ラッセルの哲学 概観と手引 12

 ラッセルの著作がなぜ複雑で微妙で込み入っているか(ややこしいか)、なぜホワイトヘッドはラッセルをプラトン的対話そのものだ(訳注:複数のラッセルがラッセルの著書のなかで対話・議論をしている)と呼んだかが、今や一層容易に理解できるであろう。実際、ブラトン以後の偉大な哲学者で、その見解を短く(in a short space)要約することが(これほど)困難な哲学者はいない。 ラッセルの哲学は、彼が自分自身に対して負け戦(まけいくさ)を戦った戦場であった。(即ち)ある時はある方向へ向い、ある時には別方向に向かい、結論 - 通常の場合、彼が当初期待したものとは正反対の(diametrically)結論 - に達するまでには問題の全領域を網羅していた(のである)。
 ラッセルとその最初期の哲学上の論敵との間の主な論争点を要約することは、- どちらの側もある意味では正しかったと述べることをしないでは、非常に困難である。しかし、「内的関係(internal relations)」についてのラッセルとブラッドリとの論争における根本的な争点は、ブラッドリの側での一種の想定(assumption)、即ち、ひとつの存在が事実上ある関係をもつ場合それはその関係を必然的にもっていなければならない(持っているに違いない)という想定であると、私は考える(訳注:たとえば、AとBが関係がある場合、その関係というものが外にあると考えるのが外的/外面的関係説、内的にあるというのが内的/内面的関係説)。恐らく、我々はラッセルのディレンマを次のように言うことによって最もよく説明できるであろう。(即ち)彼は、ほとんどの場合、充足理由の法則(注:「どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない」という原理)を信じたかった、(しかし)彼の知的誠実さはそれを拒否し、そうしてそのゆえに、ラッセルには、いかにして科学的知識が可能であるかを説明する問題が残されたのである。
 かなり逆説めいているが(逆説的な言い方だが)、ラッセルのいつものスタイル(文体)が非常に明確であることは、彼の議論(主張)の常なる(絶え間のない)繊細さと独創性とを不明瞭にしている(覆い隠してきている)。論争的な誇張(表現)や(眼の前のものを)一掃するような警句は誰でもよくわかるので繰り返し引用されてきたが、彼がある主張から別の主張へと骨折って取り組んでいるあるいは自問自答している著書は、しばしば読まれないままとなる。現代のある評判の解説者によれば、ラッセルの書くものは「最も困難な主題についても常に容易である」とのことであるが、そのことから、その解説者は(ラッセルの)『数学の原理』や、さらには『人間の知識』をさえ、一度も読んだことがないと推論(演繹)しても、誤りではないように思われる

Summary and Introduction n.12
It may now be easier to understand why Russell’s writings are so complex, subtle and intricate, and why Whitehead called him a Platonic dialogue in himself. In fact there is no great philosopher since Plato whose ideas are harder to sum up in a short space. His philosophy was a battleground on which he fought a losing battle against himself; sometimes going one way, sometimes another; and he covered the whole field before reaching conclusions usually diametrically opposed to those which he had hoped for. It is very difficult to sum up the main point at issue, between Russell and his earliest philosophical opponent, without making it appear that both sides were, in a sense, right. But I think the fundamental point at issue, in Russell’s controversy with Bradley over internal relations, was some sort of assumption, on Bradley’s part, that an entity must have the relations which it has. Perhaps we can best sum up Russell’s dilemma by saying that for the most part he wanted to believe in a Law of Sufficient Reason; his intellectual integrity made him reject it; and he was therefore left with the problem of explaining how scientific knowledge could be possible. Paradoxically enough, the very clarity of Russell’s usual style has obscured the continual subtlety and originality of his arguments. The polemic overstatements and sweeping epigrams which anyone can understand have been quoted again and again; the books where he is painfully working his way from one position to another, or arguing with himself, often remain unread. According to a modern commentator of some repute, Russell ‘even on the most difficult topics is always simple, easy’; from which it would seem a fair deduction that the commentator in question has never read The Principles of Mathematics, nor even Human Knowledge.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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ラッセルの哲学 概観と手引 11

