喫煙室にいたため九死に一生を得る!ー搭乗していた水上飛行艇が墜落

BR-1948 私がドイツに行ったその同じ年に(注:1948年10月),英国政府は,ノールウェーを説得し反ソ同盟に参加させることを期待して,私をノールウェーに派遺した。私が派遣された場所は,トロンハイム(Trondheim)という都市であった。天候は,嵐でしかも寒かった。私たちは,オスロからトロンハイムまで,水上飛行艇(海上飛行艇)でいかなければならなかった。飛行艇が着水した時,何かまずいことが起こったことが明らかとなった。しかし,機内の私たちには,何が起こったのか誰にもわからなかった。飛行艇がゆっくりと沈んでいく間,私たちは機内にじっと坐っていた。小さなボート群が,飛行艇のまわりに集まって来た。そしてすぐに,海に飛び込んで,ボートに向かって泳ぐように言われた。私と同じ場所にいた全員が,言われた通りにした。後で知ったことであるが,禁煙になっている客室にいた19人の乗客は全員死亡した。飛行艇が海面にぶつかった時,穴があき,そこから海水が急に流れ込んできたのである。それより先にオスロで,私のために席をとってくれようとしていた友人に,席をとってくれるなら喫煙できるところにしてくれなければ困ると伝え,さらにおどけて「もし私が煙草を吸えないようなら,死んでしまう!」と伝えた。それは,思いがけなく事実となった。喫煙室にいた船客の全員が,私の席のそばにある非常口の窓から外に出た。私たちは全員ボートに泳ぎ着いたが,それらボート群は,飛行艇が沈む時に吸い込まれてしまうのを恐れて,飛行艇には近づこうとしなかった。私たちは,トロンハイムから数マイル離れたところの岸までボードで運ばれ,そこから私は自動車でホテルまで送られた。(上の写真:ホテルに収容されたラッセル)

BR-ChessIn the same year that I went to Germany, the Government sent me to Norway in the hope of inducing Norwegians to join an alliance against Russia. The place they sent me to was Trondheim. The weather was stormy and cold. We had to go by sea-plane from Oslo to Trondheim. When our plane touched down on the water it became obvious that something was amiss, but none of us in the plane knew what it was. We sat in the plane while it slowly sank. Small boats assembled round it and presently we were told to jump into the sea and swim to a boat – which all the people in my part of the plane did. We later learned that all the nineteen passengers in the non-smoking compartment had been killed. When the plane had bit the water a hole had been made in the plane and the water had rushed in. I had told a friend at Oslo who was finding me a place that he must find me a place where I could smoke, remarking jocularly, ‘If I cannot smoke, I shall die’. Unexpectedly, this turned out to be true. All those in the smoking compartment got out by the emergency exit window beside which I was sitting. We all swam to the boats which dared not approach too near for fear of being sucked under as the plane sank. We were rowed to shore to a place some miles from Trondheim and thence I was taken in a car to my hotel.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-090.HTM

[寸言]
ラッセルは、1921年初春に、北京でインフルエンザにかかって危篤に陥ったが、九死に一生を得ることができた。1948年にも、ノルウェーのトロンハイムに向かう水上飛行艇に乗っていて墜落し、ラッセルを含め、喫煙室にいた乗客だけが生き残った。添付画像は、76歳のラッセルが冷たい北海の海を泳いで助かったという、やや誇張した新聞記事

ラッセルは、喫煙の害をいわれると、それはわかるが、でも、私は喫煙をしていたために命が助かったのだから・・・と、おどけて「煙に巻いて」いた。

敵国ドイツを利することはないか,『西洋哲学史』の原稿を検閲!

