科学行政を担当する御用学者が世界に溢れ・・・(日本で言えば誰?)

【「(日刊)ラッセルの言葉366_本日の言葉」v.2 (second series】の投稿
も、本日で400回目になりました!】

TPJ-CNWZ 私は、1958年の夏に執筆し1959年初めに出版した『常識と核戦争』(Common Sense and Nuclear Warfare, 1959)の序文の中で、明確に自分の見解を述べた。私はカリンガ賞(注:科学の普及に顕著な業績のあった人に与えられるユネスコの賞。インドのカリンガ財団創設者 Bijoyanand Patnaik氏からの寄附により1952年に創設されたもの/ラッセルが受賞したのは1957年度)を受賞することによって、1958年の間、大きな励ましを受けていた。インドまでは(体力その他の関係で)旅行ができなかったので、カリンガ賞はパリのユネスコ本部でいただいた。(ラッセル原注:これは確かな話であるが、その受賞の行事に際し、私に付き添うよう委任されていたフランスの物理学者は、私の見解を詳しく紹介した後、自分の妻に向かって彼女を慰めるようにこう言った。「いや、まったく気にすることはないよ。来年中には、フランスは国産(自国)の原爆を爆発させることができるだろうからね」)

それから、フルシチョフやアイゼンハウアー(注:ただし、米国側は、ダレス長官が返事を執筆)との間の公開書簡において示された(一般の)関心と同様に、パグウォッシュ運動の継続的なまたしだいに大きくなっていく成功は、私を大いに勇気づけてくれた。私は、それ以後今日までやってきたように、政府の見解とともに、一般民衆の見解を左右するための何か新鮮な方法を発見しようと探求を続けた。

TP-CNWI had put my point of view clearly in the introduction to my book Common Sense and Nuclear Warfare which I wrote during the summer of 1958, and published early in 1959. I had been encouraged during 1958 by receiving the Kalinga Prize, at Unesco in Paris as I could not travel to India. (To be sure the French physicist who was deputed to bear-lead me on that occasion remarked comfortingly to his wife after I had been expounding my views : ‘Never mind, my dear, by next year France will be able to explode her own bomb.’) And the continued and growing success of the Pugwash movement, as well as the interest shown in the open correspondence with Khrushchev and Eisenhower (Dulles) were encouraging. I continued my search, as I have done since, to find fresh approaches through which to try to sway public opinion, including governmental opinion.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-060.HTM

[寸言]
goyogakusha_madarame (ユネスコの)カンリガ賞授与式の時にラッセルの世話をしたフランスの物理学者は研究者というよりも科学行政を担当する官僚(御用学者)
科学研究がビッグサイエンス化し、研究開発費用が高額になればなるほど、どの国でも、こういった科学行政担当の御用学者が増えていく。お金の配分額を決める実質的な権力をもっているので、ますます増長していく。たとえ、ノーベル賞をもらっていても・・・。

(老体に鞭打ち)核兵器撤廃運動に熱心に取り組むラッセル夫妻

DOKUSH60 私たち(夫婦)は二人とも、核兵器の危険について、可能な限り多くの方法で一般大衆の注意を喚起するようにしなければならないということ、また、たとえどれほど称賛に価することであろうとも、★我々が単なる集会や単調な平和行進だけにとどまるならば、既に核兵器反対に立っている人々に対して説教するだけに終わってしまう★だろう、ということを確信していた。CND(Campaign for Nuclear Disarmament)の議長(委員長/ラッセルはCND総裁は、市民的不服従運動(Civil Disobedience:政府の核政策に対する一般市民の不服従運動/イラスト参照)に賛同していなかった。それで、名目上は直接行動委員会(Direct Action Committee)はその活動を黙認されていたけれども、CNDから公然と支援を受けることができなかった。例えば、オルダーマストン平和行進にCNDは参加しなかった。というのは、その平和行進は直接行動委員会によって1958年に企てられたものだからである。平和行進は成功した。そこでCNDは、当然のこと、その翌年、その一切合切をひき継ぎ、その行進をさらにより大きなものにし、より重要なものにした。(つまり、成功して世間の支持を集めてから始めて動き出す 日和見主義的対応?)

