無神論者(反キリスト教徒)のラッセル,やむなく全能の神に誓う

br1923_election (1921年)9月27日,私たちは結婚した。国王代訴人(注:離婚裁判所において不正がある際に法廷に異議を申し立てる者)に離婚手続きを早めさせることに成功したが,そのためには,チャリング・クロス駅のプラットホームで,ドーラは私が公然と姦通した女性であると,全能の神の御名にかけて宣誓する必要があった。
11月16日に長男ジョンが生まれ,その瞬間から長年の間,子供たちが私の人生の主要関心事となった。(写真は1923年に労働党候補として立候補した時の写真。だっこしているのは、長男ジョン)

On September 27th we were married, having succeeded in hurrying up the King’s Proctor, though this required that I should swear by Almighty God on Charing Cross platform that Dora was the woman with whom I had committed the official adultery. On November 16th, my son John was born, and from that moment my children were for many years my main interest in life.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3:China, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-160.HTM

[寸言]

ottolin3 ラッセルは、1910年(38歳の時)自由党から立候補しようとしましたが、無神論者で英国国教徒でなく,(「神に誓う」という)宣誓を拒否したため,下院議員選挙に立候補できませんでした(現在では考えられないことです)。
そのため、P. Morrell のために応援演説にまわります。(これをきっかけに,後に愛人となるオットリン・モレル夫人(写真)と急速に親しくなっていきます。)

ラッセルも少し大人になったのか、それともドーラと再婚したいという気持ちが強かったのか、いや多分,生まれてくる子供のために「全能の神に誓って、ドーラと不倫をしたことを宣誓」しました。

「思想界の巨星,ラッセル氏逝く」

r-goho ドーラが私の看病をしたいと望んでいた時,日本の新聞記者は,彼女にインタビューに応じるよう求めてたえず彼女を困らせていた。ついには,彼女が彼らにぶっきらぼうな態度をとったので,新聞記者たちは勘違いをし,日本の各新聞に,私が死亡したと報道させることとなった。
dora このニュースは,郵便で日本からアメリカヘ,そしてアメリカから英国へと送られた。英国の新聞には,私の離婚のニュースと同日に発表された。幸いにも,(英国の)裁判所は私が死亡したとの報道を信用しなかった。さもないと,(アリスとの)離婚は延期されたかもしれなかったであろう。その誤報は私に,(生きながら)自分の死亡記事を読むという楽しみを与えてくれた。それは,--そのような望みがかなえられるとは思ってもいなかったけれども--,私がずっと望んでいたことである。
キリスト教系の(布教のための)ある新聞が,次のような一行の私の死亡記事を載せていたのを記憶している。

宣教師は,バートランド・ラッセル氏死去の報に接し,安堵から胸をなでおろしても(ほっとしてため息をついても)許されるであろう。

結局は私が死ななかったことを聞き,彼らは別の種類の’ため息’をついたにちがいない。

The Japanese journalists were continually worrying Dora to give them interviews when she wanted to be nursing me. At last she became a little curt with them, so they caused the Japanese newspapers to say that I was dead. This news was forwarded by mail from Japan to America and from America to England. It appeared in the English newspapers on the same day as the news of my divorce. Fortunately, the Court did not believe it, or the divorce might have been postponed. It provided me with the pleasure of reading my obituary notices, which I had always desired without expecting my wishes to be fulfilled. One missionary paper, I remember, had an obituary notice of one sentence: ‘Missionaries may be pardoned for heaving a sigh of relief at the news of Mr. Bertrand Russell’s death. I fear they must have heaved a sigh of a different sort when they found that I was not dead after all…
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968].
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-110.HTM

[寸言]
(注:『大阪毎日新聞』1921年3月29日朝刊第2面」「思想界の巨星,ラッセル氏逝く」)

不倫行為が証明されないと離婚できない(当時の)英国、そこで・・・

br-db20・・・。全てがこのような状態であったにもかかわらず,私たち(ラッセルとドーラ/写真は中国での二人)は,一年間中国に一緒に滞在するために必要な一切の手続きをとっていた(のに気づいた)。言葉以上の,即ち意識的な思考以上の,何らかのより強い力が,私たちを結びつけていた。そのため,私たちのどちらも,行動において,一瞬たりとも,ためらわなかった。私たちは,文字通り昼夜,動き回らなければならなかった。彼女(ドーラ)がロンドンに到着してから二人で中国に向かって出発するまで,たった5日間しかなかった。長旅に出かける時の通常のせわしい活動に加えて,衣服を買ったり,パスポートを入手したり,友人や親戚に別れを告げなければならなかった。そうして私は,中国滞在中に(初婚相手のアリスと)離婚したかったので,幾夜も公娼のところに泊る必要があった。探偵連中がとても間抜けだったために,何度も繰り返さなければならなかったのである。