reading_bible (1944年)私自身は,自転車くらいの速度で威風堂々と航海する巨大な護送船に乗り,コルベット艦(注:機雷掃海や対潜水艦用として開発された小型の高速護衛艦)と飛行機によって護衛されて,英国に送られた。私は,『西洋哲学史』の原稿を携帯しており,不運にも検閲官たちは,敵国を利する情報がこの原稿に含まれていないか一語一語点検しなければならなかった。けれども,検閲官たちはついに,哲学の知識は敵国のドイツ人にまったく役立つものでないことがわかって満足し,きわめて礼儀正しく,私の著書を読んで興味深かったと明言した。正直に言えば,その時それは信じ難いと思った。一切が秘密であった。私は,いつ航海するか,どこの港から出帆するか,友人たちに知らせることを許されなかった。私は,ついに独力で,処女航海をするリバティー船(注:第二次大戦中に建造された規格型輸送船)に乗っていることを発見した。船長は愉快な人で,四隻あるリバーティ船で処女航海で真っ二つに折れたのは(たった)一隻だけだなどとよく言って,私を元気づけた。言うまでもなく,船はアメリカ船籍のもので,船長は英国人だった。(訳注:「言うまでもなく」,アメリカ人にはそう言ったユーモアはない,ということ)
TPJABCR2 心から私に共鳴していた船員が一人いた。彼は機関長で,(私の)『相対性理論入門』を読んでいたがその著者のことは何一つ知らなかった。ある日,私が彼とデッキの上を歩いている時,彼はこの小著の価値を賞賛し始めた。それで,その本の著者は自分だと言ったところ,彼の喜びようは際限のないものであった。

As for me, I was sent in a huge convoy which proceeded majestically at the speed of a bicycle, escorted by corvettes and aeroplanes. I was taking with me the manuscript of my History of Western Philosophy, and the unfortunate censors had to read every word of it lest it should contain information useful to the enemy. They were, however, at last satisfied that a knowledge of philosophy could be of no use to the Germans, and very politely assured me that they had enjoyed reading my book, which I confess I found hard to believe. Everything was surrounded with secrecy. I was not allowed to tell my friends when I was sailing or from what port. I found myself at last on a Liberty ship, making its maiden voyage. The Captain, who was a jolly fellow, used to cheer me up by saying that not more than one in four of the Liberty ships broke in two on its maiden voyage. Needless to say, the ship was American and the Captain, British. There was one officer who whole-heartedly approved of me. He was the Chief Engineer, and he had read The ABC of Relativity without knowing anything about its author. One day, as I was walking the deck with him, he began on the merits of this little book and, when I said that I was the author, his joy knew no limits.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-010.HTM

[寸言]
戦争を始めると(戦争が始まると)どの政府も「敵国を利するものはないか」,情報や図書の「検閲」を始める。’理論’哲学なんか対象にならないはずであるが、「危険思想」と当局が判断する場合は「哲学」も対象になってしまう。
TPJ-ABCR 「検閲」をする以上、不適当な言葉がどこに書いてあるかわからないので、全文を読まなければならなくなる。薄い本であればあまり苦にならないであろうが、アメリカの検閲官は気の毒なことに、大部な『西洋哲学史』の全体を読まなければならなかった。一般市民に対する公開講座で話されたものなので難しいところはなかったと思われるが、話したものに追加した部分は、意味(「真意」)を掴みきれないところがあったかも知れない。たとえば、次のような文章。

「賢い人間が言ったことを愚かな人間が伝えると(とき),正確であったためしがない。なぜなら,愚かな人間は,自分が聞いたことを自分が理解できる内容(もの)に無意識に翻訳(誤変換)してしまうからである。」(別訳:利口な人の言ったことに関する愚かな人の記録は,決して正確ではない。なぜなら愚かな人は,自分の聞いたことを自分が理解できる何物かに,無意識のうちに反訳(誤訳)してしまうからである。)
[A stupid man’s report of what a clever man says is never accurate, because he unconsciously translates what he hears into something that he can understand.
(38)A History of Western Philosophy, 1945, chap. 11 (Socrates), p.101]

存命中の人のプライバシーに関わることは自由に書けないので・・・

BR-1944 帰国後の生活は,以前と同様,公的および私的のさまざまの出来事の混じったものであったが,私的な部分の方がますます重要なものとなった。そうして,私は,ずっと以前に済んでしまった私的あるいは公的な出来事と,今なお続いていてそのまっただ中に自分が生きている出来事とを,同列に語ることはできないということに気づいている。そのことがもたらす取り扱い方(語り方)の違いに,読者のなかには驚かれる方もいるかもしれない。私としては,読者が,取り扱い方(語り方)が多様になることは避けられないことを理解していただき,「文書による名誉棄損」の法律のために,やむをえず口が重くなるのも仕方がないと認めてくれることを望むことしかできないのである。(上写真:ラッセル,妻パトリシア,次男コンラッド/1944年に帰国した直後、ラッセルの母校であるケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジにて)

My life in England, as before, was a mixture of public and private events, but the private part became increasingly important. I have found that it is not possible to relate in the same manner private and public events or happenings long since finished and those that are still continuing and in the midst of which I live. Some readers may be surprised by the changes of manner which this entails. I can only hope that the reader will realise the inevitability of diversification and appreciate the unavoidable reticences necessitated by the law of libel.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB30-PREF.HTM