BR1958CYWe both believed that the dangers must be called to the attention of the public in as many ways as possible and that if we stuck to merely meetings and even marches, no matter how admirable they might be, we should end by preaching only to the already converted. The chairman of the CND did not approve of civil disobedience and so, though nominally the Direct Action Committee was to be tolerated, it could not be aided openly by the CND. The latter did not, for instance, take part in the Aldermaston March, as it was staged by the Direct Action Committee in 1958. The march proved a success, and the CND took it over lock, stock and barrel the following year and made, of course, a much larger and more important thing of it.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-040.HTM

[寸言]
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁において初めての水爆実験を行った。
ラッセルは危機感を覚え、アインシュタインに働きかけ、1955年7月9日ラッセル=アインシュタイン声明を発表した(アインシュタインは4月18日にすでに亡くなっていたが、死ぬ2週間ほど前に声明に署名していた)。
PUGWASH また、ラッセル=アインシュタイン声明で提唱された,核と平和の問題について科学者たちが集まって検討するパグウォッシュ会議(第一回会議)が,サイラス・イートン(上の写真参照)の支援を受けて、1957年にカナダのパグウォッシュ村(注:赤毛のアンで有名なプリンス・エドワード島の近く/上の地図参照)で開催された。
このように、科学者による検討は始まったものの、政治や軍事の世界では、核兵器の開発や配備は進むばかりであり、諸国政府に影響を与えない限り、お題目を唱えるだけで終わってしまう。ラッセルは,核兵器反対の大衆運動の必要性を痛感し、CND(Campaign for Nuclear Disarmament 核兵器撤廃運動/市民的不服従運動)を始め(総裁に選ばれる)、しばらくして、その限界を感じ、精鋭だけを集めて百人委員会(Committee of 100)を結成し(ラッセルは総裁)より先鋭的な運動の駆り立てられていくことになる。
peace なお、世界的に知られている「平和のシンボルマーク」(右のイラスト)は、ラッセルが始めたCNDで初めて使われたものである。

ウッド夫妻を失い、落胆するラッセル

WOOD-BR 彼ら(A.ウッド夫妻)を失ったこと(注:ウッドは1957年10月に死亡)は,私にとって計り知れないものであった。私は彼らがとても好きだったばかりでなく,私と関係のある全てに関する彼らの知識と彼等の私に対する好意的な理解(力)に頼るようになっており,また,彼らとの親しい交友を大いに楽しんだ。

(だが)私に関する本の中で論じられている諸問題についてのアランの理解には限界があった,と言わなければならない。特に,政治問題に関する議論においては,彼の理解力に限界が見られた。私は彼をかなり保守的であるとみなしており,彼は私を当時の私が実際そうだったよりも,また現在そうであるより,ずっと急進的であるとみなしていた。私がすべての人が投票権をもつべきだと論じた時,彼は,私がすべての人間が能力において平等だと主張しているのだというふうに考えた。私は,生来の能力の差異に関わりのある優生学を支持してきたという事実を指摘して,彼のその信念は誤っていることを指摘するにとどめた。けれども,そのような見解の不一致も,私たちの友情を損なうことも,また純粋の哲学上の会話を邪魔するようなこともまったくなかった。

Their loss to me was incalculable. I not only was very fond of them, but had come to depend upon their knowledge of everything to do with me and their sympathetic understanding, and I greatly enjoyed their companionship.
It must be said that there were limitations to Alan’s understanding of the matters discussed in my books. This showed particularly in regard to political matters. I regarded him as rather conservative, and he regarded me as more radical than I was or am. When I argued that everybody ought to have a vote, he thought that I was maintaining that all men are equal in ability. I only disabused him of this belief by pointhg out that I had supported eugenics, which is concerned with differences in natural ability. Such disagreements, however, never marred our friendship, and never intruded in purely philosophical conversations.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-010.HTM

[寸言]
TPJ-BRPS 頼りにしていたA.ウッドが急逝し(また続いてウッド夫人もなくなり)、落胆するラッセル。
アラン・ウッドは,ラッセル哲学の網羅的研究を開始したばかりで急逝してしまった。ウッドはラッセルの伝記 Bertrand Russell – a passionate sceptic (邦訳書:碧海純一(訳)『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』)を執筆しており、名著のほまれが高く、ラッセルの哲学の網羅的研究には、ラッセル自身も期待していた。
 ラッセルの哲学は、理論哲学だけではなく、いろいろな分野で哲学的思索(政治の分野では政治哲学)を幅広く行った。従って、一人の人間がラッセルの哲学全体をカバーするのは、ラッセルと同等の能力をもっていない限り、難しい。そういうわけで、ウッドの(ラッセルの)理論哲学に対する理解には期待していたが、政治の問題(政治哲学)に対するウッドの理解は不充分として不満を持っていた。
問題の「優生学」をラッセルは Marriage and Morals, 1929 の第18章で扱っている。「優生学」という言葉に対しては生理的に拒否感を抱く人がすくなくなく、誤解を招くかもしれない。「遺伝研究(の活用)」であるならば、違和感をもつ人は少ないであろう。ラッセルは、同書第18章を次の言葉で結んでいる。

