(日常言語学派の哲学者)無知の言い訳(にしないこと)


(2) (日常言語学派の哲学者)無知の言い訳(弁解)

 自動車を運転する者は,みな速度計や加速装置(アクセルなど)に馴れている。しかし,数学を学んだことがなければ,「速度」や「加速度」(という言葉)に精確な意味を付与しない(でぼんやりとした使い方をする)。彼(その人)がこれらの語に精確な意味を付与している(知っている)のであれば,彼の(車の)速度や加速度は,いかなる瞬間においても知りえないこと(知ることはできないこと)を理解しているであろうし,また,速度(違反)で罰金に処せられる場合には,速度を早めたと想定される時間に言及している場合には,違反したという確信は不十分な証拠に基づいているに違いない,と理解する(知る)だろう(注:どの瞬間に加速したか特定することは,厳密に言えば困難であるため)。このような理由で,私は「速度」のような語が日常生活で使われる場合には,数学用語としてではなく日常生活で使われる用語として使われなければならないことを,日常用法の擁護者とともに認めようだが,そのときには,「速度」(注:秒,分,時間などの単位時間に進む距離)は漠然とした概念であり,以下の不規則動詞を変化させて作った三つの陳述(文)のすべてが,同様に真であることが可能であるということを理解(認識)しなければならない。(注:現在では中学校あるいは小学校で,誰でもが「速度」の精確な意味をならうので,この比喩は適切ではないかも知れない。「速度」の概念についてならっていない江戸時代の一般庶民を頭に浮かべればよいかも知れない。)

「私は(車を)止めていました(時速ゼロマイルで動いていました)」(運転者)

「あなたは時速20マイル(の速度)で運転していました」(友人)

「彼は時速60マイルで(車を)走らせていた」(警察官)

数学者が日常的用法を放棄したのは,このような事態が警察判事を困惑させるからである。(注:曖昧さをなくして客観的に取り扱うことは必要だが,ペダンティックに煙にまくために使われると困るから。)

(2) An excuse for ignorance

Every motorist is accustomed to speedometers and accelerators, but unless he has learned mathematics he attaches no precise significance to “speed” or “acceleration.” If he does attach a precise significance to these words, he will know that his speed and his acceleration are at every moment unknowable, and that, if he is fined for speeding, the conviction must be based on insufficient evidence if the time when he is supposed to have speeded is mentioned. On these grounds I will agree with the advocate of common usage that such a word as “speed,” if used in daily life, must be used as in daily life, and not as in mathematics. But then it should be realized that “speed” is a vague notion, and that equal truth may attach to all three of the statements in the conjugation of the following irregular verb:

“I was at rest” (motorist).

“You were moving at 20 miles an hour” (a friend).

“He was traveling at 60 miles an hour” (the police).

It is because this state of affairs is puzzling to magistrates that mathematicians have abandoned common usage.

出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-030.HTM

<寸言>
 現代の我々は,太陽が昇るのではなく地球が太陽の周りを回っていることを知っているが、やはり「太陽が昇ってきた」という言葉使いを使う。つまり、その科学的な知識をもった上で、日常的には(天動説の時代の表現を)使い続けている。
旧い表現を使うからといって、科学的知識は不要ではないことは明らかであり、日常言語学派の哲学者たちも、たとえ日常言語を使うことが必要だと主張するにしても、そういった科学的知識を持っている必要がある。

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