[寸言]
第二次世界大戦中の1944年の前半に、妻(3人目/1935年に結婚したパトリシア)と次男(コンラッド/後にケンブリッジ大学の政治学教授になる。)は、クイーーン・メリー号に乗船して一足先に英国に帰国。ラッセルも少し遅れて、6月に、『西洋哲学史』の原稿を携えて、帰国する。

『ラッセル自伝』第3巻では、英国に帰国した年の1944年から(第3巻を執筆している)1967年までのことが書かれているが、時代が進み現代に近づくにつれて,存命中の関係者に関することが多くなっていく。そこで、プライバシーの保護の問題があるため取り扱う内容や書き方は変えざるを得なくなっている、とのラッセルの弁解。

長男と長女の大学の費用を『西洋哲学史』の原稿料で工面

DENIED-A しかし,この頃には,ニューヨーク市立大学関係の騒動もおさまり始め,時折,ニューヨークやその他の地域で講演をする契約をすることができた。解禁第一号は,ブリン・マー女子大学のワイス教授から同大学で連続講義を頼みたいとの誘いであった。これは,少なからず勇気を必要とした。ある時は非常に貧しかったので,ニューヨークまでの片道切符を買い,帰りの乗車賃は,もらった講義の報酬で支払わなければならなかった。
私の『西洋哲学史』がほぼ完成した。そこで,アメリカにおける私の著書の出版者である W・W・ノートンに手紙を書いて,私の困難な家計状況を考慮して,『西洋哲学史』(の印税=原稿料)の前払いをしてくれるかどうかを尋ねた。ノートンは,ジョーンとケイトに対する愛情から,また旧友に対する好意として,500ドルを前払いしよう,という返事がきた。私は,他ならもっと支払ってもらえるだろうと考え,個人的には未知の間柄であったが,サイモン・アンド・シュスター(訳注:Simon and Schuster 社の社主=兄弟)に働きかけてみた。彼らはただちに即金で2,000ドル,半年後にさらに1,000ドルを支払うことに同意してくれた。当時,ジョンはハーバード大学に,ケイトはラドクリフ女子大学に在学中だった。資金不足から,やむなく二人を退学させなければならないかもしれないと心配していたが,サイモン・アンド・シュスターのおかげでその必要はなくなった。私は当時,個人的に親しい友人からも借金をして助けてもらっていたが,幸いに,ほどなく返済することができた。

But by this time the trouble about City College had begun to blow over, and I was able to get occasional lecture engagements in New York and other places. The embargo was first broken by an invitation from Professor Weiss of Bryn Mawr to give a course of lectures there. This required no small degree of courage. On one occasion I was so poor that I had to take a single ticket to New York and pay the return fare out of my lecture fee. My History of Western Philosophy was nearly complete, and I wrote to W. W. Norton, who had been my American publisher, to ask if, in view of my difficult financial position, he would make an advance on it. He replied that because of his affection for John and Kate, and as a kindness to an old friend, he would advance five hundred dollars. I thought I could get more elsewhere, so I approached Simon and Schuster, who were unknown to me personally. They at once agreed to pay me two thousand dollars on the spot, and another thousand six months later. At this time John was at Harvard and Kate was at Radcliffe. I had been afraid that lack of funds might compel me to take them away, but thanks to Simon and Schuster, this proved unnecessary. I was also helped at this time by loans from private friends which, fortunately, I was able to repay before long.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-070.HTM

[寸言]
ラッセルは英国人であるので、当然のこと、自分の著書は「まず」英国で出版し(あるいは英米同時に出版し),その後、各国で翻訳版がだされてきた。
TP-PI しかし、戦争の関係で2度、英国での出版は後回しになり、海外(米国)で最初に出版された。
それは、第一次世界大戦中の1917年に出された Political Ideals と、第二次世界大戦中の1945年に出された A History of Western Philosophy である。Political Ideals の方はラッセルの反戦運動のために英国で出版できず、結局英国で最初に出されたのは 1963年のことであった。A History of Western Philosophy の方は、ラッセル一家が米国滞在中であり、子供が米国の大学に通う費用を捻出するために、まず米国で出版されたしだいである。なお、『西洋哲学史』の出版経由を知らない人が多く、初版の出版年を1946年と書いている人も少なくない。

