(日常言語学派の)知覚の問題の取り扱い方

 もう一つ別の難問(problem),(即ち)知覚の難問(問題)をとり上げてみよう。ここでは哲学の問い(questions)と,科学の問いとの混合があるが,両者の混合は,多くの問いにおいて不可避であり,不可避でないとしても,とりあげている問題(matter)の比較的重要でない側面に,問いを限定することによってのみ避けることができる。
ここで一連の問いと答をあげる。
(注:みすず書房版の中村秀吉・訳『自伝的回想』では,problem も matter も question も ,すべて「問題」と訳されているのでわかりにくい文章となっている。)

(問) 私がテーブルを見ている時,私の見ているものは目を閉じても,まだそこに存在するだろうか?
(答) それは「見る」という語の意味による(どういう意味で「見る」という言葉を使っているかによる)。

(問) 私が眼を閉じる時,まだそこに存在するものは何か?
(答) それは経験的な問いだ。そんなことで私を悩まさないで,物理学者に尋ねなさい。

(問) 私が眼を開いている時に存在し,閉じている時に存在しないものは何か?
(答) それも経験的な問いだが,先ほどの哲学者に敬意を表してお答えしよう。色のついた表面,である。(diference ではなく defference であることに注意)

(問) 「見る」(という言葉)に二つの意味 があると推論してよいか。第一の意味では,私が机を「見る」とき,それについて物理学が多分間違っている漠然とした概念を有している,推測的な何かあるものを「見る」(ということ)。第二の意味では,私は目を閉じると存在しなくなる色のついた表面を「見る」(ということ)。
(答) あなたが明晰な思考をしたければ,それは正しい。しかし,我々の哲学(注:ラッセルが批判する)日常用法の哲学=オックスフォード学派)は,明噺な思考を不要なものにする(してくれる)。二つの意味の間を振動することによって(状況によって適用する意味を変えることによって),我々はパラドクスや動揺を避けている。これは,大部分の哲学者がやっている以上(それ以上)のことである。
(注:最後の一文の訳「このことは,ほとんどすべての哲学者がやっていることなのだ。」も含め,中村秀吉氏の訳は誤訳が多い!)

Let us take another problem, that of perception. There is here an admixture of philosophical and scientific questions, but this admixture is inevitable in many questions, or, if not inevitable, can only be avoided by confining ourselves to comparatively unimportant aspects of the matter in hand.
Here is a series of questions and answers.

Q. When I see a table, will what I see be still there if I shut my eyes?
A. That depends upon the sense in which you use the word “see.”

Q. What is still there when I shut my eyes?
A. This is an empirical question. Don’t bother me with it but ask the physicists.

Q. What exists when my eyes are open, but not when they are shut?
A. This again is empirical, but in deference to previous philosophers I will answer you: colored surfaces.

Q. May I infer that there are two senses of “see”? In the first, when I “see” a table, I “see” something conjectural about which physics has vague notions that are probably wrong. In the second, I “see” colored surfaces which cease to exist when I shut my eyes.
A. That is correct if you want to think clearly, but our philosophy makes clear thinking unnecessary. By oscillating between the two meanings, we avoid paradox and shock, which is more than most philosophers do.

出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-070.HTM

<寸言>
言葉の意味の分析だけで終わるのではなく,探求すべき問題を限定することによって曖昧さを減らし探求を続けていく必要がある。

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