未開人あるいは古代のバビロニア人やエジプト人の信仰について(本を)読むと、それらの信仰はきまぐれな不合理な点によって、多くの人が驚かされるように思われる。 しかし それとまさに同じような(いろいろな)不合理な信念が、最も近代的で文明化された社会においてさえ、無教養な人々によっていまだ心に抱かれている(entertained 楽しまれている)。 私は、アメリカでは、3月に生まれた者は運が悪く、5月に生まれた者は特に足に魚の目ができやすい(liable to corns 魚の目になりやすい/角質になりやすい)と、重々しい口調で保証されたことがある I have been gravely assured,。 私はこれらの(上記)迷信の歴史は知らないが、恐らくバビロニアとかエジプトの司祭の伝承(priestly lore)に由来するものであろう。信仰は上位の社会階層で始まり、その後、川の泥のように、教育の階層(in the educational scale)を徐々にくだっていく。すっかり沈み切るには三千年から四千年かかるかも知れない。(アメリカでは)黒人の女中(your colored help)がプラトンから直接由来するなんらかの言葉を口にするのに気づくかも知れない。それは学者達がプラトンから引用するような部分ではなく、プラトンが明らかに無意味なことを口にしている部分、たとえば、この世で知恵を求めない男は女として生まれ変わるでろう、といったようなものである。偉大な哲学者の思想を註釈する人々は、いつも哲学者の愚かな発言を無視する(見て見ぬふりをする)ものである。
アリストテレスはその名声(評判)にもかかわらず、不合理(な発言)に満ちている。彼は、子供は冬、風が北から吹く時に授かるべきだ(妊娠すべきだ)とか、人々があまり若くして結婚すると女の子が生まれるだろう、と述べている。彼はまた、次のように語っている。即ち、女性の血液は男性の血液よりも黒い;豚はハシカにかかりやすい唯一の動物である;不眠症にかかっている象はその肩を塩やオリーブ油やお湯でこするべきである;、女性は男性よりも歯の本数が少ない、等々を我々に教える。それにもかかわらず、アリストテレスは大多数の哲学者によって知慧の典型だと考えられている(のである)。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.40
When one reads of the beliefs of savages, or of the ancient Babylonians and Egyptians, they seem surprising by their capricious absurdity. But beliefs that are just as absurd are still entertained by the uneducated even in the most modern and civilized societies. I have been gravely assured, in America, that people born in March are unlucky and people born in May are peculiarly liable to corns. I do not know the history of these superstitions, but probably they are derived from Babylonian or Egyptian priestly lore. Beliefs begin in the higher social strata, and then, like mud in a river, sink gradually downward in the educational scale; they may take 3,000 or 4,000 years to sink all the way. You may find your colored help making some remark that comes straight out of Plato — not the parts of Plato that scholars quote, but the parts where he utters obvious nonsense, such as that men who do not pursue wisdom in this life will be born again as women. Commentators on great philosophers always politely ignore their silly remarks.
