幼児の「おしゃべりのお稽古」(まず家族に対して何かを説明する)

息子が2歳4ケ月のとき,私はアメリカヘ行って,3ケ月間不在であった(自宅を留守にした)。彼は今か今かと庭の入口のところで待っていた。即ち,(私が到着するやいなや)私の手を握り,特に彼の関心を引いたことをすべて私に説明し始めた。
(注:began showing 安藤訳では「見せ始めた」と訳されているが,日本語としておかしい。たとえば、「 Please show me the way.」は「 どうしたらよいか教えて=説明してください。」)
inner_voice_how-to-speak 私は(留守中のことを)聞きたかったし,彼は話したかった。私には話したい気持ちはまったくなかったし,息子には聞きたい気持ちは少しもなかった。この二つの衝動は,異なっていたが,調和していた。お話(物語り)ということになると(注:comes to ~になると/ come to that そのことになると・・・),息子は聞きたがり,私は話したがるので,そこにもまた調和がある(のである)。
たった一度だけ,この状況が逆転したことがあった。息子が3歳半のとき,私の誕生祝いがあった。母親は息子に,私が喜ぶようなことをなんでもしなければいけないと言った。お話は,息子の最高の喜びである。私たちが驚いたことに,お話の時間になると,今日はパパの誕生日だから,僕がお話をしてあげる,とアナウンスした(告げた)。息子は,お話を1ダース(ほど)したあとで,椅子からぴょんと飛び下りて,こう言った。「きょうのお話は,これでおしまい。」 それは,(この本を執筆している今から)3ケ月前のことであるが,それ以降これまでに,二度と息子はお話をしてくれたことはない。

When my boy was two years and four months old I went to America, and was absent three months. He was perfectly happy in my absence, but was wild with joy when I returned. I found him waiting impatiently by the garden gate ; he seized my hand, and began showing me everything that specially interested him. I wanted to hear, and he wanted to tell; I had no wish to tell, and he had none to hear. The two impulses were different, but harmonious. When it comes to stories, he wishes to hear and I wish to tell, so that again there is harmony. Only once has this situation been reversed. When he was three years and six months old, I had a birthday, and his mother told him that everything was to be done to please me. Stories are his supreme delight ; to our surprise when the time for them came, he announced that he was going to tell me stories, as it was my birthday. He told about a dozen, then jumped down, saying, “No more stories to-day.” That was three months ago, but he has never told stories again.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-100.HTM

[寸言]
HowtoSpeakHorse 幼児は成長して早く独り立ちできるようになるためには、いろいろなこと(知識及び技能)を身につけなければならないおしゃべりすること(相手に何かを伝えること、説明すること)もその一つ。子どもはまず身近な家族(母親あるいは父親、兄弟がいれば兄や姉に)に何かを伝えたり、説明し対するやりかたを身につけようとする。母親とは常にそういった練習をしているので、次には、父親や兄や姉に対して同じことをしようとする。
いずれも、生物全体に備わっている本能であろう。もちろん、他の生物は人間のように言葉をあやつることはできないが、「叫び声」の高さ・強さ・抑揚をいろいろ変えることによって、様々なコミニケーションをしようとする。。

“All You Need is Love!” と簡単にいうが、愛情にもいろいろあり・・・

mothertheresa_love 私が言おうとしているのは,愛情にはいろいろ異なる種類がある,ということである。夫婦の愛情,親の子に対する愛情,子供の親に対する愛情は,それぞれ,別種の愛情である。弊害が生じるのは,これらの種類の異なる自然な愛情が混同されるときである。フロイト主義者が真理に到達していると思えないが,そう思うのは,彼らがこれらの間にある本能上の違いを認めない(認識していない)からである。そして、このために彼らは、ある意味で,親と子に関しては,禁欲主義的になっている。なぜなら、彼らは、親子間のいかなる愛情も不十分な性愛の一種と見るからである。
私は、特別な不幸な事情がある場合を除いて、根本的な自己否定が必要だとはまったく思わない。互いに愛しあい、我が子を愛している男女は、自分の心が命ずるままに,自発的にふるまうことができるべきである。彼ら(親)は、多くの思索と知識を必要とするであろうが、それらは、親としての愛情から獲得するであろう。
彼らは、お互いから(夫婦の間で)得られるものを子供に要求してはならないが、彼ら夫婦がめいめいにおいて幸せであれば、そのようなことをしたいという衝動を感じないであろう。子供たちは、(親に)適切に世話をしてもらっていれば、両親に対して自然な愛情をいだくであろうが、それは、独立心の妨げとはならないだろう。必要なのは、禁欲的な自己否定ではなく、知性と知識によって十分に啓発された本能をのびのびと豊かなものにすることである。

