教師と言えども,自分の子どもの教育は他の教師にまかせたほうがよい?

 ごくまれな場合を除き,教師(先生)は,幼年期においてさえ(即ち,たとえば,4歳以後),父親または母親(either parent)であってはならない。教えるということは,特殊なタイプの技能を必要とする仕事であり,この技能は学ぶことはできるけれども,大部分の親(たち)は学ぶ機会を持っていない。生徒の年齢が低ければ低いほど,より高度の教育技術が必要になる。また,それは別としても,親は正規の教育が始まる前から常に子供と接触してきているので,子供は親に対して,教師(先生)の場合はあまり適切ではない一連の習慣や期待を持っている。その上,親は,自分の子供の発達に過剰に熱心かつ関心を持ちすぎることになりやすい親は子供が利発であれば過度に喜び,愚かであれば腹を立てる(怒る)。わが子を教えないほうがよいことについては,医者が自分の家族の治療を差し控えさせるのと同様な理由がある。
しかし,もちろん私は,親は自然に生じるような知育さえしてはいけない,と言っているのではない。私が言いたいのは,一般的に言って,(両)親は,たとい他人の子供を教える資格が十分にある場合でさえ,正規の教科を教えるのに最上の人間ではない,ということにすぎない。

Except in very rare cases the teacher, even at an early age (i.e. after four, say), should not be either parent. Teaching is work requiring a special type of skill, which can be learnt, but which most parents have not had the opportunity of learning. The earlier the age of the pupil, the greater is the pedagogical skill required. And apart from this, the parent has been in constant contact with the child before formal education began, so that the child has a set of habits and expectations towards the parent which are not quite appropriate towards a teacher. The parent, moreover, is likely to be too eager and too much interested in his child’s progress. He will be inordinately pleased by the child’s cleverness and exasperated by his stupidity. There are the same reasons for not teaching one’s own children as have led medical men not to treat their own families. But of course I do not mean that parents should not give such instruction as comes naturally ; I mean only that they are, as a rule, not the best people for formal school lessons, even when they are well qualified to teach other people’s children.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-150.HTM

<寸言>
教師と言えども,自分の子どもの教育は他の教師にまかせたほうがよいというのは,少し想像力があればわかる。即ち、「子供は親に対して,教師(先生)の場合はあまり適切ではない一連の習慣や期待を持っている」上に,「親は,自分の子供の発達に過剰に熱心かつ関心を持ちすぎることになりやすく,親は子供が利発であれば過度に喜び,愚かであれば腹を立てる(怒る)」ことになりやすい。
しかし,子どもが小さい時には,特に母親は,「この子のことは私が一番わかる」ということで・・・。

重要な学習事項ではあるが,退屈だと思われる部分

 既に正確さに関連して述べた理由で,私は,真に完全な教育を徹頭徹尾興味深いものにすることができるとは,私は信じない。ある科目をどれほど強く知りたいと思ったとしても,その中には退屈な部分を見いだすのは確実である。
しかし,適切に指導すれば,少年や少女に,その退屈な部分を学ぶことの重要性を感じさせることができるし,また,強制しなくてもその部分を学習し終えることができる,と私は信じている。課題(set tasks)の出来不出来に応じて,褒めたり,たしなめたりするという刺激を利用したい。ゲームや体操の場合と同様に,生徒が必要な技能を身につけているかどうかを,あきらかにしなければならない。また,ある科目の退屈な部分の(学習の)重要性も,教師がはっきり説明してあげなければならない。
もしも,これらの方法が全て失敗したならば,その子供は知能の劣った子供として類別され,普通の知能を持った子供(たち)とは分離して教えられなければならない。ただし,このことが罰だととられないように配慮しなければならない.

