(日常言語学派の哲学は)哲学を些末化する


(4) 哲学を些末なものにする

 私が(今)論じている学派(注:日常言語学派)によって抱かれた(限りでの)哲学は,私には,些細でつまらない仕事(研究)のように思われる。愚かな人々が愚かなことを言う時に,その愚かな人々が何を言おうとしたかについて果しなく議論することは面白いかも知れないが,ほとんど重要ではありえない(注:たとえば,土屋賢二氏の哲学エッセイ集はとても面白くて私もほとんど読んでいるが,哲学の真面目な議論としては,一部を除いて,ほとんど重要なものはない/土屋賢二氏が愚かというわけではないが・・・)。満月が半クラウン銀貨(1971 年に廃止された英国旧通貨制度の半クラウン =2 シリング 6 ペンスの銀貨/右写真参照)ぐらいの大きさか,スープ皿ぐらいの大きさか,どちらにみえるかという問題は,どちらが正しいかは実験によって証明が可能である。このことから,問題に多義性があることがわかる。某現代哲学者は,あなたのために,細心の注意をもってこの多義性を明らかにするであろう。

これほど不公平ではない例,即ち不死の問題をとりあげてみよう。正統的なキリスト教は,我々人間は死後も生き続けると主張する。この主張は何を意味しているのだろうか? また,何らかの意味あるとすれば,いかなる意味でその主張は正しいのでしょうか? いま私が関心を持っている哲学者は,この二つのうち前者について考察するが,後者については自分たち(哲学者)の仕事ではないと言うだろう。私はこの場合,何を意味しているかに関する議論は重要であり,実質的な問題の考察への予備として極めて必要だということにはまったく同意するが,実質的な問題について何も言うことができないとするならば,問題の意味を論ずることは時間の浪費のように思われる。これらの哲学者たちは,私がかつてウィンチェスター(注:イングランド南部のハンプシャーにあるシティ・オブ・ウィンチェスターの主要エリア)への一番の近道について尋ねた小売店主のことを思い出させる。彼は店の奥(裏側)にいる男に呼びかけた。

「お客さんがウィンチェスターに行く一番の近道を聞きたいそうです」

「ウィンチェスターですって」と見えない場所から声が聞こえた。
「そうです」

「ウィンチェスターに行く道ですって」
「そうです」

「一番近い這ですって」
「そうです」

「知らないね」

彼は質問の本質をとらえたかったが,回答には興味がなかった(のだ)。これが(英国の)現代哲学が熱心な真理の探求者に対してやっていることと全く同じである。若い人たちが(哲学以外の)他の研究に向うのは驚くべきことであろうか?(驚くべきことではなく,無理も無いことである。)

(4) [To make philosophy a trivial]

Philosophy, as conceived by the school I am discussing, seems to me a trivial and uninteresting pursuit. To discuss endlessly what silly people mean when they say silly things may be amusing but can hardly be important. Does the full moon look as large as a half-crown or as large as a soup plate? Either answer can be proved correct by experiment.
It follows that there is an ambiguity in the question. A modern philosopher will clear up the ambiguity for you with meticulous care.

But let us take an example which is less unfair, say the question of immortality. Orthodox Christianity asserts that we survive death. What does it mean by this assertion? And in what sense, if any, is the assertion true? The philosophers with whom I am concerned will consider the first of these questions, but will say that the second is none of their business. I agree entirely that, in this case, a discussion as to what is meant is important and highly necessary as a preliminary to a consideration of the substantial question, but if nothing can be said on the substantial question, it seems a waste of time to discuss what it means. These philosophers remind me of the shopkeeper of whom I once asked the shortest way to Winchester. He called to a man in the back premises:

“Gentleman wants to know the shortest way to Winchester.”

“Winchester?” an unseen voice replied.
“Aye.”

“Way to Winchester?”
“Aye.”

“Shortest way?”
“Aye.”

“Dunno.”

He wanted to get the nature of the question clear, but took no interest in answering it. This is exactly what modern philosophy does for the earnest seeker after truth. Is it surprising that young people turn to other studies?
出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-050.HTM

<寸言>
問題について探求する前に,問題は何か,言葉の使い方は間違っていないかについて明らかにすることは重要であるが、そればかりするだけでそこから進もうとしない自称「哲学者」は哲学を放棄していると批判されても仕方ない。そういったタイプは大学に属している哲学「研究者」に多そうである。

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