訪日したラッセル-ラッセル・ブームが起こり連日各紙で報道

BR-1921J 私たちは,猛暑のなか京都から横浜まで(東海道線で) 10時間の旅をした(写真:神戸港でラッセルを出迎えた賀川豊彦とともに)。暗くなってすぐの頃,横浜に到着した。そうして,私たちはカメラマンたちが連続的にたくマグネシウムの爆発音で迎えられた。マグネシウムが一回爆発するごとにドーラはとび上がったので,「流産」するのではないかという心配が増した。私は怒りで我を失った。私がそんなふうになったのは,かつてフィッツジェラルドの首を絞めて殺しそうになった時以来,この時だけであった。私は,フラッシュライト(閃光灯)をもっている男性カメラマンたちを追いかけたが,’びっこ’をひいていたためにつかまえることができなかった。私は間違いなく殺人をおかしたであろうから,そのことは幸いであった。一人の冒険心のあるカメラマンが,怒りで眼が爛々としている私の写真を撮ることに成功した。私がそのように完璧に狂気じみて見えるようになるなどとは,この写真がなければついぞ知らなかったことである。この写真で私は東京に紹介された。(下の写真:改造社の建物の前にて)
Kaizoshamae-BR あの時の私の感情は,インド暴動(注:Mutiny 1857年のインドのベンガル地方のインド人傭兵が英国支配に対して起こした反乱)に際して,インド在住の英国人がもったにちがいない感情 -すなわち 有色人種の叛徒にとり囲まれた時の白人の感情- と同じ種類のものであった。その時私は,異人種の手によって害を被ることから自分の家族を守りたいという欲求は,人間が持つことができる感情のうちで最も荒々しく情熱的なものであろうと実感した。
日本での私の最後の体験は,日本国民への私のお別れのメッセージとして,日本人はもっと愛国的になれという趣旨のものを,愛国的な新聞に発表してほしいとの依頼であった。私はこの依頼のメッセージはもとより,他のどんなメッセージも,この愛国的な新聞あるいはその他のいかなる新聞にも送らなかった。

We made a ten hours’ journey in great heat from Kyoto to Yokohama. We arrived there just after dark, and were received by a series of magnesium explosions, each of which made Dora jump, and increased my fear of a miscarriage. I became blind with rage, the only time I have been so since I tried to strangle FitzGerald. I pursued the boys with the flashlights, but being lame, was unable to catch them, which was fortunate, as I should certainly have committed murder. An enterprising photographer succeeded in photographing me with my eyes blazing. I should not have known that I could have looked so completely insane. This photograph was my introduction to Tokyo. I felt at that moment the same type of passion as must have been felt by Anglo-Indians during the Mutiny, or by white men surrounded by a rebel coloured population. I realized then that the desire to protect one’s family from injury at the hands of an alien race is probably the wildest and most passionate feeling of which man is capable. My last experience of Japan was the publication in a patriotic journal of what purported to be my farewell message to the Japanese nation, urging them to be more chauvinistic. I had not sent either this or any other farewell message to that or any other newspaper.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB23-150.HTM

[寸言]
ラッセルは大正10年(1921年)夏に約2週間、訪日した。主な動静は以下のとおり)

7月17日~7月30日: 日本訪問
kobe_toa-hotel7月17日正午: 営口丸にて神戸着。神戸クロニクル主筆ヤング(Robert Young, 1858.10.9-1922.11.7)の出迎え。最初の夜は,神戸 北野のトア ホテル(右写真)の2階57号室に泊まる。(現在跡地は「神戸外国倶楽部」となっている。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
http://russell-j.com/cool/KOBE-BR.HTM
7月18日,大阪ホテルにて,大阪毎日新聞副主幹と午餐。夜,神戸の阿弥陀寺で開催された演説会に出席し,約1,000名の労働者の前で短い講演を行った(通訳は賀川豊彦)。その後,自動車でトア・ホテルに帰り,夜12時頃まで歓談。トアホテル泊(2泊目)。
7月19日,ラッセル,ヤング,ブラック,及びパワー(Eileen Power,1889~1940)は,午前11時2分神戸三宮駅発の列車で大阪に向かう。大阪ホテルにて昼食をとり,自動車で奈良へいく。奈良公園などで遊ぶ。夜は,奈良ホテル泊。
7月20日,奈良の大仏見学,夕刻,同じ車で京都にいく。夜は,都ホテルに泊まったものと思われる。
(7.20~7.24,京都)
7月21日: 京都大学荒木総長と短時間会見。夕方5時より,改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席。京都大学教授その他の学者27名(新聞報道では26名)出席。
7月22日,午前中,祇園,知恩院,本願寺等見学。午後は,ホテルで静養。
7月23日 京都で静養していたと思われるが,この日の詳細不明(要調査)(注:金子務『アインシュタイン・ショック(1)』(p.71)には7月22日箱根に1泊と書いてあるが,ラッセルの行程に関する金子氏の記述は間違いが多い。)
7月24日,7.49p.m.:東海道線特急で横浜着。山下町のグランドホテルに一泊
7月25日,午後5時入京。夜,改造社の山本社長の案内で帝劇見物。帝国ホテルにて東京の第一夜を過ごす(2階32号室)。
7月26日,午前11時より,帝国ホテルにて日本の著名な思想家達と会見(大杉栄,堺利彦,桑木厳翼,姉崎正治,上田貞次郎,阿部次郎,和辻哲郎,北澤新次郎,鈴木文次,与謝野晶子,福田徳三,石川三四郎他)
7月27日,午前11時~12時半まで,都下新聞記者20名と共同記者会見。午後は,上野及び日本橋丸善へ(桑木或雄が同行)
7月28日,夜,慶應義塾大学大講堂にて講演(講演開催にあたっては小泉信三などが尽力/聴衆は3,000人以上(2,000人と書いてある文献もあるが,これは座席の数であり,立って聞いている多数の聴衆をカウントしなかったと思われる。)通訳は,帆足理一郎)
7月29日,横浜のグランドホテル泊
7月30日,午後,Canadian Pacific 社の Empress of Asia 号でバンクーバー向け出帆