「目的地に到着することよりも,希望を持って旅することのほうが・・・」

utopia_creating 当面ほとんど実行されそうもないある種の改革を唱えることで現在生計を立てている知的かつ高潔な無数の男女が,万一魔法使いの一撃で彼らの唱道する種々の施策が達成された際には,一体どういう境遇になるかを考えると身震いする。失業者数は危険なまでに増えるだろう。団体の幹事(注:’常務理事’など)のモットーは,「希望を持って旅することは,目的地に到着することよりも良いことである」とすべきである。なぜなら,’到着’は破滅を意味するからである。

follow-blindlyI shudder to think what would become of immense numbers of intelligent and high-minded men and women who at present earn their livelihood by advocating some reform which is very unlikely to be carried, if, by some magician’s stroke, all their various measures were to be achieved. The ranks of the unemployed would be swelled most dangerously. The motto of the secretary of a society should be ‘To travel hopefully is a better thing than to arrive’, for arrival spells ruin.
出典: On societies (written in June 8, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)
詳細情報:http://russell-j.com/SOCIETY.HTM

[寸言]
世の中にはなくてもよいと思われる団体や組織がかなりあり,理事などの役員をつとめている人たちも非常にたくさんいます。しかし,その団体の目的を達成してしまえば,その団体の存立理由がなくなり,役職者は失職してしまいます。したがって,そのようなことはもちろんやりません。
なお,ラッセルが書いている皮肉や冗談を字句通りに受け取る人が時々います。このエッセイについてはそのように受け取る人はいないだろうとは思いますが・・・?

ラベル(レッテル,タグ)を貼りたがる人

labelling_retteruhari 隣人を愛することは我々の義務であることは疑いないことであるが,それは常に容易に実行できる義務ではなく,また一部の隣人は,この困難を多少とも軽減する努力を少しも示さないという事実を認めなければならない。隣人を不快に感ずる場合はいろいろな点であるが,私見では,我々にとって最悪なのは,あらゆる人間を分類して(仕分けして)明瞭なレッテル(ラベル)を貼ること(行為)である。この不幸な習性の持主は,自分が相手に適切だと思うタグ(札)を貼りつける時に,その相手について(タグをはりつけるに足る)完全な知識をもっていると考える。

While it is undoubtedly our duty to love our neighbours, it is a duty not always easily performed, and some neighbours, it must be admitted, do nothing to make it less difficult. There are many ways in which they may be irritating, but one of the worst (to my way of thinking) is that of classifying everybody with some obvious label. People who have this unfortunate habit think that they have complete knowledge of a man or woman when they have pinned on the tag that they consider appropriate.
出典: On labelling people (written in Aug. 10, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/LABEL.HTM

[寸言]
abe_manuplate 他人にレッテルを貼りたがる人も、自分がレッテル(例:詮索好き)を貼られると憤慨する。他人はレッテルを貼れるような単純な人間だと考えるが,自分自身は簡単なレッテルを貼れない複雑な感情を持っている奥深い人間だと思う。評論家の多くがレッテル貼りが好き。

「社会とともに生きる」ことは「社会のために生きる」ことにあらず

nekonote-mo-karitai 協力は,一つの理想としては欠点がある。自分ひとりのためではなく,社会とともに生きることは正しい。しかし,社会のために生きるということは,社会(一般)がやることと同じことを自分も行うということを意味しない。たとえばあなたが劇場にいて,火災がおこり,観客が出口に向かって殺到したとしてみよう。いわゆる‘協力 (の美徳)’以上の道徳観を持ち介わせない人は,群衆に抵抗することを可能とするような気迫を持たないために,群集と一緒になって逃げるだろう。戦争に乗り出す国民の心理(状態)は,すべての点でこれと同じである。

Co-operativeness, as an ideal, is defective: it is right to live with reference to the community and not for oneself alone, but living for the community does not mean doing what it does. Suppose you are in a theatre which catches fire, and there is a stampede : the person who has learnt no higher morality than what is called ‘co-operation’ will join in the stampede since he will possess no inner force that would enable him to stand up against the herd. The psychology of a nation embarking on a war is at all points identical.
出典: Of co-operation (written in May 18, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/KYORYOKU.HTM

