名声や権力の形での社会的成功の追求は幸福にとって最も重要な障害となる

 近所の人から尊敬されたいという願望や,軽蔑されることへの恐れのために,男女とも(とくに女性は)自発的な衝動によっては促されないような行動様式(行動の仕方)に追いやられる。つねに「品行方正である」(礼儀にかなった)人は,いつも,あるいは,ほとんどいつも退屈(な人)である。母親が,子供(たち)に,彼らが親があこがれる階級(階層)よりも下の社会階級(階層)に属すると思われないように,人生の喜びを抑制し落ち着いた操り人形になることを教えるのを見るのは,痛ましい(ことである)。

名声や権力あるいはその両者の形での社会的成功の追求は,競争社会における幸福にとって最も重要な障害である。成功幸福の一つの要素であり,それが極めて重要な要素である人もいる,ことを否定しようとしているのではない。しかし,成功はそれだけでは(by itself)大部分の人を満足させるには十分でない。あなたは,裕福で尊敬されるかもしれないが,もしも、友達がまったくおらず,興味を持つ対象もなく,自発的な役に立たない(=直接利益にならない)楽しみを持たないならば,惨めだろう。社会的成功のために生きることは,理論によって生きる一つの形ではあるが,理論によって生きることは全て(人生を)ほこりっぼく乾燥させるものである

健康で食べるに不自由のない男女が幸福であるためには,一見して矛盾しているように思われる二つのものが必要である。第一に,(その人の)中心的な目的の周りに立てられた安定した枠組み(フレイムワーク)が必要である。第二に,「遊び」といってよいもの,即ち,ただ面白いというだけの理由でなされるものであり,真面目な目的のためになされるのではないものが必要である。安定した枠組みは,かなり恒常的な衝動,たとえば家族や仕事に結びついた衝動を具体化したものでなければならない。家族はしだいに憎むようになったり,仕事が一様に退屈なものになったりしたら,それらはもはや幸福をもたらさない。(もちろん)憎悪や退屈が恒常的なものでなく時々感じられるものであるならばそれらは耐えるだけの価値はある。そうして,「遊び」の機会が利用されるならば,それらは絶えず感じられることがずっと減りそうである。

The wish to be respected by neighbors and the fear of being despised by them drive men and women (especially women) into ways of behavior which are not prompted by any spontaneous impulse. The person who is always “correct” is always bored, or almost always. It is heartrending to watch mothers teaching their children to curb their joy of life and become sedate puppets, lest they should be thought to belong to a lower social class than that to which their parents aspire.
The pursuit of social success, in the form of prestige or power or both, is the most important obstacle to happiness in a competitive society. I am not denying that success is an ingredient in happiness to some, a very important ingredient. But it does not, by itself, suffice to satisfy most people. You may be rich and admired, but if you have no friends, no interests, no spontaneous useless pleasures, you will be miserable. Living for social success is one form of living by a theory, and all living by theory is dusty and desiccating.
If a man or woman who is healthy and has enough to eat is to be happy, there is need of two things that, at first sight, might seem antagonistic. There is need, first, of a stable framework built round a central purpose, and second, of what may be called “play,” that is to say, of things that are done merely because they are fun, and not because they serve some serious end. The settled framework must be an embodiment of fairly constant impulses, e.g. those connected with family or work. If the family has become steadily hateful, or the work uniformly irksome, they can no longer bring happiness; but it is worth while to endure occasional hatefulness or irksomeness if they are not felt continually. And they are much less likely to be felt continually if advantage is taken of opportunities for “play.”
出典: The road to happiness (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1952_RtoH-050.HTM

<寸言>
他人が賞賛する、あるいは世間がよいと考える人間像の無理になろうとするのではなく、なりたい自分になることが幸福につながる。いつも他人(政治家にとっては国民の人気)の目を気にして生きるようでは、どんなに表面的な賞賛を得ても幸福からは遠ざかる

幸福な人の特徴 - 受動的な楽しみが大部分の現代人

 もし、あなたがあなたの周囲の幸福と呼べる男女を熟視すれば,彼らは皆ある一定の共通点を持っていることがわかるだろう。これらの中で最も重要なものは,大抵の場合,それ自身のために楽しむことができ,かつ,さらに,実現されるのを見ることが嬉しいようなある種のものをしだいに作りあげてゆく活動である。自分の子供に本能的な喜びを見出す女性(婦人)は(多くの女性,特に教育のある女性はこの喜びを持っていないが),この種類の満足を家族を育て上げてゆくことから得ることができる。芸術家や著作家や科学者は,自分たちの仕事が自身でよいものに思われる場合には,このようにして幸福を得る。しかし,同じ種類の喜びの,もっとつつましやかな多くの形態がある。(ロンドンの)シテイ(注:大文字 City であることの注意)で勤労生活をおくる多くの人々は,週末を(自宅で)庭いじりという自発的かつ無報酬の労苦に捧げ,春が来ると,美を創造したあらゆる喜びを経験する。

