混乱の第一は,本能から得られるいろいろな快楽を知性が観察するときに生じるものである。
大雑把に言えば,本能は,有益な結果をもたらす快適な行為を促すが,結果は快適ではないかも知れない(必ずしも快適ではない)。食べることは快適だが,消化は,特に消化不良の時は,快適ではない。性行為は快適だが,出産はそうではない。幼い子供に頼られるのは快適であるが,息子がたくましく成長して独り立ちすることは,そうではない。原始的な母親タイプの女性は,おっぱいを飲ませている赤ん坊から最大の快楽を得るが,子供が無力でなくなるにつれて,次第に快楽が少なくなっていく。そこで,快楽のために,子供が無力である時期を長びかせ,親の導きなしですませる時期を先へ延ばそうとする傾向が生じる。このことは,「母親のエプロンのひもにくくりつけられた」(注:”tied to his mother’s apronstrings” 日本で言えば「乳離しない」か?)などの決まり文句の中にも認められる。
この弊害は,男の子の場合は,学校へやる以外に治す手はないと(昔は)考えられていた。(これに対し)女の子の場合は,それは弊害とは認められなかった。その理由は,女の子は(もし裕福ならば)無力で人を頼りにする人間にしておいたほうが望ましいと考えられたからであり、また,これまで母親にすがりついていたように,結婚後は,夫にすがりつくようになればよい,と思われたからである。(しかし)そういうことはめったに起こらず,その失敗は,「妻のママさん」というジョークを生み出した。ジョークのねらいの一つは,考えることを妨げることであるが-- このジョークの場合,そのねらいは見事に的中した。人に頼るように育てられた少女は,当然自分の母親に頼るようになるので,従って,幸せな結婚の本質である男性との心からの協力関係に入ることができないということを,誰も理解(認識)することができなかったようである。
The first of these is of a sort which occurs wherever intelligence observes the pleasures to be derived from instinct. Broadly speaking, instinct prompts pleasant acts which have useful consequences, but the consequences may not be pleasant. Eating is pleasant, but digestion is not specially when it is indigestion. Sex is pleasant, but parturition is not. The dependence of an infant is pleasant, but the independence of a vigorous grown-up son is not. The primitive maternal type of woman derives most pleasure from the infant at the breast, and gradually less pleasure as the child grows less helpless. There is therefore a tendency, for the sake of pleasure, to prolong the period of helplessness, and to put off the time when the child can dispense with parental guidance. This is recognised in conventional phrases, such as being “tied to his mother’s apronstrings (apron strings)”. It was thought impossible to deal with this evil in boys except by bending them away to school. In girls it was not recognized as an evil, because (if they were well-to-do) it was thought desirable to make them helpless and dependent, and it was hoped that after marriage they would cling to their husbands as they had formerly clung to their mothers. This seldom happened, and its failure gave rise to the “mother-in-law” joke. One of the purposes of a joke is to prevent thought –a purpose in which this particular joke was highly successful. No one seemed to realize that a girl brought up to be dependent would naturally be dependent upon her mother, and therefore could not enter into that whole-hearted partnership with a man which is the essence of a happy marriage.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-050.HTM
[寸言]
訳注:
1) tied to his mother’s apron strings
母のエプロンに縛り付けられた(乳離していない
2) mother-in-law 義母 (mother-in-law joke 義理の母に関するジョーク)
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ふたつ目の “mother-in-law” は、日本人は、「お嫁さんから見た義母(しゅうとめ)」のことだ考えて、「義母にいじめられる嫁」のイメージを抱きやすい。
しかし、その後ろに書かれているラッセルの文章(その失敗は,「妻のママさん」というジョークが生まれた。ジョークのねらいの一つは,考えることを妨げることであるが-- このジョークの場合,そのねらいは見事に的中した。人に頼るように育てられた少女は,当然自分の母親に頼るようになるので・・・)の内容とあわないことに気づくはず。気づかなければこのへんの文章は理解できない。
つまり、米国などでは、「義母にいじめられる嫁」ではなく、「★義母を嫌う夫」のほうがよくある例(つまり、夫から見た義母のこと。「嫁にとっての実の母」がいろいろ口をだしてきてわずらわしいということ)であることに気が付かなければならない。
つまり、母親から独立していない(依頼心の強い女性)が結婚することによってもたらされる悲劇を言っている。