この(ジーンズの)見解は,公平かつ偏見なしに,科学によって提示された(ものとしての)代替案を述べていると,私は考える。心が唯一の実在であり,天文学の空間と時間(時空)はそれ(心)によって創造されたものであるという(前述の)最後に述べた可能性(について)は,論理的には言うべきことが多くある。しかし -憂鬱な結論(訳注:たとえば人間なんて精密な機械にすぎないという見解)が避けられるという希望のもとに- その見解を採用する人々は,それ(その見解の採用)がどういうこと(結果)を伴うかということについては全く理解(認識)していない。私が直接知っているものは全て私の「心」の一部(部分)であり,私が他の事物の存在(訳注:たとえば他人の存在)に到達するための推論は決して決定的なもの(conclusive)ではない。従って,(理論上)自分の心以外の何ものも存左しないかも知れない。その場合,自分が死ねば世界(宇宙)は(も)消え去るだろう。しかし,もし,私が自分の心以外の心(他人の心)を認めるつもりなら,私は,(他者だけでなく)天文学的宇宙全てを認めなければならない。なぜなら,その両者(他人の心と天文学的宇宙)の事例に置いて,その(存在の)証拠はまったく同等に強力である(訳注:もし一方の証拠が強力なら他方の証拠も同等に強力である)からである(訳注:他者の存在の証拠が強ければ,宇宙の存在の証拠も同等に強い)。従って,ジーンズが最後に取上げている見解は,他人の身体は存在しないけれども他人の心は存在するという心地よい理論ではない(訳注:天文学的宇宙の存在全てを肯定することになるため)。それは,空っぽの宇宙に自分(の心)だけが存在し,自分の豊かな想像力が,人類を発明し,地球の地質時代,太陽,恒星,銀河を作り出したという理論である(訳注:外界は自分の心が創り出したものという理論のため、世界の創造の順序は科学上の理論と正反対になる。) 私の知る限りでは,このよぅな理論に反対する妥当な論理的議論(論証)はまったく存在していない。しかし,心が唯一の実在であるという理論の他の形態のものに反対するものとしては,他人の心が存在するという証拠は他人の身体が存在するという証拠から推論されたものであるという事実をあげることができる(訳注:自分に肉体がなくて思考だけが存在していても自分の思考が存在していると思う「かも」知れないが、他人の心は他人の身体がないと存在していることはわからないといったニュアンス/たとえば誰もいない砂漠にいた場合、自分の目の前に心が存在していることはわからない)。従って,他の人々は,もし心を持つなら身体も持っている。(つまり)自分自身のみが身体をもたない心である可能性はあるが,それは自分自身だけが存在する場合に限る(訳注:他人の心が存在する場合は身体も存在することになるため)。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.23
This, I think, states the alternatives, as presented by science, fairly and without bias. The last possibility, that mind is the only reality, and that the spaces and times of astronomy are created by it, is one for which, logically, there is much to be said. But those who adopt it, in the hope of escaping from depressing conclusions, do not quite realize what it entails. Everything that I know directly is part of my “mind,” and the inferences by which I arrive at the existence of other things are by no means conclusive. It may be, therefore, that nothing exists except my mind. In that case, when I die the universe will go out. But if I am going to admit minds other than my own, I must admit the whole astronomical universe, since the evidence is exactly equally strong in both cases. Jeans’s last alternative, therefore, is not the comfortable theory that other people’s minds exist, though not their bodies ; it is the theory that I am alone in an empty universe, inventing the human race, the geological ages of the earth, the sun and stars and nebulae, out of my own fertile imagination. Against this theory there is, so far as I know, no valid logical argument ; but against any other form of the doctrine that mind is the only reality there is the fact that our evidence for other people’s minds is derived by inference from our evidence for their bodies. Other people, therefore, if they have minds, have bodies ; oneself alone may possibly be a disembodied mind, but only if oneself alone exists.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-230.HTM
月別アーカイブ: 2021年3月
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.22
(仮に地球が1億年後に消滅するとしても)一億年もあれば,終末への準備をする時間もしばらくあるので,その間に,天文学もロケット打ち上げ技術も両方ともかなり進歩していると期待してよいだろう(訳注:”gunnery” は「砲術」であるが,それでは意味がよくわからないので,宇宙への「ロケット打ち上げ技術」のことを言っていると思われる)。 天文学者(たち)は,(今後1億年以内のうちに)居住可能な惑星を伴った別の恒星(星)を発見しているかも知れないし,ロケット打ち上げ技術者は,光(光速)に近い速さで我々(人間)をその恒星(星)に向って発射できるかも知れない。その場合には(in which case),もし(宇宙船=ロケットの)乗組員が全員若ければ,年取って死ぬ前にその恒星(にある惑星)に到達する者もいるかも知れない(可能性はある)。これは心もとない希望であるが,我々はその機会を無駄にせずに最大限利用しよう(Let us make the best of it)。 けれども -たとえ宇宙を巡回することが最も完璧な科学技術によってなされるとしても- それは(人間の)命を永遠に延長することを可能にしない。熱力学の第二法則は,全体的に見ると(on the whole),エネルギーは常により集中した形態から集中度のより低い形態へと移行しつつあり,最後には,それ以上の変化が不可能な形態へと全てのものを移行させてしまうだろうと言っている(告げている)。生命は -たとえそれ以前に死滅しなかったにしても(if not before)- そうした事態が起った時には,死滅せざるをえない。