 関係している事柄(そこに含まれるもの)は、美的な優雅さ(aesthetic elegance 美的な簡潔さ)への愛とか、統一への愛とか、体系への愛とか深遠さ(profundity 奥深さ)とか(「深遠さ」 という語にはいろいろな意味があるが、私が考える唯一の意味において=真の意味での「深遠さ」?) 、多様に(様々に)記述可能であろう。それは彼の非人間的かつ確実な真理へ情熱と、部分的には結びつき、部分的には敵対するものであった。そうして、まったく同様に(just as)達成不可能なものであることがわかった(のである)。
(訳注:数学などで「elegant な解答と言う場合、「優雅」というよりも、「簡潔で、洗練された」解答と言う意味になります。)
 初期の論文の中で、彼は、最も偉大な数学の著作において「統一と必然性は、一つの劇の展開において感じられるのと同様に、感じられる(訳注:ひとつのドラマは全体的に統一性があり、起承転結の必然性が与えられている?)。体系への愛、即ち相互連関への愛は(訳注:関連のないものの集まりではないこと)、恐らく、知的衝動の最も奥深いところにある本質であろう」*1と述べている。しかし、後になって、彼は体系への愛哲学における誠実な思考に対する最大の障害であるという結論にいたらざるをえなかった。(それは)丁度、「確実性への要求は人間にとっては自然なものであるが、それにもかかわらずそれはやはり一つの知的悪徳である」という結論をくだしたのと、同じである。(訳注:真摯な真理の探究においては、人間の都合のよい結論を前提にしてはいけない、ということ)*2  彼は1931年に、(この)結論を、次のように最も極端な形で述べている。 「アカデミックな哲学者達は、パルメニデスの時代以来、(この)世界は一つの統合体だと信じて来た。 私の知的信念の最も根本的なものは、それ(注:世界は一つの統合体であるという信念)は馬鹿げたもの(rubbish)だということである。この宇宙は、飛び飛びの世界(?)(spots and jumps)であって、統一もなく(注:一般相対性理論)、連続性もなく(注:量子力学的世界像)、整合性その他の女教師が愛するような全ての特性をもたないものだと私は考える(訳注:ラッセルは幼い頃、女性の家庭教師達 governesses をつけられていたことに注意)。まったく、一つの世界があるという見解に賛成して言われることは、ほとんど全ては(little but)偏見か(思考)習慣にすぎない・・・*3
 外的世界(の存在)は幻想かも知れないしかし、もし外的世界が存在するとするならば、それは、短い、小さな、偶然(行き当たりばったり)の出来事(事象)からなっている。秩序、統一、連続(性)は、人間の作為(つくりあげたもの)であり、(人間が編集した)カタログや百科事典(の。秩序、統一、連続(性))と全く同様である*4
 こういった(文の)一節の真価を認める(理解する)ためには(to appreciate)、それを、単純に、大多数の「アカデミックな哲学者」に対する全般的な攻撃であると見なしてはならない。それは、ラッセル自身がかつて抱いた立場(主張)に対する攻撃であった(のである)。そして、その立場は、知的に可能なものとして抱きたいと常に思っていたもの(立場)なのである。
*1 『神秘主義と論理』p.66, 『外界の知識』p.238参照
*2 『不評判なエッセイ集(反俗評論集)』p.42
*3 『科学の眼(科学的見方)』p.98
*4 『科学の眼(科学的見方)』p.101

Summary and Introduction n.11
What is involved might variously be described as love of aesthetic elegance, love of unity, love of system, or profundity. (In the only sense of the word ‘profundity’ which I think has any meaning.) It was a passion partly connected with, and partly at variance with, his passion for impersonal and certain truth. And it proved just as impossible to attain. In an early article he described how, in the greatest mathematical works, ‘unity and inevitability are felt as in the unfolding of a drama…. The love of system, of interconnection … is perhaps the inmost essence of the intellectual impulse’.*1 He was later forced to the conclusion that the love of system was the greatest barrier to honest thinking in philosophy; just as he decided that ‘the demand for certainty is one which is natural to man, but is nevertheless an intellectual vice’.*2 He put his conclusions in their most extreme form when he wrote in 1931: ‘Academic philosophers, ever since the time of Parmenides, have believed that the world is a unity. . . . The most fundamental of my intellectual beliefs is that this is rubbish. I think the universe is all spots and jumps, without unity, without continuity, without coherence or orderliness or any of the other properties that governesses love. Indeed, there is little but prejudice and habit to be said for the view that there is a world at all. *3 “The external world may be an illusion, but if it exists, it consists of events, short, small and haphazard. Order, unity, and continuity are human inventions, just as truly as are catalogues and encyclopaedias.”*4 To appreciate the force of such a passage, it must not be regarded as simply a sweeping attack on most ‘academic philosophers’. It was an attack on a position which Russell held himself; and one which he always, in a sense, wanted to hold as intellectually possible.
*1 Mysticism and Logic, p.66, cf. Our Knowledge of the External World, p.238
*2 Unpopular Essays, p.42
*3 Scientific Outlook, 98
*4 ibid., p.101
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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ラッセルの哲学 概観と手引 10

