私は,自分の年齢と健康状態のせいで,この最初の会議(写真:第1回パグウォッシュ会議=正式名称は、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」であり、1995年にノーベル平和賞を受賞)に出かけることができなかった。1957年(ラッセル85歳の時)の私の時間の大部分は,★自分の咽喉の障害★の原因が何かをはっきりさせるための各種の医学的検査に費やされた。2月に,咽喉癌ができているかどうかはっきりさせるため,短期間ではあるが入院しなければならなかった。私が入院した日の夕べ,私はBBC放送でダウンサイド修道院のバトラー院長(Abbot Butler of Downside)と討論(対論)を行い,大いに楽しんだ(テレビ討論終了後,そのまま病院に向かったと思われる。)。彼も同様楽しんだと思う。その出来事は,そういったつらいことの成就がそうであるように,終わったときには楽しくなった。そうして結論として癌ではないということがわかった。しかし,それならいかなる病気にかかっていたのか? そこで検査が続けられ,私は乳幼児食やその他の同じような(味気ない)物を食べて暮らし続けなければならなかった。
それ以来(退院後は),私は数回海外旅行をしたが,いづれも(カナダの)パグウォッシュほど遠くへいったことはない。長旅を避けた理由は,幾分かは,もし私がある国へ行けば,私を自国に来させようと懇願してきた他の国々の人々を侮辱することになると恐れるからである。公職についていない人間にとって,それを回避する唯一の方法は,遠出の旅行を(一切)やめることである。
I was unable to go to this first conference because of my age and my health. A large part of my time in 1957 was devoted to various medical tests to determine what was the trouble with my throat. In February, I had to go into hospital for a short time to find out whether or not I had cancer of the throat. The evening that I went in I had a debate over the BBC with Abbot Butler of Downside which I much enjoyed, and I think he did also. The incident went off as pleasantly as such a trying performance could do and it was discovered conclusively that I did not have cancer. But what did I have? And so the tests continued and I continued to have to live on baby’s food and other such pabulum.
Since that time I have made several journeys abroad, though none so long as that to Pugwash. I fight shy of longer journeys partly because I fear if I go to one country people in other countries who have pressed me to go there will be affronted. The only way around this, for one who is not an official personage, is to renounce distant travels.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-330.HTM
[寸言]
ラッセルは、ここに書かれているように,晩年(1957年=ラッセル85歳の時),喉に障害が起き、手術したために、しゃがれた声しか出せなくなってしまった。TV番組の録画を視聴すると声がしゃがれているものが多いが、幸い、喉をまだ痛めていない1948年に録音された Reith 記念講義はクリアかつなめらかな発声になっている。
http://russell-j.com/cool/YouTube-BR.htm
(注:日高一輝氏の次の証言にあるように,日本でも老齢のラッセルを招待しようという計画があった。(写真は、ロンドンの Hasker 通り43番地で,自宅にしているフラットの1階玄関前に立つラッセルと日高一輝氏。ラッセルが不機嫌そうなのは、日高氏の強引さのためか?)
即ち,
「(日高氏が)当時,最も身近な相談相手として相談にのってもらっていた朝日新聞論説主幹の笠信太郎先生を茅ヶ崎の自邸に訪ねた。先生は,即座にこのプラン(ラッセルの日本への招待)に賛意を表された。そして,ラッセル卿夫妻を日本に招待する費用は,一切,朝日新聞が負担することにしようと約束してくださった。」
(出典:日高一輝著『世界はひとつ,道ひとすじに』)」
http://russell-j.com/cool/HIDA-ONE.HTM
日高氏がラッセルに直接会い,訪日を打診したところ,年齢を理由に断ったそうであるが,一番大きな理由は,上記に書かれている理由(ひとつ引き受けると他を断れなくなってしまうために,遠い国からの招待は原則断わることにした。)であったかも知れない。