活動なくして幸福は不可能であるが,活動が過度なものであったりいやな種類のものだったりする場合には,幸福は不可能である。活動は,それが願望した目的に明確に向けられたものであり,それ自身衝動に反しないものである時には,快適である。犬は完全に疲れきってしまうまで兎を追いかけるだろうが,追いかけている間ずっと幸福であるだろう。しかし,犬を踏み台にのせて(運動させ)半時間後にご馳走を与えるとしたら,犬はその間自然の活動に従事していたのではなかったであろうことから,食物を食べるまで幸福ではないだろう。我々の時代の困難の一つは,複雑な現代社会においては,なすべきことのほとんどすべてが狩猟(生活)の自然さをもたないことである。その結果,技術的に進歩(発達)した社会においては,大部分の人が,生計を立てるための仕事以外に自分の幸福を見つけなければならない。また,もし,彼らの仕事が心身を疲労させるものであるならば,彼らの娯楽(楽しみ)は受動的なものとなる傾向がある。サッカー(football)をみたり,画にいったりすることは,その後でほとんど満足を残さないし,いかなる程度においても創造的な衝動を満足させないであろう。活動的な選手の満足はこれ(受動的な楽しみ)とはまったく別ものである。

If you look about you at the men and women whom you can call happy, you will see that they all have certain things in common. The most important of these things is an activity which at most times is enjoyable on its own account, and which, in addition, gradually builds up something that you are glad to see coming into existence. Women who take an instinctive pleasure in their children (which many women, especially educated women, do not) can get this kind of satisfaction out of bringing up a family. Artists and authors and men of science get happiness in this way if their own work seems good to them. But there are many humbler forms of the same kind of pleasure. Many men who spend their working life in the City devote their weekends to voluntary and unremunerated toil in their gardens, and when the spring comes they experience all the joys of having created beauty.
It is impossible to be happy without activity, but it is also impossible to be happy if the activity is excessive or of a repulsive kind. Activity is agreeable when it is directed very obviously to a desired end and is not in itself contrary to impulse. A dog will pursue rabbits to the point of complete exhaustion and be happy all the time, but if you put the dog on a treadmill and gave him a good dinner after half an hour, he would not be happy till he got the dinner, because he would not have been engaged in a natural activity meanwhile. One of the difficulties of our time is that, in a complex modern society, few of the things that have to be done have the naturalness of hunting. The consequence is that most people, in a technically advanced community, have to find their happiness outside the work by which they make their living. And if their work is exhausting their pleasures will tend to be passive. Watching a football match or going to the cinema leaves little satisfaction afterward, and does not in any degree gratify creative impulses. The satisfaction of the players, who are active, is of quite a different order.
出典: The road to happiness (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1952_RtoH-040.HTM

<寸言>
受動的な娯楽ではなく,能動的な楽しみを増やしていくと幸福になる。

健康と十分な収入を持ちながらひどく不幸な人々

幸福の物質的条件,即ち,健康と十分な収入を持ちながら,それにもかかわらずひどく不幸な人が多数いる。これは,特に,アメリカにおいてみられる(真実である)。このような場合においては,あたかも誤りはいかに生きるべきかについての誤った意見(理論)にあるに違いないかのように思われる。ある意味で,いかに生きるべきかに関するいかなる理論も誤っているといってよいであろう。我々は,実際そうである以上に,人間は動物と異なっていると想像する。(注:みすず書房版の中村訳では「我々は,我々同士が違っているように,動物と違っていると想像する」と誤訳している。/’than we are’は「現実にそうである以上に」)
 動物は衝動に従って生き,外的条件が具合よい限り幸福である。あなたがを飼っているとしたら,その猫は,食物と暖かさと,夜時々(外を)徘徊する(遊び回る)機会があれば,生活を楽しむことであろう。(注:みすず書房版の中村訳では「夜時々瓦にのぼる機会とがあれば」と訳している。/もちろん「瓦の上で遊ぶこと」も含まれるが,’on the tiles’ はここではもっと一般的に「夜時々遊び回る(徘徊する)」の意味であろう。)

人間に必要なものは,猫が必要なものよりも複雑であるが,(人間も)やはりその本能にその基礎をもっている。文明社会,特に英語を話す社会においては,このことはあまりにも忘れられがちである。人々はある種の一つの最重要の目標を自分に課し,その助けとならないあらゆる衝動を抑制する(ものである)。実業家(businessman)は金持になることを非常に熱望し,その目的のために,健康及び個人的な愛情を犠牲にする。ついにその人が金持ちになると(なる時には),他の人に自分の気高い例を真似るように勧めること(勧める楽しみ)を除いて,まったく楽しみは残されていない(のである)。多くの裕福な婦人たちは,彼女たちに文学や芸術に対する自発的な喜びを生まれながらに与えられていないのにもかかわらず,教養があるように思われたいと決意し,流行の新刊書について,適切なことを言うことを学ぶことに退屈な時間を費す。彼女たちには,書物は(人間に)喜びを与えるために書かれるのであり,ほこりっぼい俗物主義のための機会を与えるために書かれるのではない,ということは,彼女立ちには思い浮かばない(のである)。

