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バートランド・ラッセル 自伝 第2巻第2章 - 祖母の遺産を全て寄付(松下彰良 訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.2

前ページ 次ページ v.2,chap.2 (Russia) 目次 Contents (総目次)
* 各国の徴兵制度の歴史
* Marriage a-la-Mode 「当世風の結婚」(ホガース版画)

第1巻第2章 ロシア)

 第一次世界大戦が終わったことにより,戦争が続いていたらわが身に降りかかったであろういくつかの'不愉快な事柄'をさけることが可能となった。徴兵年齢が1918年(ラッセルが46歳の時)に引き上げられ,私も,初めて兵役義務を負うことになった。(注:イギリスは第一次大戦前までは'志願兵制度'をとっていたが,1916年1月,18歳以上50歳以下の男子(並びに56歳までの医師)に兵役の義務を課する強制徴兵法 Military Service Act が成立した。/参考文献:藤田嗣雄『欧米の軍制に関する研究』(有斐閣出版サービス株式会社,1991年3月刊/(故)藤田嗣雄氏の学位論文を娘が出版したもの)(しかし召集がかかったとしても)当然のこと,私はそれを拒否していたであろう。政府は,(徴兵のための)身体検査(医学検査)のために私に召集をかけたけれども,政府は私を投獄したことを忘れていたので,最大限の努力を払ったが私の居所をつきとめることできなかった。もしも戦争が続いていたら,私は良心的兵役拒否者(良心的兵役忌避者)として,即座に再び投獄されたことであろう。金銭上(家計上)の観点から言っても,終戦は非常に好都合であった。『プリンキピア・マテマティカ』を書いている間は,(利益がでない純粋にアカデミックな意義のある仕事をしている間は)(父の)遺産で生計をたてることは正当化されると思っていたが,さらに祖母が遺してくれた資産(相当)も自分のものにすることは正しくないと感じた。そこでその金額に相当するお金は全て寄付することとし,一部はケンブリッジ大学(本部)へ,一部は(ケンブリッジ大学の)>ニューナム・コレッジヘ,残りは種々の教育目的のために寄付した。(注:トリニティ・コレッジではなく,なぜ女子校のニューナム・コレッジ(ニューンハム・コレッジ)に寄付したのか不詳。祖母か,亡き母の関係だろうか)そうして'社債'をT.S.エリオットにあげ,手放して以後,私の手許に残った不労所得は,年約百ポンドだけになった。それだけは私の'婚姻継承的不動産処分'(marriage settlement)のためのものであったので,なくすることができなかった。(注:marriage settlement:不動産譲渡の性質をもった継承的不動産処分。婚姻することを条件として婚姻の前に婚姻当事者の双方または一方,あるいは両親や親族が設定するもの(『研究社新英和大事典』より/参考:イギリス不動産法の単純化と土地移転の簡易化
 このこと(収入は年100ポンドのみという状態)は --私は著作でお金を稼げるようになっていたので-- たいした事だとは思われなかった。けれども,刑務所内においては,数学に関する著作は許されていたが,お金を得られるような本を書くことは許されなかった。そのために,もし,チャールズ・サンガーや何人かの他の友人が,私にロンドンにおける哲学の講師(講演者)の仕事を世話してくれなかったら,私が出所してきた時は,ほとんど一文無しの状態になっていたであろう。終戦とともに,私は再び執筆で収入を得ることができるようになった。以後,--滞米時に時々経済的に苦しい時はあったが--,それ以外には,深刻な経済的な困難に陥ることはまったくなかった。(注:1939年にカリフォルニア大学の客員教授をやめてバーンズ財団に雇われる1940年末までは経済的に困窮した。)

ラッセルの言葉366
The ending of the war enabled me to avoid several unpleasant things which would otherwise have happened to me. The military age was raised in 1918, and for the first time I became liable to military service, which I should of course have had to refuse. They called me up for medical examination, but the Government with its utmost efforts was unable to find out where I was, having forgotten that it had put me in prison. If the War had continued I should very soon have found myself in prison again as a conscientious objector. From a financial point of view also the ending of the War was very advantageous to me. While I was writing Principia Mathematica I felt justified in living on inherited money, though I did not feel justified in keeping an additional sum of capital that I inherited from my grandmother. I gave away this sum in its entirety, some to the University of Cambridge, some to Newnham College, and the rest to various educational objects. After parting with the debentures that I gave to Eliot, I was left with only about £100 a year of unearned money, which I could not get rid of as it was in my marriage settlement. This did not seem to matter, as I had become capable of earning money by my books. In prison, however, while I was allowed to write about mathematics, I was not allowed to write the sort of book by which I could make money. I should therefore have been nearly penniless when I came out but for the fact that Sanger and some other friends got up a philosophical lectureship for me in London. With the end of the War I was again able to earn money by writing, and I have never since been in serious financial difficulties except at times in America.
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(掲載日:2006.10.27 更新日:2011.8.7)