 ラッセルは自分自身について言わなかったことアインシュタインについて(は)言った(言っている)。ラッセルは、相対性理論は「最小限の材料で達成された膨大な結果において感ぜられるところの偉大さに満ち溢れている(is possessed by 専有されている)」と書いた時、彼(自身)の真の感情へのよい手がかりを与えた(与えている)。
 オッカムの剃刀は単なる哲学上の節約運動のようなものではない。そう考えるのは、彫刻家とは大理石の不要な部分をとりのぞく人として記述するようなものである。それ(オッカムの剃刀)はまたヴィットゲンシュタインが示唆したように(ような)、記号法上の一つの規則でもない。(また)それは単に哲学的計算(訳注:philosophical calculations この表現は論理学における演算をイメージするとよいかも) において正確さの機会をより大きくするための規則でさえもない。オッカムの剃刀の使用は、ラッセルにとって、目的への手段であるだけでなく、それ自身において動機であるところのものの一部である。(即ち)それは、非人間的真理への彼の情熱とほとんど同じくらい力をもった一つの情熱であった(のである)。それは自分の原稿から不要な語を削りとる全ての著作家によく知られている情熱であり、最も洗練された証明や最も一般的な法則を求める全ての数学者や科学者によく知られた情熱である。このことを定義したり説明したりしようとするより、その実例を挙げるほうが容易である。*1
*1 『神秘主義と論理』p.70を参照
 ラッセルは1906年にこう書いている。「数理論理学のための原始命題の体系の多様な選択肢のなかから選択する時、原始命題最も少数かつ最も一般的であるものが、美的には(イタリック)、採用されるべきである。それは、あたかもケプラーの三つの法則よりも(ニュートンの)万有引力の法則が好まれるのとまったく同じである。(イタリックは アラン・ウッドによるもの)*2。ケプラーの第二法則を引力の法則からニュートンが演繹(証明)するのを読んだ時、「ほとんど陶酔に似た感じ」を覚えたと彼(ラッセル)は追想している。 *3 彼は、子供の時、等差級数の総和を求める公式を独力で発見した時の喜びや Eiπ=-1(注:「iπ=-1」は上付き)というような簡潔な公式において発見した喜びについて語った(語っている)。こういう実例において彼ははるかによく真実のすがたを描いているが、改 まった文章で書くときには、たとえば、「数学において極度の一般化がなされる理由は、一般的に証明 されうることを特殊な場合について証明して『時を空費』せぬためである」と言う。*4
*2 『ライプニッツの哲学』p.8
*3 『教育論』p.203
*4 『神秘主義と論理』p.66
訳注primitive propositions : みすず書房版の野田訳では「systems of primitive propositions」を「原始的概念の体系」と訳していますがこ れは誤訳と思われます。ラッセルは原子命題 (atomic proposition それ以上分 解できない命題/原子命題を組み合わせたものは分子命題)と原始命題とを区別しているのか、同じ意味で使っているのか、よくわかりません。
 なお、Weblio では、原始命題を次のように解説しています。
原始命題とは、「明日、太陽が東から昇る」「お隣の田中さんは犬を飼っている」などのように、それ自体で意味的に完結した単独の命題である。原始命題は、端的に、反証可能であるか反証不可能であるかのどちらかである。しばしば、日常において科学的と考えられている命題が原始命題として見られると、その命題において反証が可能でない場合がある。例えば、「(すべての)人間の行為は無意識の性的欲求に原因がある」「(唯物論的段階にあれば)共産主義革命がおこる」などである。一見科学的だがそれ自体では反証可能性を持たない仮説は、その仮説の意味内容、すなわち検証の直接的な対象が過去の出来事であったときに多く見られる。】