In spite of all this, we found ourselves taking all the necessary steps required for going off together for a year in China. Some force stronger than words, or even than our conscious thoughts, kept us together, so that in action neither of us wavered for a moment. We had to work literally night and day. From the time of her arrival to the time of our departure for China was only five days. It was necessary to buy clothes, to get passports in order, to say goodbye to friends and relations, in addition to all the usual bustle of a long journey; and as I wished to be divorced while in China, it was necessary to spend the nights in official adultery. The detectives were so stupid that this had to be done again and again.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-230.HTM

[寸言]
r-goho 当時の英国(の法律)では,いずれかの方に不倫行為がなければ離婚できなかった。そこで,形だけであるが,刑事に見つけてもらうように、何度も公娼のところに通ったが,「残念ながら」努力のかいなく,あまり成功しなかった。
ラッセルは、1921年3月初旬,北京において肺炎にかかり,3月下旬危篤に陥ってしまった。それを早とちりの日本の新聞記者が日本へ「ラッセル死す」と知らせた。そのニュースは世界中に打電され,ラッセルはこのニュースで迷惑を被った。

ウィトゲンシュタインの弱点

wittgenstein-l すべての偉大な人間がそうであるように,ウィトゲンシュタインにも弱点があった。1922年,彼の神秘主義的な情熱が最高度に達していた時,彼が,’善良であるということ’は’利口であること’よりもいっそうよいというのは確かだと,きわめて真面目に私に言ったのと同じ時に,スズメバチを怖がり,南京虫のせいで,私たちが(オーストリアの)インスブルックで見付けた宿舎に翌日も泊ることができない彼を目撃した。私は,ロシアや中国を旅行した以後は,そのような些細な事には慣れてしまったが(注:当時の中国のホテルでは,南京虫がでるのは日常的なことであった。),彼は,この世のことは取るに足らないと確信しているにもかかわらず,昆虫に対しては忍耐できなかった。けれども,そのような(愛嬌のある)些細な弱点はあったが,彼はきわめて印象深い人間であった。

suzumebachiLike all great men he had his weaknesses. At the height of his mystic ardour in 1922, at a time when he assured me with great earnestness that it is better to be good than clever, I found him terrified of wasps, and, because of bugs, unable to stay another night in lodgings we had found in Innsbruck. After my travels in Russia and China, I was inured to small matters of that sort, but not all his conviction that the things of this world are of no account could enable him to endure insects with patience. In spite of such slight foibles, however, he was an impressive human being.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-100.HTM

[寸言]
astor_house_hotel 南京虫の話は,北京大学の客員教授になるために,ラッセルが1920年の夏に,上海にまずいって泊まったホテルでの体験を言っていると思われる(それ以外はないはず)。最初の5日間を中国式の旅館に泊り,次に中国最古のホテル Aster House Hotel (現在の浦江飯店)に泊まっているが(写真は)ラッセルが泊まった310号室,多分、前者のホテルで南京虫に悩まされたと想像される。後者のホテルでは 50平方メートルの広い(当時としては近代的なホテル)の客室に泊まっているので多分南京虫はでていないであろう。

(第一次大戦中)獄中にいた時に徴兵年齢が引き上げられた。しかし・・・

akagami_shosyu-reijo 第一次世界大戦が終わったことにより,戦争が続いていたらわが身に降りかかったであろういくつかの’不愉快な事柄’をさけることが可能となった。徴兵年齢が1918年(ラッセルが46歳の時)に引き上げられ,私も,初めて兵役義務を負うことになった。(しかし召集がかかったとしても)当然のこと,私はそれを拒否していたであろう。政府は,(徴兵のための)身体検査(医学検査)のために私に召集をかけたけれども,政府は私を投獄したことを忘れていたので,最大限の努力を払ったが私の居所をつきとめることできなかった。

dokush97The ending of the war enabled me to avoid several unpleasant things which would otherwise have happened to me. The military age was raised in 1918, and for the first time I became liable to military service, which I should of course have had to refuse. They called me up for medical examination, but the Government with its utmost efforts was unable to find out where I was, having forgotten that it had put me in prison.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-010.HTM