予防線を張るーバーンズ博士はとても飽きやすいタイプと聞いていたので・・

Barnes_Charles バーンズ博士(右写真)は変った性格の持ち主だった。彼には,熱愛していた一匹の犬と,献身的な妻がいた。彼は有色人種のひとびとを支援者となることを好むとともに平等(同等)に扱った。なぜかというと,有色人種は自分達と対等ではないと強く確信していたからである。彼はアージロール(局部消毒用含銀液)を発明したことで莫大な財を成した。アージロールの価格が一番高い時に,彼はそれを売却して,その金の全てを連邦政府保証債(連邦債など)に投資した。彼は,その後,美術品鑑定家となった。そして彼は,近代フランス絵画のとても立派な画廊をもっていて,その画廊に関連付けて美学原理を教えた。バーンズ博土は,常にちやほやされていないと気がすまず,非常に喧曄好きだった。私は,彼からの申し出(オファー)を受ける前に,彼はすぐに人に飽きてしまうと忠告を受けていたので,私は,彼から5年間の契約を強引にとりつけた。(そうして)1942年12月28日,私は彼から,契約を(1943年)1月1日から打ち切ると通告する手紙を受け取った。私は,このようにして再び,裕福な状態から窮乏の状態へと追いやられた。確かに私は契約書を持っており,相談した弁護士も,私が法廷で間違いなく十分な補償(金)を得ることができると確約した。しかし法的な補償(金)を手に入れるまでには時間がかかるし,アメリカではとくにそうであり,私はその間を何とかして生計をたてなければならなかった。

Dr. Barnes was a strange character. He had a dog to whom he was passionately devoted and a wife who was passionately devoted to him. He liked to patronize coloured people and treated them as equals, because he was quite sure that they were not. He had made an enormous fortune by inventing Argyrol; when it was at its height, he sold out, and invested all his money in Government securities. He then became an art connoisseur. He had a very fine gallery of modern French paintings and in connection with the gallery he taught the principles of aesthetics. He demanded constant flattery and had a passion for quarrelling. I was warned before accepting his offer that he always tired of people before long, so I exacted a five-year contract from him. On December 28th, 1942, I got a letter from him informing me that my appointment was terminated as from January 1st. I was thus reduced once again from affluence to destitution. True, I had my contract, and the lawyer whom I consulted assured me that there was no doubt whatever of my getting full redress from the courts. But obtaining legal redress takes time, especially in America, and I had to live through the intervening period somehow.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-060.HTM

[寸言]
Barnes_Devil 用心に越したことはない。バーンズ博士は「悪魔と呼ばれたコレクター」という本があるほど、気まぐれで熱しやすく飽きやすいタイプであったらしい。
そこで、契約は短いものではなく、家族との暮らしを守るために「5年契約」を取り交わした。結局それが功を奏したが、裁判で決着するまでの間、生計のやりくりをしなければならなかった。

突然生計をたてる手段を奪われるがバーンズ博士から救いの手があり・・・

BARNES-A (ニューヨーク市立大学の招聘の話が消え、また、「不道徳な人間」との評判が全米にたったために、)私が執筆したものはなんであっても,掲載してくれる新聞や雑誌はまったくなくなってしまい,私は,突然,生計をたてる手段を奪われてしまった。(母国の)英国から金を取り寄せることは法的に不可能だったため(注:1938年に第二次世界大戦が勃発),このことは,非常に困難な事態を私たちにもたらした。特に,この時私は3人の子供(注:ドーラとの間に生まれた長男と長女と、パトリシアとの間に生まれた次男)を扶養しなければならなかったため,よりいっそうそうであった。多数のリベラルな考えの教授たちが坑議をしてくれた。しかし彼らは,私は伯爵だから先祖から受け継いだ遺産をもっていて,裕福に暮らしているにちがいない,と想っていた。ただ一人だけ,実際的なことを何でもやってくれた。それは,バーンズ博士であった(上の写真:バーンズ美術館のおけるバーンズ博士とラッセル)。彼は,アージロール(防腐用含銀液)の発明者であり,フィラデルフィア近郊にあるバーンズ財団の創設者であった。彼は私に,その財団で哲学の講義をするよう5年聞の約束をしてくれた。これにより,非常に大きな不安を私から取り除いてくれた。

