ケンブリッジ大学時代の最初(の瞬間)から、私は、恥ずかしがり屋であったにもかかわらずとても社交的であった。(写真は1891年,ラッセル19歳の時)そうして私が(学校にいかずに)家庭でずっと教育を受けてきたことは何ら障害にならないことがわかった。しだいに私は、気の合った者同士のつきあいの影響のもと、しだいに生真面目でなくなった。自分の考えたことを言うことができ、またそれが怖がられもせず、あざけりもされず、あたかもかなり分別あることを言ったかのように応答されることを発見し、私は最初は、興奮した。長い間私は、まだ会ったことがなくあえばすぐに私よりも知的に優れていることわかるような、本当に頭の良い人間がこの大学のどこかにいるだろうと、想像していた。しかし学部2年生の時すでに、大学で最も頭のいい人達をすべて知りつくしてしまったことがわかった。それで私は失望すると同時に、自信が増した。
From my first moment at Cambridge, in spite of shyness, I was exceedingly sociable, and I never found that my having been educated at home was any impediment. Gradually, under the influence of congenial society, I became less and less solemn. At first the discovery that I could say things that I thought, and be answered with neither horror nor decision but as if I had said something quite sensible, was intoxicating. For a long time I supposed that somewhere in the university there were really clever people whom I had not yet met, and whom I should at once recognize as my intellectual superiors, but during my second year, I discovered that I already knew all the cleverest people in the university. This was a disappointment to me, but at the same time gave me increased self-confidence.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-150.HTM
[寸言]
人間の(全体的・総合的)能力を測定することは難しい。確かに、数学とか物理学とかか、文才とか、身体能力とかいった、個々の能力の優劣はつきやすい。しかし、知的能力全体を比較し優劣を決めることは難しい。どれだけの知識分野で比べれば十分かもわからないし、IQの得点だけで評価できるものでもない。
ラッセルはかつて、ケインズのことを「これほど頭の切れる人物にあったことがなかった]」と語っているが、それも総合的・全体的能力でラッセルより優れていたとも劣っていたとも測定しようがない。ケインズは数学的能力ではラッセルに劣っていたであろうし、諸科学に対する理解力でも同様であろう。
したがって、大学受験でどの大学のどの学部に受かったかということだけで、人間の知的能力の序列を決めることは馬鹿げている。