[寸言]
集団主義(組織の維持管理優先)は良い点もあるが,悪い点も多い。上に立つものは,従順な組織人を好みやすい。経営者の場合は,組織がうまくいっているだけではいけないので,集団主義をこわしても,利益を追求する場合も少なくない。しかし,うまくいけばよいが,失敗すれば,会社が傾き,多くの人を不幸にする。
abe_20160926-yorokobigumi 政権をになっている者にとっても,従順な国民は御しやすく,権力の維持にはうってつけだが,為政者が「由らしむべし知らしむべからず」の姿勢で政権運営をしたり,(戦中の大本営発表のように)自分たちの都合のよいことばかり言い,マスコミも権力者へのリップサービスをし,権力者が裸の王様になると,国民が気がついた時には,・・・。
アベノミクスにより格差がますます進んで弁解が難しくなった場合,国民の不満をかわすために,(中国や北朝鮮が今やっているように)日本政府も外国との間の緊張関係を利用することにでもなったら・・・。

賢者の愚かな側近はやはり愚か-愚か者の証言は・・・

クセノフォン(クセノポン:古代ギリシアの軍人、著述家)は真実でないことを考えだすほど知恵を持っていないので,クセノフォンが言ったこと(書いたこと)は全て真実に違いないと考える傾向があった。これはまったく説得力のない論拠である。
(訳1)賢い人間が言ったことを愚かな人間が伝えると(とき),正確であったためしがない。なぜなら,愚かな人間は,自分が聞いたことを自分が理解できる内容(もの)に無意識に翻訳(誤変換)してしまうからである。
momota-naoki_baka (私の意見が伝えられる場合には)私は哲学に無知な友人によってではなく,むしろ哲学者の中で私を最も厳しく批判する人によって伝えてもらいたい。それゆえ,クセノフォンの言うことが、哲学上の難しい点に関係しているか,あるいは,ソクラテスは不当に断罪されたということを証明しようとする議論の一部である場合には,我々はその証言を受け入れることはできない。

(訳2)
利口な人の言ったことに関する愚かな人の記録は,決して正確であったためしがない。なぜなら愚かな人は,自分の聞いたことを自分が理解できる何物かに,無意識のうちに反訳(誤訳)してしまうからである。

There has been a tendency to think that everything Xenophon says must be true, because he had not the wits to think of anything untrue. This is a very invalid line of argument. A stupid man’s report of what a clever man says is ★ never accurate, because he unconsciously translates what he hears into something that he can understand. I would rather be reported by my bitterest enemy among philosophers than by a friend innocent of philosophy. We cannot therefore accept what Xenophon says if it either involves any difficult point in philosophy or is part of an argument to prove that Socrates was unjustly condemned.
出典:A History of Western Philosophy, 1945, chap. 11 (Socrates), p.101(第3パラグラフ)

[寸言]
* 佐々木高政著『(新訂)英文解釈考』p.77の注: ‘never’ は,’not at all, in no way’ ではなく,’in no instance’ の意味

絶えず自我を膨張させる必要のある人たち

3baka_ryotewohirogete 自己欺瞞に支えられているときにしか仕事のできない人たちは,自分の職業を続ける前に,まず最初に,真実に耐えることを学習したほうがよい。なぜなら,神話にささえられる必要があるようでは,おそかれ早かれ,彼らの仕事は,有益どころか,有害なものになってしまうだろうからである。
有害な行為をするよりも(するくらいならば),何もしないほうがいい。界における有益な仕事の半分は,有害な仕事と闘うことから成り立っている。事実を正当に評価する’ことを学ぶために少し時間を費やしても,それは時間の無駄とはならない。その後(学習後)になされる仕事は,活力を刺激するために絶えず自我を膨張させる必要のある人たちがする仕事よりも,ずっと有害でなくなる傾向がある。自分自身についての真実の姿に進んで向き合おうとする態度には,ある種の’諦め’が伴っている。この種の’諦め’は,初めのうちは苦痛を伴うかもしれないが,最後には,自己欺瞞に陥っている人が陥りやすい‘失望と幻滅’に対する防御--事実,唯一可能な防御--を与えてくれる。日毎に信じがたくなる事柄を日毎信じようとする努力ほど,疲れるものはないし,長い眼でみれば,苦痛をつのらせるものはない。こうした努力をなくすることは,確実かつ永続的な幸福の不可欠の条件である。

Those who can only do their work when upheld by self-deception had better first take a course in learning to endure the truth before
continuing their career, since sooner or later the need of being sustained by myths will cause their work to become harmful instead of beneficial. It is better to do nothing than to do harm. Half the useful work in the world consists of combating the harmful work.
A little time spent in learning to appreciate facts is not time  wasted, and the work that will be done afterwards is far less likely to be harmful than the work done by those who need a continual inflation of their ego as a stimulant to their energy. A certain kind of resignation is involved in willingness to face the truth about
ourselves; this kind, though it may involve pain in the first moments,
affords ultimately a protection – indeed the only possible protection – against the disappointments and disillusionments to which the self-deceiver is liable. Nothing is more fatiguing nor, in the long run, more exasperating than the daily effort to believe things which daily become more incredible. To be done with this effort is an indispensable condition of secure and lasting happiness.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap.16:Effort and
resignation.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA27-060.HTM

