その後間もなく,私たち(夫婦)は,スコットランド(旅行)からリッチモンド(の自宅)に戻る途中,北ウェールズに立ち寄った。私たちの友人のルパート・クロウシェイ・ウィリアムズとその夫人のエリザベスは,プラス・ペンリン(Plas Penrhyn)と名付けられた一軒の家を北ウェールズに見付けており,その家は私たち夫婦と息子の子供たち(即ち,孫)が楽しい休暇を過ごすのに良いだろうと考えていた。その家は小さく,慎ましいものであったが,心地よい庭と小さな果樹園と多数の立派なブナの木があった(注:Routledge 版の unprententious は誤植/日高訳では’桃の木’になってしまっている。)。とりわけ,その家からは最高に美しい景観を眺めることができ,南に海,西はポートマドックとカナーヴォン丘陵,北はグラスリンからスノードン山への渓谷が見渡せた。(上の写真:プラス・ペンリンの庭からポートマドック方面を眺める。1972年に牧野教授撮影/下の写真:プラス・ペンリンの庭に佇む,ラッセルの秘書のファーレイ氏と吉野源三郎氏)。
私はその美しい眺めに魅了された。特にグラスリン渓谷の向こう側(反対側)にかつてシェリーが住んでいた家を眺めることができるのが気に入った。プラス・ペンリンの所有者は気前良く私たちにその家を貸してくれることに同意したが,そのわけは,彼もまたシェリーの愛好者であり,私が(「無力な天使(シェリー)」といわれるのとは反対に)「タフなシェリー」という随筆を書きたいと強く思っているということに,彼は非常に心を動かされたため,と思われる。後に私は,タニーラルト(Tan-y-Ralt)と呼ばれるそのシェリーの家である男に会った。彼は,昔は人食いだったと言った。私が人食いに会ったのは後にも先にもそれがただ一度だけであった。’タフなシェリー’の家で彼(人食い)に会うというのは,まことにふさわしいことだと思われた。プラス・ペンリンは,長男の子供たち(孫たち)の休暇のためには’理想の場所’のように思われた。なぜかというと,特に,子供たちの両親の友人たちが近くに住んでおり,子供たちは彼らを知っており,また,彼らには同じ年頃の子供たちがいたからであった。それは,リッチモンドにおける(休暇時の)映画やキャンプの適切な代替物となるだろう,と私たちは考えた。(そこで)できるかぎり早くその家を借りた。
A short time later, on our way home to Richmond from Scotland, we stopped in North Wales where our friends Rupert and Elizabeth Crawshay-Williams had found a house, Plas Penrhyn, that they thought would make a pleasant holiday house for us and the children. It was small and unpretentious, but had a delightful garden and little orchard and a number of fine beech trees. Above all, it had a most lovely view, south to the sea, west to Portmadoc and the Caernarvon hills, and north up the valley of the Glaslyn to Snowdon. I was captivated by it, and particularly pleased that across the valley could be seen the house where Shelley had lived. The owner of Plas Penrhyn agreed to let it to us largely, I think, because he, too, is a lover of Shelley and was much taken by my desire to write an essay on ‘Shelley the Tough, (as opposed to the ‘inefficient angel’). Later, I met a man at Tan-y-Ralt, Shelley’s house, who said he had been a cannibal – the first and only cannibal I have met. It seemed appropriate to meet him at the house of Shelley the Tough. Plas Penrhyn seemed to us as if it would be an ideal place, for the children’s holidays, especially as there were friends of their parents living nearby whom they already knew and who had children of their own ages. It would be a happy alternative, we thought, to cinemas in Richmond and ‘camps’. We rented it as soon as possible.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-140.HTM
[寸言]
ラッセル夫妻が晩年に住んだプラス・ペンリンの自宅に行くには、ロンドン(Euston Station)を出発してから何度か電車を乗り換えて,かなりな時間をかけて(1980年当時は約7時間)Portmadog (Porthmadog)駅まで行く必要がある。駅からプラス・ペンリンまでは、はっきりした記憶はないが、1時間くらいだろうか。
ラッセルが亡くなってからは、エディス夫人が住み続けたが,彼女の死後,私が1980年夏に訪れた時は,アムネスティ運動をしている音楽家が住んでいた(ただし不在)。その後は、一時期ホテル(民宿?)になっていたが、現在では個人の家になっているようである。(上の写真:庭側から見たプラス・ペンリン。1980年8月に撮影。小さく写っているのが私。左側2階の窓が塞がれているのは、窓の数によって税金が異なるためらしい。)
http://humanistheritage.org.uk/articles/plas-penrhyn-wales/
キューバ危機の時には、ラッセルは,この地から、ケネディ大統領宛及びフルシチョフ首相宛に,お互い行動を自重するように呼びかける電報を何度か打電している。そのやりとりの詳細は、Unarmed Victory (London; Allen & Unwin, 1963. 155 p. 19 cm.)の中で詳しく述べられている。
http://russell-j.com/cool/60E-IDX.HTM