(5) [常識由来の混乱した頭]
常識は,日常的な目的にはまったくよいものであるが,「虹はどこにあるのか(存在するのか)?」というような単純な質問によってさえも,容易に困乱させられる(途方に暮れる)。(たとえば)あなたがレコード(アナログレコード)の声を聞くとき,話した人の声(そのもの)を聞いているのか,それとも再生された声(複製された声)を聞いているのか,どちらであろうか? あなたが切断された足に痛みを感じる時,痛みはどこにあるのだろうか?(注:足を切断した人も足があるかのように痛みを感じるという現象があることを言っている。)(足がないので足に痛みがあると言えないので)痛みは自分の頭(脳の中)にあるとあなたがいえば,もしも足が切断されていなかったら痛みは頭(脳の中)にあるのであろうか? あなたがもしそうだ(そのとおり)と言えば,その時は,あなたが足をもっていると考える理由は何であろうか?等々の問題が出てくる。
誰も常識的な言い回し(言葉遣い)を変えようとは思わないのは,(地球が太陽のまわりを回ると言わずに)太陽が昇ったり沈んだりすると言うのをやめないのと同じである。しかし,天文学者は別の言葉(科学用語)のほうがもっとよいと認めており,私も哲学には別の言語を使ったほうがよいと強く主張している。
一つ例をあげよう。
このような(日常言語学派の哲学のような)大きな言語的要素を含んでいる哲学は,次の問い,即ち,「語」という語はどういう意味をもつかという問いに(そのような問いは意味がないといった)異議をさしはさむことはできない(注:日常言語学派が,まず問いの意味や内容をはっきりさせることが第一と主張する以上,この問いは何を意味しているか,彼らはまず明らかにしなければならないから。)。しかし,常識的な語彙の範囲内で,どのようにしてこの問いに答えたらよいのか解らない。
「猫」という語(単語)をとってみよう,また,問題を限定して明確にするために書かれた語(単語)をとろう。あきらかにこの語(猫)の事例は多数あるが,どれもその語そのものではない(注:Aさんが書いた’cat’, Bさんが書いた’cat’, Cさんが書いた’cat’, その他多数の書かれた語=単語の実例)。私が「〝猫″という語(単語)について論じよう」と言えば,その「猫」という語は私の言っていることの中には現れないで,その語の事例のみが現れる。語そのものは感覚できる世界のいかなる部分でもない。 (注:他の例をあげれば,プラトンのイデアの世界における「三角形」という言葉とこの世における具体例としての多様な「三角形」の事例)。仮にそれが何物かだとすれば,プラトンの天国における永遠の超感覚的な実体である。その語(猫)は似かよった形をしたものの集合だと言えるし,あらゆる集合と同様に論理的虚構である。
しかし,我々の困難は(これでは)終らない。類似性は,ある形を「猫」という語の集合の一員たらしめるのに必要でもなければ十分でもない(注:猫という語は◯◯という形をしていなければいけないなんていう決定的なものはない。)。「猫」という語は大文字で書かれても小文字で書かれてもよいしも,読みやすくても読みにくくても,また,白い面に黒い文字で書いても黒い面に白い文字で書いてもよいだろう。私が「カタストロフィ(catastrophe)」という語を書いた場合,最初の三文字は「猫」という語の事例にはなっていない。その語の事例における最も必要欠くべからざるものは,内包(意図する内容・意味)である。大理石の一片が「猫」(cat)という形の縞模様をたまたま形作ったとしても,我々はそれをその猫という語の事例とは考えないであろう。
このようにして,(a)集合(クラス)の論理説,および(2)内包の心理学的理解なくしては,「語(word)」という語(word)を定義することはできないようにみえる。これらは難しい問題である。私は,常識(というもの)は,その語の使用(法)において正しいとしても正しくないとしても,語が何であるかを少しも理解していないと結論する。(常識を武器にするだけで理解できるものではない。)この結論が常識を黙らせることを信じることができればと望む。
5) [the muddle-headedness taken over from common sense]
Common sense, though all very well for everyday purposes, is easily confused, even by such simple questions as “Where is the rainbow?” When you hear a voice on a gramophone record, are you hearing the man who spoke or a reproduction? When you feel a pain in a leg that has been amputated, where is the pain? If you say it is in your head, would it be in your head if the leg had not been amputated? If you say yes, then what reason have you ever for thinking you have a leg? And so on.
No one wants to alter the language of common sense, any more than we wish to give up talking of the sun rising and setting. But astronomers find a different language better, and I contend that a different language is better in philosophy.
Let us take an example. A philosophy containing such a large linguistic element cannot object to the question: What is meant by the word “word”? But I do not see how this is to be answered within the vocabulary of common sense. Let us take the word “cat,” and for the sake of definiteness let us take the written word. Clearly there are many instances of the word, no one of which is the word. If I say “Let us dis- cuss the word ‘cat,’ ” the word “cat” does not occur in what I say, but only an instance of the word. The word itself is no part of the sensible world; if it is anything, it is an eternal supersensible entity in a Platonic heaven. The word, we may say, is a class of similar shapes, and, like all classes, is a logical fiction.
But our difficulties are not at an end. Similarity is neither necessary nor sufficient to make a shape a member of the class which is the word “cat.” The word may be written in capitals or in small letters, legibly or illegibly, in black on a white ground or in white on a blackboard. If I write the word “catastrophe,” the first three letters do not constitute an instance of the word “cat.” The most necessary thing in an instance of the word is intention. If a piece of marble happened to have a vein making the shape “cat” we should not think this an instance of the word.
It thus appears that we cannot define the word “word” without (a) a logical theory of classes, and (b) a psychological understanding of intention. These are difficult matters. I conclude that common sense, whether correct or incorrect in the use of words, does not know in the least what words are–I wish I could believe that this conclusion would render it speechless.
出典: The cult of “common usage” (1953).
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1002_CoCU-060.HTM
<寸言>
諸科学は(自然科学だけでなく、社会科学であろうと人文科学であろうと)その科学独特な専門用語を持っている。どうして哲学だけ、専門用語を全て廃して、日常語で論じなくてはならないのか? ということ。