[寸言]
建前と本音の使い分け;饒舌なだけで中身のない二枚舌 表立って本音を言うと失職するので,公に対しては,あくまでも建前やあいまいな言葉を使う。
abe_sanakunin どこかの首相や職業的宗教家や御用評論家のように,「美しい日本」を標語に,子供や国民一般には,自分のメルマガなどで,道徳的に悪いことをしてはいけないとか,国を愛することの大切さを説きながら,身内の大臣がおかしなことをやって国民に説明しなくても,(自分の内閣がガタガタになるといけないので)’法律的には問題ない’と,批判を無視してしまう。
二枚舌や自己欺瞞は,子供の教育や躾に甚だよろしくない。そのような為政者に,「美しい日本」などと言った標語を使う資格はないだろう。

事件を待ち望む気持ち-退屈の犠牲者にとってはたとえ不幸な出来事でも・・

keio_syudan-boko 退屈の本質的要素の一つは,現在の状況と,想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また,自分の能力を十分に発揮できない(状態にある)ということも,退屈の本質的要素の一つである。命を奪おうとしている敵から逃げ去るのは,さぞかし不愉快だろうが,退屈でないことは確かだろうと思う。自分が処刑されようとしているときには,ほとんど超人的な勇気がある場合は別として,退屈を感じないだろう。同様に,だれ一人として,上院で処女演説中にあくびをしたものはいない。ただし,今は亡きデヴォンシャー公爵だけは例外であり,その結果,英国貴族たちから尊敬されることになった。
退屈’は,本質的には,事件を望む気持ちのくじかれた状態をいい,事件は必ずしも愉快なものでなくてもよく,’倦怠の犠牲者’にとっては,今日と昨日を区別してくれるような事件であればよい。

One of the essentials of boredom consists in the contrast between present circumstances and some other more agreeable circumstances which force themselves irresistibly upon the imagination. It is also one of the essentials of boredom that one’s faculties must not be fully occupied. Running away from enemies who are trying to take one’s life is, I imagine, unpleasant, but certainly not boring. A man would not feel bored while he was being executed, unless he had almost superhuman courage. In like manner no one has ever yawned during his maiden speech in the House of Lords, with the exception of the late Duke of Devonshire, who was reverenced by their Lordships in consequence. Boredom is essentially a thwarted desire for events, not necessarily pleasant ones, but just occurrences such as will enable the victim of ennui to know one day from another.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap.4:Boredom and excitement.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM

[寸言]
人の不幸を喜ぶ人間性/それは「退屈」が原因の1つ/戦争さえも戦闘地域が海外であれば・・・;しかし戦争が長引くと厭戦気分が大きくなり,早く戦争が終わってほしいと願うようになるという人間の身勝手さ,思慮のなさ/退屈と興奮の意味合い

「事件を待ち望む心」っていうのは恐ろしい。
退屈をまぎらすためには大事件が起こってほしい。戦争でさえも。ただし,あとから後悔することになる
この少し後のところで,ラッセルは次のように言う。

hitler_seiji-senden 「戦争、虐殺、迫害は、すべて退屈からの逃避の一部(逃避から生まれたもの)であり、隣人とのけんかさえ、何もないよりはましだと感じられてきた(経験して知る)。それゆえ退屈は、人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから、モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。」
(Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.)
出典:ラッセル『幸福論』第4章「退屈と興奮」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

象にはジャーナリストがいないので根拠なき扇動にはひっかからない

hitler_seiji-senden 大衆ヒステリアは,人間だけに限られていない現象である。それはいかなる群居性の種にも見られるであろう。わたくしはかつて中央アフリカの野生の象の大群が,はじめて飛行機を見て,みな激しい集団的恐慌の状態におちいっている写真をみたことがある。象はたいがいの場合,落ち着いた賢い動物である。しかしこの前古未曽有(ぜん こみぞう)の,騒々しい未知の空の動物という現象は,群れ全体を完全にあわてさせたのである。すべての象はそれぞれ,みな恐怖にとらえられた。そして一匹一匹の恐怖は他の象に伝わり,ひどく増大した恐慌を引き起こした。しかしながら,彼らのなかにはジャーナリストはいなかったので,その恐怖は飛行機が見えなくなったとき消滅した