For reasons already given in connection with accuracy, I do not believe that a really thorough education can be made interesting through and through. However much one may wish to know subject, some parts of it are sure to be found dull. But I believe that, given suitable guidance, a boy or girl can be made to feel the importance of learning the dull parts, and can be got through them also without compulsion. I should use the stimulus of praise and blame, applied as the result of good or bad performance of set tasks. Whether a pupil possesses the necessary skill should be made as obvious as in games or gymnastics. And the importance of the dull parts of a subject should be made clear by the teacher. If all these methods failed, the child would have to be classified as stupid, and taught separately from children of normal intelligence, though care must be taken not to let this appear as a punishment.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-140.HTM

<寸言>
興味を持って学ぶことができるのが一番よいが、全てについてそれを求めることはできない。また,本来興味深い事柄であっても、受験勉強のように、時間が限られているために、深く学べないような場合も、退屈だと思ってしまいがちになる時がある。
ある程度学年があがってきたら、しだいに能力別にクラス編成をする必要がでてくる。そうしないと、出来る子どもにとっても、出来ないこどもにとっても、授業がつまらなくなったり、非効率になったりする。もちろん、生徒に教える教師の説明能力も重要な要素であるが・・・。

年齢に関係なく,「知りたい」という欲求(好奇心)が非常に重要

 子供(たち)は,成長するにつれて,より間接的な動機に反応できるようになり,細かいことがすべてそれ自体で興味を引くものである必要は,もはやなくなる。しかし,教育に対する衝動(学びたいという衝動)は生徒の側から生まれなければならないという大原則は,何歳になっても引き続きあてはめることができる,と思う。生徒の教育環境は,学びたいという衝動を刺激するものでなければならないし,また,勉強するか,それとも退屈と孤独を味わうか,という二者択一をさせるものでなければならない。
しかし,いつでも,退屈と孤独(のほう)を選ぶ子供がいれば,そうさせてあげるべきである。幼年期を過ぎれば,ある程度クラスでの勉強も欠くことはできないと思われるけれども,ひとりで勉強するという原則は,拡大することができる。
だが,少年や少女を勉強するように導くために外からの権威が必要だとすれば,医学的な原因がある場合は別として,おそらく,教師がまちがっているか(落ち度があるか),それとも,以前の道徳的な躾けが悪かったか,そのどちらかであろう。子供が5歳ないし6歳まで正しい訓練を受けていれば,良い教師ならだれでも,子供が大きくなってからも,子供の興味を勝ち取ることができるはずである。

As children grow older they become responsive to more remote motives, and it is no longer necessary that every detail should be interesting in itself. But I think the broad principle that the impulse to education should come from the pupil can be continued up to any age. The environment should be such as to stimulate the impulse, and to make boredom and isolation the alternative to learning. But any child that preferred this alternative on any occasion should be allowed to choose it. The principle of individual work can be extended, though a certain amount of class work seems indispensable after the early years. But if external authority is necessary to induce a boy or girl to learn, unless there is a medical cause, the probability is that the teacher is at fault, or that previous moral training has been bad. If a child has been properly trained up to the age of five or six, any good teacher ought to be able to win his interest at later stages.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-130.HTM

<寸言>
死ぬまで枯渇することのない好奇心を持つことが出来るか、好奇心を拡大していくことができるか、いろいろなことに好奇心を持つように子どもを刺激することができるかが、教師の最大の役割であろう。決して、国家や社会にとって好都合なことを(疑問をもたない形で))「教え込む」ことが教師の最重要な使命であってはならない。

「教え込み」ではなく,子どもの興味・関心を「引き出し」「心身を育てる」

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・・・。逆に,もし最初に子供の知識欲を刺激し,その後,子供が求めている知識を一つの恩恵(贈り物)として与えることができるならば,状況はまったく異なってくる。外からの躾けは大幅に不必要になり,子供の注意力もやすやすと確保される。この方法で成功するためには,ある一定の条件が必要であり,モンテッソーリ夫人は,ごく幼い子供の間に,そうした条件を作り出すことに成功している。(即ち,)(子供に与えられる)課題は魅力的かつ難しすぎないものでなくてはならない。最初は,少し上の段階にいる他の子供たちのお手本がなくてはいけない。その時に,他に明らかに楽しい仕事(注:子供にとっては遊び=仕事)が子供のために用意されていてはならない。子供がしてもよいものがいくつかあれば,子供は,何であれ,自分の好むもの(好むほう)を自分のために(by himself)するのである。こういう体制のもとでは,ほぼすべての子供は完全に幸福であり,5歳以前に,強制しなくても読み書きできるようになる。