BR-1940No newspaper or magazine would publish anything that I wrote, and I was suddenly deprived of all means of earning a living. As it was legally impossible to get money out of England, this produced a very difficult situation, especially as I had my three children dependent upon me. Many liberal-minded professors protested, but they all supposed that as I was an earl I must have ancestral estates and be very well off. Only one man did anything practical, and that was Dr. Barnes, the inventor of Argyrol, and the creator of the Barnes Foundation near Philadelphia. He gave me a five-year appointment to lecture on philosophy at his Foundation. This relieved me of a very great anxiety.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-040.HTM

[寸言]
TP-HWP ニューヨーク市立大学教授の招聘の話が消えたため、生計の糧を失い、ラッセル一家は窮地に陥ることになる。しかし、学問の自由のために闘ってくれた同士も、ラッセルは伯爵だから財産はあるだろうということで、誰も経済的に支援してくれる者はおらず、窮地にたたされることになる。
しかし、バーンズ財団創設者であるバーンズ博士から救いの手がさしのべられ、フィラデルフィアのバーンズ財団において、一般市民向けに西洋哲学の歴史に関する公開講座を開くよう依頼され、収入を確保し、窮地を脱することができた。これによって、ラッセル『西洋哲学史』が生まれることになったのである。

バートランド・ラッセル事件-米国における学問・思想の自由のための戦い

TPJ-MM4X 1939/1940学年度(1939.9~1940.6)の終わり頃,ニューヨーク市立大学教授になるよう招聘された。この事は既に決定されているように思われた。そこで,私はカリフォルニア大学の学長宛に辞職届けを書いて提出した。学長が私の手紙を受け取って30分後に,ニューヨーク市立大学教授に私が任命されるということはまだ(最終的に)決定されたものでないということがわかった。そこで私は,辞表の撤回を学長に頼んだ。しかし彼はもう遅すぎると言った。熱心なクリスチャンの納税者たちが,自分たちが納めた税金を不信心者の給料にあててはいけないといって抗議している時だったので,学長は私(という厄介者)から逃れられるのを喜んだ。
TPJ-MM ニューヨーク市立大学は,ニューヨーク市庁が運営管理している学校であった。通学している学生たちは,ほとんど全てカトリック教徒かさもなければユダヤ人だった。だがカトリック教徒にとって残念なことに,奨学金の大部分は(優秀な)ユダヤ人に支給されていた。ニューヨーク市庁は,事実上ヴァチカン(ローマ法王庁)の衛星都市的存在であったが,ニューヨーク市立大学の教授たちは,’学問の自由’の体裁をなんとか保とうと熱心に戦っていた。彼らが私を推薦したのも,その目的をとげようとしてであることは疑いなかった。
聖公会のある司教がそそのかされて私の就任に反対の抗議をした。そうして(それを受け),司祭たち(牧師たち)は私がニューヨーク市の犯罪の発生に対して責任があると言って,警察に説法した。警察官はほぼ全員がアイルランド系のカトリック信者であった。私とはまったく関係のない学科に在学中の娘をもっているある女性が -私が市立大学の教授に就任することは娘の徳育上危険だと説得されて,訴訟を起こした。これは,私に対する訴訟ではなく,ニューヨーク市当局を相手どってなされたものであった。
Bertrand_Russell_Case(ラッセル注:この訴訟に関する情報は,1941年,ホーレース・M・カレン編,ヴァイキング・プレス版の『バートランド・ラッセル事件』の中に見られる。さらにまた,1957年,ポール・エドワード編,アレン・アンド・アンウィン社版の『わたくしは何故クリスチャンでないか』の付録の中に見られる)
私はこの訴訟について,当事者(の一人)になれるように努力したが,’私には関係ない’と言われた。市当局は,名目上は被告であったが,原告の女性が訴訟に勝つことを熱望していたと同程度に,敗訴したいと望んでいた。原告(起訴)側の弁護士は,私の著書(注:Marriage and Morals, 1930/邦訳書『ラッセル結婚論』)「好色,扇情的,多淫,性欲を促す,色情狂,催淫,不敬,狭量,虚偽,道徳性喪失」の書であると断言した。この訴訟の裁判官はアイルランド人であり,ついには,罵言をあびせながら私に不利な判決を下した。私は控訴を希望したが,ニューヨーク市当局は控訴することを拒絶した。私を攻撃する目的で言われたことのなかには,全く滑稽千万なものもいくつかあった。たとえば,私は幼児が自慰行為をしてもそれを罰すべきではないなどと言うような不道徳な人間である,とされた。