「宗教は、歴史が始まる前から存在してきたが、」科学はせいぜい(今から)4世紀前から存在しているにすぎない。しかし、科学が年月を経て敬われるようになると、科学は宗教と同じように大きく我々の生活をコントロールするだろう。人間精神の自由を大事にする人々が、こぞって科学の暴政に反逆しなければならない時期が来るのを、私は予感している。にもかかわらず、暴政がさけられないとすれば、その暴政は科学的であるほうがよいだろう。

ラッセル,喉の障害に苦しむ -第1回パグウォッシュ会議に出席できず

PUG1-MEM 私は,自分の年齢と健康状態のせいで,この最初の会議(写真:第1回パグウォッシュ会議=正式名称は、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」であり、1995年にノーベル平和賞を受賞)に出かけることができなかった。1957年(ラッセル85歳の時)の私の時間の大部分は,★自分の咽喉の障害★の原因が何かをはっきりさせるための各種の医学的検査に費やされた。2月に,咽喉癌ができているかどうかはっきりさせるため,短期間ではあるが入院しなければならなかった。私が入院した日の夕べ,私はBBC放送でダウンサイド修道院のバトラー院長(Abbot Butler of Downside)と討論(対論)を行い,大いに楽しんだ(テレビ討論終了後,そのまま病院に向かったと思われる。)。彼も同様楽しんだと思う。その出来事は,そういったつらいことの成就がそうであるように,終わったときには楽しくなった。そうして結論として癌ではないということがわかった。しかし,それならいかなる病気にかかっていたのか? そこで検査が続けられ,私は乳幼児食やその他の同じような(味気ない)物を食べて暮らし続けなければならなかった。

それ以来(退院後は),私は数回海外旅行をしたが,いづれも(カナダの)パグウォッシュほど遠くへいったことはない。長旅を避けた理由は,幾分かは,もし私がある国へ行けば,私を自国に来させようと懇願してきた他の国々の人々を侮辱することになると恐れるからである。公職についていない人間にとって,それを回避する唯一の方法は,遠出の旅行を(一切)やめることである。

I was unable to go to this first conference because of my age and my health. A large part of my time in 1957 was devoted to various medical tests to determine what was the trouble with my throat. In February, I had to go into hospital for a short time to find out whether or not I had cancer of the throat. The evening that I went in I had a debate over the BBC with Abbot Butler of Downside which I much enjoyed, and I think he did also. The incident went off as pleasantly as such a trying performance could do and it was discovered conclusively that I did not have cancer. But what did I have? And so the tests continued and I continued to have to live on baby’s food and other such pabulum.
Since that time I have made several journeys abroad, though none so long as that to Pugwash. I fight shy of longer journeys partly because I fear if I go to one country people in other countries who have pressed me to go there will be affronted. The only way around this, for one who is not an official personage, is to renounce distant travels.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-330.HTM

[寸言]
ラッセルは、ここに書かれているように,晩年(1957年=ラッセル85歳の時),喉に障害が起き、手術したために、しゃがれた声しか出せなくなってしまった。TV番組の録画を視聴すると声がしゃがれているものが多いが、幸い、喉をまだ痛めていない1948年に録音された Reith 記念講義はクリアかつなめらかな発声になっている。
http://russell-j.com/cool/YouTube-BR.htm

HASKER43(注:日高一輝氏の次の証言にあるように,日本でも老齢のラッセルを招待しようという計画があった。(写真は、ロンドンの Hasker 通り43番地で,自宅にしているフラットの1階玄関前に立つラッセルと日高一輝氏。ラッセルが不機嫌そうなのは、日高氏の強引さのためか?)
即ち,

「(日高氏が)当時,最も身近な相談相手として相談にのってもらっていた朝日新聞論説主幹の笠信太郎先生を茅ヶ崎の自邸に訪ねた。先生は,即座にこのプラン(ラッセルの日本への招待)に賛意を表された。そして,ラッセル卿夫妻を日本に招待する費用は,一切,朝日新聞が負担することにしようと約束してくださった。」
(出典:日高一輝著『世界はひとつ,道ひとすじに』)」
http://russell-j.com/cool/HIDA-ONE.HTM
日高氏がラッセルに直接会い,訪日を打診したところ,年齢を理由に断ったそうであるが,一番大きな理由は,上記に書かれている理由(ひとつ引き受けると他を断れなくなってしまうために,遠い国からの招待は原則断わることにした。)であったかも知れない。

理想の住処を確保(借りる)ー北ウェールズの自宅(プラス・ペンリン)