There are a great many people who have the material conditions of happiness, i.e. health and a sufficient income, and who, nevertheless, are profoundly unhappy. This is especially true in America. In such cases it would seem as if the fault must lie with a wrong theory as to how to live. In one sense we may say that any theory as to how to live is wrong. We imagine ourselves more different from the animals than we are. Animals live on impulse, and are happy as long as external conditions are favorable. If you have a cat, it will enjoy life if it has food and warmth and opportunities for an occasional night on the tiles. Your needs are more complex than those of your cat, but they still have their basis in instinct. In civilized societies, especially in English-speaking societies, this is too apt to be forgotten. People propose to themselves some one paramount objective, and restrain all impulses that do not minister to it. A businessman may be so anxious to grow rich that to this end he sacrifices health and the private affections. When at last he has become rich, no pleasure remains to him except harrying other people by exhortations to imitate his noble example. Many rich ladies, although nature has not endowed them with any spontaneous pleasure in literature or art, decide to be thought cultured, and spend boring hours learning the right thing to say about fashionable new books. It does not occur to them that books are written to give delight, not to afford opportunities for a dusty snobbism.
出典: The road to happiness (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1952_RtoH-030.HTM

<寸言>
めぐまれた環境にありながら,自ら不幸の種を探し求める人々。金持のドラ息子(娘)も・・・。

間違った衝動のはけ口が不幸をもたらす

 人生いかに生きるべきかに関する持論(理論)を持っている人たちは,自然の制約を忘れがちである。あなたの生活様式(生き方)が,自ら定めたある最高の目的のために,衝動を常に抑制することを伴っているとしたら,その目的は,その要求する努力のために,絶えず嫌なもの(不愉快なもの)になっていく傾向がある(いきがちである)。正常なはけ口を塞がれた衝動は,多分,他のはけ口を見出すだろう。楽しみをいくらかでも自分に許すなら,それはあなたの生活の主流から分離され,酔いしれた,軽薄な(つまらない)ものとなるであろう。そのような楽しみは,まったく幸福をもたらすことなく,一層深い絶望のみをもたらす。

道徳主義者の間では,幸福を追求することによっては幸福は得られないということ(見方)が常識となっている。これは,幸福追求の仕方が賢明でない場合にのみ真である。モンテカルロのギャンブラー(賭博常習者)は,金銭の獲得を追求するが,彼らの大部分はお金を得る代りに(お金を)失ってしまう。しかし,しばしば成功する金銭の追求の方法が他にある。それは,幸福についても同様である(幸福についても同様のことが言える)。あなたが幸福を飲酒によって追求すれば,二日酔に向かっていることを忘れるだろう(気がつかないだろう)エピクロスは気の合った仲間の間で暮らし,乾燥したパンのみを食べることにより,また,祝祭日にはわずかのチーズを追加することによって,幸福を追求した。彼の方法は彼の場合は成功した。しかし,彼は病弱者であったのであり,大部分の人々はもっと生気に溢れたものが必要だろう。大方の人にとって,幸福の追求は,多様な方法で補われないと,抽象的かつ理論的でありすぎ,個人の生活規律として十分ではない。しかし,あなたがどのような個人的生活規律を選ぶとしても,稀な英雄の場合を除いて,それは幸福と両立しないものであってはならない,と私は考える。

People who have theories as to how one should live tend to forget the limitations of nature. If your way of life involves constant restraint of impulse for the sake of some one supreme aim that you have set yourself, it is likely that the aim will become increasingly distasteful because of the efforts that it demands; impulse, denied its normal outlets, will find others, probably in spite; pleasure, if you allow yourself any at all, will be dissociated from the main current of your life, and will become Bacchic and frivolous. Such pleasure brings no happiness, but only a deeper despair.
It is a commonplace among moralists that you cannot get happiness by pursuing it. This is only true if you pursue it unwisely. Gamblers at Monte Carlo are pursuing money, and most of them lose it instead, but there are other ways of pursuing money which often succeed. So it is with happiness. If you pursue it by means of drink, you are forgetting the hangover. Epicurus pursued it by living in congenial society and eating only dry bread, supplemented by a little cheese on feast days. His method proved successful, in his case, but he was a valetudinarian, and most people would need something more vigorous. For most people, the pursuit of happiness, unless supplemented in various ways, is too abstract and theoretical to be adequate as a personal rule of life. But I think that whatever personal rule of life you may choose, it should not, except in rare heroic cases, be incompatible with happiness.