Towards the end of the academic year 1939-1940, I was invited to become a professor at the College of the City of New York. The matter appeared to be settled, and I wrote to the President of the University of California to resign my post there. Half an hour after he received my letter, I learned that the appointment in New York was not definitive and I called upon the President to withdraw my resignation, but he told me it was too late. Earnest Christian taxpayers had been protesting against having to contribute to the salary of an infidel, and the President was glad to be quit of me.
The College of the City of New York was an institution run by the City Government. Those who attended it were practically all Catholics or Jews; but to the indignation of the former, practically all the scholarships went to the latter. The Government of New York City was virtually a satellite of the Vatican, but the professors at the City College strove ardently to keep up some semblance of academic freedom. It was no doubt in pursuit of this aim that they had recommended me. An Anglican bishop was incited to protest against me, and priests lectured the police, who were practically all Irish Catholics, on my responsibility for the local criminals. A lady, whose daughter attended some section of the City College with which I should never be brought in contact, was induced to bring a suit, saying that my presence in that institution would be dangerous to her daughter’s virtue. This was not a suit against me, but against the Municipality of New York.(Information about this suit will be found in The Bertrand Russell Case, ed. by John Dewey and Horace M. Kallen, Viking Press, 1941; and also in the Appendix to Why I am not a Christian, ed. by Paul Edwards, George Allen & Unwin, 1957)  I endeavoured to be made a party to the suit, but was told that I was not concerned. Although the Municipality was nominally the defendant, it was as anxious to lose the suit as the good lady was to win it. The lawyer for the prosecution pronounced my works ‘lecherous, libidinous, lustful, venerous, erotomaniac, aphrodisiac, irreverent, narrow-minded, untruthful, and bereft of moral fiber.’ The suit came before an Irishman who decided against me at length and with vituperation. I wished for an appeal, but the Municipality of New York refused to appeal. Some of the things said against me were quite fantastic. For example, I was thought wicked for saying that very young infants should not be punished for masturbation.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-030.HTM

[寸言]
ラッセルは、1929年に Marriage and Morals を出版したが,自由の国アメリカにおいても第二次世界大戦前は,現在では考えられないほど保守的な社会であり、ラッセルの『結婚論』は「不道徳な」書物として受け取られていた。

BR-1939S ラッセルは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で哲学を教えている時に、ニューヨーク市立大学教授として招聘されることが決まっていた。(右写真:ヨセミテ渓谷に遊ぶラッセル一家、1940年)しかし、反キリスト教徒で自由恋愛論者のラッセルは、キリスト教界にとっては、風紀を乱す不貞の輩であり、ニューヨーク市立大学に通う女性の親(キリスト教徒)をけしかけ、ニューヨーク市の高等教育局を被告に、ラッセルの任命を取り消すようにとの訴訟を起こさせた。ラッセルは論理学を教えることになっており、女子生徒の親が心配するようなことはなかったが、そのようなことは彼らには関係なく、ラッセルは「不道徳な」人間であるので「教育者としてふさわしくない」ということであった。

学問の自由を守るためにジョン・デューイやアインシュタイン、その他、米国の多くの著名な大学関係者が立ち上がったが、当時の米国社会は遅れており、また、ラッセルは直接の被告ではないことから抗弁の機会が与えられず、被告であるニューヨーク市の高等教育局は裁判にまけ、ラッセルの招聘は取りやめとなってしまった。
こ れが有名なバートランド・ラッセル事件 The Bertrand Russell Case であった。詳しい内容を知りたい方は以下のページをお読みください。
http://russell-j.com/cool/Bertrand_Russell-Case.html

テレグラフ・ハウスを手放すー「私の意志ではなく,貧乏が承諾するのです!」

TELEGRAP 財政的見地(家計)から言えばこれ(注:テレグラフ・ハウスの売却成功)は喜ぶべきことであったが,テレグラフ・ハウスから離れることは苦痛であった。高原と森と四方八方に眺望のきく塔の中の自分の部屋(写真参照)を私はとても愛していた。私はテレグラフ・ハウスを40年以上も前から知っており,兄(所有)の時代に徐々に(増築されて)大きくなっていくのを見守った。テレグラフ・ハウスは,継続性というものを象徴していた。継続性は,仕事は別にすれば,自分の生涯を通して,自分が望んだよりもはるかに少なかった(注:生涯4度の結婚,転居,その他いろいろ)。財政上の見地からすれば,テレグラフ・ハウスから解放されるのは喜ぶべきことであった私はその家を失った時,(ロメオ・トジュリエットに出てくる)薬屋が(禁止されている毒薬を売る時に)言ったように,「私の意志ではなく,貧乏が承諾するのです」と言えるものであった。その後長い間私は,定まった住所(定住地)をもたなかったし,また持てそうもないと思った。(注:コーンウォールの田舎の別荘は、子供の養育に必要なため、ドーラの渡したため)テレグラフ・ハウスの件は心から残念に思った。