If, on the contrary, you can first stimulate the child’s desire to know, and then, as a favour, give him the knowledge he wants, the whole situation is different. Very much less external discipline is required, and attention is secured without difficulty. To succeed in this method certain conditions are necessary, which Madame Montessori successfully produces among the very young. The tasks must be attractive and not too difficult. There must, at first, be the example of other children at a slightly more advanced stage. There must be no other obviously pleasant occupation open to the child at the moment. There are a number of things the child may do, and he works by himself at whichever he prefers. Almost all children are perfectly happy in this regime, and learn to read and write without pressure before they are five years old.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-120.HTM

<寸言>
子どもはいろいろなことを知りたいという生まれつきの欲求をもっている。教育においてその欲求を利用しない手はない。
Education の本質は、教える(teach)ことではなく、興味・関心を引き出し、心身を育てる(educate)ことにある、といわれる所以である。

子供に,良い習慣を,強制によらずに,身につけさせる工夫

 幼児心理学に関する近代の著者たちは,皆,幼い子供に無理に食事させたり寝かしつけたりしないことが重要だ,と強調する。即ち,これらのことは,子どもをおだてたり,強制したりした結果ではなく,子供が自発的にするべきことである。
私自身の経験も,この教えを完全に支持している。最初,私たちは新しい教育法を知らなかったので,古い方法を試みた。これは,大変な失敗であったのに,近代的な方法は完全に成功した。
しかし,近代的な(考えの)親は子供が食べたり寝たりすることについては何もしない,と考えてはいけない。反対に,良い習慣の形成を促進するために,可能なことは全てなされているのである。子どもは決まった時間に食事をし,食事時間中は,食べても食べなくても,遊んだりしないでじっと座っていなければならない。寝る時間も決まっており,子供はベッドに横たわらなければならない。動物の玩具を抱いて寝てもよいが,キーキー声(音)を出したり,走ったり,興奮させるような動物の玩具はダメである。その動物の玩具がお気に入りの場合は,その動物は疲れているので,子供が寝かしつけてやらなければならないというゲームをしてもよい。そのあと,子供を独りにしておけば,普通,速やかに眠りが訪れるであろう。
しかし,あなたが寝たり食べたりしてもらいたがっている,というふうに子供に思わせてはいけない。そんなことをすれば,子供はただちに,あなたは頼みごとをしているのだ,と思いこむ。すると,子供は,自分には力があるという気持ちになり,ますますおだてたり,罰を与えたりしなければならなくなる。子供が食べたり眠ったりするのは,自分がそうしたいからであるべきであり ,あなた(親)を喜ばせるためであってはならないのである。

Modern writers on infant psychology all emphasize the importance of not urging a young child to eat or sleep : these things ought to be done spontaneously by the child, not as a result of coaxing or forcing. My own experience entirely bears out this teaching. At first we did not know the newer teaching, and tried the older methods. They were very unsuccessful, whereas the modern methods succeeded perfectly. It must not be supposed, however, that the modern parent does nothing about eating and sleeping ; on the contrary, everything possible is done to promote the formation of good habits. Meals come at regular times, and the child must sit through them without games, whether he eats or not. Bed comes at regular times, and the child must lie down in bed. He may have a toy animal to hug, but not one that squeaks or runs or does anything exciting. If the animal is a favourite, one may play the game that the animal is tired and the child must put it to sleep. Then leave the child alone, and sleep will usually come very quickly. But never let the child think you are anxious he should sleep or eat. That at once makes him think you are asking a favour ; this gives him a sense of power which leads him to demand more and more coaxing or punishment. He should eat and sleep because he wants to, not to please you.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-110.HTM

<寸言>
子供に,良い習慣を,強制によらずに,身につけさせる工夫をいろいろすることが重要。それは,子供の世話をする人は,頭のなかで考えているだけではわからないので,いろいろ実践して体得する必要がある。

「事実に関する正確さ」と「論理的な正確さ」

 事実に関する正確さは,それ自体(正確さ自体)のために追求されるときには,耐えられないくらい退屈なものである。英国の歴代王朝の年代とか,(英国の)州やその州都の名前とかを覚えるのは,以前は幼年時代の恐怖の一つであった。正確さの確保は,興味と反復によったほうがよい。私は,(英国の)岬の名前のリストをどうしても覚えることができなかったけれども,8歳のときにはロンドンの地下鉄の駅名をほとんど全部知っていた。子供たちに海岸づたいに航行する船の映画を見せてあげれば,彼らはすぐに岬の名前を覚えるであろう。私は,岬の名前など覚える価値があるとは思わないが,仮に価値があるとすれば,それを教えるには映画(注:今でいえば「動画」)を見せてあげればよい。地理は,すべて映画(注:動画)で教えるべきである。歴史もまた,最初は映画で教えるべきである。当初の費用は大変だろうが,政府にとってはそうではないだろう。それに,教えるのが容易になるので,(結局は)経済的だろう。