もう一度,ジーンズ(の言葉)を引用するならば,「死すべきものに関してと同様に,宇宙に関しても,その唯一の可能な人生は,墓場への前進(progress)である」(注:人間と同じく宇宙にも終わりは必ずある」と言ったニュアンスか?)。これは,彼を我々のテーマにとても関係の深い(次のような)ある内省へと導く. 「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548-1600:ドミニコ会の修道士。有限と考えられていた宇宙は無限であると主張してコペルニクスの地動説を擁護し,自説を撤回しなかったために火刑に処せられた。)が世界の多元性(注:国家などで複数の人種・宗教・政治信条などが同時に平和的に共存すること/多元的共存)を信じて殉教してから経過してきた三世紀間(に),宇宙に関する我々の考え方はほとんど筆舌に尽くし難いほど(almost beyond description)変化してきたが,しかし(その300年は)生命の宇宙に対する関係について,我々を目に見えるほど(appreciably 認めうるほどに),より理解させるところへ連れてこなかった。我々は,いまだ,どうみても(to all appearances)非常に稀な(希少な)この生命の意味を,ただ推測できるのみである。生命(と)は,全ての創造(作用)が向かって(めがけて)動いてゆく最終的な頂点であろうか? (つまり)幾億年もの間,生物の住まない星(恒星)や星雲で物質の変化がなされ,そうして,不毛の宇宙(空間)で無駄なエネルギー放出がなされ,信じがたいほど贅沢な(extravagant)準備のみがなされてきている最終的な頂点であろうか? あるいは,それ(注:生命現象)は自然の(諸)過程の(中の)単なる偶然かつ恐らく全く重要性のない副産物であり,その自然過程には何らかの他のもっと素晴らしい目的があるのだろうか? あるいは,もっと謙虚な考え方(line of thought)をするために(するべく),我々は,生命を,物質が高温及び高頻度のエネルギー放出能力 -より若くより活力のある物質ならただちに生命を殺してしまうであろう- を失った時に,年取った物質に影響を与える病の性質のようなものとして,見なさなければならないだろうか? あるいは,(逆に)謙虚さをかなぐり捨てて,それ(生命)は唯一の実在であり,(他のものによって)創造されたのでなく,星(恒星)や星雲の巨大な塊やほとんど想像できないほど長い天文学的時間を創造する唯一の実在だと,あえて思うべきだろうか?」
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.22
A million million years gives us some time to prepare for the end, and we may hope that in the meantime both astronomy and gunnery will have made considerable progress. The astronomers may have discovered another star with habitable planets, and the gunners may be able to fire us off to it with a speed approaching that of light, in which case, if the passengers were all young to begin with, some might arrive before dying of old age. It is perhaps a slender hope, but let us make the best of it. Cruising round the universe, however, even if it is done with the most perfect scientific skill, cannot prolong life for ever. The second law of thermodynamics tells us that, on the whole, energy is always passing from more concentrated to less concentrated forms, and that, in the end, it will have all passed into a form in which further change is impossible. When that has happened, if not before, life must cease. To quote Jeans once more, “with universes as with mortals, the only possible life is progress to the grave.” This leads him to certain reflections which are very relevant to our theme : “The three centuries which have elapsed since Giordano Bruno suffered martyrdom for believing in the plurality of worlds have changed our conception of the universe almost beyond description,almost beyond description but they have not brought us appreciably nearer to understanding the relation of life to the universe. We can still only guess as to the meaning of this life which, to all appearances, is so rare. Is it the final climax towards which the whole creation moves, for which the millions of millions of years of transformation of matter in uninhabited stars and nebulae, and of the waste of radiation in desert space, have been only an incredibly extravagant preparation? Or is it a mere accidental and possibly quite unimportant by-product of natural processes, which have some other and more stupendous end in view? Or, to glance at a still more modest line of thought, must we regard it as something of the nature of a disease, which affects matter in its old age when it has lost the high temperature and the capacity for generating high-frequency radiation with which younger and more vigorous matter would at once destroy life? Or, throwing humility aside, shall we venture to imagine that it is the only reality, which creates, instead of being created by, the colossal masses of the stars and nebulae and the almost inconceivably long vistas of astronomical time?”