出典: The road to happiness (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1952_RtoH-020.HTM

<寸言>
多くの人が手っ取り早くて多くの興奮が得られる気晴らしや衝動のはけ口を求める。

禁欲的な哲学の信奉者たちの迫害性とねたみ心

 二千年以上もの間,熱心な道徳主義者たちの間で,幸福を何か下品かつ価値のないものとしてけなすのが慣例であった。何世紀もの間,ストア派哲学者たち(注:紀元前3世紀初めにゼノンによって創始された禁欲的な哲学の信奉者たち)は,幸福を説いたエピクロスを,攻撃した。彼らはエピクロスの哲学豚の哲学だと言い,彼についてのスキャンダラスな嘘をでっちあげて,自分たちのより優れた(と自称する)を表した。ストア派哲学者の一人のクレアンテスは,アリスタルコス(注:ギリシアの天文学者,地動説の先駆者)  がコペルニクス的な天文学体系を擁護したかどで迫害されることを望んだ。(また)ストア派の別の一人のマルクス・アウレリウス(注:Marcus Aurelius Antoninus, 121-180:『自省録』で有名)は,キリスト教徒を迫害した。ストア派哲学者で最も有名な一人であるセネカ(注:第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師)は,(皇帝)ネロを唆してに忌まわしい行為をさせ,莫大な財産を貯めこみ(蓄財をし),ボアデイケア(注:現在のイギリス,東ブリタンニア,ノーフォーク地域を治めていたケルト言語圏域のケルト人イケニ族の女王)に法外な利子で金を貸して,彼女を叛乱へと駆り立てた。
古代のことはこれでやめておこう。

二千年飛ばすと,ドイツを没落させ,ドイツ以外の世界を現在の危険な状態に導いたところのひどい理論を発明したドイツの教授連中に行き着く。これらの学者たちはみな,彼らのイギリスにおける模倣者であるカーライル(注:Thomas Carlyle,1795-1881:19世紀イギリスの歴史家・評論家。日本人には,『英雄崇拝論』や『衣装哲学』などで知られている。)がやったのと同じく,幸福を軽蔑した。カーライルは,神に祝福されるために幸福を遠慮すべきだと,まったく倦むことなく我々英国民に言い続けた。彼は神の恵みの深さをかなり奇妙な場所,即ち,クロムウェルによるアイルランド人大虐殺,フリードリッヒ大王の血に餓えた裏切り行為,エアー知事(注:E. J. エア, 1815-1901:イングランドの探検家。オーストラリア大陸を陸路踏破し,後年はジャマイカなどの植民地総督を務めた。)のジャマイカにおける残虐行為に見出した。

事実,幸福に対する軽蔑は,通常,他人の幸福に対する軽蔑であり,人類に対する憎悪のための優雅な偽装である。自分がより高貴であると考えるもののために自分自身の幸福を犠牲にする時,その人はもっと低い程度の高貴さを楽しんでいる人たちを羨ましがりがちであり,この羨望(妬み)は,自らを聖者(聖なる心を持っている)と思う人たちを,非常にしばしば,残忍かつ破壊的にするであろう。我々の時代において,この心理の最も重要な例は,共産主義者たちである(注:社会主義者でないことに注意)。

For over two thousand years it has been the custom among earnest moralists to decry happiness as something degraded and unworthy. The Stoics, for centuries, attacked Epicurus, who preached happiness; they said that his was a pig’s philosophy, and showed their superior virtue by inventing scandalous lies about him. One of them, Cleanthes, wanted Aristarchus persecuted for advocating the Copernican system of astronomy; another, Marcus Aurelius, persecuted the Christians; one of the most famous of them, Seneca, abetted Nero’s abominations, amassed a vast fortune, and lent money to Boadicea at such an exorbitant rate of interest that she was driven into rebellion. So much for antiquity. Skipping the next 2,000 years, we come to the German professors who invented the disastrous theories that led Germany to its downfall and the rest of the world to its present perilous state; all these learned men despised happiness, as did their British imitator, Carlyle, who is never weary of telling us that we ought to eschew happiness in favor of blessedness. He found blessedness in rather odd places: Cromwell’s Irish massacres, Frederick the Great’s bloodthirsty perfidy, and Governor Eyre’s Jamaican brutality. In fact, contempt for happiness is usually contempt for other people’s happiness, and is an elegant disguise for hatred of the human race. Even when a man genuinely sacrifices his own happiness in favor of something that he thinks nobler, he is apt to remain envious of those who enjoy a lesser degree of nobility, and this envy will, all too often, make those who think themselves saints cruel and destructive. In our day the most important examples of this mentality are the Communists.

出典: The road to happiness (1952).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1952_RtoH-010.HTM

<寸言>
現代日本でも、精神主義は国技の相撲や日本会議のような国粋主義的団体に残っている。

(日常言語学派の)知覚の問題の取り扱い方

 もう一つ別の難問(problem),(即ち)知覚の難問(問題)をとり上げてみよう。ここでは哲学の問い(questions)と,科学の問いとの混合があるが,両者の混合は,多くの問いにおいて不可避であり,不可避でないとしても,とりあげている問題(matter)の比較的重要でない側面に,問いを限定することによってのみ避けることができる。
ここで一連の問いと答をあげる。
(注:みすず書房版の中村秀吉・訳『自伝的回想』では,problem も matter も question も ,すべて「問題」と訳されているのでわかりにくい文章となっている。)

(問) 私がテーブルを見ている時,私の見ているものは目を閉じても,まだそこに存在するだろうか?
(答) それは「見る」という語の意味による(どういう意味で「見る」という言葉を使っているかによる)。