What I do mean is that there are different kinds of affection.  The affection of husband and wife is one thing, that of parents for children is another, and that of children for parents is yet another. The harm comes when these different kinds of natural affection are  confused. I do not think the Freudians have arrived at the truth, because they do not recognize these instinctive differences. And this  makes them, in a sense, ascetic as regards parents and children,  because they view any love between them as a sort of inadequate sex love. I do not believe in the need of any fundamental self-denial,  provided there are no special unfortunate circumstances. A man and woman who love each other and their children ought to be able to act spontaneously as the heart dictates. They will need much thought and knowledge, but these they will acquire out of parental affection. They must not demand from their children what they get from each other, but if they are happy in each other they will feel no impulse to do so. If the children are properly cared for, they will feel for their parents a natural affection which will be no barrier to independence. What is needed is not ascetic self-denial, but freedom and expansiveness of instinct, adequately informed by intelligence  and knowledge.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:
Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-090.HTM

[寸言]
All_You_Need_is_Love ビートルズの歌う All You Need Is Love という表現があるが(注:「愛こそすべて」は誤訳。「あなたが必要とする全て→ あなたが足りないものは愛だけだ!)、フロイトなどが子供の欲求(口唇期)も含めて、人間はすべて libido (リビドー)で駆られていると考えるのは行き過ぎであり,愛情にもいろいろなタイプがある(必要な区別はすべきである)というラッセルの指摘。
日本でフロイトがもてはやされていた時期のように、何でもリビドーやエス(イド=動物的本能)から説明しようとする人は今ではほとんどいないと思われるが・・・?

無償の愛(その2)- 健全な親の本能

親に対してどのような態度を子供に期待すべきかについて,私たちの考えをはっきりさせておくこともまたよいことであろう。
children_play-freely 親が我が子に対して正しい愛情を持っているならば,子供の反応は,まさに親の望みどおりのものになるだろう。子供たちは --何か楽しい遊びに夢中になっているのでないかぎり-- 親が自分の方にやってくれば喜び,行ってしまえば悲しむ。子供たちは,肉体的なことでも,精神的なことでも,困ったことが生じれば親の助けを求める。即ち,子供たちは,思いきって冒険をしようとするであろうが,それは,背後に親の保護を当てにしているからである。
だが,この感情は,危機に陥った瞬間を除いてほとんど意識にのぼってこないであろう。子供たちは,親が自分の質問に答え,子供にとって困難な問題を解決し,骨の折れる仕事を手伝ってくれることを期待している。親が子供のためにしてやることは,大部分,子供の意識にはのぼらない。
子供は,親が好きになるだろうが,それは,食事や住むところを与えてくれるからではなく,いっしょに遊んでくれ,子供にとって目新しい事物のやり方を教えてくれ,世の中のいろんな話をしてくれるからである。
Guardian_Angel 子供たちは,両親が自分を愛していることをしだいに理解するだろうが,それは,あたりまえの事実として受け取られなければならない。子供が両親に対して感じる愛情は,よその子供たちに対して感じる愛情とはまったく異なるものであろう。親は子供のこととの関連で(念頭において)行動しなければならないが,子供は自分自身と自分の外の世界との関連で(念頭において)行動しなければならない。ここが本質的に違うところである。子供は,親との関連で果たすべき重要な役割をまったく持っていない。子供の役割は,知恵と身体において成長することであり,子供がそのように成長している限り,健全な親の本能は満足するのである。