Summary and Introduction n.10 What he would not say about himself he said about Einstein. He gave a better clue to his real feelings when he wrote that the Theory of Relativity ‘is possessed by that sort of grandeur that is felt in vast results achieved with the very minimum of material’. Occam’s Razor is not just a kind of philosophical economy campaign; that is like describing a sculptor as a man who gets rid of unnecessary chips of marble. It is not, as suggested by Wittgenstein, a rule of symbolism. It is not even merely a rule for securing a greater chance of accuracy in philosophical calculations. Russell’s use of Occam’s Razor was not only a means to an end but part of something which was a motive in itself; a passion which had almost as much force in Russell’s mind as his passion for impersonal truth. It is a passion known to every writer who whittles away unnecessary words from his manuscript, and to every mathematician and scientist in the search for the most elegant proofs and most general laws. It is easier to give illustrations of it than to attempt to define or explain it.*1 *1 cf. Mysticism and Logic, p.70 Russell wrote in 1906 that, when choosing among the different alternative systems of primitive propositions for mathematical logic, ‘that one is to be preferred, aesthetically, in which the primitive propositions are fewest and most general; exactly as the Law of Gravitation is to be preferred to Kepler’s three Laws’ (my italics). *2 He recalled that he had ‘a sense almost of intoxication’ when he first studied Newton’s deduction of Kepler’s Second Law from the Law of Gravitation.*3 He told of his delight when he discovered for himself, as a boy, the formula for the sum of an arithmetic progression, and his delight in such a concise formula as Eiπ=-1. In such instances he gave a much truer picture, but when he wrote, for example, “then the justification for the utmost generalization in mathematics was not to “waste our time” proving in a particular case what can be proved generally’.*4 *2 Philsophy of Leibniz, p.8 *3 On Education, p.203. *4 Introduction to Mathematical Philosophy, p.197-8. Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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 ラッセルの哲学 概観と手引 09

 哲学的議論が「勧告」(熱心な勧め)から成るという事実は、ラッセルの書くものの持つ格式張らない味わい(informal flavour )や、 彼の考え(ideas 思想)の様々な人気のある(例などを使っての)説明(popular illustrations 評判のよいわかりやすい説明/解説) -そこに批評家達は矛盾を見出すが- の多くを説明する。 それはまるで、ラッセルが「もし、その言い方(説明の仕方)が納得できないならば、恐らく、こう言えば納得できるだろう」と読者に言っているかのようである。*1
*1 リンゼイがカントについて同様な発言をしたことに注意するのは恐らく興味深いことであろう。)
 ラッセルが哲学について上記のような見解に50年以上も前に到達して以来(since)、久しくそれは忘れられていて(忘れられるための時間があり)、近年再び、あたかもそれらの見解がヴィットゲンシュタイン及びヴィトゲンシュタイン学派がなした新発見であるかのごとく、提示されている。(たとえば、最近出版された『現代イギリス哲学』 (Contemporary British Philosophy) の最新刊(第三巻)においてヴァイスマン博士はこう言っている。「哲学的問題が議論(論議)によって解決され、しかも、ただ論議をどのように運ぶべきかを知っていさえすれば決定的に解決されうる、という考えがある。・・・しかし、私は、「それは不可能である」という、新しくかつ幾分驚くべき結論に達しようとしている。いかなる哲学者もかつて何ごとも証明しなかった。 [なぜなら] 哲学的論議論は演繹的ではないからである。」*2
*2 上記で(先に)私は、確実な知識(certain knowledge)を求める彼の情熱によって触発されたものとして、ラッセルの哲学的方法の一部としてのオッカムの剃刀に言及した。これはラッセル自身がそれオッカムの剃刀)を用いる理由として述べたことである。「誤謬(誤り)におちいる機会を少なくするのがオッカムの剃刀のとりえである」)。*3
*3 『論理的原子論の哲学』(ラッセル(著)『論理と知識』所収)
 しかし、実はそれよりもずっと多くのことが含まれていたのである。我々は、ラッセルが自分自身の仕事を小さく見せるように述べる(過小評価する)習慣をもっていることに注意しなければならない