(問) 私が眼を閉じる時,まだそこに存在するものは何か?
(答) それは経験的な問いだ。そんなことで私を悩まさないで,物理学者に尋ねなさい。

(問) 私が眼を開いている時に存在し,閉じている時に存在しないものは何か?
(答) それも経験的な問いだが,先ほどの哲学者に敬意を表してお答えしよう。色のついた表面,である。(diference ではなく defference であることに注意)

(問) 「見る」(という言葉)に二つの意味 があると推論してよいか。第一の意味では,私が机を「見る」とき,それについて物理学が多分間違っている漠然とした概念を有している,推測的な何かあるものを「見る」(ということ)。第二の意味では,私は目を閉じると存在しなくなる色のついた表面を「見る」(ということ)。
(答) あなたが明晰な思考をしたければ,それは正しい。しかし,我々の哲学(注:ラッセルが批判する)日常用法の哲学=オックスフォード学派)は,明噺な思考を不要なものにする(してくれる)。二つの意味の間を振動することによって(状況によって適用する意味を変えることによって),我々はパラドクスや動揺を避けている。これは,大部分の哲学者がやっている以上(それ以上)のことである。
(注:最後の一文の訳「このことは,ほとんどすべての哲学者がやっていることなのだ。」も含め,中村秀吉氏の訳は誤訳が多い!)

Let us take another problem, that of perception. There is here an admixture of philosophical and scientific questions, but this admixture is inevitable in many questions, or, if not inevitable, can only be avoided by confining ourselves to comparatively unimportant aspects of the matter in hand.
Here is a series of questions and answers.

Q. When I see a table, will what I see be still there if I shut my eyes?
A. That depends upon the sense in which you use the word “see.”

Q. What is still there when I shut my eyes?
A. This is an empirical question. Don’t bother me with it but ask the physicists.

Q. What exists when my eyes are open, but not when they are shut?
A. This again is empirical, but in deference to previous philosophers I will answer you: colored surfaces.

Q. May I infer that there are two senses of “see”? In the first, when I “see” a table, I “see” something conjectural about which physics has vague notions that are probably wrong. In the second, I “see” colored surfaces which cease to exist when I shut my eyes.
A. That is correct if you want to think clearly, but our philosophy makes clear thinking unnecessary. By oscillating between the two meanings, we avoid paradox and shock, which is more than most philosophers do.

出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-070.HTM

<寸言>
言葉の意味の分析だけで終わるのではなく,探求すべき問題を限定することによって曖昧さを減らし探求を続けていく必要がある。

(日常言語学派の)常識由来の混乱した頭

(5) [常識由来の混乱した頭]

 常識は,日常的な目的にはまったくよいものであるが,「虹はどこにあるのか(存在するのか)?」というような単純な質問によってさえも,容易に困乱させられる(途方に暮れる)。(たとえば)あなたがレコード(アナログレコード)の声を聞くとき,話した人の声(そのもの)を聞いているのか,それとも再生された声(複製された声)を聞いているのか,どちらであろうか? あなたが切断された足に痛みを感じる時,痛みはどこにあるのだろうか?(注:足を切断した人も足があるかのように痛みを感じるという現象があることを言っている。)(足がないので足に痛みがあると言えないので)痛みは自分の頭(脳の中)にあるとあなたがいえば,もしも足が切断されていなかったら痛みは頭(脳の中)にあるのであろうか? あなたがもしそうだ(そのとおり)と言えば,その時は,あなたが足をもっていると考える理由は何であろうか?等々の問題が出てくる。

誰も常識的な言い回し(言葉遣い)を変えようとは思わないのは,(地球が太陽のまわりを回ると言わずに)太陽が昇ったり沈んだりすると言うのをやめないのと同じである。しかし,天文学者は別の言葉(科学用語)のほうがもっとよいと認めており,私も哲学には別の言語を使ったほうがよいと強く主張している。

一つ例をあげよう。
このような(日常言語学派の哲学のような)大きな言語的要素を含んでいる哲学は,次の問い,即ち,「語」という語はどういう意味をもつかという問いに(そのような問いは意味がないといった)異議をさしはさむことはできない(注:日常言語学派が,まず問いの意味や内容をはっきりさせることが第一と主張する以上,この問いは何を意味しているか,彼らはまず明らかにしなければならないから。)。しかし,常識的な語彙の範囲内で,どのようにしてこの問いに答えたらよいのか解らない
 「猫」という語(単語)をとってみよう,また,問題を限定して明確にするために書かれた語(単語)をとろう。あきらかにこの語(猫)の事例は多数あるが,どれもその語そのものではない(注:Aさんが書いた’cat’, Bさんが書いた’cat’, Cさんが書いた’cat’, その他多数の書かれた語=単語の実例)。私が「〝猫″という語(単語)について論じよう」と言えば,その「猫」という語は私の言っていることの中には現れないで,その語の事例のみが現れる語そのものは感覚できる世界のいかなる部分でもない。 (注:他の例をあげれば,プラトンのイデアの世界における「三角形」という言葉とこの世における具体例としての多様な「三角形」の事例)。仮にそれが何物かだとすれば,プラトンの天国における永遠の超感覚的な実体である。その語(猫)は似かよった形をしたものの集合だと言えるし,あらゆる集合と同様に論理的虚構である。

