通俗本の執筆をやめ、収入が激減+ドーラとの離婚に向けて

BEACON-2 『自由と組織』(Freedom and Organization, 1934)を書き上げると,私は,テレグラフ・ハウスに戻ってドーラ(再婚相手)にどこか他のところで暮らすように言おう,と決心した。それは財政上の理由からであった。私は,(死んだ兄に代わって)テレグラフ・ハウスのために,年400ポンドの賃借料を支払う法律上の義務を負っていた。それは,私の兄(John Francis Stanley Russell, 2nd Earl Russell, 1865 ~1931)の2人目の妻に扶助料を支払わなければならないことの結果であった(注:兄の再婚した妻の遺産の取り分として,テレグラフ・ハウスの所有権の一部が与えられ,それが年400ポントに設定されたのであろうか? つまりその額400ポンドは賃借料=扶助料として,兄に代わってラッセルが支払わなければならなかったと推論される。/テレグラフ・ハウスはラッセルの兄の所有物であったが,兄は投機に失敗して破産。兄は1931年3月に死亡)。私自身もまた,ジョンとケイトのための全経費だけでなく,ドーラに対する扶助料(注:正式に離婚が成立したのは1935年)を支払う義務があった。一方,私の収入は激減した。収入が減ったのは,一部は(1929年に)世界大恐慌が起こり,人々があまり本を買わなくなったこと,一部は私がもう通俗的な本を書かなくなったこと,一部は,1931年にカリフォルニアにあるハースト(William Randolph Hearst, 1863-1951)の大邸宅(注:サン・シメオン)に滞在することを拒否したことが原因であった。以前は,ハースト系の新聞に毎週論説を執筆して,年に1,000ポンドの収入があったが,私が滞在を拒絶してからは半減し,その後すぐにもう論説は不要だと言い渡された。テレグラフ・ハウスは広く,そこに通じる道は,それぞれ約一マイルある(車が通れる)私道が2本あるだけであった。私はテレグラフハウスを売りたいと思ったが,学校(ラッセルがドーラとともに経営・運営した幼児学校)がそこにある間は売りに出すことができなかった。唯一の望みは,そこに自分が住んで,テレグラフ・ハウスを購入してくれそうな人にとって魅力的になものになるように努めることであった。(2枚の写真: テレグラフ・ハウス内に儲けられた Beacon Hill School にて)

DORA-BHSWhen the writing of Freedom and Organization was finished, I decided to return to Telegraph House and tell Dora she must live elsewhere. My reasons were financial. I was under a legal obligation to pay a rent of £400 a year for Telegraph House, the proceeds being due to my brother’s second wife as alimony. I was also obliged to pay alimony to Dora, as well as all the expenses of John and Kate. Meanwhile my income had diminished catastrophically. This was due partly to the depression, which caused people to buy much fewer books, partly to the fact that I was no longer writing popular books, and partly to my having refused to stay with Hearst in 1931 at his castle in California. My weekly articles in the Hearst newspapers had brought me £1000 a year, but after my refusal the pay was halved, and very soon I was told the articles were no longer required. Telegraph House was large, and was only approachable by two private drives, each about a mile long. I wished to sell it, but could not put it on the market while the school was there. The only hope was to live there, and try to make it attractive to possible purchasers.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-020.HTM

[寸言]
二人の子供をもつことができ、また、(自分たちの子供のために良い幼児学校がないということで)兄から引き継いだテレグラフ・ハウス内に幼児学校(Beacon Hill School)を設立し、ドーラとともに経営・運営に乗り出したラッセル。全て順調に行くかに見えたが、しだいに暗雲が立ち込めてきた。

幼児学校に入学してきた幼児は問題児が多く、いろいろ苦労が多かったが、ジャーナリストが誇張しておかしく掻き立てるほど問題はあるわけではなかった。学校運営のための資金作りのため、ラッセルは、いわゆる通俗本をたくさん書いたり、何度かのアメリカへの講演旅行で留守にすることが多かった。

ラッセルもドーラも自由恋愛論者であったので、婚外の恋愛もお互い尊重していた。しかし、婚外の恋愛は自由であっても、結婚している以上、婚外に子供をつくることは、自分の子供に悪影響を及ぼすがゆえに、それはご法度であった。しかし、ドーラはそうは考えなかった。ドーラは婚外でも子供をつくったために、ラッセルは許容できず、別居することになり、裁判の末、1935年に正式に離婚するにいたった。