Summary and Introduction 09 The fact that philosophical argument consists of ‘exhortation’ accounts for much of the informal flavour of his writing, and the use of different popular illustrations of his ideas, in which critics can find contradictions. It is as though Russell were saying ‘if that way of putting it won’t convince you, perhaps this will’.*1 *1 Perhaps it is of interest to note that A. D. Lindsay made a similar remark about Kant.) Since Russell reached the above views on philosophy over fifty years ago, there has been time for them to be forgotten, and they have been presented again in recent years as though they were new discoveries due to Wittgenstein and his school. (For instance, Dr Waismann in the latest volume of Contemporary British Philosophy: “There is a notion that philosophical questions can be settled by argument, and conclusively if one only knew how to set about it…. I incline to come to a new and somewhat shocking conclusion: that the thing cannot be done. No philosopher has ever proved anything (because) philosophical arguments are not deductive.’)*2 *2 VOL.III, p.471 I have referred above to Occam’s Razor as a part of Russell’s philosophical method inspired by his passion for certain knowledge. This was how Russell himself justified its use. (“That is the advantage of Occam’s Razor, that it diminishes your risk of error.)*3 *3 Philosophy of Logical Atomism, in Logic and Knowledge But much more was involved than this; and we must beware of Russell’s habit of describing his own work in terms of belittlement.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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ラッセルの哲学 概観と手引 08

 哲学の適切な手続き前提から帰結(結果/結論)に進む演繹的なものではなく,まさにその反対(逆)であるというラッセルの見解から、いくつかの帰結(結果)が出てくる。

 哲学的論争における唯一の決定的な武器は「帰謬法(reductio ad absurdum)」である。(即ち)到達された前提が矛盾に導くことを示しすことができることである。確かに、哲学においては、何ものかの反証(間違っている証拠)を示すことはできるが、いかなるものも(絶対的に正しいと)証明することはできない。従って「哲学的議論は、厳格に言うと、主として、著者が知覚(認識/理解)したものを読者にも知覚(認識/理解)させようとする努力から成っている。つまり、議論(論議)は、端的に言えば(要するに)、証明に類するものではなく、勧告(exhortation 熱心な勧め;説教)に類するものである」。*1
*1 ラッセルは『数学の諸原理(the Principles of Mathematics)』の中で、これらの言及は数理哲学の考察から出て来たものであって哲学の他の部門には「必ずしも適用されない」と、前置きしている。しかしすでに述べたような、彼の哲学的方法の根底にある統一性に鑑みれば、私はそういう制限をつけることは今やもう必要とは考えない(不要であると考える)(同書、p.129,130)。
 論争となる問題を明瞭にする方法は、「無意識に用いられがちな諸前提を一層注意深く吟味することであり、基本原理(fundamentals)に一層長く注意を向けること」である。以後は、哲学的異論は、「見てご覧、私の見るものがあなたにも見えませんか?」(これはラッセルの言葉ではない)という言い方になりうるのみである。哲学的進歩は、何かを突然新たな見方で見ることである。  哲学的進歩は、分析と、それからラッセルが、(a)洞察 (insight) とか、(b)直観 (intuition) とか、(c)本能 (instinct) とか、(d)見ること(vision)とか、様々に言っているもの、によって達成される。
*2 『数学の諸原理』p.129。(また)『外界についてのわれわれの知識』を参照。
*3 『外界についての我々の知識』p.31。『ライプニッツの哲学』p.171参照。
*4 バートランド・ラッ から F・H・ブラッドリへの手紙
*5 『外界についての我々の知識』p.241
 そうして、彼は、我々が自明だと信ずるものへの「洞察」や「本能」が誤まりやすいことを、たびたび強調したが、 最後の拠り所として(in the last resort)、我々(人間の)本能的信念は、他の本能的信念と衝突するという理由によってのみ拒否することができると認識した。哲学が達成できる最良の目標は、(1)我々の本能的信念を、確実性のより多いものから確実性のより少ないものへと一種の段階的に排列することであり、(2)内的に一貫した信念の体系に到達すること、であった。*6
*6 『哲学の諸問題』
 ラッセルのこれらの見解は強調に値する。 彼は、「直観」や「本能」(それから、その他多くのもの)に訴えることを自分の哲学から厳しく排除しているかのように時々書いているが、そのことはそれらのものの重要性を彼が認識していなかったことを意味するものではない。彼の哲学から排除されているものが多くあり、それに対し、批評家達は(ラッセルの哲学に見られる)深淵さ(深さ)の欠如の証拠として指摘する。(そして、他の領域で彼がなしたことの中にも見出されうる)。