[寸言]
東京都の,(他の部課との),(同一部課内での),時間(前任者からの引き継ぎなど)の連携のなさが話題になっていますが,第一次世界大戦時の英国政府機関も、ラッセルを投獄した担当部局と兵隊を招集する担当部局との連携が不十分だったようです。しかし、連携があったら、ラッセルを刑務所から出して、兵役につかせるようなことをしたかは疑問です。

イド語をしゃべる人は ‘Idiot’?

louiscouturat 彼(フランスの論理学者クーチェラ)の晩年には--彼は’国際語の問題’に没頭するようになったため--彼との接触は無くなった。彼はエスペラントよりもイド語(注:エスペラント語を一層簡易化したもの)を擁護した。彼の話によれば,人類の全歴史を通して,エスペランティストほど堕落した人間はなかった。彼は,イド語が,エスペランティスト同様の言葉の形成に向かわなかったこと(注:即ち,エスペラント語を使う人を’エスペランティスト‘というように,ido 語を使う人を呼称する言葉が造語されなかったこと)を嘆き悲しんだ
私は,’idiot(ばか,まぬけ)’ という言葉を提案したが,彼は余り喜ばなかった(注:もちろん冗談)。

In the last years I had lost contact with him, because he became absorbed in the question of an international language. He advocated Ido rather than Esperanto. According to his conversation, no human beings in the whole previous history of the human race had ever been quite so depraved as the Esperantists. He lamented that the word Ido did not lend itself to the formation of a word similar to Esperantist. I suggested ‘idiot’, but he was not quite pleased.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5:First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-170.HTM

[寸言]
esperantisto 気の置けない(=気心の知れた)相手でないと、下手に冗談を言えば、相手を激怒させる危険性がある。その点,クーチェラはラッセルの論理学思想を支持・信奉していたのでその心配はなかったが,それでもこちらが真面目に言っている時にちゃかされると,どうしても不愉快になってしまう。「イド語(Ido))をしゃべる人は ‘Idiot’というのは、idiotに馬鹿(間抜け)という意味がなければ(Esperanto 語をしゃべる人は Esperantist でよいように)全然問題ないどころか適切であるが,残念ながら「馬鹿(間抜け)」という意味があった。

‘刑務所は罰を受けるところだ・・・”と言われてしまったラッセル

brixton 因習的な(伝統的な)学校に入れるのにはあまりに繊細すぎるリットン(Lytton Strachey、1880-1932)は,彼の母の眼には聡明と映り,献身的な雰囲気のもと,著作家の生涯を送るよう育てられた。彼の著作は,当時の私には,楽しくかつ面白く思われた。私は,彼の『著名なヴィクトリア朝時代人』を,出版前に,彼が声に出して読んでいるのを聞いたが,私は獄中(注:ラッセルは第一次世界大戦時に反戦運動をしたために約5ケ月間ブリクストン監獄に投獄された。/写真はそのブリクストン刑務所)で再び黙読した。大変面白く,大声で笑ってしまったので,看守が私の独房にやって来て,’刑務所は罰を受けるところだということを忘れてはならない’と言った。

Lytton, who was too delicate to be sent to a conventional school, was seen by his mother to be brilliant, and was brought up to the career of a writer in an atmosphere of dedication. His writing appeared to me in those days hilariously amusing. I heard him read Eminent Victorians before it was published, and I read it again to myself in prison. It caused me to laugh so loud that the officer came round to my cell, saying I must remember that prison is a place of punishment.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-310.HTM

[寸言]
brains-b 刑務所の外に対してメッセージを送ったりしなければ、刑務所内で何をしてもよいといわれたため、ラッセルは投獄されていた約5ケ月間1918年5月始めに入獄し9月に出獄/囚人番号2917番)、多くの読書をし、執筆活動を行った。獄中で執筆したラッセルの An Introduction to Mathematical Philosophy も出獄した翌年の1919年に出版されている。(また,The Analysis of Mind の執筆も開始しており,それは1921年に出版されている。勁草書房から出ている邦訳書名は『心の分析』。)