It is as well to be clear in our own thoughts as regards the attitude we are to expect from children to parents. If parents have the right kind of love for their children, the children’s response will be just what the parents desire. The children will be pleased when their parents come, and sorry when they go, unless they are absorbed in some agreeable pursuit; they will look to their parents for help in any trouble, physical or mental, that may arise ; they will dare to be adventurous, because they rely upon their parents’ protection in the background — but this feeling will be hardly conscious except in moments of peril. They will expect their parents to answer their questions, resolve their perplexities, and help them in difficult tasks. Most of what their parents do for them will not enter into their consciousness. They will like their parents, not for providing their board and lodging, but for playing with them, showing them how to do new things, and telling them stories about the world. They will gradually realize that their parents love them, but this ought to be accepted as a natural fact. The affection that they feel for their parents will be quite a different kind from that which they feel for other children. The parent must act with reference to the child, but the child must act with reference to himself and the outer world. That is the essential difference. The child has no important function to perform in relation to his parents. His function is to grow in wisdom and stature, and so long as he does so a healthy parental instinct is satisfied.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-080.HTM

[寸言]
<要注意>
通常の “as well as” の構文ではないことに注意。”own thoughts as regards the attitude” を一塊ととらえる必要がある “。as regards” も「~に関して」という熟語。そのようにとらえないと,魚津訳(みすず書房版)や堀訳(角川文庫版)のような、(「自分の思想をはっきりさせることが必要であるように,親に対するどのような態度を子供たちに期待すべきかについても,はっきりさせておく必要がある」)といった誤訳が生まれてしまう。

「無償の愛」か、それとも自分をスポイルあるいは子供をスポイルする愛か?

あれやこれやの理由で,文明国の実に多くの既婚女性は,満ち足りた性生活ができないでいる。こういうことが女性に起こると,彼女は,男性にしか十分にまた自然に満たすことのできない欲求を,我が子によって不合理かつ偽りの形で満たそうとしがちである。
私は,はっきりした行為のことを言っているのではない。ただ,ある種の情緒的な緊張,ある種の情熱的な感情,やたらにキスしたり愛撫したりする喜びのことを言っているにすぎない。こういうことは,昔は,愛情深い母親の場合,まったく正当かつ適切なことだと考えられていた。事実,正しいことと有害なこととの違いは,非常に微妙である。一部のフロイト主義者のように,親は絶対わが子にキスしたり愛撫したりしてはいけない,と主張するのは馬鹿げている。
dad-selfless-love 子供たちには,両親の暖かい愛情を受ける権利がある。そうした愛情は,子供たちに幸福なのびのびとした(気苦労のない)人生観を与えるものであり,健康な心の発達のために不可欠なものである。しかし,そうした愛情は,子供が呼吸する空気のように,子供が当然と考えるようなものであるべきであり,反応することを期待されるようなものであってはならない。問題の本質は,こういう反応を求めるか否かの問題である。多少は自発的な反応も見られるだろうが,それはすべて儲けもの(予想外のボーナス)である。
しかし,そういう反応は,仲間の子供たちから積極的に友情を求めるのとはまるで異なるものだろう。心理的に言えば,両親は影(背景)のようなものであるべきであり,親を喜ばせる目的で子供を行動させるべきではない。親は,子供が成長し進歩することを喜びとすべきである。即ち,子供が反応として何かを親にくれたとしても,それは,春の上天気のように,予想外のボーナスとして,感謝して受け取るべきであり,自然の秩序の一部として期待してはいけない。

E-Fromm_Mother-love-chilodrenFor one reason or another a very large proportion of married women in civilized countries fail to have a satisfying sex life. When this happens to a woman she is apt to seek from her children an illegitimate and spurious gratification of desires which only men can gratify adequately and naturally. I do not mean anything obvious: I mean merely a certain emotional tension, a certain passionateness of feeling, a pleasure in kissing and fondling to excess. These things used to be thought quite right and proper in an affectionate mother. Indeed, the difference between what is right and what is harmful is very subtle. It is absurd to maintain, as some Freudians do, that parents ought not to kiss and fondle their children at all. Children have a right to warm affection from their parents; it gives them a happy, care-free outlook upon the world, and is essential to healthy psychological development. But it should be something that they take for granted, like the air they breathe, not something to which they are expected to respond. It is this question of response that is the essence of the matter. There will be a certain spontaneous response, which is all to the good; but it will be quite different from the active pursuit of friendship from childish companions. Psychologically, parents should be a background, and the child should not be made to act with a view to giving his parents pleasure. Their pleasure should consist in his growth and progress ; anything that he gives them in the way of response should be accepted gratefully as a pure extra, like fine weather in spring, but should not be expected as part of the order of nature.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-060.HTM