PLAS05-2W その後間もなく,私たち(夫婦)は,スコットランド(旅行)からリッチモンド(の自宅)に戻る途中,北ウェールズに立ち寄った。私たちの友人のルパート・クロウシェイ・ウィリアムズとその夫人のエリザベスは,プラス・ペンリン(Plas Penrhyn)と名付けられた一軒の家を北ウェールズに見付けており,その家は私たち夫婦と息子の子供たち(即ち,孫)が楽しい休暇を過ごすのに良いだろうと考えていた。その家は小さく,慎ましいものであったが,心地よい庭と小さな果樹園と多数の立派なブナの木があった(注:Routledge 版の unprententious は誤植/日高訳では’桃の木’になってしまっている。)。とりわけ,その家からは最高に美しい景観を眺めることができ,南に海,西はポートマドックとカナーヴォン丘陵,北はグラスリンからスノードン山への渓谷が見渡せた。(上の写真:プラス・ペンリンの庭からポートマドック方面を眺める。1972年に牧野教授撮影/下の写真:プラス・ペンリンの庭に佇む,ラッセルの秘書のファーレイ氏と吉野源三郎氏)。
PLAS05W 私はその美しい眺めに魅了された。特にグラスリン渓谷の向こう側(反対側)にかつてシェリーが住んでいた家を眺めることができるのが気に入った。プラス・ペンリンの所有者は気前良く私たちにその家を貸してくれることに同意したが,そのわけは,彼もまたシェリーの愛好者であり,私が(「無力な天使(シェリー)」といわれるのとは反対に)「タフなシェリー」という随筆を書きたいと強く思っているということに,彼は非常に心を動かされたため,と思われる。後に私は,タニーラルト(Tan-y-Ralt)と呼ばれるそのシェリーの家である男に会った。彼は,昔は人食いだったと言った。私が人食いに会ったのは後にも先にもそれがただ一度だけであった。’タフなシェリー’の家で彼(人食い)に会うというのは,まことにふさわしいことだと思われた。プラス・ペンリンは,長男の子供たち(孫たち)の休暇のためには’理想の場所’のように思われた。なぜかというと,特に,子供たちの両親の友人たちが近くに住んでおり,子供たちは彼らを知っており,また,彼らには同じ年頃の子供たちがいたからであった。それは,リッチモンドにおける(休暇時の)映画やキャンプの適切な代替物となるだろう,と私たちは考えた。(そこで)できるかぎり早くその家を借りた。

A short time later, on our way home to Richmond from Scotland, we stopped in North Wales where our friends Rupert and Elizabeth Crawshay-Williams had found a house, Plas Penrhyn, that they thought would make a pleasant holiday house for us and the children. It was small and unpretentious, but had a delightful garden and little orchard and a number of fine beech trees. Above all, it had a most lovely view, south to the sea, west to Portmadoc and the Caernarvon hills, and north up the valley of the Glaslyn to Snowdon. I was captivated by it, and particularly pleased that across the valley could be seen the house where Shelley had lived. The owner of Plas Penrhyn agreed to let it to us largely, I think, because he, too, is a lover of Shelley and was much taken by my desire to write an essay on ‘Shelley the Tough, (as opposed to the ‘inefficient angel’). Later, I met a man at Tan-y-Ralt, Shelley’s house, who said he had been a cannibal – the first and only cannibal I have met. It seemed appropriate to meet him at the house of Shelley the Tough. Plas Penrhyn seemed to us as if it would be an ideal place, for the children’s holidays, especially as there were friends of their parents living nearby whom they already knew and who had children of their own ages. It would be a happy alternative, we thought, to cinemas in Richmond and ‘camps’. We rented it as soon as possible.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-140.HTM

[寸言]
PHOTO08B ラッセル夫妻が晩年に住んだプラス・ペンリンの自宅に行くには、ロンドン(Euston Station)を出発してから何度か電車を乗り換えて,かなりな時間をかけて(1980年当時は約7時間)Portmadog (Porthmadog)駅まで行く必要がある。駅からプラス・ペンリンまでは、はっきりした記憶はないが、1時間くらいだろうか。
ラッセルが亡くなってからは、エディス夫人が住み続けたが,彼女の死後,私が1980年夏に訪れた時は,アムネスティ運動をしている音楽家が住んでいた(ただし不在)。その後は、一時期ホテル(民宿?)になっていたが、現在では個人の家になっているようである。(上の写真:庭側から見たプラス・ペンリン。1980年8月に撮影。小さく写っているのが私。左側2階の窓が塞がれているのは、窓の数によって税金が異なるためらしい。)
http://humanistheritage.org.uk/articles/plas-penrhyn-wales/
キューバ危機の時には、ラッセルは,この地から、ケネディ大統領宛及びフルシチョフ首相宛に,お互い行動を自重するように呼びかける電報を何度か打電している。そのやりとりの詳細は、Unarmed Victory (London; Allen & Unwin, 1963. 155 p. 19 cm.)の中で詳しく述べられている。
http://russell-j.com/cool/60E-IDX.HTM