なお,兄フランクの尽力等により,絨毯が敷きつめられた,普通の独房より広い特別室(ただし週2シリング6ペンスの室料の支払いが必要)に入ることができた。机,椅子,ベット付。毎週3人だけ面会が許された。普通は午後8時消灯であるが,特別に午後10時消灯が許された。

・刑務所での日課:
 4時間の哲学に関する著述
 4時間の哲学関係の読書
 4時間の一般的読書

まあ、読書好きでないと、自由にしてよいと言われても大部分の人にとっては刑務所は退屈で苦痛だと想像されます。ラッセルにとっては、責任感から解放されてかなり快適だったそうです。(ただし、愛人=恋人のコレットが他に恋人をつくったことを聞いて嫉妬に苦しんだと告白しています。ラッセル『幸福論』の中の「嫉妬」の章は、その時の経験が役立っています。

ケインズさん、休息のつもりが余計に疲れることになり・・・

alys1895 1904年のある時、私が道もない広大な荒地(ムーア)の中の一軒家(小さなコテージ風の家)に住んでいた時のことであるが、彼(経済学者ケインズ,1883-1946)は手紙で私の家で週末の休息をとってもいいか尋ねて来た。私ははっきりとどうぞと返事したところ、彼は(週末を過ごすために)やってきた。(注;ケインズの生没年から考えると、ケインズはこの時21歳頃です。)
彼が着いて5分たつかたたないうちに、ケンブリッジ大学の副総長(松下注:英国の大学では、総長は名誉職であり、副総長が実際上の総長=学長にあたる。)が大学の仕事をいっぱいかかえてひょっこりやってきた。他の連中も何の連絡もなしに --日曜日に朝食にやってきた6人も含め-- 食事ごとにやって来た。月曜の朝までに、予期せぬ客の数は26人に達した。多分、ケインズは、私の家に来た時よりももっと疲れて帰って行ったと思われる

Once in the year 1904, when I was living in an isolated cottage in a vast moor without roads, he wrote and asked if I could promise him a restful weekend. I replied confidently in the affirmative, and he came. Within five minutes of his arrival the Vice Chancellor turned up full of University business. Other people came unexpectedly to every meal, including six to Sunday breakfast. By Monday morning we had had twenty-six unexpected guests, and Keynes, I fear, went away more tired than he came.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-280.HTM

[寸言]
russell-keynes-strachey ケインズは、1883年生まれなので、ラッセルから見れば11歳年下
「ラッセルとケインズとストレイチー(著名な文芸評論家)の3人が写っている写真」はとても有名でよく引用されています。ケインズもストレイチーも両性愛(バイ・セクシュアル)ということで有名ですが、この写真も影響しているためか、ラッセルも同じだと断定している人も散見されます。特にひどい決めつけは、慶応大学教授で文芸評論家の福田和也氏です。いかにひどい決めつけ誤解・曲解・下衆の勘繰り)であるかは、次のページに詳しく書いてありますので、興味のある方はお読みになってください。
http://365d-24h.jp/turezure_2011-2014.html#2014-05

ラッセルは,感情の上ではどうしても同性愛者に嫌悪感を持ってしまいそうであったようですが、理論の上ではどのような趣味・嗜好をもとうと尊重しないといけないという気持ちが強かったために、嫌悪感を言葉にあらわすことはなく、それどころか、そういった人たちを擁護する発言を何度もしています
しかし,愛人のオットリンに対しては、嫌悪感をもらしており、オットリンからたしなめられていました。その証言が記録されている、オットリン・モレルの非常に興味深い生涯については、『オットリン,ある貴婦人の破天荒な生涯』からの抜書で次のページで詳しく紹介していますので、興味のある方はお読みになってください。
https://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3