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-220.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.21
宇宙の目的一般については,そのいかなる形態のものに置いても,なされるべき二つの批判が存在している。第一に,宇宙の目的(の存在)を信ずる者は,常に,世界は今までと同じ方向に進化し続けるだろうと考える(という批判があり),第二に,彼らは既に起ったことは宇宙の善き意図の現れであると主張する(という批判がある)。これら2つの命題はどちらも疑問の余地がある(be open to question 問題を含んでいる)。 進化の方向(性)に関しては,その論拠(議論)は,主として生命が始まって以降(誕生して以来)この地上(地球)で起こった(全ての)ことから由来している。現在,この地球は(この)宇宙の非常に小さな隅(片隅)に(あるに)すぎず,地球が(地球以外の)他のものの典型であるということは決してないと想定するいろいろな理由がある(typical of ~に特有である、~の特色をよく示している)。ジェームズ・ジーンズは,今日,(地球以外の)他のどこかに生命が存在するか否かは極めて疑わしいと考えている。コペルニクス革命以前は,神の目的は特に地球と関係があると考えることは当然なことであった。しかし,今日ではこの考えはありそうもない(unplausible = implausible もっともらしくない)仮説になっている。もし,心を進化させること(展開させること)が宇宙の目的であるなら,我々はそのような長い期間にこんな少ししか生み出せなかったことを,かなり無能だと見なさなければならない。もちろん,後に(地球以外の)どこかで(地球より)より多くの心が生れることは可能だろうが,その点に関しては,我々はわずかの科学的な証拠も持っていない(jot わずか)。生命が偶然に生れたということは奇妙だと思われるかも知れないが,このように広大な宇宙においては,偶然も起るであろう。 そうして,宇宙の目的は,特に我々の小さな惑星(地球)に関係している(関心を持っている)というかなり奇妙な見解を,たとえ我々が受け容れるとしても,我々はなお神学者たちが言っていることを完全に(quite 全くその通りに)(この)宇宙が意図しているかどうか疑う理由が存在している(訳注:「rather」 の意味はここでは「どちらかというと」や「むしろ」ではなく「かなり」。津田訳では「rather curious view 」を「どちらかというと奇妙な見解」と訳出)。地球は(もし我々が全ての生命を亡ぼすに足るだけの毒ガスを用いるのでなければ),当分の間(for some considerable time)居住可能であろうが,それは永遠にではない。恐らく,我々の周りの大気は,次第に宇宙へと飛び去っていくであろう。(月が原因の)潮汐作業は,地球が常に太陽に向って同じ面を向けるようにさせ(訳注:潮汐作用によって地球の自転速度がほんの少しずつ遅くなっている事実があるため),その結果, 一方の半球は暑すぎるようになり,他方の半球は寒すぎるようになるだろう。(また)恐らく(ホールデン教授の教訓的なお話におけるように),月は(いずれ)地球へと転げ落ちるであろう。もし,これらのことが最初に起らないとしても(If = Even if),どちらにしても,太陽は爆発して -ジーンズによると,その精確な日附はいまだ不確実であるが- 一億年くらい後に起る- 冷たい白色矮星(注:dwarf,= dwarf star 矮星(わいせい):恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つで,質量は大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小した非常に高密度の天体/ちなみに津田氏は「冷たい小さな小片」と訳出)となる時には,我々は皆亡びてしまうであろう。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.21
With regard to Cosmic Purpose in general, in whichever of its forms, there are two criticisms to be made. In the first place, those who believe in Cosmic Purpose always think that the world will go on evolving in the same direction as hitherto ; in the second place, they hold that what has already happened is evidence of the good intentions of the universe. Both these propositions are open to question. As to the direction of evolution, the argument is mainly derived from what has happened on this earth since life began. Now this earth is a very small corner of the universe, and there are reasons for supposing it by no means typical of the rest. Sir James Jeans considers it very doubtful whether, at the present time, there is life anywhere else. Before the Copernican revolution, it was natural to suppose that God’s purposes were specially concerned with the earth, but now this has become an unplausible hypothesis. If it is the purpose of the Cosmos to evolve mind, we must regard it as rather incompetent in having produced so little in such a long time. It is, of course, possible that there will be more mind later on somewhere else, but of this we have no jot of scientific evidence. It may seem odd that life should occur by accident, but in such a large universe accidents will happen. And even if we accept the rather curious view that the Cosmic Purpose is specially concerned with our little planet, we still find that there is reason to doubt whether it intends quite what the theologians say it does. The earth (unless we use enough poison gas to destroy all life) is likely to remain habitable for some considerable time, but not for ever. Perhaps our atmosphere will gradually fly off into space ; perhaps the tides will cause the earth to turn always the same face to the sun, so that one hemisphere will be too hot and the other too cold ; perhaps (as in a moral tale by J. B. S. Haldane) the moon will tumble into the earth. If none of these things happen first, we shall in any case be all destroyed when the sun explodes and becomes a cold white dwarf, which, we are told by Jeans, is to happen in about a million million years, though the exact date is still somewhat uncertain.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-210.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.20
