ラッセルの思春期の思索-性と宗教と数学

青年期の数年間の私は,とても孤独であり,不幸であった。感情生活においても(情緒面においても),知的生活においても,ラッセル家の人々に対して,頑なに秘密を保つことを余儀なくされた私の関心は,性と宗教と数学の間にわけられた。私は,青年期に性に没頭したことを想い出すと不愉快になる。あの頃私が,どういうふうに感じていたかを思い出したくない。しかし,こういうふうであればよかったといった希望的なことはのべずに,事実あった通りを以下述べるよう最善を尽くしてみよう。・・・。

GREEK-EXThe years of adolescence were to me very lonely and very unhappy. Both in the life of the emotions and in the life of the intellect, I was obliged to preserve an impenetrable secrecy towards my people. My interests were divided between sex, religion, and mathematics. I find the recollection of my sexual preoccupation in adolescence unpleasant. I do not like to remember how I felt in those years, but I will do my best to relate things as they were and not as I could wish them to have been.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-010.HTM

[寸言]
『ラッセル自伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols.)には,膨大な量の書簡や日記が収録されています。幼児期のものは少しだけですが、青年期のものは多く含まれています。青年期の日記は祖母などにみられたくないということで、鍵付きの日記帳に「ギリシア語練習帳」とタイトルがつけられ、ギリシア文字で綴られています。(上の添付写真参照) 15歳くらいからいろいろな思索が綴られており、なかでも宗教(キリスト教)に関してできるだけ客観的に検討しようとした努力を垣間見ることができます。この思索の末についに宗教(キリスト教信仰)を捨てることになります。

TPJ-WIC1 ラッセルのギリスト教に対する批判は容赦がなく、キリスト教の信者からは、ラッセルは,(日本の宗教家からさえも)宗教(特にキリスト教)の本質や役割がわかっていないと批判されます。しかし、特定の宗教を信じている人たちは、信じることを決めたらそれ以上の疑問をもたないようにしているだけであり、ラッセルのように宗教や神について疑問に思ったことについて徹底的に「自分の頭」で考えたことがない人がほとんどです。

それに対し、宗教の場合は「信じることが重要だ」と言う人がいますが、それなら「どんな宗教でも信じさえすればよいのか」と言うと、その人(ラッセルを批判する人)が信じている宗教を信じることはよいが、それ以外の邪教を信じることは無宗教よりもっと悪いと言ったりします。

キリスト教とイスラム教の対立も、これでは解決しようがありません。これに対し、日本の場合一神教ではなく多神教(八百万の神の崇拝)だからよいと自分たちの優位性をほこる人も少なく無いですが、(日本会議にみさなんを始め)同様に浅はかな人が多いと言わざるをえません。