Summary and Introduction 08 Certain consequences follow from Russell’s view that the proper philosophical procedure is not deductive, from premisses to conclusions, but exactly the reverse. The only decisive weapon in philosophical controversy is the reductio ad absurdum; the premisses reached can be shown to lead to contradictions. True, in philosophy it is possible to disprove something, but never possible to prove anything. Thus: ‘Philosophical argument, strictly speaking, consists mainly of an endeavour to cause the reader to perceive what has been perceived by the author. The argument, in short, is not of the nature of proof, but of exhortation.”*1 *1 Russell prefaced these remarks, in the Principles of Mathematics, by saying they arose from the consideration of mathematical philosophy, and were ‘not necessarily’ applicable to other branches of philosophy. In view of the underlying unity of his philosophical method, referred to earlier, I do not think this qualification is now necessary, p.120, 130. The way to clarify controversial questions is by ‘a more careful scrutiny of the premisses that are apt to be employed unconsciously, and a more prolonged attention to fundamentals’. After that a philosophical argument can only take the form of saying, ‘Look, can’t you see what I see?’ (These are not Russell’s words.) A philosophical advance consists in suddenly seeing a new way of looking at something. Philosophical advances are achieved by analysis, together with something which Russell refers to variously as (a) ‘insight’,*2 (b) ‘intuition’, *3 (c) ‘instinct’*4, (d) ‘vision’*5.
*2 Principles of Mathematics, page 129; cf. Our Knowledge of the External World
*3 Our Knowledge of the External World, page 31; cf. Philosophy of Leibniz, page 171
*4 Letter from B. R. to F. H. Bradley, p.171.
*5 Our Knowledge of the External World, p.241. And though he often stressed the fallibility of ‘insight’ and ‘instinct’ into what we believe obvious, he recognized that in the last resort our instinctive belief could only be rejected because it conflicted with another instinctive belief. The best aim philosophy could hope to achieve was, (1) to arrange our instinctive beliefs in a kind of hierarchy from more to less certain; (2) to arrive at a system of beliefs which was internally consistent.*6
*6 Problems of Philosophy These views of Russell on philosophy are worth stressing. Because he wrote at times as though he rigidly excluded appeals to ‘intuition’ and ‘instinct’ (and many other things) from his philosophy, this did not mean that he did not realize their importance. There are many things excluded from his philosophy, to which critics point as evidence of a lack of ‘profundity’, which are to be found in his way of doing philosophy. (And to be found in what he did in other fields.)
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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ラッセルの哲学 概観と手引 07

 ラッセルはこう言った(言っている)。「結果から前提を推論することは帰納(induction)の本質(精髄)である。従って、数学の原理を探究する方法は、実は、ひとつの帰納法(an inductive method)なのであり、他のあらゆる科学において一般法則を発見する方法と本質において(substantially)同じものである」と。
 彼は、1924年には次のように書いている、純粋数学及び演繹的体系として整えられたいかなる科学においても、「前提のいくつかはその(前提の)結果(帰結)のいくつかよりも、はるかに明白さを欠いており、主としてその結果(帰結)のために信じられている」と。(注:『論理と知識』p.325。なお、『人間の知識』参照) (では)なぜラッセルはこの哲学的方法を採用したのだろうか? なぜ彼は与えられた知識体系の前提を発見しようとしたのだろうか? なぜなら、彼は当初、十分に(結果から前提に)遡ぼることによって絶対的に確実な前提にたどりつくことを期待していたからである。なぜ彼は前提の数を可能な限り少なくしようとしたのだろうか? その理由の一つは、誤謬(間違い)の機会を減らすことであった。この理由から、オッカムの剃刀(を使ったのである)【「オッカムの剃刀」訳注:「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」という例えによく使われる言葉】。
分析の目的は何であったのだろうか? 知識を増すためである。 もしラッセルが、当初、確実な知識に到達するという希望によって鼓舞されていなかったら、彼の哲学的方法は決して展開されなかったであろう、と私は信じている。もし、確実性は到達しえないものであると初めから認識していたならば、彼は哲学を捨てて、経済学あるいは歴史学に没頭したであろう。このようにして、彼の仕事は、不可能(なこと)を企てることによって何が達成可能かということの典型的な例である。