とにかく,この議論(注:神性が将来現われて来ることを擁護するための進化論的議論)は,とても(並外れて)貧弱である。進化には三つの段階 -(即ち)物質,生命,心の三段階- があると主張されている(彼らは主張している)。我々は世界が進化を完了したと考えるべき理由をまったく持たない。従って,後の時代に第四の段階がありそうでる。また,第五段階,第六段階等々があると想定した人も(これまでに)いたであろう。しかし,そうではなく,第四段階(注:神性の発現)で進化は完成される(と彼らは考える)。さて(Now ところで)物質は生命を予見することができず,生命は心を予見することができなかったが,心は -特にそれがパプア人かブッシュマンの心であるなら- ぼんやりと次の段階を予見ができる(と彼らは考える)。このようなことは全て全くのあて推量(the merest guesswork)であることは明らかである。それは真理であるかも知れないが,そう想定する(そのように考える)合理的根拠(理由)はまったくない。発現(創発)の哲学が未来は予言できないということは全く正しいが,と言ったあとすぐに,発現(創発)の哲学は未来を予言することに進む。人々は「神」という言葉がこれまで表してきた観念を捨てる(使うのをやめる)よりも,「神」という「言葉」の使用をやめることのほうがもっと気が進まない。発現的(創発的)進化論者たちは,神はこの世界を創造しなかったと信ずるようになり,世界は神を創造しつつあると言うことで満足している。しかし,そのような神は,名称以外には(beyond the name 名称を越えて/名称が同じだけで),ほとんど伝統的な崇拝の対象と共通しているものは有していない。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.18
The argument, in any case, is extraordinarily thin. There have been, it is urged, three stages in evolution ; matter, life, and mind. We have no reason to suppose that the world has finished evolving, and there is therefore likely, at some later date, to be a fourth phase – and a fifth and a sixth and so on, one would have supposed. But no, with the fourth phase evolution is to be complete. Now matter could not have foreseen life, and life could not have foreseen mind, but mind can, dimly, foresee the next stage, particularly if it is the mind of a Papuan or a Bushman. It is obvious that all this is the merest guesswork. It may happen to be true, but there is no rational ground for supposing so. The philosophy of emergence is quite right in saying that the future is unpredictable, but, having said this, it at once proceeds to predict the future. People are more unwilling to give up the word “God” than to give up the idea for which the word has hitherto stood. Emergent evolutionists, having become persuaded that God did not create the world, are content to say that the world is creating God. But beyond the name, such a God has almost nothing in common with the object of traditional worship.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-200.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.19
多種多様な難点(困難)があるため、発現的進化の哲学(訳注:ベルグソンでは「創造的進化」)は不十分なもの(不満足なもの)になっている。恐らく、その難点のなかの主なものは、決定論から逃れるために,予言は不可能だとしながら、この理論の信奉者たちが将来神が存在するようになることを予言していることであろう。彼ら(発現進化説の信奉者たち)はまさにベルグソンのいう貝の立場にいる(shellfish;shell-fish 甲殻類)。(即ち)貝は、見るということが何であるかを理解していないけれども見ることを欲している(注:貝は目的をもっていないが創造的に進化したいという志向性は持っている,といったところか)。アレキサンダー教授は「神秘的な力を持った(numinous)」と称するある種の経験において我々(人間)は「神性」にぼんやりと気づく(目覚める)と主張する。(また)「そのような経験を特徴づける感情は「我々を恐れさせたり,無力さを支援したりするものについての神秘感であるが、いずれにせよ,それは感覚や内省(reflection)によって知るもの以上のものである」と彼は言う。(訳注:荒地出版社刊の津田訳はこの一文を誤訳している。即ち「the sense of mystery, of something which」の「of something which」は「the sense of mystery」に掛かっていることに見落としている。)彼はこのような感情に重要性を付与する理由をまったく与えていないし(あげてないし),あるいは(また),彼の理論の当然の帰結として、精神的発展がそのような感情を人生においてより大きな要素にする理由もまったく与えていない。人類学者から(は)その正反対(の主張)を推論するであろう(結論を引き出すであろう)。友好的あるいは敵対的な非人間的な力についての神秘感は、文明人の生活におけるよりも未開人(野蛮人)の生活においてずっと大きな役割を演じている。(訳注:この一文も同様の誤訳をしている。)実際,もし宗教がこのような感情と同一視されるべきであるなら、既知の人類の発展における全ての歩みは,宗教の減退を伴ってきたのである(have involved 伴ってきた,巻き込んできた)。このことは、発現的神性(神性が将来現われて来ること)を擁護するために仮定された(想定された)進化論的議論とはほとんど適合しない(fit in with ~に適合する、~にうまく溶け込む)。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.19