[寸言]
よく言われる「無償の愛」。

欲求不満のはけ口を子供に求めてはいけないということ。そんなことをすれば子供の負担になるか、あるいは子供をスポイルすることになる。
即ち、「親は,子供が成長し進歩することを喜びとすべきであり、・・・、また、子供が反応として何かを親にくれたとしても,それは,春の上天気のように,予想外のボーナスとして,感謝して受け取るべきであり,自然の秩序の一部として期待してはいけない」ということ。

親の子供に対する接し方 - (対)男の子と(対)女の子 の違い

混乱の第一は,本能から得られるいろいろな快楽を知性が観察するときに生じるものである。
tied_to_his mothers_apronstrings 大雑把に言えば,本能は,有益な結果をもたらす快適な行為を促すが,結果は快適ではないかも知れない(必ずしも快適ではない)。食べることは快適だが,消化は,特に消化不良の時は,快適ではない。性行為は快適だが,出産はそうではない。幼い子供に頼られるのは快適であるが,息子がたくましく成長して独り立ちすることは,そうではない。原始的な母親タイプの女性は,おっぱいを飲ませている赤ん坊から最大の快楽を得るが,子供が無力でなくなるにつれて,次第に快楽が少なくなっていく。そこで,快楽のために,子供が無力である時期を長びかせ,親の導きなしですませる時期を先へ延ばそうとする傾向が生じる。このことは,「母親のエプロンのひもにくくりつけられた」(注:”tied to his mother’s apronstrings” 日本で言えば「乳離しない」か?)などの決まり文句の中にも認められる。
mothers_in_law この弊害は,男の子の場合は,学校へやる以外に治す手はないと(昔は)考えられていた。(これに対し)女の子の場合は,それは弊害とは認められなかった。その理由は,女の子は(もし裕福ならば)無力で人を頼りにする人間にしておいたほうが望ましいと考えられたからであり、また,これまで母親にすがりついていたように,結婚後は,夫にすがりつくようになればよい,と思われたからである。(しかし)そういうことはめったに起こらず,その失敗は,「妻のママさん」というジョークを生み出した。ジョークのねらいの一つは,考えることを妨げることであるが-- このジョークの場合,そのねらいは見事に的中した。人に頼るように育てられた少女は,当然自分の母親に頼るようになるので,従って,幸せな結婚の本質である男性との心からの協力関係に入ることができないということを,誰も理解(認識)することができなかったようである。

The first of these is of a sort which occurs wherever intelligence observes the pleasures to be derived from instinct. Broadly speaking, instinct prompts pleasant acts which have useful consequences, but the consequences may not be pleasant. Eating is pleasant, but digestion is not specially when it is indigestion. Sex is pleasant, but parturition is not. The dependence of an infant is pleasant, but the independence of a vigorous grown-up son is not. The primitive maternal type of woman derives most pleasure from the infant at the breast, and gradually less pleasure as the child grows less helpless. There is therefore a tendency, for the sake of pleasure, to prolong the period of helplessness, and to put off the time when the child can dispense with parental guidance. This is recognised in conventional phrases, such as being “tied to his mother’s apronstrings (apron strings)”. It was thought impossible to deal with this evil in boys except by bending them away to school. In girls it was not recognized as an evil, because (if they were well-to-do) it was thought desirable to make them helpless and dependent, and it was hoped that after marriage they would cling to their husbands as they had formerly clung to their mothers. This seldom happened, and its failure gave rise to the “mother-in-law” joke. One of the purposes of a joke is to prevent thought –a purpose in which this particular joke was highly successful. No one seemed to realize that a girl brought up to be dependent would naturally be dependent upon her mother, and therefore could not enter into that whole-hearted partnership with a man which is the essence of a happy marriage.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-050.HTM