長男が病気(確か統合失調症)のために、孫の世話をすることになる老齢のラッセル夫妻

BR-1956 リッチモンド(注:ロンドン郊外の Richmond Park のあるところ)での暮らしは楽しいものであったが,そうでない憂鬱なひと時があった。1953年(末)のクリスマスの時,私は危険な手術を受けるために再度入院しようとして待機していた。しかも妻や家族全員がインフルエンザで倒れていた。息子(注:長男,当時32才)と息子の妻は -彼女(息子の妻)がそう口に出した(子供のことで疲れたと言った)時に- 自分たちは子供の世話で疲れたと結論を下した。息子夫婦は,子供たちと私とクリスマスの晩餐を共にした後,食べ物の残りを持ち,子供たちを置いたまま家を出て行き,戻って来なかった。私たち(夫婦)は子供たち(ラッセルの孫)が好きであったが,私たちのそれまでの幸福かつ満ち足りた生活のまっただ中,きわめて多くの悩ましい問題を引き起こす新たな責任にぞっとさせられた。しばらくの間,私たちは,子供たちの両親が,親としての役割を果たすために戻ってくれば良いがと期待していた。けれども,私の息子が病気(注:精神病/確か統合失調症)になってしまうと,私たちはその望みを捨て,予供たちの教育や休暇(期間)のために長期間にわたって手配(や準備)をしなければならなかった。(写真は、その後、北ウェールズの田舎で暮らすために借りる契約をした、プラス・ペンリンの自宅の庭で遊ぶ3人の孫とラッセル夫妻,/撮影は1956年) その上,金銭上の負担が重く,かなり心の不安を掻き立てた。私は,三番目の妻(注:Patricia Spense)に(離婚慰謝料として)一万一千ポンドより少し上まわる額の金を支払わなければならなかったので,私がもらったノーベル賞賞金の小切手一万ポンドを(すでに)彼女に渡していたが,さらに今や,彼女と二番目の妻(注:Dora Black)に(離婚後の)扶助料を払うと同時に次男(注:ピータとの間に出来た次男コンラッド)の教育や休暇のための費用をも支払っていた。加うるに,長男の病気の関係で多大の出費があり,また,長年にわたって長男が支払いを怠ってきた所得税を,私が払わなければならなくなった。だから,そこにもってきて彼の三人の子供(孫)を扶養し,かつ教育しなければならなくなるという見通しは,どんなにそれが楽しいものではあろうとも,いろいろ問題を生じさせた。

The pleasant life at Richmond had other dark moments. At Christmas, 1953, I was waiting to go into hospital again for a serious operation and my wife and household were all down with flu. My son and his wife decided that, as she said, they were ‘tired of children’. After Christmas dinner with the children and me, they left, taking the remainder of the food, but leaving the children, and did not return. We were fond of the children, but were appalled by this fresh responsibility which posed so many harassing questions in the midst of our happy and already very full life. For some time we hoped that their parents would return to take up their role, but when my son became ill we had to abandon that hope and make long-term arrangements for the children’s education and holidays. Moreover, the financial burden was heavy and rather disturbing: I had given £10,000 of my Nobel Prize cheque for a little more than £11,000 to my third wife, and I was now paying alimony to her and to my second wife as well as paying for the education and holidays of my younger son. Added to this, there were heavy expenses in connection with my elder son’s illness s and the income taxes which for many years he had neglected to pay now fell to me to pay. The prospect of supporting and educating his three children, however pleasant it might be, presented problems.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-120.HTM

[寸言]
天才の家系には、世間の標準とは離れた、つまり精神的な病気にかかる人が多いと言われている。平均的な人間の標準から離れると「異常」とされるが、そのような場合は、世間で生きていくことは難しくなる。

ラッセル家にも代々、精神的な病で苦しむ人間がかなりおり、ラッセル自身も遺伝の影響でいつ発狂するかも知れないという恐怖心で時々悩まされる。

そうして、ラッセルは老齢になってから、自分の子供(長男ジョン)が精神の病(確か、統合失調症)にかかってしまう。ラッセルは、息子一家を助けるために、ロンドン郊外のリッチモンドに4階建てのやや大きめの家を購入し、1,2階のフロアーに息子一家を住まわせて支援する。しかし、ついには子供(ラッセルにとっては孫)を残して、夫婦で出て行ってしまうことになり、3人の孫の世話を妻(エディス)とともにしなければならなくなる。

ラッセル(81才の時),死にかかる!