Various difficulties make the philosophy of emergent evolution unsatisfactory. Perhaps the chief of these is that, in order to escape from determinism, prediction is made impossible, and yet the adherents of this theory predict the future existence of God. They are exactly in the position of Bergson’s shell-fish, which wants to see although it does not know what seeing is. Professor Alexander maintains that we have a vague awareness of “deity” in some experiences, which he describes as “numinous.” The feeling which characterizes such experiences is, he says, “the sense of mystery, of something which may terrify us or may support us in our helplessness, but at any rate which is other than anything we know by our senses or our reflection.” He gives no reason for attaching importance to this feeling, or for supposing that, as his theory demands, mental development makes it become a larger element in life. From anthropologists one would infer the exact opposite. The sense of mystery, of a friendly or hostile non-human force, plays a far greater part in the life of savages than in that of civilized men. Indeed, if religion is to be identified with this feeling, every step in known human development has involved a diminution of religion. This hardly fits in with the supposed evolutionary argument for an emergent Deity.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-190.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.18
アレキサンダー教授の見解とベルグソンの「創造的進化」との間には,密接な類似性がある(よく似ている)。ベルグソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941:フランスの哲学者。アインシュタインが相対性理論を発表すると,反対の意図で「持続と同時性」という論文を発表)はこう考える(hold that ~と考える)。(即ち)決定論は間違っている,なぜなら,進化の過程において,事前に予言することも,想像することさえもできなかったような全く新しいものが出現するからである。あらゆるものを進化へと駆り立てる神秘的な力が存在している。例えば,見ることができない動物は(も)ある種の神秘的な視力の前兆となるもの( foreboding of sight)を持っており,眼の発達へ導くようなやり方で行動し始める(proceeds to act)。いかなる瞬間においても(常に)何か新しいものが出現するが,過去は決して死滅せずに,記憶の内に保存される。というのは,忘却はただ外見的なものに過ぎないからである。このようにして,世界は常に内容(=世界に存在するもの)においてより豊かになり,いずれとても素晴らしい場所になるだろう。不可欠であることの一つは,過去を振り返ったり(回顧的であったり)静的であったりする知性を避けることである。我々が使わなければならないのは直観(intuition)であり,直観(注:「直感」にあらず)はそれ自身の中に創造的な目新しいものへと駆り立てるものを含んでいる(のである)。 ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744- 1829:19世紀フランスの著名な博物学者で進化論の先駆者であるが,獲得形質の遺伝という,後に誤っていることがわかった説を提唱) を連想させる(reminiscent of ~思わせる),時折起こる断片的な悪しき生物学を超えて(beyond ~の域を超えて),上述のようなことを信ずるための理由が与えられると考えてはならない。ベルグソンは詩人とみなすべきである。彼は,自分自身の原則にもとづき,単なる知性だけに訴えるようなものを全て避けている(のである)。 私はアレキサンダー教授がベルグソンの哲学を全面的に受け容れていると示唆しているのではない。しかし,彼らはその見解を別々に展開させたが,彼らの見解には類似性がある(似ている)。いずれにせよ,彼らの理論は,時間を強調することと,進化の過程において予測できない新規性(新しいもの)が出現すると信じていることにおいて,一致している。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.18
There is a close affinity between Professor Alexander’s views and those of Bergson’s “Creative Evolution.” Bergson holds that determinism is mistaken because, in the course of evolution, genuine novelties emerge, which could not have been predicted in advance, or even imagined. There is a mysterious force which urges everything to evolve. For example, an animal which cannot see has some mystic foreboding of sight, and proceeds to act in a way that leads to the development of eyes. At each moment something new emerges, but the past never dies, being preserved in memory – for forgetting is only apparent. Thus the world is continually growing richer in content, and will in time become quite a nice sort of place. The one essential is to avoid the intellect, which looks backward and is static ; what we must use is intuition, which contains within itself the urge to creative novelty. It must not be supposed that reasons are given for believing all this, beyond occasional bits of bad biology, reminiscent of Lamarck. Bergson is to be regarded as a poet, and on his own principles avoids everything that might appeal to the mere intellect. I do not suggest that Professor Alexander accepts Bergson’s philosophy in its entirety, but there is a similarity in their views, though they have developed them independently. In any case, their theories agree in emphasizing time, and in the belief that, in the course of evolution, unpredictable novelties emerge.