誰に対しても媚を売る必要がない自由 -社会的地位向上及び収入の増加で

MERIT-O メリット勲章(写真:英国のメリット勲位授与)で始まり,ノーベル賞(受賞)で終わった1950年という年は(注:メリット勲章を授与されたのは1949年6月/ここではメリット勲章授与の余波が1950年も続いたことを言っている。),私の社会的地位が最高点を記録した年(社会的に最も尊敬された年)であったように思われる。このことが,一般社会の考え方や慣行に盲目的に従うようになる始まり(正統主義の始まり)を意味することになるのではないかという恐れから,少し不安を感じはじめたことは事実である。私は,いつも,曲がったことをしないで社会的に尊敬される人間になることはできないという考えを抱いてきた。しかし,私の道徳感があまりにも鈍感なために,自分がどのような過ちを犯したのかわからなかった(松下注:いうまでもなくこれは英国人特有のユーモア)。
TP-NHCW 種々の名誉と,私の著作『西洋哲学史』の販売とともに始まった収入の増加が,自分の全精力を自分がやりたいことに費せる自由や保証があるという感覚を与えてくれた。私は厖大な量の仕事をなしとげた。その結果,楽天的主義的になるとともに人生に対する熱意を感じた。私はそれまで,人類に脅威を与えている・より暗い可能性を強調しすぎてきたのではないか,また,当時議論が行われていた諸問題のなかで(解決策を見つけることのできそうな)より幸運な問題について安心感をもたらすような著書を書く時期ではないか,と考えた。私はその著書に『変わりゆく世界への新しい希望』(New Hopes for a Changing World/理想社刊の邦訳書名:『原子時代に住みて-変わりゆく世界への新しい希望』)という書名をつけ,そうして,両方の可能性がある場合には,意識的に,より幸運な方を実現することが可能であると強調した。

TPJ-NHCW1950, beginning with the OM and ending with the Nobel Prize, seems to have marked the apogee of my respectability. It is true that I began to feel slightly uneasy, fearing that this might mean the onset of blind orthodoxy. I have always held that no one can be respectable without being wicked, but so blunted was my moral sense that I could not see in what way I had sinned. Honours and increased income which began with the sales of my History of Western Philosophy gave me a feeling of freedom and assurance that let me expend all my energies upon what I wanted to do. I got through an immense amount of work and felt, in consequence, optimistic and full of zest. I suspected that I had too much emphasised, hitherto, the darker possibilities threatening mankind and that it was time to write a book in which the happier issues of current disputes were brought into relief. I called this book New Hopes for a Changing World and deliberately, wherever there were two possibilities, I emphasised that it might be the happier one which would be realised.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-240.HTM

[寸言]
どこかの組織に属していれば(宮仕えをしていれば)力をもっている者に対して最小限の「媚」を売る必要がでてくる。ラッセルと言えども、米国において「不道徳な人間」として魔女狩りにあった時期(1940年)には、援助の手を差し伸べてくれた資産家のバーンズ博士に対して「最低限」の「媚」を売る必要があったであろう。

しかし、(王族以外がもらえる)英国最高のメリット勲位を授与され、翌年ノーベル文学賞を授与されるとともに、多数のベストセラー本を出して生活に困らないほどの印税収入がコンスタントに入ってくるようになったラッセルにとって、怖いものは何もなくなった。

しかし、この状態が続いたのは。エスタブリッシュメント(体制派)からも評価されている間の数年間のことであった。その後(1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実権以後)は、平和運動・反核闘争や大国の覇権主義批判、ベトナム戦争批判、ソ連のチェコ侵入批判、その他社会悪の批判を強くするにつれて、攻撃された側からの反撃が開始されることになり、ラッセルの老いてますます反権力の立場が明確になっていった。(ラッセルはノーベル平和賞に十分すぎるほどの貢献を行ったが、米国はじめ、大国を非難したために、それは実現しなかった。)