しかし,我々の困難は(これでは)終らない。類似性は,ある形を「猫」という語の集合の一員たらしめるのに必要でもなければ十分でもない(注:猫という語は◯◯という形をしていなければいけないなんていう決定的なものはない。)。「猫」という語は大文字で書かれても小文字で書かれてもよいしも,読みやすくても読みにくくても,また,白い面に黒い文字で書いても黒い面に白い文字で書いてもよいだろう。私が「カタストロフィ(catastrophe)」という語を書いた場合,最初の三文字は「猫」という語の事例にはなっていない。その語の事例における最も必要欠くべからざるものは,内包(意図する内容・意味)である。大理石の一片が「猫」(cat)という形の縞模様をたまたま形作ったとしても,我々はそれをその猫という語の事例とは考えないであろう。
このようにして,(a)集合(クラス)の論理説,および(2)内包の心理学的理解なくしては,「語(word)」という語(word)を定義することはできないようにみえる。これらは難しい問題である。私は,常識(というもの)は,その語の使用(法)において正しいとしても正しくないとしても,語が何であるかを少しも理解していないと結論する。(常識を武器にするだけで理解できるものではない。)この結論が常識を黙らせることを信じることができればと望む。

5) [the muddle-headedness taken over from common sense]

Common sense, though all very well for everyday purposes, is easily confused, even by such simple questions as “Where is the rainbow?” When you hear a voice on a gramophone record, are you hearing the man who spoke or a reproduction? When you feel a pain in a leg that has been amputated, where is the pain? If you say it is in your head, would it be in your head if the leg had not been amputated? If you say yes, then what reason have you ever for thinking you have a leg? And so on.

No one wants to alter the language of common sense, any more than we wish to give up talking of the sun rising and setting. But astronomers find a different language better, and I contend that a different language is better in philosophy.

Let us take an example. A philosophy containing such a large linguistic element cannot object to the question: What is meant by the word “word”? But I do not see how this is to be answered within the vocabulary of common sense. Let us take the word “cat,” and for the sake of definiteness let us take the written word. Clearly there are many instances of the word, no one of which is the word. If I say “Let us dis- cuss the word ‘cat,’ ” the word “cat” does not occur in what I say, but only an instance of the word. The word itself is no part of the sensible world; if it is anything, it is an eternal supersensible entity in a Platonic heaven. The word, we may say, is a class of similar shapes, and, like all classes, is a logical fiction.

But our difficulties are not at an end. Similarity is neither necessary nor sufficient to make a shape a member of the class which is the word “cat.” The word may be written in capitals or in small letters, legibly or illegibly, in black on a white ground or in white on a blackboard. If I write the word “catastrophe,” the first three letters do not constitute an instance of the word “cat.” The most necessary thing in an instance of the word is intention. If a piece of marble happened to have a vein making the shape “cat” we should not think this an instance of the word.

It thus appears that we cannot define the word “word” without (a) a logical theory of classes, and (b) a psychological understanding of intention. These are difficult matters. I conclude that common sense, whether correct or incorrect in the use of words, does not know in the least what words are–I wish I could believe that this conclusion would render it speechless.
出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-060.HTM

<寸言>
諸科学は(自然科学だけでなく、社会科学であろうと人文科学であろうと)その科学独特な専門用語を持っている。どうして哲学だけ、専門用語を全て廃して、日常語で論じなくてはならないのか? ということ。

(日常言語学派の哲学は)哲学を些末化する

(4) 哲学を些末なものにする

 私が(今)論じている学派(注:日常言語学派)によって抱かれた(限りでの)哲学は,私には,些細でつまらない仕事(研究)のように思われる。愚かな人々が愚かなことを言う時に,その愚かな人々が何を言おうとしたかについて果しなく議論することは面白いかも知れないが,ほとんど重要ではありえない(注:たとえば,土屋賢二氏の哲学エッセイ集はとても面白くて私もほとんど読んでいるが,哲学の真面目な議論としては,一部を除いて,ほとんど重要なものはない/土屋賢二氏が愚かというわけではないが・・・)。満月が半クラウン銀貨(1971 年に廃止された英国旧通貨制度の半クラウン =2 シリング 6 ペンスの銀貨/右写真参照)ぐらいの大きさか,スープ皿ぐらいの大きさか,どちらにみえるかという問題は,どちらが正しいかは実験によって証明が可能である。このことから,問題に多義性があることがわかる。某現代哲学者は,あなたのために,細心の注意をもってこの多義性を明らかにするであろう。