 論理的な正確さ,遅くなってから獲得されるものであり,幼い子供に押しつけてはならない。九九表を正しく覚えることは,もちろん,事実に関する正確さである。(即ち)ずっと後の段階になって初めて論理的な正確さとなるのである。数学は,論理的な正確さを教えるための自然な手段であるが,数学を恣意的な規則の集合であるように思わせるとうまくいかない。規則は覚えなければならないが,ある段階では,それらの規則を設ける理由を明らかにしてあげなければならないもしそれがなされなければ,数学の教育上の価値はほとんど失われてしまう。

Accuracy as to matter of fact is intolerably boring when pursued on its own account. Learning the dates of the kings of England, or the names of the counties and their capitals, used to be one of the terrors of childhood. It is better to secure accuracy by interest and repetition. I could never remember the list of capes, but at eight years old I knew almost all the stations on the Underground. If children were shown a cinema representing a ship sailing round the coast they would soon know the capes. I don’t think they are worth knowing, but if they were that would be the way to teach them. All geography ought to be taught on the cinema ; so ought history at first. The initial expense would be great, but not too great for Governments. And there would be a subsequent economy in ease of teaching.
Logical accuracy is a late acquisition, and should not be forced upon young children. Getting the multiplication table right is, of course, accuracy as to matter of fact ; it only becomes logical accuracy at a much later stage. Mathematics is the natural vehicle for this teaching, but it fails if allowed to appear as a set of arbitrary rules. Rules must be learnt, but at some stage the reasons for them must be made clear ; if this is not done, mathematics has little educative value.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-100.HTM

<寸言>
世界中あるいは日本中(親に連れられて)頻繁に旅行できる子どもは、地理が得意だろう。これに対し、数学などは金持ちの子どもができるということはない(少なくとも高学年についてはない)ので、より「民主的」な教育と言えなくもない。特に、試験で評価する場合なんかは・・・。

「美的な正確さ」と「美的な感受性」

 正確さにはいろいろ種類があり,それぞれ独自の重要性を持っている。主な種類をとりあげると,筋肉を使う正確さ,美的な正確さ,事実に関する正確さ,論理的な正確さがある。

すべての少年少女は,いろんな面で,筋肉を使う正確さの重要性を的確に認識できる。それは,身体をコントロールするために必要であり,健康な子供は余暇のすべてをこのコントロールを身につけることに費やす。それは,やがては自分の威信にかかわるゲーム(遊戯/競技)のためにも必要である。
しかし,筋肉を使う正確さには,もっと学校の授業(学校教育)にかかわりのある別な形もある。たとえば,明瞭な話し方,上手な書き方,楽器の正しい演奏の仕方などである。子供は,環境に応じて,これらのことを重要だと考えたり,重要でないと考えたりする。
美的な正確さは,定義しにくい。それは,ある知覚できる刺激が情緒を生み出すために適切かどうか,にかかわるものである。
美的な正確さの重要な形を教える一つの方法は,子供たちに,を -たとえば芝居をするためにはシェイクスピアの詩を- 暗記させることである。彼らが言いまちがえたときには,なぜ原文のほうがすぐれているかを感じとらせることである。美的な感受性が広くゆきわたっているところでは,子供たちに,ダンスや歌のような,伝統的な型にはまった演技を教えることができ,子供たちは,そういう演技を楽しむが,しかし,伝統に従って正確にそれを演じなければならない,ということがわかる,と私は信ずる。こうすれば,子供たちは,微妙な違いに気づくようになる。こういう感受性は,正確さにとって不可欠である。演技や歌唱や舞踏は,美的な正確さを教えるのに最適の方法であるように思われる。絵を描くことは,それらほどうまくいかない。なぜなら,絵は美的な基準によって判断されるよりも,お手本にどれだけ忠実であるかによって判断されやすいからである。なるほど,型にはまった演技も,お手本を再現することを期待されてはいる。しかし,そのお手本は,審美的な動機から創り出されたものである。お手本がよいからまねるのであって,まねることがよいからまねるのではない。