Summary and Introduction 07 He said: “The inferring of premisses from consequences is the essence of induction; thus the method in investigating the principles of mathematics is really an inductive method, and is substantially the same as the method of discovering general laws in any other sciences.’ He wrote in 1924 that, both in pure mathematics and in any science arranged as a deductive system; “Some of the premisses are much less obvious than some of their consequences, and are believed chiefly because of their consequences.”(Logic and Knowledge, p.325 ; cf. Human Knowledge) Why did Russell adopt this philosophical method? Why did he want to find the premisses for a given body of knowledge? Because at first he hoped that, by going far enough back, he could arrive at premisses which were absolutely certain. Why should he want to reduce the number of premisses to the fewest possible? One reason was to reduce the risk of error: hence Occam’s Razor. What was the purpose of analysis? To increase knowledge. Russell’s

philosophical method would never, I believe, have been developed if he had not at first been inspired by the hope of arriving at knowledge which was certain. Had he realized from the start that certainty was unattainable, he might have abandoned philosophy and devoted himself to economics, or history. His work is thus a classic example of what can be achieved as a result of attempting the impossible.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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ラッセルの哲学 概観と手引 06

 大雑把に言えば、ラッセルは哲学者の役割を探偵小説における探偵の役割に類似したものとして眺めた。彼は、結果から出発し、証拠を分析することによって、逆方向へと作業(研究)しなければならなかった。このアナロジー(類推/比喩)の粗雑さがどの程度まで誤解を招くものであるかは、後に明らかになるであろう。)  
 上述のように、ラッセルの哲学的手続き(his philosophical procedure)の最初の部分のみに焦点があてられてきたこと(焦点があてられてきたこと)は、恐らく不幸なことだろう。強調されてきたのは彼の「分析」の方法であったのであり、そうして、実際、それより優れた単語(言葉)を選ぶことはできなかった。 しかし、この「分析」という語は、今日、非常に多くの異なった意味に使用され、かつ、濫用されいており、ほとんど無意味なもの(言葉)になってしまっている。私は、結果から出発して前提にいたるという観念(考え方)の方が「分析」という概念よりも先立つ(よりも前にある)、と考えることは可能であると思う。そして、その考え方(idea)の方が、ラッセルの業績(work 仕事)の基礎にある統一性に(ついて)より根本的な像(picture 像,イメージ)を与える。彼は結果から出発して、『数学の諸原理』における前提にいたった。それから40年以上も経った後、『人間の知識』(Human Knowledge, 1948)において全く同じことを行った。 (即ち)「科学的推論の諸要請」を立てるための主な論拠は、『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』における還元可能性の原理の理由づけ(根拠付け)と 同じものであった(注:同書第1巻p.59)。認識論についての彼の仕事(work 研究)は、数理哲学の仕事(研究)の従属的な補遺というようなものではなかった。それは同じ仕事場から生れ、同じ道具で作られたものであった。

Summary and Introduction 06 To put it crudely, Russell saw the role of a philosopher as analogous to that of a detective in a detective story; he had to start from results, and work backwards by analysing the evidence. (The extent to which the crudity of this analogy is misleading will emerge later.) It is perhaps unfortunate that attention has usually been focused on what was only the first part of Russell’s description, as given above, of his philosophical procedure. The emphasis has been placed on his methods of ‘analysis’, and in fact no better single word could be chosen; but ‘analysis’ has now been used and abused with so many different meanings that it has become almost meaningless. I think it possible that the idea of starting from results and arriving at premisses is prior to that of analysis’; and it gives a more fundamental picture of the underlying unity of Russell’s work. He started from results and arrived at premisses in the Principles of Mathematics. He did exactly the same thing, over forty years later, in Human Knowledge, where his main argument for his ‘Postulates’ of Scientific Inference was the same as his defence of the Axiom of Reducibility in Principia Mathematica (vol.1, p.59). His work on epistemology was not a kind of subsidiary supplement to his work on mathematical philosophy. It came from the same workshop and was made with the same tools.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
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アラン・ウッド「ラッセルの哲学」概観と手引 05