これほど不公平ではない例,即ち不死の問題をとりあげてみよう。正統的なキリスト教は,我々人間は死後も生き続けると主張する。この主張は何を意味しているのだろうか? また,何らかの意味あるとすれば,いかなる意味でその主張は正しいのでしょうか? いま私が関心を持っている哲学者は,この二つのうち前者について考察するが,後者については自分たち(哲学者)の仕事ではないと言うだろう。私はこの場合,何を意味しているかに関する議論は重要であり,実質的な問題の考察への予備として極めて必要だということにはまったく同意するが,実質的な問題について何も言うことができないとするならば,問題の意味を論ずることは時間の浪費のように思われる。これらの哲学者たちは,私がかつてウィンチェスター(注:イングランド南部のハンプシャーにあるシティ・オブ・ウィンチェスターの主要エリア)への一番の近道について尋ねた小売店主のことを思い出させる。彼は店の奥(裏側)にいる男に呼びかけた。

「お客さんがウィンチェスターに行く一番の近道を聞きたいそうです」

「ウィンチェスターですって」と見えない場所から声が聞こえた。
「そうです」

「ウィンチェスターに行く道ですって」
「そうです」

「一番近い這ですって」
「そうです」

「知らないね」

彼は質問の本質をとらえたかったが,回答には興味がなかった(のだ)。これが(英国の)現代哲学が熱心な真理の探求者に対してやっていることと全く同じである。若い人たちが(哲学以外の)他の研究に向うのは驚くべきことであろうか?(驚くべきことではなく,無理も無いことである。)

(4) [To make philosophy a trivial]

Philosophy, as conceived by the school I am discussing, seems to me a trivial and uninteresting pursuit. To discuss endlessly what silly people mean when they say silly things may be amusing but can hardly be important. Does the full moon look as large as a half-crown or as large as a soup plate? Either answer can be proved correct by experiment.
It follows that there is an ambiguity in the question. A modern philosopher will clear up the ambiguity for you with meticulous care.

But let us take an example which is less unfair, say the question of immortality. Orthodox Christianity asserts that we survive death. What does it mean by this assertion? And in what sense, if any, is the assertion true? The philosophers with whom I am concerned will consider the first of these questions, but will say that the second is none of their business. I agree entirely that, in this case, a discussion as to what is meant is important and highly necessary as a preliminary to a consideration of the substantial question, but if nothing can be said on the substantial question, it seems a waste of time to discuss what it means. These philosophers remind me of the shopkeeper of whom I once asked the shortest way to Winchester. He called to a man in the back premises:

“Gentleman wants to know the shortest way to Winchester.”

“Winchester?” an unseen voice replied.
“Aye.”

“Way to Winchester?”
“Aye.”

“Shortest way?”
“Aye.”

“Dunno.”

He wanted to get the nature of the question clear, but took no interest in answering it. This is exactly what modern philosophy does for the earnest seeker after truth. Is it surprising that young people turn to other studies?
出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-050.HTM

<寸言>
問題について探求する前に,問題は何か,言葉の使い方は間違っていないかについて明らかにすることは重要であるが、そればかりするだけでそこから進もうとしない自称「哲学者」は哲学を放棄していると批判されても仕方ない。そういったタイプは大学に属している哲学「研究者」に多そうである。

(日常言語学派の哲学者の)似非民主主義

(3) [似非民主主義]

 哲学における日常用法を擁護する人たちは,時々,「普通の人」の神秘性を思わせるような話し方をする。彼らは,有機化学においては長い説明(言葉)が必要だし,量子物理学においては日常英語に翻訳することが困難な公式を必要とすることを認めるであろう。しかし,(彼ら日常言語学派が考える)哲学は異なっている。(日常言語学派の人たちは)教育のない人たちに彼らが知らないことを教えることは,哲学の役割ではないと彼らは主張する。逆に,哲学の役割とは,優れた人たちに彼らが自分で思っているほど優れていないことを教えることであり,また,本当に優れている人たちが日常用法を理解することによって彼らの技能を示すことができることである(と主張する)。
もちろん,今日,スポーツや映画や金儲け以外で,優秀さを主張することは恐るべきことである(注:皮肉)。それにも関わらず,前世紀以前には,我々が現在間違っていると考えている事柄を常識は(いろいろ)行った,と私はあえて言いたい。地球の反対側(対蹠地)では,人間は落下してしまうので,あるいは,仮に落ちないですんだとしても,頭を下にしているために目がまわってしまうので,人間は存在できないだろう,とかつては考えられていた。地球自転するなんて言うことは,誰もがそうでないことは見ればわかるので,馬鹿げたことだとかつては考えられていた。太陽は(ギリシアの)ペロポネソス半島と同じくらいの大きさかも知れないという考えが最初に出された時,常識は憤慨した(のである)。しかし,これらのことはすべて遠い昔のことであった。私は,いつ常識がすっかり賢くなったかを知らない(以下すべて皮肉)。もしかするとそれは1776年(注:米国独立の年)だったかもしれないし,1848年(マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の出た年)だったかもしれない。あるいは,もしかすると,1870年の教育法の通過に伴ったのかもしれない。あるいはエードリアンやシェリントのような生理学者が,知覚に関する哲学的者の考えに科学的な侵略を行い始めた時に,やっとそうなったのかもしれない。

3) [fake democracy]