Mass hysteria is a phenomenon not confined to human beings; it may be seen in any gregarious species. I once saw a photograph of a large herd of wild elephants in Central Africa Seeing an airplane for the first time, and all in a state of wild collective terror. The elephant, at most times, is calm and sagacious beast, but this unprecedented phenomenon of a noisy, unknown animal in the sky, had thrown the whole herd completely off its balance. Each separate animal was terrifies, and its terror communicated itself to the others, creating a vast multiplication of panic. As, however, there were no journalists among them, the terror died down when the airplane was out of sight.
出典: To Face Danger without Hysteria .In: New York Times Magazine, 21 Jan. 1951, pp.7, 42, 44-45.)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/KAMI-43.HTM

[寸言]
abe_yarase_sodachi-hakusyu ヒトラーも大衆ヒステリアを利用(活用)しましたが,日本も戦時中の軍部や政府は大いに利用しました。麻生副総理(元総理大臣)も半分冗談で(つまり半分は「本気で」)「ナチスの手口」を使うとよいと正直に言っています。
政権があぶない場面になれば、攻撃する野党を静かにさせるために,野党に不都合な情報を流して,「与党も野党も同じだ」と国民に思わせることができれば「一安心」ということになります。そういった不都合な真実を、政権与党は公安調査庁などを使って(また内閣機密費を使って)集めたり、リークしたりできますので、最初からハンディがあり,普通のやり方では野党は勝てるはずもありません。

国や国民性が異なれば,皮肉(や冗談)は皮肉(や冗談)でなくなる

irene-and-frederic-joliot パリ滞在中,この計画(注:ラッセル=アインシュタイン宣言の発表)についてフレデリック・ジョリオ=キュリー(Frederic Joliot-Curie, 1900年-1958年8月14日:フランスの原子物理学者で,1935年に妻イレーヌ・ジョリオ=キュリーとともにノーベル’化学賞’受賞。イレーヌとは1926年に結婚したが,その際,姓を2人の旧姓を組み合わせ「ジョリオ=キュリー」とした。晩年はパグウォッシュ会議の設立にも尽力) と長時間に渡って語り合った。
fukushimaunderground2fzz1 彼は,心からこの計画を歓迎してくれるとともに,ただ一句を除いて,この声明(文)に賛成してくれた。(その一句というのは,)私が次のように書いたところであった。「もしも多数の原爆が使用されるならば,全人類の死(全体的破滅)に到る恐れがある。それは,少数の者だけにとっては幸運にも一瞬の出来事(即死)であるが,大多数の者にとっては徐々に進行する病気と人間崩解の責め苦である」。
キュリーは,私がその少数者を’幸運にも’と表現したところを好まなかった。「死ぬことは幸運なことではない」と彼は言った。おそらく,彼の言うことは正しかったであろう。 ‘皮肉’というものは,国を越えると,’悪ふざけ’ととられる場合がある(から注意が必要である)。ともかく私は,その句を削除することに同意した。英国に帰国してしばらくの間,彼から何のたよりも来なかった。後に知ったことであるが,その時彼は病気をしていたとのことであった。

While I was in Paris I had a long discussion about my plan with Frederic Joliot-Curie. He warmly welcomed the plan and approved of the statement except for one phrase: I had written, ‘It is feared that if many bombs are used there will be universal death – sudden only for a fortunate minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration’. He did not like my calling the minority ‘fortunate’. ‘To die is not fortunate’, he said. Perhaps he was right. Irony, taken internationally, is tricky. In any case, I agreed to delete it. For some time after I returned to England, I heard nothing from him. He was ill, I learned later.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: At home and abroad, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-200.HTM

[寸言]
皮肉(や冗談)が皮肉(や冗談)ととられずに,批判されたり,誤解されたりすることは少なくない。国(や国民性)が同じでも,生まれ育った環境や背景的知識が大きく異なると,感性が異なり,お互いの意図や感覚が伝わらないことがたまにある。facebook 上でもそのようなことがたまにあるが,後から,書き方の工夫で誤解を招かなかっただろうと反省することもある。と同時に,言葉尻をとらえてほしくないなあ,と思うことも時々ある。

なお,フレデリック・ジョリオ=キュリーは,3年後の1958年8月14日に死亡。妻のイレーヌは長年の放射能研究により1956年白血病で死亡しているが,夫のフレデリックも同様と思われる。