[寸言]
訳注:
1) tied to his mother’s apron strings
母のエプロンに縛り付けられた(乳離していない
2) mother-in-law 義母 (mother-in-law joke 義理の母に関するジョーク)
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ふたつ目の “mother-in-law” は、日本人は、「お嫁さんから見た義母(しゅうとめ)」のことだ考えて、「義母にいじめられる嫁」のイメージを抱きやすい。
しかし、その後ろに書かれているラッセルの文章(その失敗は,「妻のママさん」というジョークが生まれた。ジョークのねらいの一つは,考えることを妨げることであるが-- このジョークの場合,そのねらいは見事に的中した。人に頼るように育てられた少女は,当然自分の母親に頼るようになるので・・・)の内容とあわないことに気づくはず。気づかなければこのへんの文章は理解できない。
つまり、米国などでは、「義母にいじめられる嫁」ではなく、「★義母を嫌う夫」のほうがよくある例(つまり、夫から見た義母のこと。「嫁にとっての実の母」がいろいろ口をだしてきてわずらわしいということ)であることに気が付かなければならない。
つまり、母親から独立していない(依頼心の強い女性)が結婚することによってもたらされる悲劇を言っている。

子どもに対する親の感情と親に対する子どもの感情-時代とともに変化する

from_cradle_to_grave しかし,(これに対し)反応を求めるのは,親の愛情の本質ではない。
自然なままで,素朴な(素のままの)親の本能は,子供に対して,自分の肉体の一部が外在化されたものに対するように,同じ感情をいだくものである。自分の足の親指の具合が悪ければ,あなたは自分の利益から(利益のために)手当てをするけれども,親指が(総体としての人間に)感謝することを期待することはない。
想像するに,未開種族の女性も,これと非常によく似た感情をわが子に対して持っているのではないか,と思う。彼女は,自分の幸せを願うのとまったく同様に,我が子の幸せを願う。子供がまだごく幼いときには,特にそうである。彼女は,自分の面倒を見るときと同様に,子供の面倒を見るときも,自己否定の感情を持っていない。まさにそういった理由で,(我が子に対し)感謝を求めないのである。
子供は,無力な間は,母親を必要とする,それだけで十分な反応なのである。やがて,子供が大人になり始めると(注: grow up 動物は赤ん坊の時から成長し続ける。 ‘up’ がついているので,ここでは 大人になり始める=大人に近づく),彼女(母親)の愛情は少なくなり,要求が増えるかもしれない。
動物の場合は,子供が大人になると,親の愛情はなくなるが,子供にはなんの要求もしない(注:年老いた親の面倒をみろ,とか)。しかし,人間の場合は,未開の種族であっても,そうはいかない。屈強な戦士になった息子は,親が年老いてよぼよぼになれば,養い,保護することを期待される。アエネアスとアンキセスの物語(注:ギリシャ軍の「トロイの木馬」の計略によって落城するトロイの街を脱出するアエネアスとその肩の上に載る老父アンキセスの物語)は,もっと高次の文化(注:未開社会との比較で)におけるこの感情を具現化している。
将来を考える(心配する)気持ちが発達するとともに,年老いてから子供に面倒を見てもらうために,子供の愛情を利用しようとする傾向が強まっていく。こうして,親孝行の原理が生まれてくる。この原理は,世界中至るところにこれまで存在してきたものであり,「十戒」の第五番目に具体的に述べられている。
私有財産と秩序ある政治の発達とともに,親孝行の重要性はより小さくなってくる(であろう)。即ち,何世紀かたち,人びとがこの事実に気づくようになり,親孝行の感情は時代遅れとなる。現代世界では,50歳の男が80歳の親のすねをかじっていることもある。そこで,重要なのは,いまだに,親に対する子供の愛情ではなくて,むしろ,子供に対する親の愛情である(というしだいである)。もちろん,これは,主に有産階級にあてはまることである。即ち,賃金労働者の間ではまだ古い関係(年老いた親が子供に頼る関係)があいかわらず生き残っている。しかし,その場合も,老齢年金や類似の方策が導入された結果,この関係は次第になくなりつつある。それゆえ,親に対する子供の愛情は,基本的な徳目の一つではなくなりつつあるのに対し,子供に対する親の愛情はいまだ重要であり続けている。

