彼女(ラッセルの祖母/写真参照)は,母としてまた祖母として,深く気を遣ったがその気遣いは,常に賢明であるとは言えなかった。祖母は,動物的生気や満ち溢れる生命力の要求といったようなものを理解してはいなかったように思う。祖母は,一切をヴィクトリア朝の感傷という霧(や霞)をとおして眺めることを要求した。私は,全ての人が良い住居を与えられるべきだということと,にもかかわらず目ざわりだからという理由で新しい家屋は一軒も建ててはならないということとを一度に同時に要求することは論理が一貫していない,ということを祖母に理解させようと努めたことを記憶している。祖母にとっては,いずれの感情もそれぞれの権利をもっており,単なる論理のような非常に冷たい何らかの理由で,他の感情に席を譲るよう求められてはならなかった。
As a mother and a grandmother she was deeply, but not always wisely, solicitous. I do not think that she ever understood the claims of animal spirits and exuberant vitality. She demanded that everything should be viewed through a mist of Victorian sentiment. I remember trying to make her see that it was inconsistent to demand at one and the same time that everybody should be well housed, and yet that no new houses should be built because they were an eye-sore. To her each sentiment had its separate rights, and must not be asked to give place to another sentiment on account of anything so cold as mere logic.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-070.HTM
[寸言]
論理的に矛盾したことを言っても平気な人は少なくない。もちろん、矛盾していることがはっきり容易にわかることに対しては、多くの人が違和感を抱き、論理に従うことが多い。しかし、自分の感情が強い事柄については、論理的矛盾から眼をそらし、自分の感情に素直に従いがちになる。即ち、ラッセルの祖母と同じく「いずれの感情もそれぞれの権利をもっており,単なる論理のような非常に冷たい何らかの理由で,他の感情に席を譲るよう求められては(ならない)」と本能的に感ずるのであろう。