Although, for financial reasons, I had to be glad to be rid of Telegraph House, the parting was painful. I loved the downs and the woods and my tower room with its views in all four directions. I had known the place for forty years or more, and had watched it grow in my brother’s day. It represented continuity, of which, apart from work, my life has had far less than I could have wished. When I sold it, I could say, like the apothecary, ‘my poverty but not my will consents.’ For a long time after this I did not have a fixed abode, and thought it not likely that I should ever have one. I regretted this profoundly.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-070.HTM

[寸言]
CARNVOEL 死んだ兄が残したものであり、ラッセルが愛着を持っていたテレグラフ・ハウスをやむなく売却子供の養育に必要なために購入したコーンウォールの田舎の別荘(写真の家)も、離婚に際してドーラに譲ったために、以後、1955年(ラッセル83才の時)に(最後に結婚した)Edith Finch と暮らすために北ウェールズのプラス・ペンリンの自宅を購入して住むまで、定住場所をもたない(もてない)ことになり、ラッセルは死ぬまで波乱万丈の人生を歩むことになる。

通俗本の執筆をやめ、収入が激減+ドーラとの離婚に向けて

BEACON-2 『自由と組織』(Freedom and Organization, 1934)を書き上げると,私は,テレグラフ・ハウスに戻ってドーラ(再婚相手)にどこか他のところで暮らすように言おう,と決心した。それは財政上の理由からであった。私は,(死んだ兄に代わって)テレグラフ・ハウスのために,年400ポンドの賃借料を支払う法律上の義務を負っていた。それは,私の兄(John Francis Stanley Russell, 2nd Earl Russell, 1865 ~1931)の2人目の妻に扶助料を支払わなければならないことの結果であった(注:兄の再婚した妻の遺産の取り分として,テレグラフ・ハウスの所有権の一部が与えられ,それが年400ポントに設定されたのであろうか? つまりその額400ポンドは賃借料=扶助料として,兄に代わってラッセルが支払わなければならなかったと推論される。/テレグラフ・ハウスはラッセルの兄の所有物であったが,兄は投機に失敗して破産。兄は1931年3月に死亡)。私自身もまた,ジョンとケイトのための全経費だけでなく,ドーラに対する扶助料(注:正式に離婚が成立したのは1935年)を支払う義務があった。一方,私の収入は激減した。収入が減ったのは,一部は(1929年に)世界大恐慌が起こり,人々があまり本を買わなくなったこと,一部は私がもう通俗的な本を書かなくなったこと,一部は,1931年にカリフォルニアにあるハースト(William Randolph Hearst, 1863-1951)の大邸宅(注:サン・シメオン)に滞在することを拒否したことが原因であった。以前は,ハースト系の新聞に毎週論説を執筆して,年に1,000ポンドの収入があったが,私が滞在を拒絶してからは半減し,その後すぐにもう論説は不要だと言い渡された。テレグラフ・ハウスは広く,そこに通じる道は,それぞれ約一マイルある(車が通れる)私道が2本あるだけであった。私はテレグラフハウスを売りたいと思ったが,学校(ラッセルがドーラとともに経営・運営した幼児学校)がそこにある間は売りに出すことができなかった。唯一の望みは,そこに自分が住んで,テレグラフ・ハウスを購入してくれそうな人にとって魅力的になものになるように努めることであった。(2枚の写真: テレグラフ・ハウス内に儲けられた Beacon Hill School にて)

DORA-BHSWhen the writing of Freedom and Organization was finished, I decided to return to Telegraph House and tell Dora she must live elsewhere. My reasons were financial. I was under a legal obligation to pay a rent of £400 a year for Telegraph House, the proceeds being due to my brother’s second wife as alimony. I was also obliged to pay alimony to Dora, as well as all the expenses of John and Kate. Meanwhile my income had diminished catastrophically. This was due partly to the depression, which caused people to buy much fewer books, partly to the fact that I was no longer writing popular books, and partly to my having refused to stay with Hearst in 1931 at his castle in California. My weekly articles in the Hearst newspapers had brought me £1000 a year, but after my refusal the pay was halved, and very soon I was told the articles were no longer required. Telegraph House was large, and was only approachable by two private drives, each about a mile long. I wished to sell it, but could not put it on the market while the school was there. The only hope was to live there, and try to make it attractive to possible purchasers.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-020.HTM