BR195212 私が病院にいったことは,既に前にふれた伝説(神話)の一つになった。ある日の朝,(注:写真は1952年12月15日に再婚した Edith Finch とラッセル/ラッセル,最後の結婚 )と私は一緒にリッチモンド・パークに長い散歩に出かけた(注:ラッセルが18才まで住んだ祖父母の屋敷 Pembroke Lodge は Richmond Park の中にある)。昼食後,彼女は,私の部屋の上の階にある自分の居室に入った。そこへ私は突然現れ,具合(気分)が悪いと彼女に伝えた。無理もないことであるが,彼女はびっくりし,おどおどした。その日は,陽光にめぐまれた日曜日で,女王の戴冠式(注:戴冠式は1953年6月2日/因みに即位は1952年2月6日)の前だった。妻は,隣人や,リッチモンドやロンドンのかかりつけの医師をつかまえようとしたが,誰一人としてつかまえることができなかった。ついに彼女は,999番(注:英国では警察と救急の番号)に電話をした。そうして,リッチモンド警察が,たいへん親切にも,またいろいろと尽力してくれて,救助に来てくれた。警察は,医師を送ってくれた。その医師は私は知らない人物であったが,警察がその日見つけることのできた唯一の医師だった。警察がやっとのことでわが家のかかりつけの医師たちをつかまえてくれた頃には,私は真っ青になっていた。妻は,その時までに集まっていた5人の医師の中の一人の有名な専門医に,私はあと2時間の命だろう(2時間は生きられるかもしれない),と告げられた。私は,救急車に詰めこまれ,病院に急送され,彼らは病院で私に酸素吸入し,私は助かった.

That visit to the hospital became one of the myths to which I have already referred. My wife and I had gone on a long walk in Richmond Park one morning and, after lunch, she had gone up to her sitting-room which was above mine. Suddenly I appeared, announcing that I felt ill. Not unnaturally, she was frightened. It was the fine sunny Sunday before the Queen’s coronation. Though my wife tried to get hold of a neighbour and of our own doctors in Richmond and London, she could get hold of no one. Finally, she rang 999 and the Richmond police, with great kindness and much effort, came to the rescue. They sent a doctor who was unknown to me, the only one whom they could find. By the time the police had managed to get hold of our own doctors, I had turned blue. My wife was told by a well-known specialist, one of the five doctors who had by then congregated, that I might live for two hours. I was packed into an ambulance and whisked to hospital where they dosed me with oxygen and I survived.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-110.HTM

[寸言]
TO-EDITH 1935年に3度目に結婚した Patricia Spence (二人の間に1936年に次男誕生)とは,1949年に別居し,1952年6月に正式に離婚した。離婚にあたってラッセルは,11,000ポンドを彼女に渡したが、因みに,1950年12月にもらったノーベル賞の賞金は1万ドルであった。
ラッセルは,生涯に4度結婚したが、この4度目の結婚でようやく理想の女性(Edith Finch)を見つけ、落ち着くことができ、死ぬまで添い遂げることができた。Edith は Bryn Maur 女子大学の英文学の教授を務めており、若い頃からラッセルにあこがれていた。
ラッセルは『自伝』の最初に、Edith に捧げる詩を掲げている(次の URL のページ参照)が,Edith 夫人は、過去にラッセルが結婚した3人とは異なり、控えめな女性であり、ラッセルのデモ行進にも常にそばにつきそっていた。
http://russell-j.com/beginner/TO-EDITH.HTM

誰に対しても媚を売る必要がない自由 -社会的地位向上及び収入の増加で

MERIT-O メリット勲章(写真:英国のメリット勲位授与)で始まり,ノーベル賞(受賞)で終わった1950年という年は(注:メリット勲章を授与されたのは1949年6月/ここではメリット勲章授与の余波が1950年も続いたことを言っている。),私の社会的地位が最高点を記録した年(社会的に最も尊敬された年)であったように思われる。このことが,一般社会の考え方や慣行に盲目的に従うようになる始まり(正統主義の始まり)を意味することになるのではないかという恐れから,少し不安を感じはじめたことは事実である。私は,いつも,曲がったことをしないで社会的に尊敬される人間になることはできないという考えを抱いてきた。しかし,私の道徳感があまりにも鈍感なために,自分がどのような過ちを犯したのかわからなかった(松下注:いうまでもなくこれは英国人特有のユーモア)。
TP-NHCW 種々の名誉と,私の著作『西洋哲学史』の販売とともに始まった収入の増加が,自分の全精力を自分がやりたいことに費せる自由や保証があるという感覚を与えてくれた。私は厖大な量の仕事をなしとげた。その結果,楽天的主義的になるとともに人生に対する熱意を感じた。私はそれまで,人類に脅威を与えている・より暗い可能性を強調しすぎてきたのではないか,また,当時議論が行われていた諸問題のなかで(解決策を見つけることのできそうな)より幸運な問題について安心感をもたらすような著書を書く時期ではないか,と考えた。私はその著書に『変わりゆく世界への新しい希望』(New Hopes for a Changing World/理想社刊の邦訳書名:『原子時代に住みて-変わりゆく世界への新しい希望』)という書名をつけ,そうして,両方の可能性がある場合には,意識的に,より幸運な方を実現することが可能であると強調した。