Those who advocate common usage in philosophy sometimes speak in a manner that suggests the mystique of the “common man.” They may admit that in organic chemistry there is need of long words, and that quantum physics requires formulas that are difficult to translate into ordinary English, but philosophy (they think) is different. It is not the function of philosophy so they maintain to teach something that uneducated people do not know; on the contrary, its function is to teach superior persons that they are not as superior as they thought they were, and that those who are really superior can show their skill by making sense of common sense.
It is, of course, a dreadful thing in these days to lay claim to any kind of superiority except in athletics, movies, and money-making. Nevertheless I will venture to say that in former centuries common sense made what we now think mistakes. It used to be thought that there could not be people at the antipodes, because they would fall off, or, if they avoided that, they would grow dizzy from standing on their heads. It used to be thought absurd to say that the earth rotates, because everybody can see that it doesn’t. When it was first suggested that the sun may be as large as the Peloponnesus, common sense was outraged. But all this was long ago. I do not know at what date common sense became all-wise. Perhaps it was in 1776; perhaps in 1848; or perhaps with the passing of the Education Act in 1870. Or perhaps it was only when physiologists such as Adrian and Sherrington began to make scientific inroads on philosophers’ ideas about perception.
出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-040.HTM

<寸言>
哲学も難解ではなく、できるだけわかりやすいほうがよいのは言うまでもないが、そのように簡潔かつわかりやすく説明できるのは,ラッセルのようにあらゆる分野の高度の知識を持ち、それをかみくだいて論理的に説明できる哲学者だけであろう。深くても狭い範囲の知識しかもちあわせていない(特に科学に無知な)哲学者はそういった芸当はできず、遠回りの説明になったり、科学に無知なことからくる、見当ハズレの理論をのべたりすることも少なくない。

(日常言語学派の哲学者)無知の言い訳(にしないこと)

(2) (日常言語学派の哲学者)無知の言い訳(弁解)

 自動車を運転する者は,みな速度計や加速装置(アクセルなど)に馴れている。しかし,数学を学んだことがなければ,「速度」や「加速度」(という言葉)に精確な意味を付与しない(でぼんやりとした使い方をする)。彼(その人)がこれらの語に精確な意味を付与している(知っている)のであれば,彼の(車の)速度や加速度は,いかなる瞬間においても知りえないこと(知ることはできないこと)を理解しているであろうし,また,速度(違反)で罰金に処せられる場合には,速度を早めたと想定される時間に言及している場合には,違反したという確信は不十分な証拠に基づいているに違いない,と理解する(知る)だろう(注:どの瞬間に加速したか特定することは,厳密に言えば困難であるため)。このような理由で,私は「速度」のような語が日常生活で使われる場合には,数学用語としてではなく日常生活で使われる用語として使われなければならないことを,日常用法の擁護者とともに認めようだが,そのときには,「速度」(注:秒,分,時間などの単位時間に進む距離)は漠然とした概念であり,以下の不規則動詞を変化させて作った三つの陳述(文)のすべてが,同様に真であることが可能であるということを理解(認識)しなければならない。(注:現在では中学校あるいは小学校で,誰でもが「速度」の精確な意味をならうので,この比喩は適切ではないかも知れない。「速度」の概念についてならっていない江戸時代の一般庶民を頭に浮かべればよいかも知れない。)

「私は(車を)止めていました(時速ゼロマイルで動いていました)」(運転者)

「あなたは時速20マイル(の速度)で運転していました」(友人)

「彼は時速60マイルで(車を)走らせていた」(警察官)

数学者が日常的用法を放棄したのは,このような事態が警察判事を困惑させるからである。(注:曖昧さをなくして客観的に取り扱うことは必要だが,ペダンティックに煙にまくために使われると困るから。)

(2) An excuse for ignorance

Every motorist is accustomed to speedometers and accelerators, but unless he has learned mathematics he attaches no precise significance to “speed” or “acceleration.” If he does attach a precise significance to these words, he will know that his speed and his acceleration are at every moment unknowable, and that, if he is fined for speeding, the conviction must be based on insufficient evidence if the time when he is supposed to have speeded is mentioned. On these grounds I will agree with the advocate of common usage that such a word as “speed,” if used in daily life, must be used as in daily life, and not as in mathematics. But then it should be realized that “speed” is a vague notion, and that equal truth may attach to all three of the statements in the conjugation of the following irregular verb:

“I was at rest” (motorist).

“You were moving at 20 miles an hour” (a friend).

“He was traveling at 60 miles an hour” (the police).

It is because this state of affairs is puzzling to magistrates that mathematicians have abandoned common usage.

出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-030.HTM

<寸言>
 現代の我々は,太陽が昇るのではなく地球が太陽の周りを回っていることを知っているが、やはり「太陽が昇ってきた」という言葉使いを使う。つまり、その科学的な知識をもった上で、日常的には(天動説の時代の表現を)使い続けている。
旧い表現を使うからといって、科学的知識は不要ではないことは明らかであり、日常言語学派の哲学者たちも、たとえ日常言語を使うことが必要だと主張するにしても、そういった科学的知識を持っている必要がある。