経験が生きる時と邪魔になる時 - 「確信」は「過信」に通ずる

若者は’想像(空想)‘と’推論‘によって影響され、老人経験に導かれる(経験に頼って生きる)、とよく言われる。私自身、若い頃、この顕著な実例を経験した。
私はデヴォンシャー州のクロヴリーにある古びた村からブリストル海峡の入口にあるランディ島が見える’ハートランド・ポイントと呼ばれる岬’まで歩いた。そこで、私は沿岸警備隊員と会話をした。彼は、(ハートランド・ポイントから)クロヴリーまでの距離は8マイルで、ランディ島までは10マイルと語った「それでは、クロヴリーからランディ島までの距離はどれくらいですか」と私は尋ねた。彼の答は22マイルだった。これを聞いて私は、三角形の二辺の和は他の一辺よりも常に長いはずであり、(彼の言うとおりだとすると)ハートランド・ポイント経由でも(クロヴリーからランディ島まで)距離は18マイルにすぎない(ことになり、2辺の和18マイルよりももう1辺の方が長いことになりそんなことはないはずである)と主張し、彼と激論をした。しかし、沿岸警備隊員はまったく動じなかった。「私が言えることは・・・、先日ジョーズ船長とこのことについて話をしたが、船長は、”子供のころから30年間もこの沿岸のことを知っているが、クロヴリーからランディ島までの距離は、22マイルだ” と言っていましたよ」と彼は答えた。子供のころからの話という議論の前には、幾何学の出る幕はなかった。
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It is a commonplace that the young are influenced by imagination and reasoning while the old are guided by experience. When I myself was young I had once a remarkable illustration of this fact. I had walked from the old-world village of Clovelly, in Devonshire, to a cape called Hartland Point, from which I could see Lundy Island at the mouth of the Bristol Channel. I got into conversation with a coast guard, who told me that the distance to Clovelly was eight miles, and to Lundy Island ten miles. ‘And how far is it from Clovelly to Lundy Island ?’ I asked. The answer was twenty-two miles. At this I burst out into argument to the effect that two sides of a triangle are always greater than the third side, and that if one went by way of Hartland Point the distance would only be eighteen miles. The coast guard, however, was quite unmoved. ‘All I can say, sir,’ he replied, ‘is that I was speaking with Captain Jones the other day, and he said: “I’ve known this coast, man and boy, for thirty years, and I make it twenty-two miles.” ‘ Before the man-and-boy argument, geometry had to retire abashed.
出典: The lessons of experience (written in Sept. 23, 1931 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報:http://russell-j.com/EXPERIEN.HTM

[寸言]
Google の衛星地図で実測してみると、クロヴリーからハートランド・ポイントまで約8マイル、ハートランドからランディ島まで約16マイル、クロヴリーからランディ島まで直線で約21マイルあった。ということは、ハートランド・ポイントからランディ島までの距離のみが沿岸警備隊員の誤解あるいは言い間違いということになりそうである。また,非常に長いロープを張って2点間の距離を測っているわけではなく,海には潮流があり船は流されるので、「実際に船が走行した距離」が増えても不思議ではない。潮流がはげしいところではかなり航行距離がのびるであろう。)

「資本主義制度の長所」-米国での必修科目?

1939年の夏,ジョン(長男)とケイト(長女)は,学校の休暇期間中に,私たちのところにやってきた。彼らが到着して2,3日すると,第二次世界大戦が勃発した。そのため,彼らを英国に戻すことが不可能になった。そこですぐさま私は,二人のそれ以後の教育の手配をしなければならなかった。ジョンは17歳だったので,カリフォルニア大学に入学させた。しかしケイトの方はまだ15歳だったので,大学に入れるのは若すぎるように思われた。私は,ロサンゼルスでは,どの学校が一番学力水準の高い学校かということを友人たちに尋ねたところ,彼らが全部一致して推薦してくれたところが一校あった。そこでケイトをその学校に入れた。しかしその学校で教えられている科目でケイトがまだ知っていないものはたった一つしかなく,それは「資本主義制度の長所」というものであった。そのため私は,彼女は年齢が若すぎたが,大学にやらざるえなかった。
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In the summer of 1939, John and Kate came to visit us for the period of the school holidays. A few days after they arrived the War broke out, and it became impossible to send them back to England. I had to provide for their further education at a moment’s notice. John was seventeen, and I entered him at the University of California, but Kate was only fifteen, and this seemed young for the University. I made enquiries among friends as to which school in Los Angeles had the highest academic standard, and there was one that they all concurred in recommending, so I sent her there. But I found that there was only one subject taught that she did not already know, and that was the virtues of the capitalist system. I was therefore compelled, in spite of her youth, to send her to the University.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6:America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-020.HTM

[寸言]
戦前の日本だったら、教育勅語であり,神話の時代も含め代々の天皇の名前を暗唱することでしょうか? そのうち、代々の総理大臣の名前を暗記させることが義務教育にはいってきたりして・・・、まさかね。