But it is not of the essence of parental love to seek a response. The natural unsophisticated parental instinct feels towards the child as towards an externalized part of the parent’s body. If your great toe is out of order you attend to it from self-interest, and you do not expect it to feel grateful. The savage woman, I imagine, has a very similar feeling towards her child. She desires its welfare in just the same way as she desires her own, especially while it is still very young. She has no more sense of self-denial in looking after the child than in looking after herself ; and for that very reason she does not look for gratitude. The child’s need of her is sufficient response so long as it is helpless. Later, when it begins to grow up, her affection diminishes and her demands may increase. In animals parental affection ceases when the child is adult, and no demands are made upon it ; but in human beings, even if they are very primitive, this is not the case. A son who is a lusty warrior is expected to feed and protect his parents when they are old and decrepit ; the story of Aneas and Anchises embodies this feeling at a higher level of culture. With the growth of foresight there is an increasing tendency to exploit children’s affections for the sake of their help when old age comes. Hence the principle of filial piety, which has existed throughout the world and is embodied in the Fifth Commandment. With the development of private property and ordered government, filial piety becomes less important ; after some centuries people become aware of this fact, and the sentiment goes out of fashion. In the modern world a man of fifty may be financially dependent upon a parent of eighty, so that the important thing is still the affection of the parent for the child, rather than of the child for the parent. This, of course, applies chiefly to the propertied classes ; among wage-earners the older relationship persists. But even there it is being gradually displaced as a result of old-age pensions and similar measures. Affection of children for parents, therefore, is ceasing to deserve a place among cardinal virtues, while affection of parents for children remains of enormous importance.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-020.HTM

[寸言] ★一億総活躍
子どもに対する親の感情と親に対する子どもの感情は時代とともに変化していく。世界的な流れは、(大きく見れば)「ゆりかごから墓場まで」、社会や国家が面倒を見る割合が大きくなってきている。北欧や英国などはその考え方に立っている。
ichioku-sokatuyaku_abe これに対し、自由競争を信奉する米国や(その真似を好んでする)日本などでは、「拡大し続ける社会保障費を抑制しなければならない」ということで、逆の動きもしているが、格差拡大(非正規労働者は労働者全体の約4割!)や貧困対策(日本の子どもの貧困率は先進国で最悪!)に力を入れずに、「頑張った者が報われる社会」(安倍総理)などと言い続けている。そういった総理を支持している国民が多いのだから、被虐的な国民が少なくないのかも知れない。

愛情を「義務化」してはならない-家庭においても、社会・国家においても

愛情と知識は,正しい行為をするための二つの主要な必要条件であると考えている。それでいて,道徳教育を論じる際に,これまで愛情については何も述べてこなかった。それはなぜかと言うと,正しい愛情は,種々な段階を通して意識的に目指されるものではなく,成長期の子供を適切に取り扱うことから自然に生まれてくる成果であるべきであると,私は考えるからである。

by Lady Ottoline Morrell, vintage snapshot print, 1923-1924
by Lady Ottoline Morrell, vintage snapshot print, 1923-1924

私たちは,いかなる種類の愛情が望ましいかについて,また,どの年頃にはどのような気質がふさわしいかについて,考えを明確にしておかなければならない。10歳ないし12歳から思春期にかけて,少年は,とても愛情が乏しくなりがちであり,彼の性質に(愛情を)押し付けても何も得ることはない。青少年時代を通じて,大人の生活におけるよりも(青少年は)同情を示す機会が少ない。それは,ひとつには,同情を効果的に表現する力が大人のようにないからであり,ひとつには,若い人は,多くの場合,他の人の利益は除外して(考えることなしに),生きていくために自分を訓練することを考えなければならないからである。
こういった理由で,私たちは,幼いときに愛情や同情という特質を早熟に無理に発達させようとするよりも,同情深く愛情のある大人を生み出すことに,もっと関心を持つべきであろう。私たちの問題は,性格の教育の問題がすべてそうであるように,科学的な問題であって,心理力学と称してもよい分野に属する。
愛情は,義務として存在できるものではない。即ち,子供に対して,両親や兄弟姉妹を愛すべきだと言うことは,有害ではないにせよ,まったく無益である。子供に愛されたいと望む親は,愛情を引き出すようにふるまわなければならず,また,豊かな愛情を生み出すような身体的及び精神的な特質をわが子に与えるように努めなければならない。