TPJ-NHCW1950, beginning with the OM and ending with the Nobel Prize, seems to have marked the apogee of my respectability. It is true that I began to feel slightly uneasy, fearing that this might mean the onset of blind orthodoxy. I have always held that no one can be respectable without being wicked, but so blunted was my moral sense that I could not see in what way I had sinned. Honours and increased income which began with the sales of my History of Western Philosophy gave me a feeling of freedom and assurance that let me expend all my energies upon what I wanted to do. I got through an immense amount of work and felt, in consequence, optimistic and full of zest. I suspected that I had too much emphasised, hitherto, the darker possibilities threatening mankind and that it was time to write a book in which the happier issues of current disputes were brought into relief. I called this book New Hopes for a Changing World and deliberately, wherever there were two possibilities, I emphasised that it might be the happier one which would be realised.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-240.HTM

[寸言]
どこかの組織に属していれば(宮仕えをしていれば)力をもっている者に対して最小限の「媚」を売る必要がでてくる。ラッセルと言えども、米国において「不道徳な人間」として魔女狩りにあった時期(1940年)には、援助の手を差し伸べてくれた資産家のバーンズ博士に対して「最低限」の「媚」を売る必要があったであろう。

しかし、(王族以外がもらえる)英国最高のメリット勲位を授与され、翌年ノーベル文学賞を授与されるとともに、多数のベストセラー本を出して生活に困らないほどの印税収入がコンスタントに入ってくるようになったラッセルにとって、怖いものは何もなくなった。

しかし、この状態が続いたのは。エスタブリッシュメント(体制派)からも評価されている間の数年間のことであった。その後(1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実権以後)は、平和運動・反核闘争や大国の覇権主義批判、ベトナム戦争批判、ソ連のチェコ侵入批判、その他社会悪の批判を強くするにつれて、攻撃された側からの反撃が開始されることになり、ラッセルの老いてますます反権力の立場が明確になっていった。(ラッセルはノーベル平和賞に十分すぎるほどの貢献を行ったが、米国はじめ、大国を非難したために、それは実現しなかった。)

「不道徳な人間」がたった10年後に「大御所」として歓迎されるほどの社会の急変

NOBEL-PW2 そこで(プリンストンで)私は,ノーベル賞授与の知らせを受けた(右写真:受賞の知らせを受けたラッセル)。しかし,その時の米国訪問で一番記憶に残っているのは,コロンビア大学のマチェット基金(財団)のために行なった3回の連続講演(講義)であった。私は豪華なプラザ・ホテルに宿泊させられ,ミス・ジュリー・メドロックが私に付き添った。彼女はコロンビア大学から私の世話をするよう任命されていた。国際問題に関する彼女の見解はきわめてリベラルで(自由主義的で),思いやりがあった。それで私たちは,手紙を通して,また彼女は時々私たち(夫婦)を訪問したのでその時に,国際問題について論じ続けた。
TPJ-ISOS その後2,3カ月して,この時の講演(講義)は --オックスフォード大学のラスキン・コレッジで私が初めて行なった講演(講義)と,さらに1949年にロンドンの英国医学協会で行なったロイド・ロバーツ記念講演とともに- 『社会に対する科学の衝撃』(The Impact of Science on Society)という私の著書の主要内容となって,出版された。この書名は,コロンビア大学での3回の連続講演(講義)を収録しコロンビア大学から別途出版された本の書名と同じである。そのため,不幸にも,書誌作成者を困惑させることになり,また時々,コロンビア大学版だけしか見ない人々を失望させている。
私は,ほんの少し前にひどい悪評を浴びせかけられていたニューヨークで,私の講演(講義)が人気を博し,多くの人々をひきつけたようであり,驚かされた(注:ラッセルが酷い目にあった「バートランド・ラッセル事件」はたった10年前に起こったこと)。

TP-ISOSThere I received the news that I was to be given a Nobel Prize. But the chief memory of this visit to America is of the series of three lectures that I gave on the Matchette Foundation at Columbia University. I was put up in luxury at the Plaza Hotel and shepherded about by Miss Julie Medlock, who had been appointed by Columbia to bear-lead me. Her views on international affairs were liberal and sympathetic and we have continued to discuss them, both by letter and when she visits us as she sometimes does.
My lectures, a few months later, appeared with other lectures that I had given originally at Ruskin College, Oxford, and the Lloyd Roberts Lecture that I had given in 1949 at the Royal Society of Medicine, London, as the basis of my book called The Impact of Science on Society. The title is the same as that of the three lectures that Columbia University published separately, which is unfortunate as it causes bewilderment for bibliographers and is sometimes a disappointment to those who come upon only the Columbia publication.
I was astonished that, in New York, where I had been, so short a time before, spoken of with vicious obloquy, my lectures seemed to be popular and to draw crowds.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
http://russell-j.com/beginner/AB31-200.HTM