[寸言]
二人の子供をもつことができ、また、(自分たちの子供のために良い幼児学校がないということで)兄から引き継いだテレグラフ・ハウス内に幼児学校(Beacon Hill School)を設立し、ドーラとともに経営・運営に乗り出したラッセル。全て順調に行くかに見えたが、しだいに暗雲が立ち込めてきた。

幼児学校に入学してきた幼児は問題児が多く、いろいろ苦労が多かったが、ジャーナリストが誇張しておかしく掻き立てるほど問題はあるわけではなかった。学校運営のための資金作りのため、ラッセルは、いわゆる通俗本をたくさん書いたり、何度かのアメリカへの講演旅行で留守にすることが多かった。

ラッセルもドーラも自由恋愛論者であったので、婚外の恋愛もお互い尊重していた。しかし、婚外の恋愛は自由であっても、結婚している以上、婚外に子供をつくることは、自分の子供に悪影響を及ぼすがゆえに、それはご法度であった。しかし、ドーラはそうは考えなかった。ドーラは婚外でも子供をつくったために、ラッセルは許容できず、別居することになり、裁判の末、1935年に正式に離婚するにいたった。

 

ラッセル家の家訓? - 小説家とは結婚するな!(半分 joke)

FRANK-R ミス・モリス(注):モリーの場合と同様,彼女の時代も終わりがやってきて,兄(右写真)エリザベスとの恋愛に陥った。彼(兄)が離婚を望んだモリーは,離婚の代償(慰謝料)として,彼に生涯年額400ポンド支払うこと要求した。兄の死後は私がそれを代わりに支払わなければならなかった。彼女は90歳頃に亡くなった。
エリザベス(Elizabeth von Amin, 1866-1941)は,彼女の方から兄のもとを去り,『ヴェラ』という題の,実に我慢ならないほど残酷な小説を書いた。この小説では,ヴェラは彼の妻であったが既に亡くなっている。彼女を失って彼は悲嘆にくれているということになっている。彼女は,テレグラフ・ハウス(注:ラッセルの兄が所有していた屋敷/下の写真)塔の窓から落ちて死亡した。小説を読み進めると,読者はしだいに,彼女の死は事故死ではなく,兄の冷酷さのためにひき起こされた自殺であるように推理させられるようになる。こういうことがあったので私は子供たちに,特に力をこめてこう忠告をせざるを得なかった。即ち,「小説家とは結婚するな!」

TELEGRAPHer day, like Miss Morris’s, came to an end, and he fell in love with Elizabeth. Molly, from whom he wished to be divorced, demanded £400 a year for life as her price; after his death, I had to pay this. She died at about the age of ninety.
Elizabeth, in her turn, left him and wrote an intolerably cruel novel about him, called Vera. In this novel, Vera is already dead; she had been his wife, and he is supposed to be heart-broken at the loss of her. She died by falling out of one of the windows of the tower of Telegraph House. As the novel proceeds, the reader gradually gathers that her death was not an accident, but suicide brought on by my brother’s cruelty. It was this that caused me to give my children an emphatic piece of advice: “Do not marry a novelist.”
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 4: Second Marriage, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB24-060.HTM

[寸言]
ラッセルの兄フランク(第2代ラッセル伯爵)はハンサムで,女性にもてた。「女癖が悪い」というほどのことはなかったかも知れないが、世間の常識にはとらわれず、離婚・再婚を繰り返した。世間的にまともな結婚がなかったこともあってか、兄には子供がいなかったので、1931年に兄がなくなると、ラッセル(59歳)は爵位(第3代ラッセル伯)を嗣ぐとともに、借金も引き継いだ。兄が所有していたテレグラフ・ハウスは借金の抵当に入っており、借金を返すために間もなく売却している。
作家(小説家)は小説の種にするために、常に周囲の人間を観察をしており、いつ材料として使われるかも知れない。世界的な作家によって描かれ、小説の中に永遠の生命を与えられればよいかも知れないが、九分九厘そういうことはない。