Aristotle, in spite of his reputation, is full of absurdities. He says that children should be conceived in the Winter, when the wind is in the North, and that if people marry too young the children will be female. He tells us that the blood of females is blacker than that of males; that the pig is the only animal liable to measles; that an elephant suffering from insomnia should have its shoulders rubbed with salt, olive-oil, and warm water; that women have fewer teeth than men, and so on. Nevertheless, he is considered by the great majority of philosophers a paragon of wisdom.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
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Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
https://russell-j.com/cool/UE_07-400.HTM
大雑把に言えば、罰(を与えること)は正気で行われる犯罪を防ぐことはできそうであるが、何らかの心理的異常から生じる犯罪を防ぐことはできそうにない。このことは現在では部分的には認識されている。 (即ち)我々は、合理的な私利私益(自己利益)と言ってよいものから生じる単純な窃盗と、何らかの気が変なことの印である窃盗症とを区別する。また殺人狂(homicidal maniacs)は通常の殺人のように扱うことはできない。 しかし 性的逸脱(sexual aberrations)は非常に多くの嫌悪感をかきたてるために、懲罰的に扱うよりも医学的に扱うことは、いまだ(依然として)、不可能である。(侮辱・不当な扱い・不正などに対する)憤慨(indignation)は、概して、有用な社会的な力(の一つ)であるが、医療技術のみが治すことができる病気(maladies)の犠牲者に対してそれ(憤慨)がむけられる場合には有害なものとなる。
「先進的な思想家」のなかには、従来の意見と異なる者なら誰でも正しいに違いないという考えの人もいる。これは妄想である。 もしそうでない(妄想でない)としたら、真理は現実よりももっと容易に手にいることだろう。誤りをおかす可能性は無限にあり、また、流行遅れの真理(unfashionable truths)よりも流行遅れの誤りをとりあげる変人(注:crank つむじ曲がりの人)のほうがより多い(more ~ than に注意)。 私はかつて一人の電気技師にあったことがあるが、彼が最初に私に言ったのは次の言葉であっ た。「今日は! 信仰療法(faith-healing)には二つの方法がありましてね、一つはキリストによって行われたもので、もう一つは大部分のクリスチャンサイエンスの信者によって行われたものです。私はキリストによって行われた方法をやります(注:つまり、大多数の人たちがやらないもののほうがより正しいとその電気技師は考えていたようだ、ということ)」。 間もなくして、彼は不正な貸借対照表(fraudulent balance-sheets)を作成した罪で刑務所に入れられた。法律は、信仰が会計の領域に侵入するのを親切に見てくれない(のである)。私はまた、哲学に傾倒して一つの新しい論理学を教えた、ある著名な精神科医(ドクター)を知っていたが、彼はその論理学を自分の精神病の患者から学んだと、率直に告白した。彼が亡くなった時、彼はその新しい科学的方法を教えるための教授職(講座)を創設したいという遺言(will)を遺したが、不幸なことに、財産をまったく遺さなかった(no assets)。算術は精神錯乱者の論理学に反抗的であることがわかった(のである)。ある時、一人の男がやってきて、自分は哲学に興味をもっているので、私の書いた本のなかから何冊かを推薦んしてくれと求めた。私は何冊かを推せんしてあげた。しかし、彼は、翌日やってきて、推薦された本のうち一冊を読んだが理解できる陳述はたった一つしかないということがわかった、また、その一つは、自分には間違いのように思われる、と言った。私はそれは何かと尋ねると、それはジュリアス・シーザーは死んだという陳述だと言った。どうしてそれに同意できないのかと聞くと、彼はきっとなって言った。「それは、私がジュリアス・シーザーだからです」。これらの例は、風がわり(eccentric)であることでそれが正しいことの確認はできない、ということを十分示しているであろう。