[寸言]
どこの国も第二次世界大戦後に、社会状況や人間の意識は大きな変貌をとげている。アメリカは第二次世界大戦前から男女関係や宗教(信仰)や学問において「自由な国」であったと勘違いしている日本人が少なくないが、「バートランド・ラッセル事件」を見ればわかるように、キリスト教信仰(キリスト教原理主義など)からくる差別や偏見がアメリカ合衆国にはかなり存在していた。(今でも存在しているが・・・。)

TP-MM ラッセルが1929年に出した『結婚と性道徳』(Marriage and Morals) は,1940年のバートランド・ラッセル事件の裁判の時には「わいせつ文書」とされていた。しかし、人間の自由のためにペンで戦ってきた業績が認められて,ラッセルが1950年にノーベル文学賞を受賞した時には、受賞理由のなかで、『結婚と性道徳』(Marriage and Morals, 1929)は『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)とともに高く評価されており、たった10年間(1940年~1950年)における変貌ぶりは驚くべきものである。

BBCリース記念講義(全6回):「権威(権力)と個人」

BR_Leith-Letures (第二次世界大戦中の1944年6月に英国に帰国し)英国人のあまり熱狂的(狂信的)でない態度は,私自身の熱狂性(熱狂度)を減じ,そして母国にいるんだという感情にひたり,喜んだ。この感情は -悪人として扱われ,青年たちに対し制限された接触しか許されないという状況から変わって - 1940年代の終わりにBBC(英国放送協会)に招かれて最初のリース記念講義を行った時にさらに高まった(写真はマイクに向かってBBC-Radio 4 のラジオ放送で講義中のラッセル)。私は,かつて以上に,自由な議論の雰囲気を賛美し,これが講議の主題を選択することに影響を与え,私は主題を「権威(権力)と個人」(Authority and the Individual)とした。それらの講義は,1949年,『権威と個人』という書名(講義名と同一)で出版された。そして,産業主義の増大に伴って起こって来る個人の自由の減少という問題を非常に幅広く取り扱ったものであった。しかしながら,こうした危険が認められていながらも,当時もそれ以後も,産業主義がもたらす悪を減じようとする努力はほとんどなされなかった。

TP-AIThe less fanatical attitude of English people diminished my own fanaticism, and I rejoiced in the feeling of home. This feeling was enhanced at the end of the forties when I was invited by the BBC to give the first course of Reith lectures, instead of being treated as a malefactor and allowed only limited access to the young. I admired more than ever the atmosphere of free discussion, and this influenced my choice of subject for the lectures, which was ‘Authority and the Individual. They were published in 1949 under that title and were concerned very largely with the lessening of individual freedom which tends to accompany increase of industrialism. But, although this danger was acknowledged, very little was done either then or since to diminish the evils that it was bringing.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-100.HTM

[寸言]
TPJ-AI  英国に帰国したラッセルは、第二次世界大戦後、BBC(英国放送協会)を通じて多くの講義や講演をおこなったが、リース記念講義(全6回の連続講義)もその一つで、初年度のスピーカーであった。
時代が進むにつれて、あらゆる面で組織化が進んでいく。いかなる組織であっても、大きな組織になればなるほど、個人の自由は制限されていく運命にある。大組織病を克服するために様々な工夫が試みられても、いつの間にか組織としてのまとまり(結束)が優先されて、個人の自由が制限されがちとなる。
国家や社会や企業や官庁その他、組織には結束が必要であるが、その中で個人の自由を可能な限り確保したい。ラッセルは、権力と個人との間にある様々な問題について議論し、人間の自由を最大限確保するためにはどうすればよいか自分の考えを提示する。なお、全6回のテーマは次の通り。
(次のページで全て視聴できます。YouTube 上にアップロードされています。)
http://russell-j.com/cool/YouTube-BR.htm
・第1回(Social Cohesion and Human Nature:社会的結合(結集)と人間性)
・第2回(Social Cohesion and Government:社会的結合(結集)と統治)
・第3回(The Role of Individuality:個性の役割)
・第4回(The Conflict of Technique and Human Nature:技術と人間性との闘争)
・第5回(Control and Initiative; their respective spheres:統制と(個人の)創意-各々の領域)
・第6回(Individual and Social Echics:個人倫理と社会倫理)