There are various kinds of accuracy, each of which has its own importance. To take the main kinds : There is muscular accuracy, aesthetic accuracy, accuracy as to matter of fact, and logical accuracy. Every boy or girl can appreciate the importance of muscular accuracy in many directions ; it is required for the control of the body which a healthy child spends all its spare time in acquiring, and afterwards for the games upon which prestige depends. But it has other forms which have more to do with school teaching, such as well-articulated speech, good writing, and correct performance on a musical instrument. A child will think these things important or unimportant according to his environment. Aesthetic accuracy is difficult to define ; it has to do with the appropriateness of a sensible stimulus for the production of emotion. One way of teaching an important form of it is to cause children to learn poetry by heart–e.g. Shakespeare, for purposes of acting–and to make them feel, when they make mistakes, why the original is better. I believe it would be found that, where aesthetic sensibility is widespread, children are taught conventional stereotyped performances, such as dances and songs, which they enjoy, but which must be done exactly right on account of tradition. This makes them sensitive to small differences, which is essential to accuracy. Acting, singing, and dancing seem to me the best methods of teaching aesthetic precision. Drawing is less good, because it is likely to be judged by its fidelity to the model, not by aesthetic standards. It is true that stereotyped performances also are expected to reproduce a model, but it is a model created by aesthetic motives ; it is copied because it is good, not because copying is good.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-090.HTM

<寸言>
伝統をまねたり(守ったり),人のやることをまねるのは,まねることが良いからまねるのではなく,まねるものが良いからまねるのである。良くないものをまねるのはよくない。だから,理屈をいわずにまずまねろと強制するのはよくない。

「好奇心」は最も重要な知的な美徳

 性格の改善は知育の目的とすべきことではないけれども,成功裏に(上首尾に)知識を追求するために非常に望ましく欠くことのできない性質がいくつかある。それは,知的な美徳(徳目)と呼んでもいいだろう。これらの知的な美徳(徳目)は,知育から生じるはずである。しかし,学習に必要な美徳(徳目)として生じるのであって,徳目のために追求される徳目(美徳のための美徳)として生じるのではない。そういう性質のうち主要なものは,次のようなものであると思われる。即ち,好奇心,偏見のなさ,知識を身につけることは困難だが可能であるという信念,忍耐,勤勉,集中力,精確さ,である。これらのうち,好奇心が(最も)基本的なものである。(つまり)好奇心が強く,正しい対象に向けられた場合には,残りの性質(美徳)はすべておのずと出てくる。

Although improvement of character should not be the aim of instruction, there are certain qualities which are very desirable, and which are essential to the successful pursuit of knowledge ; they may be called the intellectual virtues. These should result from intellectual education ; but they should result as needed in learning, not as virtues pursued for their own sakes. Among such qualities the chief seem to me : curiosity, open-mindedness, belief that knowledge is possible though difficult, patience, industry, concentration, and exactness. Of these, curiosity is fundamental ; where it is strong and directed to the right objects, all the rest will follow.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-040.HTM

<寸言>
好奇心がなくなったら半分死んだも同然。
年をとるにつれて「子どものような好奇心」をしだいに持てなくなるにしても,よほど不幸な境遇に陥らなければ、死ぬまで好奇心を持ち続けることは可能であろう。
しかし,そんな子どものときにさえ,あまり好奇心をもてなかった人は,おとなになっても周囲に対してあまり好奇心が持てそうもない。
その原因として幼児教育の失敗がかなり影響しているのではないか?

