにある。】。

 支払いをする人が怒っているにもかかわらず,(義務として)支払いがなされなければならないのであれば,その支払いはむきだしの権力によって強要されることになる(強制されることになる)。

 そのような怒りは二種類の場合に存在する。一つは,その支払いが慣例になっていない場合であり,もう一つは,見解(ものの見方)の変化から,慣例であるものが不正だと考えられるようになった場合である。以前は,男は,自分の妻の財産を完全に支配していたが,女権拡張運動の結果,この慣習に反逆が起こり,それは法律の改正へと導いた。また以前は,雇傭者は被雇用者の事故に何の責任(義務)も持たなかった。この点においても感情に変化が起き,法律の改正がもたらされた。この種の事例は数え切らないほどある。

Chapter 6: Naked Power, n.29

The part played by naked power in economics is much greater than it was thought to be before the influence of Marx had become operative. In certain cases, this is obvious. The booty extracted by a highwayman from his victim, or by a conqueror from a vanquished nation, is obviously a matter of naked power. So is slavery, when the slave does not acquiesce from long habit. A payment is extorted by naked power, if it has to be made in spite of the indignation of the person making it. Such indignation exists in two classes of cases : where the payment is not customary, and where, owing to a change of outlook, what is customary has come to be thought unjust. Formerly, a man had complete control of the property of his wife, but the feminist movement caused a revolt against this custom, which led to a change in the law. Formerly, employers had no liability for accidents to their employees ; here, also, sentiment changed, and brought about an alteration in the law. Examples of this kind are innumerable.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER06_290.HTM