BR-1956I hold that love and knowledge are the two main requisites for right action, yet, in dealing with moral education, I have hitherto said nothing about love. My reason has been that the right sort of love should be the natural fruit resulting from the proper treatment of the growing child, rather than something consciously aimed at throughout the various stages. We have to be clear as to the kind of affection to be desired, and as to the disposition appropriate to different ages. From ten or twelve years old until puberty a boy is apt to be very destitute of affection, and there is nothing to be gained by trying to force his nature. Throughout youth there is less occasion for sympathy than in adult life, both because there is less power of giving effective expression to it, and because a young person has to think of his or her own training for life, largely to the exclusion of other people’s interests. For these reasons we should be more concerned to produce sympathetic and affectionate adults than to force a precocious development of these qualities in early years. Our problem, like all problems in the education of character, is a scientific one, belonging to what may be called psychological dynamics. Love cannot exist as a duty : to tell a child that it ought to love its parents and its brothers and sisters is utterly useless, if not worse. Parents who wish to be loved must behave so as to elicit love, and must try to give to their children those physical and mental characteristics which produce expansive affections.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-010.HTM

[寸言]
BR-1944 親子愛、兄弟愛、郷土愛、愛国心、その他、愛(情)を義務化することは,その愛(情)を破壊することである。お互いの関係や社会‥国家との関係がよければそういった愛情は自然に育まれてくるはずである。親子愛でも愛国心でも、愛(情)を強制しようとする者は、愛(情)に失敗した者であろう。

因みに、自民党の新憲法草案では、[愛国心だけでなく)次のように家族愛も義務化しようとしている。おろかな集団である。(憲法は第一に守らなければならないものであるため、たとえば、家族同士が助けあっていない者に対しては、生活保護を与えなかったり、カットしたりすることが「可能」となる。)

自民党の新憲法草案
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない。

同年輩(同年齢)の仲間の重要性

children_equal-relationship 愛情深い親は,度を越えた気ままを許すような環境を作り出し,愛情のない親は自発性が押さえつけられるような環境を作り出す。自由な競争や対等な協力において,自発性への視野(機会)を与えられるのは,同年輩の仲間のみである。暴虐な行為を伴わない自尊心,奴隷根性を伴わない思いやりは,対等の仲間との付きあいの中で学ぶのが一番よい。
以上のような理由で,親がどれほど気を配ったとしても,少年少女に対して,良い学校で得られるのと同じような利益を家庭で与えることはできない。

Affectionate parents create a too indulgent milieu; parents without affection create one where spontaneity is repressed. It is only contemporaries who can give scope for spontaneity in free competition and in equal co-operation. Self-respect without tyranny, consideration without slavishness, can be learnt best in dealing with equals. For these reasons no amount of parental solicitude can give a boy or girl the same advantages at home as are to be enjoyed in a good school.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE10-050.HTM

[寸言]
jyuken-kyoso 上位の学校(小学校から有名中学へ、中学から有名高校へ)へできるだけ多くの生徒を合格させることが中心の学校教育にあっては、ラッセルの言うような生徒同士の思いやりは余り育たないであろう。
もちろん、同じレベルの学力の子ども同士には、そのような学校でも友情関係は育つ可能性はあるであろうが、生徒の良し悪しが学校での成績で決まったり、どの上位の学校にどれだけの生徒を進学できるかによってその学校の価値が決められてしまうようでは、長い目でみれば社会にいろいろな害悪をもたらすに違いない。
しかし、日本のマスコミは、内実は余り問わずに、たとえば、大学の場合であれば、どの大企業や重要官庁にどれだけ進ませることができるかで、各学校の評価や順位付けをしようとする。だから、予備校だけでなく、学校も含め、「受験産業」と呼ばれ・・・。

