私が病院にいったことは,既に前にふれた伝説(神話)の一つになった。ある日の朝,妻(注:写真は1952年12月15日に再婚した Edith Finch とラッセル/ラッセル,最後の結婚 )と私は一緒にリッチモンド・パークに長い散歩に出かけた(注:ラッセルが18才まで住んだ祖父母の屋敷 Pembroke Lodge は Richmond Park の中にある)。昼食後,彼女は,私の部屋の上の階にある自分の居室に入った。そこへ私は突然現れ,具合(気分)が悪いと彼女に伝えた。無理もないことであるが,彼女はびっくりし,おどおどした。その日は,陽光にめぐまれた日曜日で,女王の戴冠式(注:戴冠式は1953年6月2日/因みに即位は1952年2月6日)の前だった。妻は,隣人や,リッチモンドやロンドンのかかりつけの医師をつかまえようとしたが,誰一人としてつかまえることができなかった。ついに彼女は,999番(注:英国では警察と救急の番号)に電話をした。そうして,リッチモンド警察が,たいへん親切にも,またいろいろと尽力してくれて,救助に来てくれた。警察は,医師を送ってくれた。その医師は私は知らない人物であったが,警察がその日見つけることのできた唯一の医師だった。警察がやっとのことでわが家のかかりつけの医師たちをつかまえてくれた頃には,私は真っ青になっていた。妻は,その時までに集まっていた5人の医師の中の一人の有名な専門医に,私はあと2時間の命だろう(2時間は生きられるかもしれない),と告げられた。私は,救急車に詰めこまれ,病院に急送され,彼らは病院で私に酸素吸入し,私は助かった.
That visit to the hospital became one of the myths to which I have already referred. My wife and I had gone on a long walk in Richmond Park one morning and, after lunch, she had gone up to her sitting-room which was above mine. Suddenly I appeared, announcing that I felt ill. Not unnaturally, she was frightened. It was the fine sunny Sunday before the Queen’s coronation. Though my wife tried to get hold of a neighbour and of our own doctors in Richmond and London, she could get hold of no one. Finally, she rang 999 and the Richmond police, with great kindness and much effort, came to the rescue. They sent a doctor who was unknown to me, the only one whom they could find. By the time the police had managed to get hold of our own doctors, I had turned blue. My wife was told by a well-known specialist, one of the five doctors who had by then congregated, that I might live for two hours. I was packed into an ambulance and whisked to hospital where they dosed me with oxygen and I survived.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-110.HTM
[寸言]
1935年に3度目に結婚した Patricia Spence (二人の間に1936年に次男誕生)とは,1949年に別居し,1952年6月に正式に離婚した。離婚にあたってラッセルは,11,000ポンドを彼女に渡したが、因みに,1950年12月にもらったノーベル賞の賞金は1万ドルであった。
ラッセルは,生涯に4度結婚したが、この4度目の結婚でようやく理想の女性(Edith Finch)を見つけ、落ち着くことができ、死ぬまで添い遂げることができた。Edith は Bryn Maur 女子大学の英文学の教授を務めており、若い頃からラッセルにあこがれていた。
ラッセルは『自伝』の最初に、Edith に捧げる詩を掲げている(次の URL のページ参照)が,Edith 夫人は、過去にラッセルが結婚した3人とは異なり、控えめな女性であり、ラッセルのデモ行進にも常にそばにつきそっていた。
http://russell-j.com/beginner/TO-EDITH.HTM