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-180.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.17
私が次に考察する(神による宇宙の創造目的に関する)「発現(創発)」説は,このような困難を回避し,時間の実在を強く支持している。しかし,「発現(創発)」説が,少なくとも同じ程度の他の大きな困難を招くことに気づくであろう。 私が(これまで)引用してきたBBC(英国放送協会)談話の本の中で,「発現」説の見解を代表しているのは,唯一アレキサンダー教授だけである。彼は,無生物,生物,そして心は,(その順番で)引き続いて(この世に)現われてきており,という言葉で口火を切り,(次のように)話を続けている。 「さて,このような成長は,ロイド・モーガン氏(Lloyd Morgan, 1852-1936:イギリスの動物学者。人間と動物との行動の実験的比較研究を行い、今日の比較心理学の発達に寄与)がその観念(概念)と言葉を導入あるいは再導入して以来,発現(創発)と呼ばれているものである。生命は物質から,心は生命から,発現(emerge 発生/創発)する。生物もまた一つの物質的存在だが,生命という新しい性質を示すように形作られたものである(so fashioned as ~のように形作られる)。・・・ そして,同じことを生命から心への移行(遷移)についても言って良いだろう。『心を持った』存在も(人間以外の生物と同じ)一つの生物(生物の一種)である。しかし,それは,心を-「意識」という言葉がお好みなら「意識」を- 所持する(carry 携行する)ほど,生物の組織の一定の部分 -特にその神経組織- が非常に精密に組織化された,複雑な発達をした生物である。」 彼はさらに続けて,このような過程が心(の発生)で終る理由はないと言っている。逆に,「(その過程は)心を超えた存在というさらに進んだ性質を示唆しており,それは(その性質は),心が生命に対して,あるいは生命が物質に対して関係するように心に対して関係している(関係を持っている)。私はその性質を神性(deity)と呼び,その性質を所有する存在は神(注:一神教の神)である。(訳注:ここで初めて「神」がでてくる。従って,荒地出版社の津田訳では「it “suggests a further quality of existence beyond mind」を「心を超えた性質を持つ存在を指示し」と訳しているが,「(その過程は)心を超えた存在というさらに進んだ性質を示唆しており」と訳すべき。この一文ではまだ「神」ではなく,「性質」のことしか言っていない。) 従って,私にはあらゆるものがこの性質の発現(創発/出現)を指し示しており,また。それが私が科学自体がより広い視野をとる時には神性が必要となる(神性を必要とする)と言った理由である,と私には思われる。」 彼は言う。世界は「神性を達成しようと努力し,それに向いつつある」が「神性は,世界の存在の現段階では,未だその顕著な性質を現わしていない」。(そうして)彼は,自分にとって神とは「歴史上の宗教におけるような創造主ではなく,創造されるものである」と付言している。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.17
The “emergent” doctrine, which we have next to consider, avoids this difficulty, and emphatically upholds the reality of time. But we shall find that it incurs other difficulties at least as great. The only representative of the “emergent” view, in the volume of B.B.C. talks from which I have been quoting, is Professor Alexander. He begins by saying that dead matter, living matter, and mind, have appeared successively, and continues : “Now this growth is one of what, since Mr. Lloyd Morgan introduced or reintroduced the idea and the term, is called emergence. Life emerges from matter and mind from life. A living being is also a material being, but one so fashioned as to exhibit a new quality which is life . . . . And the same thing may be said of the transition from life to mind. A ‘minded’ being is also a living being, but one of such complexity of development, so finely organized in certain of its parts, and particularly in its nervous system, as to carry mind – or, if you please to use the word, consciousness.” He goes on to say that there is no reason why this process should cease with mind. On the contrary, it “suggests a further quality of existence beyond mind, which is related to mind as mind to life or life to matter. That quality I call deity, and the being which possesses it is God. It seems to me, therefore, that all things point to the emergence of this quality, and that is why I said that science itself, when it takes the wider view, requires deity.” The world, he says, is “striving or tending to deity,” but “deity has not in its distinctive nature as yet emerged at this stage of the world’s existence.” He adds that, for him, God “is not a creator as in historical religions, but created.”