不都合な真実?-トリニティ・コレッジにおけるスキャンダル

kingedwardvii 以上の3人(注:学寮長,副学寮長,下級学監)に次いで,(ケンブリッジ大学の)トリニティ・コレッジ(下のイラスト・マップ参照)における最重要人物は,守衛長であったが,彼は王族のような威厳をもった堂々とした風貌をしていたので,学部生からは将来のエドワード七世(注:Edward the 7th, 在位1901~1910/ラッセルが学部生の時は,皇太子であったため,「将来の」という形容詞がついていると思われる。右写真参照)の私生児だろうと想像されたほどであった。
私がフェローになった以後のある時,連続して5日間,極秘の評議会が開催されたことを私は知った。非常に困難ではあったが,私は,彼らの相談事がなんであったかがわかった。彼らはその守衛長が5人の寝室係(の女性)(松下注:コレッジにおける寮生のベッドメイキング役 --『トリニティ・コレッジ規則』(Statutes)により,彼女たちは’若くも美しくもなかった)  と不適切な(みだらな)関係を結んだという痛ましい事実を立証することに従事していた。

学部生として私は,トリニティ・コレッジ(学寮)の教師達は,大学には全く不要であると確信していた。彼らの講義は,何の役にもたたなかった。それゆえ私は,いずれ自分が講師になった時には,講義をすることが何かの役に立つものだとは思わないようにしようと自分自身に誓った。そして私はこの誓いを守った。

trinitycollege-mapNext to these three the most important person in the College was the Senior Porter, a magnificent figure of a man, with such royal dignity that he was supposed by undergraduates to be a natural son of the future Edward the Seventh. After I was a Fellow I found that on one occasion the Council met on five successive days with the utmost secrecy. With great difficulty I discovered what their business had been. They had been engaged in establishing the painful fact that the Senior Porter had had improper relations with five bedmakers, in spite of the fact that all of them, by Statute, were ‘nec juvenis, nec pulchra’.
As an undergraduate I was persuaded that the Dons were a wholly unnecessary part of the university. I derived no benefits from lectures, and I made a vow to myself that when in due course I became a lecturer I would not suppose that lecturing did any good. I have kept this vow.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-220.HTM

[寸言]
学生と問題を起こすといけないので,『トリニティ・コレッジ規則』では,寝室係(ベッド・メイキングや掃除をする担当者)の女性は若い女性や美人は雇用しないことになっているようですね。

因みに,’nec juvenis, nec pulchra‘ですが,英語の junior はラテン語 juvenis 「若い」の比較級で,junior 「より若い」に由来しており,ラテン語 juvenis を語源とする英語には,他に juvenile 「少年少女の,若い」があります。また,pulchra は,ラテン語で’美しい’の意。

「私には知的な孫は一人もいません」

lady-stanley 私(ラッセル)が12歳頃のある時,彼女(注:ラッセルの母方の祖母 Lady Stanley of Alderley)は私を部屋いっぱいの訪問客の前に立たせ,彼女が列挙した通俗科学の一連の本を読んだかどうかを私に質問した。私はそのうちの一冊も読んでいなかった。彼女は最後に嘆息をついた。そして来客の方を向いて言った。

私には知的な孫は一人もいません

彼女(祖母)は18世紀タイプの人であり,合理主義的で,想像力に乏しく,啓蒙(活動)に熱心で,ヴィクトリア朝時代の’善良ぶった口やかましさ’を軽蔑していた。彼女は(ケンブリッジ大学の)ガートン・コレッジ(Girton College)の創設に関係した主要人物の一人であり,彼女の肖像写真はガートン・ホールに掲げられているが,彼女の方針は彼女の死とともに顧みられなくなった。(松下注:因みに,ラッセルの2番目の妻ドーラは,ガートンを卒業している。)
girton-college_chapel
彼女はいつもこう言っていた

私が生きている限り,ガートンには決して礼拝堂を建てさせません。

現在の礼拝堂は,彼女が亡くなったその日に建設が始められた。
 (写真は Girton College のチャペル)

Once when I was about twelve years old, she had me before a roomful of visitors, and asked me whether I had read a whole string of books on popular science which she enumerated. I had read none of them. At the end she sighed, and turning to the visitors, said :
‘I have no intelligent grandchildren.’
She was an eighteenth-century type, rationalistic and unimaginative, keen on enlightenment, and contemptuous of Victorian goody-goody priggery. She was one of the principal people concerned in the foundation of Girton College, and her portrait hangs in Girton Hall, but her policies were abandoned at her death.
‘So long as I live’, she used to say, ‘there shall be no chapel at Girton.’
The present chapel began to be built the day she died.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-250.HTM

[寸言]
実権を握っている政治家や起業家の皆さん。気をつけてください。実権を失えばあっという間に人は去って行ってしまいます。