         円 積 問 題

 哲学者は全て失敗者である。 しかし、ラッセルはそれを認めるだけの誠実さをもった少数者のひとりであった。この点に(Therein そこに)彼のこの上ない重要性がある。彼がカントについて称賛して書いたように、、彼についても次のように書くことができそうである。即ち、 「率直な( candid 偏見のない/公平な哲学者なら,自分が究極の真理に到達したとはとても思えない(言えない)ことを認めるべきであろう。しかし、人間性における教祖(自分の先生)を信じるという直し難い傾向(the incurable tendency to discipleship in human nature)から考えると、(始祖/先達の)哲学者は、もし彼が自分の失敗を極めてはっきりさせておかないと、後の人(弟子、崇拝者)からは究極の真理に到達したと考えられるにいたるであろう。そのこと(自分の失敗)をはっきりさせておく義務は、カントがそのその率直さ(candour)ゆえに他の大多数の哲学者たちよりもより優れた業績へと導いたもの(義務)であった。」
 ラッセルの哲学的思想は、彼の確実な知識の追求の副産物であった。そうして、その追求は失敗に終った。では(then)彼の失敗がいかにしてとても生産的なものでありえたのだろうか? 大雑把に言えば、それは二つのちがった仕方で生じた(のであった)。
(a) ある哲学的問題が解決(解法)をまったくもたないことを明らかにすることは、その問題に対するひとつの解決(解法)である。あたかも、数学においてリンデマン(Lindemann)が円を正方形に直すことが不可能であることを示した場合のようにである。(訳注:古代の幾何学者によって円積問題(与えられた長さの半径を持つ円に対し、定規とコンパスによる有限回の操作でそれと面積の等しい正方形を作図することができるか)が提示されていました。フェルディナント・フォン・リンデマンは、11882年にフェルディナント・フォン・リンデマンは、近似的に作図することはできても、π(パイ)は無理数であるだけでなく超越数であるために、原理的に、作図することは不可能であることを証明しました。)
(b) ラッセルは、彼(自分)の探究の中で、確実性を与えることはできなかったにせよ、知識を増やす、ひとつの顕著な哲学的方法を開発した。彼は次のように言っている。「真に哲学的な問題は、全て分析の問題である。そして分析の問題において、最良の方法は、結果から出発して前提にいたるという方法 ある」。*
* 「数理論理学の哲学的意義」(『モニスト』1913年10月号掲載)  なお、『外界についての我々の知識』(1914年刊)p.211参照

Summary and Introduction 05 All philosophers are failures. But Russell was one of the few with enough integrity to admit it. Therein lies his supreme importance. One might write of him, as he himself wrote in praise of Kant, that: ‘A candid philosopher should acknowledge that he is not very likely to have arrived at ultimate truth, but, in view of the incurable tendency to discipleship in human nature, he will be thought to have done so unless he makes his failures very evident. The duty of making this evident was one which Kant’s candour led him to perform better than most other philosophers.” His philosophical ideas were the by-products of his quests for certain knowledge, and these quests ended in failure. How then could his failures prove so fruitful? Broadly speaking, this came about in two different ways. (a) It is a solution to a philosophical problem to show that it has no solution: just as it was an advance in mathematics when Lindemann showed that it is impossible to square the circle. (b) In his quests Russell developed a distinctive philosophical method which added to knowledge, even though it could not confer certainty. ‘Every truly philosophical problem”, he said, ‘is a problem of analysis; and in problems of analysis the best method is that which sets out from results and arrives at the premisses.? *1
*1 ‘Philosophical Importance of Mathematical Logic’ (Monist, Oct. 1913 cf. Our Knowledge of the External World, 1914, p.211Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.

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