科学的に人間を操ることができることを、及び、政府は自らの思い通りに大衆をあっちへ向けたりこっちへ向けたりすることができるということを、発見したことは、我々の不幸の原因の一つである。精神的に自由な市民の集団と、現代的な宣伝手法によって型づくられた共同体(社会)と間には非常な相違があるが、それは 原料資材の集積物と(それで出来上がった)戦艦(軍艦)との間にある大きな違いと同様である。当初は、全ての人々が読み書きできるようにするために一般化(義務化)された教育が、全く異なる目的に奉仕することが可能だということが発見された。ナンセンスな事柄を(国民に)注入することによって、教育は国民を統合し、集団的な熱狂を生みだす。もし全ての政府が同様のナンセンスを教えるのであれば その害はそれほど大きくはないであろう。不幸なことに、各々の国がそれ自身の商標をもっており、この商標の多様性が異なる信条の熱狂的な信者達の間に敵意が生まれるのを助ける(のである)。もしこの世界に、 いつか平和がありうるとすれば、諸政府がいかなる独断的教条をも教えないことに意見が一致するか、 あるいは、全ての同一の教条を教えることに意見が一致するか、のいずれかであるだろう。前者はユートピア的な理想であるという心配はあるが、ひょっとすると、諸政府は一団となって、全ての公民はいずこにあっても完全に美徳をそなえ、完全に賢明であると教えることに意見を一致させることができるかも知れない。もしかすると、次の戦争の後になって、生き残った政治家達は、なにかそのようなプログラムにもとづいて結合するのが分別あることだと知るかもしれない。
私は、政府の行為によって一般(国民)に信じられるようにできる不合理(な事柄)(absurdities)には全く限界がない(訳注:独裁政府は国民を簡単に騙せる)と信じている。私にそこそこの(十分な)軍隊をもたせ、かつそれに対して普通の人々(注:the lot of the average man 平均的な人々の集団)にあてがわれ よりも多くの給料を支払い、よりよい食物を与える力(権限/権力)を持たせたごらんなさい。そうすれば、私は30年以内に、国民の多数(過半数)に、2かける2は3になるとか、水は熱くなると凍り、冷たくなると沸とうするとか、あるいは、その他、国家の利益になるような不合理を信じさせることを引き受けよう(undertake to)。もちろん、これらの信念が生成された場合でも、人々はお湯を沸かしたい時に、やかんを冷蔵庫のなかにいれようとはしないであろう。冷たさが水を沸とうさせるというのは、恐れおののいた調子で表明される(ところの)神聖かつ神秘的な日曜日の真理( a Sunday truth)であり、日常生活ではそれにもとづいて行動することはないものである。 起こりそうなことは、この神秘的な教義をすこしでも言葉の上で否定することは不法とされ、頑固な異端者は火刑台で「凍らせられる」ということになるであろう。 (政府)公認の教義を熱烈に受け入れない者は、教えたり、何らかの権力の座についたりすることを許される者はまったくいないであろう。非常に高い地位にある役人(最高幹部)が、酒に酔っ払って(in their cups)、これらのこと全てはなんとたわけたことかと、お互いにささやきあうことができるだけだろう。そうして、彼らは笑い、再び酒を飲むだろう。こうしたことは、決して現代のいくつかの政府のもとで起こっていることの戯画化とはほとんど言えないであろう。(注:単なる冗談ではなく、実際に起こっていることであって、真剣に考えなくてはいけない事態である、ということ)
人間の本性(人間性)は変化させることができないという教義を適用したもので、特別(特に)有害なものが一つある。それは、我々(人間)は戦争の必要性を感じるように生まれつきできているので戦争は常に存在するだろうという独断的な主張である。大部分の人々がとるような種類の食事をとり、そうして、 大部分の人々が受けるような教育を受けてきた人間は、挑発されれば闘いたくなるというのは本当である。しかし彼は、勝利のチャンスがなければ。実際には闘わないだろう。スピード違反を取り締まる警察官-(a speed cop)によって停止させらられることはとてもうっとおしいことであるが、警官の背後には国家の圧倒的な力(軍隊)が控えていることを知っているので、我々は警官とは闘わない。(また)戦争の機会がない人は、(自分の人生を)心理的に妨害されているという印象をまったく与えない。(訳注:これは「戦争は必要悪」だと言う人達への反証の意味)。(たとえば)スウェーデンは1814年以来まったく戦争をしなかったが、スウェーデン人は、数年前、世界で最も幸福かつ最も満足した(満足感を持っている)国民の一つであった。いまだにそうであるかどうかは疑問であるが、それは(疑問であるのは)スウェーデンは中立国であるが、スウェーデン人は戦争にまつわる多くの悪から逃れることはできないからである。 もし政治組織が戦争を明らかに利益にならないものにさせるようなものであるならば、戦争が起こることを強制したり、戦争が起こらないために普通の人間が不幸になるというようなことは、人間性にはなにも存在していない。戦争を防止することの不可能性について〔戦争は人間性の一つだからという〕 今用いられているのとまったく同一の議論(論拠)が、かつては決闘を弁護するために使われたことがある。しかし、決闘をすることが許されないといって、心理的に妨害されていると感じる者は、我々のなかにはほとんどない。