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-170.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.16
宇宙の目的に関する汎神論的理論(汎神説)は、有神論的理論(有神説)と同様に -いくらか異なった形ではあるが- 経時的(時間的)進化の必然性を説明する難しさで苦しんでいる(苦労している)。実際には汎神論者の全てが信じているように,もし時間が究極的には実在しないというのなら、どうして世界の歴史において最善なものが先にくるのではなく後からやってくるのであろうか? そのまったく逆の順序も同様によかったのではないだろうか? もし、あらゆる出来事に日付があるという観念(考え)は幻想であり、神がその観念から自由である(解放されている/制約を受けない)というのなら、神はなぜ喜ばしい出来事を終りに置き、喜ばしくない出来事を始めに置いたのであろうか?(注:キリスト教の神はこの世を創造するにあたり、「人間を最後に創造した」としている。) 私は、この疑問に答えることができないと考えることにおいて、インゲ主席司祭と同意見である。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.16
The pantheistic doctrine of Cosmic Purpose, like the theistic doctrine, suffers, though in a somewhat different way, from the difficulty of explaining the necessity of a temporal evolution. If time is not ultimately real – as practically all pantheists believe – why should the best things in the history of the world come late rather than early? Would not the reverse order have done just as well? If the idea that events have dates is an illusion, from which God is free, why should He choose to put the pleasant events at the end and the unpleasant ones at the beginning? I agree with Dean Inge in thinking this question unanswerable. 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-160.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.15
ヘーゲルに従っている人たちが皆そうであるように,ホールデン教授は,何ものも他のものから実際には分離していない(独立していない)ことを示すことを切望している(したがっている)。彼は今や -もしこの論拠(何ものも他のものから実際には分離していない(独立していない)こと)を認めたとしたなら- 各人の過去と未来はその人の現在と共存(共在)し,我々全てが住んでいる空間もまた各人の内にある,ということを指摘している。(注:show 示す;指摘する/I showed him his error. : 彼の間違いを指摘しました。)しかし,彼は,さらに一歩進めて,「人格(同士)はお互いに排除し合わない」という証明を取り入れている。(take in 取り入れる。) 一人の人格はその人の理想によって構成され,我々の理想はその大部分は同一であるらしい。彼の言葉を再度引用しよう。 「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想が常に我々の前に現前している。・・・さらに,その理想は異なった(種々の)面を有しているが(分割できない)一つの理想である。神の啓示が現われるのは,これら共通の理想と,それらが作り出す仲間意識(fellowship 連帯感,友情)からである」。 正直に告白しなければならないが,このような陳述は,私にはは全く理解できず,一体何から取上げていったらよいのか分らない。 「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想」が常に自分の前に現前していると彼が言う時,ホールデン教授の言葉を私は疑わない。彼がそう主張しているのだからきっとそうに違いない。しかし,このような驚くべきほどの徳(美徳)を人類一般に帰することになる時(”when it comes to ことになる時,に関して言えば),私も彼と同等に自分の意見を言う権利を持っていると感ずる。私としては,(ホールデン教授の言う「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想」と正反対の)虚偽(untruth),不正,無慈悲(uncharitableness),及び醜さ,が実際に於てだけでなく理想としても追求されているのを見出している。彼は本当に,ヒトラーとアインシュタインは「異なった相を(いろいろ)持っているがひとつの(同じ)理想」を持っていると考えているのだろうか? 私には,どちらも(ヒトラーもアインシュタインも)そのような陳述を毀損する行為をもたらすであろうと思われる。もちろん,(両者のうち)一方は悪人であり,(ヒトラーも)心の底では信じている理想を実際には追求していないのだ,と言えるかも知れない。しかし,これは余りにも安易な解決策だと私には思われる。ヒトラーの理想は主としてニーチェから来ており,ニーチェには完璧な正直さのあらゆる証拠が存在している。争点が戦いによって解決されるまで -ヘーゲルの弁証法とは別な方法で- その理想がやどっている神がエホバであるのか(北欧神話の戦争と死の神である)ヴォーダン(Wotan)であるかをいかにして知ることができるのか,私にはわからない。(注:ヘーゲル弁証法では「正」と「反」の対立する意見は「止揚する aufheben」ことによって「合」として解決策が得られるとするが、もちろんラッセルはそうは思わない。) 神の永遠なる祝福は貧者にとって慰めであるという見解に関しては,その見解は富者によって常に抱かれてきた。しかし,貧者はそういう見解には飽き始めている。多分,今日においては,神という観念を経済的不正の擁護と結びつけていると思われることはほとんど賢明なことではない。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.15
Professor Haldane, like all who follow Hegel, is anxious to show that nothing is really separate from anything else. He has now shown – if one could accept his arguments – that each man’s past and future co-exist with his present, and that the space in which we all live is also inside each of us. But he has a further step to take in the proof that “personalities do not exclude one another.” It appears that a man’s personality is constituted by his ideals, and that our ideals are all much the same. I will quote his words once more : “an active ideal of truth, justice, charity and beauty is always present to us. . . . The ideal is, moreover, one ideal, though it has different aspects. It is these common ideals, and the fellowship they create, from which comes the revelation of God.” Statements of this kind, I must confess, leave me gasping, and I hardly know where to begin. I do not doubt Professor Haldane’s word when he says that “an active ideal of truth, justice, charity, and beauty” is always present to him ; I am sure it must be so, since he asserts it. But when it comes to attributing this extraordinary degree of virtue to mankind in general, I feel that I have as good a right to my opinion as he has to his. I find, for my