親が言行一致で思いやりがあれば子どもも自然にそうなる。他方・・・

nipponkaigi_abenaikaku-members 子供に抽象的な道徳教育を与えることは,愚かなことであり,時間の浪費である。即ち、(道徳教育は)すべて具体的で,現実の状況から実際に必要とされるものでなければならない。大人の見地からすると道徳的であることも,多くは,子供にとっては,のこぎりの使い方を教わるのとまったく同じように感じられる。子供は,いま物事の処理の仕方を教わっているのだと感じるのである。これが,お手本が非常に重要である理由の一つである。大工の仕事を見ていた子供は,大工の動作(所作)をまねようとする。両親がいつも親切かつ思いやりのあるふるまいをしているのを見ている子供は,そういう点で親をまねようとする。どちらの場合も,子供は,まねようとするものに対し威信を認めている。もしも,しかつめらしくわが子にのこぎりの使い方を教えたとしても,あなた自身はいつものこぎりを斧(おの)として使おうとしているのであれば,あなたは彼を大工にすることは決してできないであろう。また,わが子に向かって妹に親切にしなさいといくら勧めたとしても,自分自身は彼女に親切にしてやっていないのであれば,あなたの教育はすべて無駄になるだろう。

It is a folly and a waste of time to give abstract moral instruction to a child ; everything must be concrete, and actually demanded by the existing situation. Much that, from an adult point of view, is moral education, feels to the child just like instruction in handling a saw. The child feels that he is being shown how the thing is done. That is one reason why example is so important. A child who has watched a carpenter at work tries to copy his movements ; a child who has seen his parents behaving always with kindness and consideration tries to copy them in this respect. In each case prestige is attached to what he wants to imitate. If you gave your child a solemn lesson in the use of a saw, but yourself always tried to use it as a chopper, you would never make a carpenter of him. And if you urge him to be kind to his little sister, but are not kind to her yourself, all your instruction will be wasted.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE10-040.HTM

[寸言]
chimimouryo_gosei 道徳や愛国心や公共心(国益など)を説く人間(特に政治家や愛国的な評論家など)には、皮肉なことに「不道徳」な人間が多い。口では道徳的なことを言っても、行動においては、ひとりよがりで「不道徳」な人間が少なくない。いや、「不道徳」というより、「偽善者」といったほうがよい人も少なくない。たとえば、◯◯◯◯や△△△△や・・・。

まねることができ、追い越すことができる目標を与えてくれる年上の子ども

three boy read book indoors
three boy read book indoors

やや年上の少年少女は,常に(子供の)野心に対する非常に効果的な刺激であり続け,また,もし(年上の者が)親切であるならば,(その少し年上の者が)困難に打ち勝った最近の思い出に基づいて,大人よりもうまくいろいろな困難を説明することもできる。
 私は,(幼児期ではなく)大学時代(注:ケンブリッジ大学)においてさえ,自分より2,3歳年上の先輩から多くのことを学んだが,それは,重々しく尊敬すべきお歴々(注:signors イタリア語のシニュールからきている)からは学ぶことができなかったものであった。

Learn From Mistakes Move Forward words on gears and people marching, climbing or walking up them to illustrate people who make errors but keep going toward their goal or mission
Learn From Mistakes Move Forward words on gears and people marching, climbing or walking up them to illustrate people who make errors but keep going toward their goal or mission

A slightly older boy or girl remains always a very effective stimulus to ambition, and, if kind, can explain difficulties better than an adult, from the recent recollection of overcoming them. Even at the university I learnt much from people a few years senior to me which I could not have learnt from grave and reverend signors.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE10-030.HTM

[寸言]
自分より(知力や体力において)格段に優れた人からのほうが子どもは多くを学べるようでいて、実際は、自分より少し優っている年上の子どもからのほうが、かえって学べることが多いということ。もちろん、すぐに追い越せるので、追い越した後は、次なるお手本を見習い、追い越すことになる。
世界的に著名で優れた人の側近なら多くのことを見習えそうであるが、逆に、近すぎて全体がみえず、誤解する人間(側近)が少なくない。「豚に真珠」,「猫に小判」という諺があるごとく・・・。