子ども(人間)の「性格形成」は6歳までに完成させるべきである

 これまで私たちのテーマであった性格の形成は,主に,幼年期にかかわる問題であるべきである。性格形成は,正しく行なわれたならば,6歳までにはほぼ完成していなければならない。6歳以後は性格が損なわれることはない,と私は言っているのではない。(即ち)あらゆる年齢において,不運な境遇や環境のために性格が害されることはあるからである。私が言っているのは,6歳以後は,幼年期に正しい訓練を受けた少年少女は,ある程度(子供たちをとりまく)環境に気をつけてあげれば,正しい方向へ向かう習慣と欲求を持っているはずである,ということである。
生後6年間正しく育てられた少年少女から成っている学校は,学校当局に良識が少しでもあれば,よい環境を形作るだろう。(そのような学校においては)道徳問題に多くの時間と思考を費やす必要はないはずである。なぜなら,それ以上に必要な徳目は,当然,純粋に知的な訓練から自然と出てくるはずだからである。私は,このことを学者ぶって絶対的な規則として主張しているのではなく,学校当局が重視すべき事柄について指針となる一つの原則として主張しているのである。もし子供たちが6歳まで適切に扱われているならば,学校当局は純粋に知的な進歩に力点を置き,それを足がかりにして,なお望まれる性格のさらなる発達を図るようにするのが一番よい,と私は固く信じている。

The building up of character, which has been our theme hitherto, should be, mainly a matter for the earlier years. If rightly conducted, it ought to be nearly complete by the age of six. I do not mean that a character cannot be spoilt after that age ; there is no age at which untoward circumstances or environment will not do harm. What I mean is that, after the age of six, a boy or girl who has been given the right early training ought to have habits and desires which will lead in the right direction if a certain care is taken with the environment. A school composed of boys and girls rightly brought up during their first six years will constitute a good environment, given a modicum of good sense in the authorities ; it ought not to be necessary to give much time or thought to moral questions, since such further virtues as are required ought to result naturally from purely intellectual training. I do not mean to assert this pedantically as an absolute rule, but as a principle guiding school authorities as regards the matters upon which they ought to lay emphasis. I am convinced that, if children up to the age of six have been properly handled, it is best that the school authorities should lay stress upon purely intellectual progress, and should rely upon this to produce the further development of character which is still desirable.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-010.HTM

<寸言>
逆に言えば、6歳までの性格形成がうまくいかなければ、その後、いろいろ支障がでてくる可能性がある、ということ。

モンテッソーリ夫人の功績

 保育園は,早期(幼年期)の性格訓練と,その後の知育(知識の教育)との中間の位置を占めている。保育園は,同時に両方の仕事を行なう。どちらの仕事も,お互いに助けとなりながら行なわれるが,子供が大きくなるにつれて,知育の割合がしだいに大きくなっていく。モンテッソーリ夫人が彼女の方法を完成させたのは,保育園と似たような機能を持つ施設においてであった。ローマ市内の(何箇所かの)大きな借家で,(それぞれ)大きな部屋が1つ,3歳から7歳までの子供たちのために用意され,モンテッソーリ夫人がこれらの「子供の家」の管理を委託されたのである(原注:モンテッソーリ『モンテッソーリ式教育法』(1912年),p.42以下参照)。デットフォード(Deptford)の場合と同様に,子供たちは最も貧困な階層の出身であった。デットフォードと同様に,その成果は,幼年期に面倒を見てあげれば,悪い家庭の身体的・精神的なハンディキャップを克服できることを示したのであった。

The nursery school occupies an intermediate position between early training of character and subsequent giving of instruction. It carries on both at once, and each by the help of the other, with instruction gradually taking a larger share as the child grows older. It was in institutions having a similar function that Madame Montessori perfected her methods. In certain large tenement houses in Rome a large room was set apart for the children between three and seven, and Madame Montessori was put in charge of these “Children’s Houses”. (note: See Montessori, The Monlessori Method (Heinemann, I9I2), pp 42ff.) As in Deptford, the children came from the very poorest section of the population; as in Deptford, the results showed that early care can overcome the physical and mental disadvantages of a bad home.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE13-060.HTM

<寸言>
子どもは「社会で育てる(×国家が育てる)」という考え方にたてるかどうかで,保育園に対する考え方や対応の仕方は変わってくる。古い考え方の持ち主は,3歳くらいまでは母親や祖父母が家庭できめ細やかに育てたほうがよいと考える。今はそのように考える人は少なくなっているが、政府が深く関与する場合には、国家や既存の社会体制に従順な人間になるように、道徳教育や愛国心教育を盛りたがる。国はお金は出すが口は出さないというのが一番よいが、税金を効率的に使うためと言って、規制をかけたり、いろいろ口に出すことが少なくない。北欧諸国のように、(税金は随分たくさんとられるけれども)大学まで教育費は無料、医療費も無料、という社会のほうがよいと思われるが・・・?