part, untruth, injustice, uncharitableness and ugliness pursued, not only in fact, but as ideals. Does he really think that Hitler and Einstein have “one ideal, though it has different aspects”? It seems to me that each might bring a libel action for such a statement. Of course it may be said that one of them is a villain, and is not really pursuing the ideals in which, at heart, he believes. But this seems to me too facile a solution. Hitler’s ideals come mainly from Nietzsche, in whom there is every evidence of complete sincerity. Until the issue has been fought out – by other methods than those of the Hegelian dialectic – I do not see how we are to know whether the God in whom the ideal is incarnate is Jehovah or Wotan. As for the view that God’s eternal blessedness should be a comfort to the poor, it has always been held by the rich, but the poor are beginning to grow weary of it. Perhaps, at this date, it is scarcely prudent to seem to associate the idea of God with the defence of economic injustice.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-150.HTM
ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.14
空間に関しても,問題(やっかいなこと)は似ているが,(時間の場合よりも)もっと複雑である。(訳注:ネット上の英和・和英辞典である “weblio” には 「”the matter”(やっかいなこと、困ったこと ★主語にはならない」と記されているが,ここでは前の文を受けて,立派に「主」語になっている。 https://ejje.weblio.jp/content/the+matter) 2種類の空間が存在している(空間には2種類ある)。(即ち)(特定の)一人の人間の経験が置かれている(be situated 位置している)空間(訳注:私的空間)と,物理(的)空間(訳注:公的空間)の2種類である。(後者の)物理(的)空間には,他人の身体,椅子,テーブル,太陽,月,星(等々)を含んでおり,それらは我々の個人的な(私的な)感覚に映し出されるだけでなく,我々がそう思っている(想定している)ように,自分以外の他者にも(同様に)映し出される。この2番目の空間(=物理的空間)は仮設的なものであり,完全な論理を以てすれば,世界には自分(個人)の経験しか存在しないと進んで仮定(想定)しようとする人(注:独我論者)によって否定されうるものである(注:ここでは,物理学と言えども,「個人」による観察データをもとに構築されているものであり、他者の存在も個人の知覚によって「存在しているらしい」と判断されたものだと考える徹底した独我論者のことを言っている/もちろんこれは理論上のことを言っている。もし他者の存在を認めないで回避措置をとらないと独我論者は殺されてしまうかも知れない)。ホールデン教授は,このこと(独我論者の見解)を進んで言おうとしているのではないので,従って,彼は自分の経験(データ)以外のものを含む空間を認めなければならない。(前者の)主観的な種類の空間に関しては,私(個人)のあらゆる視覚経験を含む視覚空間があり,触覚空間があり,また,ウイリアム・ジェームスが指摘したように,胃痛の量感(voluminousness 嵩張った,広々した/痛い胃の部分の広がり具合がわかるといったニュアンスか?)等々がある。私が事物の世界におけるひとつの事物と考えられる時には,主観的な空間のあらゆる形態は私の中に存在している(訳注:前述の視覚空間も触覚空間も、個人の全ての種類の空間が自分個人のなかに存在している)。私が見ている星空(星天)は天文学上の遠くにある星空(星天)(そのもの)ではなく,星(恒星)が私に与えた影響(の結果)である。(また)私が見ているもの(事物)は,私の(脳の)中にあるのであり,(私の身体の)外にあるのではない。天文学における星(恒星)は,私の外にある物理(的)空間の中に存在しているが,私がそれらに到達するのは,推論によってだけであり、自分自身の経験の分析によってではない。ホールデン教授の空間は人格内部にある一つの秩序を表しているという陳述は,私個人の空間(私的空間)については真実であるが,物理(的)空間については真実ではない。(即ち)空間は人格を隔てるものでないという彼の付随した陳述は,もし物理(的)空間もまた我々個人の内にあるというなら正しいであろう。この混乱がとり除かれるやいなや,彼の立場はもっともらしさを失ってしまう。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.14
With regard to space, the matter is similar but more complicated. There are two kinds of space, that in which one person’s private experiences are situated, and that of physics, which contains other people’s bodies, chairs and tables, the sun, moon and stars, not merely as reflected in our private sensations, but as we suppose them to be in themselves. This second sort is hypothetical, and can, with perfect logic, be denied by any man who is willing to suppose that the world contains nothing but his own experiences. Professor Haldane is not willing to say this, and must therefore admit the space which contains things other than his own experiences. As for the subjective kind of space, there is the visual space containing all my visual experiences ; there is the space of touch ; there is, as William James pointed out, the voluminousness of a stomach-ache ; and so on. When I am considered as one thing among a world of things, every form of subjective space is inside me. The starry heavens that I see are not the remote starry heavens of astronomy, but an effect of the stars on me ; what I see is in me, not outside of me. The stars of astronomy are in physical space, which is outside of me, but which I only arrive at by inference, not through analysis of my own experience. Professor Haldane’s statement that space expresses an order within personality is true of my private space, not of physical space ; his accompanying statement that space does not isolate personality would only be correct if physical space also were inside me. As soon as this confusion is cleared up, his position ceases to be plausible.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-140.HTM